ある日
光煌く清瀬に戀した花は
流るる水に攫われたいと
心ときめかせ胸焦がし
ひとひら
花弁を流れに散らしたのでございます

それは 
少しだけむかしの
切なく淡い、戀の詩





200000打御礼


真琴さまへ









                 藤色戀歌  -fujiirorenka- (壱)




「そう云う事だ、時は三日後、場所は任せる。わしは藩の京屋敷にいる故、仔細取り決めたら、前日までに使いを寄越せ。相分かったな」
「暫しっ」
確乎と云い終え、座を立とうとした鳴滝重吾正親を、田坂俊介の、此方も譲らぬ強い声が止めた。
「用は済んだ、これ以上話は無い」
その田坂に向かい、鳴滝は、若年者を叱るように眉根を寄せた。
「叔父上、私はまだ一度も首を縦にはしておりません」
「承服しかねると云うか」
「仰せの通り」
「わしは腹の内を全て見せ、その上で、お前に力を貸せと申したのだ。それを断るとは、お前の男も廃れたもの」
「一方的にお見せ下さった腹の内、厄介が過ぎて、私の手には負えませぬ」
「仮にもお前は医者であろう、人の腹も治せずしてどうするっ」
「藪ゆえ、この手に掛かれば、治る腹も下しましょう」
「医は仁術では無いのか」
「当節、医も算術でなければ、屋台骨が持ちませぬ」
「ご託の多い奴っ」
「叔父上のご教授の賜物と、感謝しております」
苛立ちの切っ先を難なく交わされ、土産に笑みすらつけて返ったいらえに、鳴滝の顔(かんばせ)が苦々しく顰められた。
 そんな男達の事情など知らずして、往き遅れた春のうららかな陽射しが、中庭に穏やかな溜まりを作っている。
「せんせ、宜しいですやろか?」
そしてその長閑さに輪をかける、おっとりとした声が、隅に重ねた障子の向こうから掛かった。
「構わない」
「ほな、おぶだけ、換えさせてもらいます」
キヨは障子際で手を付き丁寧に頭を下げると、中の険悪な空気とは凡そかけ離れた柔らかな笑みを浮かべ、敷居を跨いだ。


「キヨ殿には、この未熟者が、さぞかしご苦労をかけているのであろう。全く持って、礼の言葉もござらん」
田坂を睨みつけていた渋面を適度にほぐすと、鳴滝は、ふくよかな指先で茶托を押すキヨに愛想笑いを向けた。
「そないな事はありまへんえ。若せんせいは、情が深ぉて、人が困っているのを見たら、放っておけんお人です。それやから、患者はんにもえらい信用がありますのや」
「・・ほぉ」
キヨの自慢に相槌を打ちながら、田坂に視線を送った鳴滝の双眸に、したたかな光が湛えられた。
「困っている人間を、無碍にできぬとは、それこそ医者の鑑」
「そうですのや」
「ならばそれもこれも、この放蕩者を此処まで見守り一人前にして下さった、キヨ殿のお陰でござるな」
些か得意げに胸を反らせたキヨに、鳴滝が感嘆したように頷いた。
が、和やかに進む会話とは裏腹に、それまで余裕の体(てい)を崩さなかった田坂の面には、次第に苦い色が濃くなって行く。
そして、正にその時を見計らっていたかのように、キヨが、くるりと田坂に体を回した。
「せんせ」
きりりと見上げた眸に、まさか視線を逸らす訳にも行かず、田坂も不承不承キヨを見下ろした。
「鳴滝さまは、若せんせにとって、ほんまのご両親とも変わらない大切なお方。その鳴滝さまが大層お困りにならはって、せんせの処にお越し下さったんどす。それが一言、できまへんでは、ここまでせんせをお育てしたうちが、大せんせいや奥さまに叱られます」
毅然とと云うよりは、むしろしみじみと、諭すように語りかける声に、田坂の顔がこれみよがしに歪められ、キヨを離れた視線が、行く当ても無く中庭に向けられた。
が、人の苛立ちも知らずして、庭は、春の日差しが眠たそうに木々に落ち、その間延びした風情が、寄せた眉間を更に狭まらせる。

「キヨ殿、かたじけない。俊介にそのような意見をしてくれるのは、キヨ殿を置いて他にはない」
「鳴滝さま、どうかお顔をお上げ下さい。うちは人として当たり前の事を、若せんせいに云うただけどす。鳴滝さまに頭を下げさせたと大先生が知られはったら、うちは今度こそ叱られてしまいます」
低くした頭(こうべ)に、厳(おごそ)かに掛かった声は湿り気を帯び、最後にキヨは、目頭を押さえ、ツンと鼻を鳴らした。
そのひとつひとつの遣り取りが、芝居よりも芝居じみているとは、この老獪な二人の前では口にした途端、藪蛇になると承知の上だけに、田坂は庭に向けている片頬だけを顰めた。
が、如何に形勢不利とは云え、是ばかりは諾と頷く訳には行か無い。
「ですが、叔父上」
向けた眸は、田坂の意志の強さそのもののように、まっすぐに鳴滝を捉えた。
「断るのを承知で見合いの席に着くのは、相手に失礼ではありませぬか」
「案ずるな」
しかし漸く引っ張り出した抗いの先鋒に返ったのは、あっさり云い切り笑う、不敵な面構えだった。
「栗谷からこの話が持ち込まれた時に、お前には既に先の約束を交わした者がいると伝えた。が、それでも良いから一度だけ自分の娘を会わせてくれと云うのが、あちらの云い分。その娘も大層気の強い女子らしく、お前に好いた人間が居ると知った途端、見合いに乗り気になったらしい。女心とは、幾つになっても分からぬもの。が、相手も承知の事となれば、断るに何の遠慮もいらん。いや、この見合いの真(まこと)の目的からすれば、惚れてしまわれては、ちと困る。何しろ相手は、家中でも美人の誉れ高いと、評判らしいからの」
首尾の上々を掌中に収めたと確信した機嫌の良い笑い声が、生暖かな風に乗り、田坂の癪の虫を起こして通り過ぎる。

「叔父上」
「何だ」
「ならば、ひとつお伺い致します」
つと向けた視線に、往生際に踏ん張る頑固を見止めると、鳴滝の顔が笑いを引き、警戒の色を強くした。
「もしその栗谷と云う御仁に、私と心通わせた相手に会わせろと迫られたら、叔父上は如何なさるおつもりですか」
「みつはんを、そのお席にお連れすればええ事ですやろ?」
が、男二人の間に澱みかけた重い気を然も無く持ち上げたのは、キヨの、ふわりと丸い声だった。
「みつ殿?はて?」
その途端、これ以上作りようの無い渋面で、己の掘った墓穴の大きさを知り宙を見据えた田坂とは対照的に、降って湧いた新たな事柄に、早、興を隠せないな声がキヨに向けられた。
「若せんせの、お心にあるお人どす」
ちらりと田坂を見、そして含むような笑みを浮かべると、キヨは嬉しそうに鳴滝に視線を戻した。
「俊介の、心に・・?」
鳴滝は、つと考える風に言葉を切ったが、記憶の断片はすぐに繋がったらしく、上げた双眸が懐かしげに細められた。
「おおそう云えば、以前粟田口で待ち伏せされていた折、それに近い話を聞いた覚えがある」
「そのような話、してはおりませぬ。叔父上のお聞き違いでございましょう。忘れ易い耳に良い薬がありますが、取り寄せますか?」
「照れなくとも良い。それよりも其のみつ殿とやら、この一件抜きにしても、一度見て置きたい」
「それがええですわっ、そりゃもう、器量はよろしいし、心映えも優れて、誰にも自慢できるお方どす。鳴滝さまが会うて下さると聞いたら、大先生も奥さまも、どないに喜ぶ事か・・・、これでうちも、漸く肩の荷を下ろす事ができます・・」
言葉の最後に声を湿らせ、滲んだ熱いものを堪えるように、キヨは目頭に指を当てた。
そのキヨを冷めた目で見ながら、何故かこの二人には勝てた試しの無い己の勝負運の悪さを、今日ばかりは、田坂も恨まずにはいられなかった。

「俊介、三日後、楽しみにしておる」
その心裡を見透かせたように、膳所の懐刀と云われる、国家老鳴滝重吾正親の峻厳な顔(かんばせ)が、滅多に見られない愉快そうな笑みを湛えるのを、田坂は憮然とした面持ちで見据えた。






「・・キヨ、楽しそうだな」
鳴滝が帰るや、贔屓にしている菓子屋に走り手土産を用意し、それからすぐさま身支度を整え始めたキヨの室に来ると、田坂は敷居を跨がず、忙しげに手を動かしている丸い背に声を掛けた。
「へぇ、忙しおす。あ、若せんせ、そないな処に突っ立っとらんで、早よう駕籠を呼んで来ておくれやす」
だが田坂の皮肉など何処吹く風のように、後ろを向け帯を締めながら、キヨは早口で云いつける。
「駕籠とはまた豪勢な事だな。沖田君を口説いて、そのまま掻っ攫って来るつもりか?」
「何を莫迦な事を云うてますのや、口説くのは近藤はんどす」
帯を締め終え振り向いたキヨが、苦々しげに嘯(うそぶ)く田坂に、確固と云い切った。
「近藤さん?」
が、いらえは予期せぬものだったらしく、繰り返した声が、訝しげにくぐもった。
「将を射んと欲すればまず馬を射よ、と昔から云いますやろ?せんせも、その位は知ってはりますやろ」
呆れた声を耳に素通りさせながら、近藤が馬で総司が将ならば、新撰組の行く末も難儀なものだとは口にせず、田坂は叱るように見上げているキヨを見下ろした。

「ああ、せんせいと、こないな話をしている暇はありませんのや。早よう新撰組の屯所に行かんと、日が暮れてしまいますわ」
「キヨっ」
障子際に立ち尽くす田坂を、押しのけるようにし、出て行きかけた背に、慌てた声が掛かる。
「近藤さんとて忙しい身だ、突然行っても居るとは限らんし、又居たとしても迷惑がかかる」
「近藤はんは、屯所に居てます」
「何故分かる」
急ぐ足と同じように、早い口調で言葉を交わしながら渡る廊下は、遥かに長身の田坂の方が歩幅にゆとりのある筈が、ともすれば勢いで勝るキヨが前に出る。
「昨日、沖田はんが来た時に、今日から土方はんが、三日間大坂に出張やて云うてましたやろ?」
「それと近藤さんが屯所に居ると云うのと、どう繋がる」
「副長はんが居なければ、局長はんが屯所でお留守番せな、何かあった時に困りますやろ」
漸く足を止め、田坂を振り仰いだキヨが、そんな事も分からないのかとばかりに深い溜息をついた。
が、キヨのつく溜息は、田坂の胸の裡に、溜りに溜まる憂鬱そのものだった。
「とにかく、善は急げですわ。せんせはお留守番を、お頼申します」
もう既に何を云っても無駄と、不貞腐れた自棄が口を閉ざさせた田坂に、キヨは軽く頭を下げると、三和土(たたき)に置いてあった余所行きの草履に足を滑らせた。

 肉付きの良い背が玄関を出て行くのを見送る目には、下ろしたての足袋の白さが、そのまま、勇むキヨの勢いを物語っているように思える。
そんな鬱憤の当たり処のように、田坂は、組んだ腕の右肩を、乱暴に柱に齎せた。



――亡父の親しい知人であり、又ゆえ有る我が身を、この田坂家へ縁づけてくれた鳴滝から、至急の用があると文が届いたのが、たったふた刻前。
ところがその半刻後には、当の本人が、玄関で訪(おとな)いを立てていた。
そして室に腰を下ろすなり鳴滝は、田坂に待ったを掛ける隙も与えず、強い口調で一方的に語り始めた。
 其れは、膳所藩普請奉行栗谷陣内の娘、由乃との見合い話だった。
しかも鳴滝は、最近とみに羽ぶりの良い栗谷の懐が、どうやら普請の不正に絡む賄賂で潤っていると目をつけ、その尾っぽを掴むつもりでこの見合いを承知したと、豪胆に笑った。
それでは親の云いなりになる娘が気の毒でしょうにと、迷惑を、殊勝顔に包んで返した言葉に、しかし鳴滝は不遜な笑みを浮かべると田坂を一瞥し、そして云った。
見合いは先方から是が非でもと持ち込まれたもので、その裏には、どのような甘言にも靡かない自分を、縁故関係で篭絡させようとする栗谷の魂胆があり、事情は娘の由乃も承知している、云わば父娘がらみの企てであるから、相手への気遣いは一切無用と、口先だけの殊勝など、疾うに見透かせていると云わんばかりに、最後は喉を鳴らして笑ったのだった。

 この経緯が、先程の遣り取りに繋がる。
元々が、剛毅と強引を背中合わせにしている叔父だとは、承知していた。
が、聞き終えて、今回ばかりは流石の田坂も、曲げる臍を何処まで捻って良いのか判じあぐねた。
しかもキヨまでもが、其れに一枚加わろうとしている。

 来る季節の陽射しに籠もる強さと、過ぐ季節の光に籠もるぬくもりを、交互に混じらせた風が頬を嬲る。
其れすら不機嫌の材料にして、田坂は恨めしげに天を見上げた。







 段々に横揺れが小さくなって来、やがてすっかり其れが止まり静かに駕籠が下ろされると、先棒を担いでいた者が丁寧に茣蓙を上げた。
それを待っていたように、キヨは草履を揃え、少し腰を屈め窮屈な駕籠を出た。

「ご苦労はんどした」
手にした巾着の中から、一両を入れた包みを手渡すと、駕籠かきは、両手で押し抱くようにして受け取った。
「お帰りは、どないしましょ?」
更に愛想良く伺う顔には、法外の酒手を気張られ、柳の下の二匹目の泥鰌(どじょう)をほくそ笑む下心が見え隠れする。
「それやったら、新撰組の局長はんと、お約束が出来てますのや、おおきに」
ゆったりと微笑みながら断りを入れる声に、しかし、駕籠かきは顔を青くした。
 確かに、田坂家と同じ鐘鋳町にある駕籠屋で棒を担いでいれば、診療所の患者も良く乗せる。
そう云う意味では、この婦人は顔なじみだったが、それでも行く先が新撰組の屯所だと告げられた時には驚いた。
しかも帰りの心配は、その新撰組の局長がするのだと云う。

 乗り込む間際まで、てんごを云って笑っていた人間が、不意に得体の知れない存在になってしまった空恐ろしさに、二人の駕籠かきは、暫し呆然と、しゃっきりと背筋を伸ばし遠くなって行く後姿を見詰めていた。







「キヨ殿には、いつも総司が一角(ひとかど)ならぬご迷惑をおかけし、本当に礼の言葉もござらん」
「そないな事あらしまへん。うちは沖田はんが来てくれはるのを、ほんま、楽しみに待ってますのや。せやし、近藤はんにそないにされたら困ります。どうぞお顔を上げておくれやす」
心底恐縮しているように、深く下げられた頭(こうべ)に、キヨは慌てて手を振った。
「いやいや、キヨ殿が居て下さるお陰で、総司がどれ程心救われている事か・・」
と云いながらも、近藤はキヨの突然の来訪の真意を測りかね、室の隅に鎮座している総司を、ちらりと垣間見た。
が、視線を向けられた総司は総司で、田坂ではなくキヨが屯所に現れたこと、更にそのキヨが、自分では無く近藤に用があると云う事に戸惑いを隠せ無いらしく、先程から不思議そうな面持ちで、事の成り行きを見守っている。

「ほんま、近藤はんのご都合も確かめず、こないに急にお伺いして、堪忍しておくれやす」
近藤と入れ替わるように、今度はキヨが頭を下げた。
「そのような気を遣って下さいますな。実は今日から土方が大坂に下り、三日間は屯所に居詰めの身としては、早くも暇を持て余していた処」
「其れを聞いて、安堵しましたわ。もし土方はんしかおらんようやったら、どないしよ、と思うてたんどすえ」
丸い笑い声を耳にしながら、確かその事は、昨日田坂の処に行った折、交わした会話の中にあった筈だと、総司はぼんやりと思い起こした。
「で、キヨ殿がこうして尋ねて来て下さったのは、何か火急の用だったのでは?」
「へぇ、その事ですのやけど・・」
とうとう辛抱の尾が切れ、胸に膨らみ過ぎた疑問を口にした近藤に、キヨは二重の顎を引いて頷いたが、応えた声が、ふと沈んだ。
「先程から申し上げているとおり、キヨ殿にも田坂さんにも、私も総司も、無理の限りを云っている身。私で叶えられる事ならば、遠慮なく云って下され」
「ほな・・」
途端、キヨは膝を乗り出すようにし、近藤を見上げた。

「実は若せんせいに、お見合いの話が来てますのや」
「田坂さんに、見合い?」
思いも掛けぬ展開に、構えていた力が行き場を無くし、厳つい顔にある小さな目が、しまり無く瞬いた。
「へぇ、お見合いどす。それも大層ご恩のある方からで、どうしてもお断りできまへんのや」
キヨはひとつ息をつくと、慎ましくかぶりを振った。
「・・しかし・・」
考えてみれば、田坂程の男が、今まで妻を娶らなかったと云う方がおかしいのかもしれない。
見合いの話など掃いて捨てる程あったろうに、何故にその事が、今キヨの来訪に結びつくのかを測りかね、近藤は一瞬声を詰まらせた。
「近藤はんは、たかがお見合いと思いますやろ?けど其処が、難儀な処ですのや」
だがその疑問を見越したかのように、次の言葉を待たずして、キヨが後を取った。
「はて・・難儀、とは?」
「ふつうの娘はんを貰うには、うちかて、何も心痛める事はあらしまへん。けど、今度ばかりはそうは行かしまへんのや」
沈んでいた声が不意に力を増したのを、まだ驚きにいる近藤も総司も気付かない。
それ程に、二人は、キヨの怪訝な話に気を呑まれていた。
「と、申されると?」
「・・・お相手は、膳所で普請奉行のお役につかれているお家の、一人娘はん。しかも先様は、この話には大層乗り気とか・・、けど、まぁ、若せんせいが相手やったら、その辺は当然と云えば・・」
当然と、濁す気も無いらしく、自慢をひとつ明瞭に云い切ると、キヨは再び憂い顔になった。
「せやけど、ご縁が纏まったあかつきには、若せんせいは、あちらのお家のお婿はんに入らなあきまへんのや」
「では、膳所に・・?」
「へぇ・・」
思わず声を大きくした近藤に、重く頷きながら返した調子が沈鬱だった。
普段は眼光鋭い目が、まさかの事態に狼狽を露にし、室の隅に座る愛弟子に向けられると、総司は薄く唇を開けたまま、呆然とキヨを見詰めている。
「・・膳所に行ってしまえば、診療所は畳まなあきまへん。そないになれば、若せんせいは、もう沖田はんを診て差し上げる事ができしまへん。いえ、それどころか、診療所を頼りにしてくれはる患者はんは、どないになるんやろと、うちは胸がきゅうと締め付けられて、夜も眠れませんのや」
その話がつい先程持ち込まれたもので、しかもこれには裏があるとはおくびにも出さず、キヨは心底苦しげに顔を歪めると、胸に手を当て、切なげに、声を細く嗄らせた。
「して、田坂さんご自身は、どのようにお考えなのだろうか?」
が、そんな事情など知る良しも無い近藤は、その声に被せるようにし、急(せ)いて問う。

――田坂は己が総司の主治医にと見込み、頭を下げた男である。
そして総司も又、この若い医師を頼りにしている。
否、胸に宿痾を抱えながら、白刃の下を潜る日々の中で、総司にとって田坂の存在は、近藤の目から見ても、最早無くてならないものになっている。
その田坂が、もしも京を去れば、総司の胸に出来る空洞はどれ程のものか・・・
焦燥が、近藤の裡に渦巻く。

「そりゃ、若せんせは、膳所になどに行かず、このまま診療所を続けたいとお思いです。けど、せんせのお気持ちを他所に、お話はずんずん進んで、もうせんせお一人では、どうにもできんのどす」
「・・田坂さんが、膳所に・・」
深く腕を組み難しげに眉を寄せ、難しい顔で宙を見据える振りをしながら、ちらちらと見る先には、硬い面持ちで、息をするのも忘れたように、身じろぎしない愛弟子の姿が有る。
だが田坂の見合いに、幾ら新撰組と云えど、待ったを掛ける事は出来ない。
どんなに切羽詰った窮状を訴えられても、こればかりは叶えられるものでは無い。
「・・キヨ殿・・」
胸の裡の苦渋そのままに、低い唸りが漏れかかった。
ところが、その時だった。
「そこで」
思わず凝視してしまう程に強いキヨの声が、近藤を押し止めた。
「無理を承知で、うちが近藤はんにお願いに上がりましたのや」
「と、申されると?」
「明後日のお見合いの席に、沖田はんをお借りしたいのですわ」
「総司を?」
「へえ」
何を云いだしたものかと、唖然と見る近藤を尻目に、キヨはここが正念場とばかりに、前に置いてあった茶托を退け、じりっと膝を進めた。
「・・キヨさん・・」
が、それまで、あまりに突然の事態に言葉を失っていた総司が、己の名が出た事で漸う我を取り戻したか、遠慮がちに声を掛けた。
「何ですやろ?」
総司に視線を送ったものの、キヨの体は近藤に向けられている。
「あの・・、私がお見合いの席に顔を出すなどしたら、田坂さんに迷惑が掛かります」
「ほな、沖田はんは、若せんせいが膳所に行ってしもうてもええ、云うんどすか?」
責めるような眼差しを向けられれば、実の処、キヨの話を未だ現実のものと捉えられない心は、たちまち次の言葉に窮してしまう。

「しかしキヨ殿、どうして総司が田坂さんのお役に立つと云うのだろうか?」
が、その間の悪さを庇ったのは、近藤だった。
尤も其処は近藤も腑に落ち無い点らしく、いらえを待つ顔が訝しげだった。
「沖田はんは、お見合いの席に、黙って座っていてくれはったらええんどすわ」
「黙って座ると云っても・・」
「先様には、若せんせいには好いた方がいると、ちょっとだけ嘘を云うてあります。沖田はんには、そのお芝居に手を貸して欲しいんですわ」
近藤の戸惑いなど知らぬが如く、キヨは満足げに語る。
「では総司に・・」
女性(にょしょう)の形(なり)をさせるのかと問いかけ、思わず頑健な造りの口を噤んだのは、つと向けた視線の先にある面輪が強張り、今正に身を乗り出さんばかりにして、この話に待ったを掛けようとしている姿を見止めたからだった。
「ほんの、半刻かそこらの事ですわ。半刻なんぞ、ええお日和ですなぁ、そうですなぁ、桜も仕舞いですなぁ、寂しおすなぁ・・・、そないなお喋りしている間に、お茶も飲まんと終わってしまいますわ」
「キヨさんっ」
「その間、沖田はんは、静かに座っていてくれはるだけで、ええんですわ」
悲鳴のような叫びなど気にする風も無く、案ずるなとばかりに、キヨは総司に向かい柔らかな笑みを浮かべた。
「そうではないのですっ、私は男です」
「そないな事は、知ってます。けどちっとも案じる事おへん、キヨに任せておくれやす」
はんなりと広がった笑みが、キヨの自信の程を物語っていた。
「そう云う事で、近藤はん・・」
そのまま、もう総司に用は無いとばかりに、キヨは近藤に向き直ると、真正面から厳つい顔を見上げた。

「診療所を頼りにしてくれる患者はんの為にも、どうか若せんせいとキヨを助けておくれやす」
「キヨ殿、どうか頭を上げて下され」
深く下げられた頭に声を掛けながら、ちらりと総司を見る胸の裡には、やはり不憫が走る。
しかし田坂が京を離れなければならぬ事態に遭遇していると聞けば、見て見ぬ振りは出来無い。
総司の矜持も分からぬでは無いが、近藤の担いだ天秤棒は、この時、情よりも義理に傾いた。

「話は相分かり申した。この近藤、田坂さんの窮地を知らぬ顔で過ごせる程、人間腐ってはおりませぬ。言葉では尽くせぬ程に、総司が世話を掛けているキヨ殿の頼み、どうして断れましょうぞ」
「・・ほな・・」
上げたキヨの目が、近藤を捉えるや潤み、掴んだ勝機に声が昂ぶった。
「三日後、総司を見合いの席につかせましょう、約束致す」
「おおきに・・、これで若せんせいも安堵します」
目元を袂で覆い、つい一瞬前に逸った声が、今度は大仰に湿った。

――そんな二人の遣り取りを、総司だけが、呆然と見つめていた。











琥珀の文庫  藤色戀歌 (弐)