闇(くらやみ)の淵に棲む鬼は
                  人のこころにある暗(やみ)を
                  とりて喰らふのだと伝えしは
                  いにしえの夢ものがたりか
                  誰(た)が紡ぎし言の葉か

                  ひとみを閉じず 耳を塞がず
                  息もころして 身じろぎもせず

                  じっと鬼の帰るときを待つ





                  15000御礼    芙沙さまへ




                           上



           




睦月も半ばの夜ともなれば、冷気は痛い程に肌を刺す。
だがその厳しさがもたらす張り詰めた緊張感を、土方は好んだ。


ひとり、ふたり・・・・・
胸の裡で数えても、どうにも今回ばかりは分が悪い。
あきらかに人数が多すぎる。
新撰組副長を鵜の目鷹の目で狙っている奴らには、何とも恰好の機会を与えてしまったと、それでもまだ土方に己の行動を自嘲する余裕があった。



今日昼過ぎに黒谷にある会津本陣に出向く前に、総司と諍(いさか)いとまではゆかないまでも、小さな言葉の応酬となった。
最近の多忙が病に障りはしないかと憂慮する土方に、総司があまりに己の身体に無頓着な応えを返した事が許せず、つい苛立ち紛れに声を荒げてしまった。
出かける寸座に会った総司の何か言いたげに沈んだ顔を見れば、流石に胸が重かったが、敢えてそれを見ぬ振りをして出てきてしまった。

帰りは遅くなるからと、一旦は先に帰してしまった供がもう一度戻るのも待たず、土方は駕籠を一丁仕立ててもらい、一人で帰途についた。
その駕籠すら途中で捨てた。
何故か体の芯まで凍らせるような冷気に、己を晒してみたいという誘惑に負けた。
それはとりもなおさず総司にあのような瞳をさせたことへの、苦い自責の念から来ていたのかもしれない。



それにしても、どうやってこの場を切り抜けるか。
土方の頭の中は、同時にこれから始まる斬り合いの展開をも予想し、すでに次に打つべく手を模索し始めていた。

暫らくそのまま歩みを止めず、辻に来て一気に敵が間合いを詰めたと察するや否や、手にしていた提灯を横に投げ、羽織を脱ぎ捨て、そのまま振り向きざまに鯉口を切ったのと、最初の一人が劈(つんざ)くような高い唸り声を発して白刃を一閃したのが同時だった。
打ち込んできた刀を刀で防いだ刹那、青い火花が闇に飛んだ。
力の競り合いを制して相手を除けると、そのまま返す刃で胴を払った。
刀の柄(つか)を握る掌に、肉を裂き、骨を砕く鈍く重い感触が走った。
それが土方の神経を昂ぶらせた。

斬り込む隙を狙って、まだ一定の距離を詰めずに保ちながら、自分を遠巻きにしているその敵の中に、今度は自ら飛び込もうと体勢を作った時、静まり返った脇の民家と民家の狭い隙間から影が動いた。
それに気を取られた敵のひとりが一瞬視線をそちらに遣るが早いか、闇に抜き身の鈍い光が反射し、その者は一言も発せず土ぼこりを上げて前かがみに倒れた。斬った方は見事な腕だった。

ふいを突かれて破られた囲いは、信じられぬ程に弱い。
まだ目で数えても少なくともあと五、六人は居た敵は、じりじりと後ずさりをし始め、やがて千々に背を向けて散っていった。



「口ほどにも無い奴等」
血に濡れた刀身を、その血の持ち主である骸の上で無造作に振って落すと、土方は改めて影の人物を振り返って見た。

「久しぶりだな、吉村」

昨年春江戸での隊士募集に応募し土方と共に京に上って来た若い吉村貫一郎は、声を掛けられて無言で頭を下げた。


「お怪我はありませんか」
「ない」
「それにしても、無謀な事をなさいますな。新撰組副長を狙っている者は掃いて捨てる程いますものを・・ひとり歩きなど、猫の首に鈴をつけているようなものです」
猫の首に鈴などとは、考えてみれば遠慮の無い例えだが、吉村の声音には主と決めた者への慕わしい響きが含まれていた。
「旨くも無い猫だろうに」
流石に土方も苦笑した。

「何かあったのか」
笑いを収めて次に信頼する部下に問うた声は、俄かに厳しいものがあった。



吉村貫一郎は昨年秋に局長の近藤勇と共に長州視察団に加わって下長した監察方の人間だった。そのまま同じく監察方の山崎烝と長州に残り密かに潜伏し、その動向を探っているはずだった。その吉村が自分に何の連絡も無く京に戻ってきているからには、それなりの理由があるのだろう。
土方の表情に緊張の色が走った。


「少々仕事をしております」
「まだ言えないことか」
「今しばらくは」
「ならばし方が無い」

それではこうしてこれ以上自分と居る事は、万が一にも他人に見られてはまずかろうと、そのまま踵を返そうとした時、

「土方先生」
吉村の呼び止める声がした。
「少しの間、お隠れ頂きたいのですが」
遠慮を込めた物言いではあったが、その裏にこの偶然の機会を天の啓示と受け止めて、己の使命の成就を誓う、吉村の固い決意があった。

「隠れるとは?」
「新撰組副長に行方不明になって頂きたいのです」
「俺に?」
吉村は黙って頷いた。

「新撰組副長は今この場で刺客に襲われたのです。そして行方不明になった。そう、世間に知らしめたいのです」
「それは新撰組に必要なことか」
「必要なことです。私を信じて頂けるのならば」
「分かった。どれほどの間、隠れていればいい」
決断は早かった。
「おおよそ五日程は・・・その間に片付けるものがあります」


五日、という言葉に、想い人の顔が脳裏を過(よ)ぎった。
このまま何の連絡もせずに、姿を現さなければ総司はどれ程心配することだろう。
出掛けに己がそうさせてしまった、寂しそうな顔を思えば胸が痛む。
唯一、それだけが心残りだった。


「身を隠す場所は?」
一瞬瞑目したが、その感傷を断ち切るように低い声で聞いた。
「すぐに手配できます」
「手回しが良いことだな」
「ご案内を致します。・・・その前に」

吉村は先ほど脱ぎ捨てた土方の羽織を拾い上げると、横に転がる骸に染まる血を吸わせた。


「これを捨てておきます」
「俺は死んだ事になるのか」
「そう、敵に思って頂きたいものですな」

吉村の律儀そうな精悍な横顔を、雲の合間から覗いた月明かりが照らした。



総司は自分が死んだとは、決して信じはしないだろう。
だが血に染まったこの羽織を見ればその衝撃は大きかろう。
成り行きとは言え、土方の胸の裡が言いようの無い重苦しさに覆われた。









「見つかったのは羽織だけなのですか。ではまだ死んだかどうかは分からないという訳ですな」
伊庭八郎の若さは、何の躊躇いも無く直裁に近藤に疑問をぶつける。

「確かに、見つかったのは羽織だけだった。だがその羽織には夥(おびただ)しい血痕が付着していた」
「誰か他の人間のものとは?」
「周りにそれらしい骸は無かった」
近藤の顔が沈痛に歪んだ。
「それだけでは分かりますまい」



新撰組副長の土方歳三が一昨日の深夜から行方不明との噂は、瞬く間に広がった。
大坂から将軍家茂の上洛の供をして、たまたま二条城に詰めていた八郎の耳にも、それはすぐに届いた。
ここに来るまでは何か裏で工作がなされ、その筋書きのひとつかとも思いもしたが、こうして近藤の顔を直接見て話す限りではそのような節はない。
むしろ近藤もかなり参っている風に見受けられる。




「総司は?」
最も気に掛かる事を八郎は口にした。
「いつも通りにしている」
「・・・いつも通りに?」
意外な答えに、八郎が訝しげに問い返した。
「普通に飯を食い、普通に隊務についている」


土方の所在が分からず総司がどれ程案じているかが、八郎の一番の危惧だった。
それを確かめる為に、今日自分はここに来た。
だがその総司は、いつもと変わらず過ごしているという。


「が、少しおかしい」
「おかしい?」
「いつも通りすぎる」
胸の前で両の腕を組んで、近藤は顰め面のまま何かを思案するように視線を宙に浮かばせた。
だがそれは、八郎自身もまた感じていた事だった。
人前で土方を案じる心を見せまいとする素振りは囲うかもしれぬが、それにしても近藤の話の中の総司はあまりに不自然すぎた。


「あの二人には昔から誰にも踏み込めないような、そんな絆のようなものがあった。だからこんなことになって、総司の様子がいつもとさして変わらんというのが、俺には合点が行かない」
「総司が何かを知っているということは?」
「それは無い」
断言するように、近藤は言い切った。

「何故分かりますか」
「あの羽織を見た時の総司を知るものなら、誰でも分かる」
「それ程衝撃を受けていましたか・・」
「暫らく、まるで表情の無い人形のようになっていた」
その時を思い出したのか、近藤が厳(いかめ)しい顔を更に歪ませた。

「・・・その時は流石に立ち直れるものかと案じたが」
その言葉に嘘は見当たらなかった。
総司は確かに計り知れない衝撃を受けたのであろう。

「総司は今どこに?」
「もう昼だ。巡察から戻って来ているだろう」



言われてすでに天道が一番高い位置からずれ始めた事に、八郎は漸く気がついた。







井戸から汲み上げた水が、まるで底で薄氷を張っていたかのように冷たい。
鼻腔の奥に残る辛酸な苦さを洗い流すように、幾度も口をすすいでやっと人心地ついた。

手ぬぐいで飛び散った水を拭いながら、人の気配を感じて振り向くと、そこに憂慮に顔を曇らせた伊庭八郎がいた。



「とんでもない、『いつも通り』だな」
「・・・いつから見ていたのです」
「さっきから見ていた」
臆面も無く言い放って、八郎はゆっくりと歩み寄ってきた。

総司は何も言わずにただ、その姿を凝視している。


「飯を食っても身体が受け付けないか」
「・・・少し胃の腑の具合が悪くて」
「見え透いた事を」
「本当です」
「どうせ夜も寝ていないのだろう」
「ちゃんと眠っています」

言い切って頑(かたく)なな瞳で見上げたものの、頬にできた影は如何にせよ隠せるものではなかった。


「一昨日の夜から、何も食わず、眠ってもいないのか」
「そんなことはない」
「では、どんなことがある。そのものではないか」
八郎の声に咎めるにも似た、苛立ちがあった。

「土方さんは帰ってくる。必ず帰ってくる。だからいつものように待っていればいい。そう信じているのに身体が言う事を聞いてくれない。情けない・・・」
八郎の懸念を慰撫するように、小さく笑いかけた。



土方の無事を信じている自分は本当だ。
だがその思いと裏腹に、心はすでにここに無い。それを嘲笑うかのように、身体は少しも自分思い通りにはならない。


土方の姿が消えてから、確かに眠れぬ夜を過ごしている。
それでも人というものの生きる力がそうさせるのか、時折知らぬ間に浅くまどろむことがある。
だが、そういう時程、土方が血にまみれて骸となっている凄惨な夢を見る。
自分は何かを叫んで土方に近づこうとするのに、誰かが邪魔をして身体が金縛りのように動かない。
悪夢から目覚めた時には、激しい動悸と全身を覆う冷たい汗に苛まれる。
それを恐れてもう眠りにつくことなどできはしない。
食べ物は喉を通ってゆかず、無理に食せばそれを不満のように抗い逆流してくる。
もしかしたら心の悲鳴の代わりに、身体が真実を訴えているのかもしれない。

それでも何もせずにただ帰りを待っていたら、きっと自分は自分でいられなくなってしまう。


全てを投げ捨てて、この胸の裡にある息苦しさを八郎にぶつけられたら、少しは楽になるのだろうか。
土方が居なくなってから、まるで立っている足元の砂が浚(さら)われてゆくような心もとなさや、今にも狂い出しそうな思いを、ほんの僅かでも解放させられたら、せめて自分は救われるのだろうか。

だが総司は一瞬過ぎったその甘えを、己の中(うち)で素早く断ち切った。




「大丈夫です。土方さんは帰ってくる」
まるで自分自身に言い聞かせるような、硬質な声だった。


「心配するな、と言う方が無理な話だろうが、それでもお前に何かあれば戻ってきて土方さんは自分を責めるだろうよ」
「私は大丈夫です」
「お前が一番危ないよ」



それは八郎の本心だった。
僅かに触れただけで、簡単に崩れ去ってしまいそうな微妙な均衡で保たれている総司の神経を八郎は案じた。

今目の前で立ち竦んでいる想い人の、黒曜石に似た深い色の瞳に落ちる翳は、己に対するものではない。それを今更切ないとあからさまには言えないが、それでも人の心裡(こころうち)は、そう易々と主の言う事を聞いてはくれない。
土方の無事を願う思いは真実だ。だが総司の土方への想いを改めて目の前でみれば、騒ぐ胸の裡をも叉止められない。
人の業というものは、人が思うよりもずっと深いものらしい。




「近藤さんに言って少し仕事を控えたらどうだ」
「普通にしている方が気が紛れる」
「いつ帰ってくるのか分からないのだぞ。それでは身体が持たないだろう」
「大丈夫・・」
自分を案じてくれる八郎の眸に、包み込むような深い色があった。
それを見ていれば笑いかけたつもりの顔が、途中で歪んでしまいそうだった。


「大丈夫」
一度でも縋りたくなった己を叱咤して、総司は八郎の目を見て言い切った。
「だが・・・」
更に説得を試みようと言葉を繋ぎかけた八郎を、総司は目顔で押し留めた。

総司は何も言わず、そのままの姿勢で視線だけを動かし、訝しげな表情の八郎に何かを訴えかけた。それが何を言わんとしていたかはすぐに知れた。



八郎自身も又、先ほどから自分たちをどこかで見ている人の気配に気付いていた。
ただこれだけ人のいる新撰組の屯所の中であるから、敢えて気に留めることをしなかった。
屯所の中の人間は同士であるから、基本的にはそういう対象にはならざるものである。
だがその人物を総司は警戒した


「誰だ?」
会話を続ける素振りを崩さず、八郎は総司だけに聞き取れるような低い声で問うた。
「・・・ひと月程前に入った人だと思うのだけど」
「頼りない話だな。気になるのか」
「さっきからずっと見ている。それも自分は身を隠して・・」
「脅してやろうか」
「いえ、放っておいて下さい」
「間者か」
「今は分からない。もう少し様子を見てみます」
「新撰組もいろいろと気苦労が絶えないところだな」
うんざりとした八郎の調子に、総司が思わず笑った。




「・・・奴、行ったようだぜ」
八郎の言葉は相変わらず世間話の続きのように、気負いの欠片も無いものだったが、確かに気になっていた気配はきれいに消えていた。

「何処の隊の人だったかな・・・」
「何処の隊の誰でも、俺にはどうでもいいことだが・・」
途中入った邪魔を忌々しく思いながら、改めて総司をみればやはりその顔は青白く血の通う色はない。

「俺はこんなに寒いところに立ってはいたくないね」
その言葉に、初めて気付いたように総司が慌てた。
「すみません。もう今日は巡察は無いから、付き合います」
「ばか、付き合ってやるのは俺だ」

こんな他愛の無いやりとりで、それで総司の気が紛れるのならば、今は少しでもそうしていてやりたかった。






いつも物の少ない総司の室だが、主の心の裡を映すかのように、今日は殊に寂しげにひっそりと静まり返っていると八郎には思えた。
極寒の季節の冷気がそれに追い討ちをかけるようだった。


こんな室で総司はひとり眠らぬ夜を過ごしているのだろうか。
それはきっと恐ろしいほどに長く、明けぬ夜に違いない。
時折雨戸を叩く風の機微にも鋭く反応して、凍てついた廊下に足を踏み出すのだろうか。
それを一体ひと夜に幾度くりかえしているのか・・・
思えば哀れさだけが先に立つ。




「さっきの人・・・、まだ正式に入隊していなかった人だ」

ずっと考えていたのだろう。総司の思い出したような声が、八郎の感傷を断ち切り現(うつつ)に戻した。

「見習いか」
「そう。去年の暮れに近藤先生が帰ってきてすぐに入隊して・・」
「近藤さんが帰って来たって、長州からの事を言っているのか?」
総司は黙って頷いた。

「暮れの押し詰まった時で、その時は新撰組は新しく人の募集もしていなかったのだけれど、手合わせをした永倉さんが、筋は悪く無いと言って、そのまま入隊した人です」
「お前、何故あの時警戒した」
「八郎さんだってそうでしょう?」
「俺は新撰組の人間ではない。どうでも良い事だが、確かに嫌な気はしたな」
「八郎さんではなく、私を見ていたのだと思う」
「殺気は感じなかったが」


「・・・土方さんの事と何か関係があるのかな」

本当にそう思ったわけではない。
ただどんなことでも土方に結び付けて縋りつきたいという、総司の必死な心がそこにあった。






火鉢の火を熾(おこ)していても、ひとり残された室には他人のようによそよそしい空気だけがある。
忙しい身の僅かな合間を縫ってやってきた八郎は、心残りにしながらも帰って行った。

こうしてただじっと座っていても、総司の思考は土方のことだけに占められている。
無事だと信じてすぐに不安に陥る。果ての無い繰り返しだった。



夕七ツを知らせる西本願寺の鐘の音で、ようやく顔をあげた。
先ほどから黒い滲みのようなものが心の隅にあって離れない。
八郎に告げた時には何の考えも無くただ口にしただけだった。
だが自分でも忘れたはずのそれは、いつのまにか大きくその存在を広げ誇示するようになっていた。


(・・・自分を物陰から見ていたあの人物が、何か土方と関係があるのか)

どんなことでも良かった。手がかりの糸口を欲しかった。
それが総司を突き動かした。





探して行くと思いもかけず古巣の監察部屋に、目当ての人物はいた。


「島田さん」
何か書きものをしている仕事の邪魔にならないように遠慮がちに声を掛けると、島田はすぐに立ち上がり目の前までやってきた。
「沖田さん」
日頃大きな島田の声が小さくなるのは、総司がこうして自分を探してここまで来る理由というものが、おおよそ察せられたからだ。

「土方先生の事で何か?」
「いえ、そうではないのですが・・」


この若者が所在の分からぬどころか、今はその生死すらも定かではない土方の事をどれ程案じているか、島田には言わずとも分かる。
それを堪えて自分に笑いかける総司を痛ましくも思った。


「このあいだ・・・、近藤先生がお帰りになられたあとすぐに入隊した人の名前、分かりますか?」
「佐久正造でしょうか?」
島田の応えはすぐに帰って来た。
「佐久・・」
「そのものが何か?」

考え込むようにして黙ってしまった総司を、島田は辛抱強く待つ。


「・・・島田さん、伝吉さんは今手が空いているでしょうか?」
やっとひとつ決めたように、総司が島田を見上げた。



伝吉とは新撰組の隊士では無いが、島田が自分の故郷の美濃から連れてきた元博徒で、今はその人脈を駆使して監察方の下で情報収集に力を貸している。口数の少ない胆の据わった男だった。島田自身はすでにこの春二番隊の伍長となり離れてしまったが、伝吉は相変わらず監察の手伝いをしている。



「伝吉で沖田さんのお役に立つことがありますか?」
「忙しいのに悪いのだけれど・・」
「沖田さんのお役に立てれば、伝吉も嬉しいでしょう」
島田の言葉に、総司が初めて嬉しそうに笑った。

土方に関係のある事という以外、総司が伝吉を使って何を調べようとしているのかまでは分からない。だがその必死の瞳が島田の胸を揺さぶり、何の躊躇いも無く伝吉の手を貸すことを約束させていた。






「それでは少しでも早くに良い結果をお知らせできるように致します」
伝吉の眼は鋭い。それでも自分に仕事を依頼した若者に穏やかな視線を投げかけると、小柄ながら精悍な背中を見せて去って行った。



その背が薄闇に覆われ始めた中庭の潅木を縫って見えなくなるまで見送ると、総司は室の障子を隙間の無いように後ろ手に閉じ、目を瞑り顎を上げるようにしてひとつ息をついた。
眩暈が襲ってきそうな感覚に、身体を動かさないことでじっと耐えた。疲労は過酷に身体を苛む。

倒れるわけにはゆかなかった。
まだ自分は何もしていない。何も知ってはいない。




「・・・必ず大丈夫だと信じているのに」
それでも言うことを聞かない身体が恨めしかった。



「・・・土方さん」
無事な姿を見るまでは、決して漏らすまいと決めていたその人の名が、不覚にも唇から零れ落ちた。そんな己を叱る前に、閉じた瞳の端からひとつ流れるものがあった。




「だから決めていたのに・・・」

だがもう遅かったようで、ひとつ頬を伝わったそれは、次から次へと溢れ出て止まらない。
せめて嗚咽を堪えようと、きつく唇を噛み締めた。






    
          





                   きりリクの部屋     闇  下