藤色戀歌  -fujiirorenka- (弐)




「キヨさん・・」
「何ですやろ?」
情けなさが小さくさせる声に、返ったいらえの調子はつれない。
「こんなにきつく帯を締めたら、きっと途中で息が出来なくなってしまいます」
「帯がきつうて目を回しはった云う患者はんには、今の処、お目にかかった事がありまへん」
応えながら、此処が着崩れの要と、帯を結ぶ手にも声にも力が入る。
だが女人がそうであっても、男の自分はその最初の人間になるかもしれないと、もう何を云っても聞き入れては貰えないだろう遣る瀬無さに、総司は切ない息をついた。


 昨日、あのような経緯があり、眠れぬ一夜を過ごして診療所にやって来たのは、未だ東の空には月も姿を残す、白々明けの頃だった。
これから我が身に起こる事を思えば羞恥に堪えかね、渡る五条の橋の、その長さすら恨めしく、重く渋る足を、総司は幾度か止めかけた。
が、そんな思いをして辿り着いた診療所で出迎えてくれたのは、上機嫌のキヨはともかく、思いもかけない田坂の不機嫌顔だった。

 本来ならば、巻き込んでしまった厄介に、頭のひとつも下げて当たり前が、どうした事か田坂は、一声、無愛想に労いの言葉を掛けただけで、早々に奥へ消えてしまった。
その背を、暫し呆気に取られて見ていた総司だったが、間を置かずして込み上げてきたのは、この理不尽な仕打ちを憤る、猛烈な怒りだった。
誰が好き好んでこんな茶番に付き合うものかと、三和土(たたき)に立って拳を握り締めた途端、細い線で描かれた面輪に、一筋、朱の色が刷かれた。
が、帰りますと、踵を返しかけたその時だった。
「せんせ、あれで照れてますのや」
笑いを含んだ柔らかな声が、総司の心裡を見透かせたと云わんばかりに、さぁさぁと、袖を引いた。
「けど好きおうた者同士の片方がお見合いをする、云うたら、もう片方はおもしろい事ありませんわなぁ。喧嘩のひとつふたつあって、ほんまですわ。そないに考えたら、若せんせいの仏頂面も、沖田はんの怒ったお顔も、本物らしゅうて、ええかもしれませんわ」
何が本物なのかと、勢い問いかけた言葉が、満足げに頷く笑みに、ぴしゃりと封された。
そしてその寸座、腕押しされて翻る暖簾のように、出掛かった不満は、白い喉に空しく絡まった。

 だがそのような顛末など、それからの展開を思えば、取るに足らない些細な出来事だったと総司が知るに、そう時は要らなかった。
奥の部屋に通され、そこで、どうやって調達して来たのか、キヨが広げて見せたのは、薄黄の金通し地を朱色で霞にぼかし分け、一対の鳳凰を中心に、草花、雪輪を染め抜いた、典雅と云うに相応しい友禅の振袖だった。
其れを手に、嬉しそうに見上げるキヨを、総司は敷居際に佇んだまま、言葉も失く呆然と見つめた。



かくして。
時は、寄り道もせず、几帳面に刻み続けられ・・・

 今着せられている振袖の絢爛さは、総司にとっては、そのまま、我が身に沈む情けなさと同じ重さだった。
あまりに胸が薄すぎるからと、入れたくも無い手拭を入れられた。
同様に、腰にも晒しを巻かれたが、してもせんでも変わらへんと、キヨは不満そうだった。
もう少し身体の線が柔らかだとええんやけどと、手早く仕事を進めながら呟く声に、其れは女子では無い自分には、天地を引っくり返しても無理な相談だと抗う気力は早無く、総司は半ば投げやりな心持で、なされるままになっている。

「まぁ、綺麗」
やがて忙しげに動いていた手が止まり、二歩ほど後ろに退いたと思った途端、感嘆の声が上がった。
が、その刹那、結い上げた髪の重さに押し潰されたかのように、総司の首がうな垂れた。
「ほんま、綺麗やわぁ。さぁさぁ、鏡を見てみなはれ」
いそいそと手を引き、鏡の前に引っ張って行こうとする力に、慣れぬ着物に隠した足を踏ん張り、総司は堪える。
「どないしはったん?」
「・・見たくありません」
誰が女子になった自分など見たかろう。
砕け散った矜持の欠片を掻き集めて、総司は俯いたまま首を振る。
「おかしなとこは、ひとつもありませんえ。どっからみても正真正銘、誰にも負けへん、綺麗な娘はんですわ」
張った胸をぽんと叩き、キヨの口調は自信に溢れかえり強い。
だがその一言が、ようよう繋ぎ合わせた矜持を、今度は跡形も残さず塵と化した。






 梅は咲いたか桜はまだかと浮いた節に乗り、小路に射す光の煌きが、春の到来を告げたかと思いきや、既に季節は足早に移り変わろうとしている。
時折、不意に高くなる、キヨの華やいだ声を耳に素通りさせながら、朝露を含む苔が、碧を際立たせている庭に目を遣り、田坂は、もう幾つ目かの溜息をついた。


 血の繋がりこそ無いが、物心ついた時から叔父と呼び、尊び慕って来た鳴滝の力になれるのならば、例えどのような事であれ、尽くす力に惜しむものは無い。
だが今回ばかりは、そうは行かぬ訳がある。

総司を見た瞬間、叔父は、決して忘れ得ぬ者を、胸に呼び起こすであろう。
亡き兄、兵馬の姿を――。
そして叔父は知る。
この茶番に、断じて応じようとしなかったその理由が、兄兵馬の面影を色濃く残す者への、真摯な恋慕ゆえだったと。
其処まではいい。
だが問題は其処からだ。
そうと知れば、あの、良く云えば豪放、悪く云えば強引な叔父が次に移す行動は目に見えている。
即ち、今度は総司との縁談を早々に進めんと、此方の迷惑など顧ず、執拗に世話を焼いて来るだろう。
しかも今日、総司は女子として、叔父の前に現れる。
事を運ぶのに、何ら問題は無い。


 柱に背を凭れさせて仰いだ天が、憎らしい程に澄んだ光を地に落としている。
あと小半刻もすれば、四ツ(十時)になる。
天道は、益々陽の勢いを強くする。
だが其の耀さは、今の自分とはひどく駆け離れた世に射しているように、田坂には思える。
病は気からと、散々患者に云い含めて来た先達の言葉を、今田坂は、己の身を以って知る思いだった。






 膳所藩京都屋敷は、五条にある田坂家からそう遠い距離では無い。
だが見合いの時を、鳴滝自身が四ツ半と決めて行ったにも関わらず、その半刻も前に当人が現れたのは、田坂の意中とする相手への興が、並々ならぬものである証に他ならない。
 驚いて出迎えたキヨに応える機嫌の良い声が、診療に使っているこの部屋にまで聞こえて来る。
其れに眉を顰めながら、田坂は、身丈程もある薬棚の抽斗のひとつを開けると、其処に仕舞ってあった白い粉を取り出し、匙一杯分ずつを紙に分け、小さな包みを作り始めた。
が、包みは幾つも出来ない内に、その作業は中断された。

「俊介っ」
突然、後ろから掛かった声には、早苛立ちが混じっている。
「何をしておる、栗谷が来るぞ」
「ご覧の通り、仕事をしております。それに見合いは、四ツ半と聞いております」
叱る声へ向けられた笑いが、茶番の舞台へ引き摺りだそうとしている相手へ、精一杯の皮肉を籠めていた。
「四ツ半でも四ツでも同じようなものだ」
「その半刻で、人一人救える事とてあるやもしれませぬ」
「・・ほう」
再び薬棚に体を向け、背中で応えた田坂に、含み笑いの声が返った。
「先日、確か医は算術と聞いたが、そのような殊勝な言葉を聞くとは、はて、あれは聞き違いだったか・・」
「お聞き違いでございましょう」
さらりと嘯く白々しさに、鳴滝の顔が、忌々しげに歪んだ。
「俊介っ、わしはお前と愚にもつかぬ禅問答をしておる暇は無い。先程キヨ殿が、お前の意中の娘は既にこの屋敷に来ておると教えてくれた。会いに行くぞ」
「叔父上っ」
敬慕する人の短気を、この時ばかりは舌打ちせんばかりに呪いながら、其れを嗜める尖り声が、踵を返した背を刺した。
が、聞く耳もたぬとばかりに廊下へ出た鳴滝の足が、突然止まった。
そして追った田坂の足も又、それ以上先を踏み出す事無く止まった。
二人の視線の先には、小走りに来るキヨの姿がある。
その、普段とは違う、少々慌てている様子に、鳴滝も田坂も、流石に怪訝の色を浮かべた。

「ああ、若せんせ、まだこないな格好で・・」
だが何事かと立ち尽くす二人の前まで来ると、まずキヨは、咎めるような眼差しを田坂に向けた。
「今度は何だ?相手が来るのは、まだ先だろう」
問う声には重い吐息が絡む。
「それが、お越しになりましたのや」
そやったと呟くと、キヨは大層な事を打ち明けるように、少しばかり声を潜めた。
「栗谷が?」
が、田坂よりも先に不審の声を洩らしたのは、鳴滝だった。
「へえ。栗谷陣内さまと、そのお嬢はんの由乃さま、・・・それから」
「まだいるのか?」
開かせておけば、休む事無く紡ぎ出しそうな口を、うんざりとした声が遮った。
「・・なんや尼さまのお姿をした、ご年配のお方で、・・ああ、そうやっ、栗谷さま云う方が、確か、けい・・、けいじょうにさまと、お呼びしてましたわっ」
客の、思いもかけぬ早い到来に気を取られ、うっかり忘れていた記憶の仕舞い処を見つけた事が余程に嬉しかったのか、キヨの調子が俄かに活気づいた。
「・・けいじょうに」
しかしキヨとは対照的に、それまで何が起ころうが動じる事の無かった鳴滝が、深沈するかのように、低くその名を呟いた。
やがて、はたと気付いたように面を上げた。
「桂木様かっ」
「お心当たりが?」
その変容に、今度は田坂が眉を寄せた。
これ以上の厄介事は、御免だった。
「殿の、乳母殿だ」
宙に浮かせていた双眸が、思いもかけぬ人物の出現をどう捉えるべきか、鋭く細められた。
「乳母殿?」
だが田坂にとっては、誰が来ようが、最早迷惑以外の何ものでも無い。
問い返した声が、露骨に物憂げだった。

「そうだ、藩校教授、田島家のご息女であられたが、幼少より才媛との誉れ高く、十五の折に、公卿一条家の姫の遊び相手として京へ上られた。その後、同じ教授の中島家へと嫁ぐ為に膳所に戻られたが、不幸な事に、一年もせぬ間に相手に先立たれてしまわれた」
「・・まぁ、お気の毒に。あないにお綺麗な方が・・」
客を待たせてはと、気が急(せ)いて居た事などすっかり忘れ、先程眼(まなこ)に刻んだ尼僧の姿を思い起こしながら、キヨは指先を口元に当て、声を沈めた。
「その後、再嫁せずにおられた処に、康穣(やすしげ)様の乳母殿と云うお役目を賜られ、桂木の名を頂いた。そして康穣様が、兄であられた康融(やすあき)様の後を継ぎ、殿にお成り遊ばせし時、自ら髪を下ろし城を下がられた。・・確か、今は城下の外れに庵を結び、其処で侍女と年老いた寺男と三人、静かにお暮らしの筈」
「そないな事が・・」
概して、婦人はこのような話に興を示し易い。
厳かに語る声を聞きながら、キヨの目には、数奇な運命に翻弄された佳人への同情からか、早痛ましげな色が浮かんでいる。
「で、客は?」
だが田坂の声は、そんな事情など知らぬ振りして、先だけを促す。
「離れに、お通ししてあります」
睨むように田坂を見上げた目が、うっとりと浸りかけた感傷を、無遠慮に断ち切られた不満を訴えていた。
「せんせも早う来て下さい」
そうして少々乱暴に付け加えるや、急ぎ踵を返した鳴滝の背を、キヨは追い始めた。
が、横を過ぎるその一瞬、足元にも及ばへんと、満足げに呟き頬を緩めたふくよかな横顔を、田坂は唖然と見送った。






 田坂家は代々膳所藩のご典医を務める家柄であり、田坂の養父道永、後の道元も、先を嘱望される優秀な人材であった。
その道永が、町医者宇部章達の娘ハルと恋に落ちた。
だがこの時、道永には既に家同士が決めた許婚がおり、又同じ医者とは云え、市井に身を置く者との婚姻を、田坂家では断固として許さなかった。
しかし道永は惜しげも無く家を捨てると、ハルの手を取りこの京へやって来た。
時に道永二十、ハル十八。
そして当時十六のキヨは、二人の堅い決意を知った章達が、ハルにつけて寄越した、宇部家で行儀見習いをしていた娘だった。
やがて伝(つて)を頼り若い三人が落ち着いた先が、焼き物を生業にしていたこの屋敷の主であった。

 離れは、前の主から屋敷を譲り受けた時に、窯のあった場所に造ったもので、道元亡き後、俊介が診療所を継ぐと、隠居所としてハルが使うようになった。
縁あって養子となったばかりの頃、癒えぬ心の傷に煩悶する俊介を手伝わせ、ハルはよく庭に花の苗木を植えた。
その時、いつか咲くであろうこれ等の花々は、その時の俊介の心の有り様で、美しくも、目映(まばゆ)くも、或いは憂いとも見えるだろうと笑った義母の穏やかな横顔が、今田坂の脳裏に蘇る。
が、たかが十年、されど十年を経て、つつじの蕾の艶やかさを横目で見ながら、花の心は憂しばかりと、彼岸の養母に告げたのなら、果たして何といらえが返るのか・・・、
つまらぬ疑問に呆れながらも、飛び石を跨ぐ田坂の足は重い。



「せんせ、何をのんびりしてますのや」
背後から、邪魔だとばかりに声を掛けたキヨが、次第に間を詰めて来るのは分かっていた。
だがこの足の運びの鈍重さこそ、田坂にとっては、これから始まる茶番劇の幕を上げまいとする、唯一の盾だった。
が、所詮それも無駄な足掻きとは承知している。
そんな諦めの悪さを良しとして、殊更ゆっくりと振り向いた其処には、案の定、不満を湛えて見上げる目がふたつ。

「早よう行っておくれやす。鳴滝さまもお客さまも、疾うにお待ちどすえ」
先を促すキヨの調子は強い。
が、田坂の視線は、そのキヨを素通りし、隠れるようにして俯き立つ者へと向けられた。

 本来女性の持つ、線の丸み、柔らかさこそ無いが、雅やかな振袖を纏う人の姿は、花と花の合間の暫しの時を、人の華で楽しめとの、天の計らいのように思える。
だがその華は、凝視している視線に気付くや面輪を上げると、楚々とした風情には似合わぬ、勝気な色を瞳に浮かべた。
そして次の瞬間、まるであっかんべぇでもするかのように、人形めいた造作を大胆に歪め、田坂を睨んだ。
これには田坂も眸を大きくし唖然と口を開けたが、しかしそれも一瞬の事で、すぐにその口から、堪えきれるような笑い声が噴出した。
一度箍が外れてしまった笑いは、中々に収まらない。
それを、今度はキヨと総司が、呆けたように見詰めている。
「似合っているぜ」
その視線に気付き、ようよう告げた声が、まだ隠せぬ笑いを忍ばせていた。

――今云った一言が、どう見返りを寄越すのか、そんな事は知ったことでは無い。
自分は思ったことを、正直に、ありのままに云った。
だが現の華か夢の姿かの人は、思いもかけぬ成り行きに、怒りの言葉も忘れ、まだ呆然と立ち尽くしている。

「さてと・・」
開きかけて閉じられぬ形の良い唇を、このまま己の其れで塞いでしまったら、この想い人は、さて次はどのような行動に出てくれるものかと・・・
「いざ、戦場へと云うところか・・」
其れをどうしても見たいと聞かぬ駄々を悠長な声に押し込めて、田坂は、いつのまにかこの茶番を楽しもうとしている自分に気付いた。






「かように良き天気に恵まれますと、何やら全てが慶事の兆しと思えますな」
栗谷陣内は、恰幅の良い体を揺らして笑うと、同意を求めるかのように、上座へ顔を向けた。
それに、ごくごく淡い藤色をぼかした薄ねずの法衣を纏った、桂穣尼(けいじょうに)が微笑む。
「鳴滝様は、只今は、京屋敷に?」
そのまま、かつて家中一と評された面影を今も残す佳人は、栗谷とは対に座している鳴滝へ、品の良い面を向けた。
「三日前に参りました。桂穣尼様は、どちらに?」
「私は嵯峨の妙法院様の庵に、お世話になっております」
「妙法院様とは?」
「遠い昔、この尼にも、娘の時代がございました。その頃に、和歌を教えて頂きました師でございます」
柔らかな声と共に、鳴滝を見る桂穣尼の双眸が、過ぎた時の流れを遡るかのように、穏やかに細められた。
「御家老様、実は今回桂穣尼様がこの席にお出で下さる事になったのは、他でもなく、桂穣尼様ご自身のご希望だったのですよ」
その静かな余韻を掻き分けるように、後を引き取った栗谷のしゃがれ声には、其れがゆえ、今回の見合いを断る事は出来ないのだと、暗に迫る強引さがあった。
そんな栗谷の赤ら顔を、鳴滝は冷ややかな目で見遣った。


 栗谷の娘由乃は、確かに、噂通り美しい娘と云えた。
だが花で云えば盛りの頃の娘が、粧を施し紅を乗せ、艶(あで)やかな衣を纏えば、余程鈍感な男で無い限り目を奪われずにはいられない。
そしてこの花は、自分の容姿が男を誘う事を良く知り、又靡かぬ男には憤る。
由乃はそう云う類の娘だと、鳴滝は判じた。
しかし俊介の後ろに隠れるようにして現れた、もうひとりの娘の姿を眼(まなこ)に映した刹那、鳴滝の思考は時を止めた。
其処に居たのは、この世では決して見(まみ)える事の出来無い筈の者だった。
兵馬と、声に出しかけて、だが鳴滝は寸での処で其れを止めた。
目の前にいるのは、胸に忘れ得ぬ者では無く、今を生きる、若い女子だった。
 
――俊介を好いていると、あの時兵馬が自分に聞かせたのは、生涯でただ一度の、心の吐露だった。
そしてその兄を、俊介も好いていた。
だが天はこの若い二人に、冷酷な刃を振るったに過ぎなかった。
それでも生き残った者は過去を歩み出し、流れる時に傷を洗わせ、やがて兄の面影を強く彷彿させる娘に出逢い再び恋をした。
無慈悲とばかりに恨んだ天は、返す刃で、残された者に光ある道を踏み出す靭さを与える事を忘れなかったのだ。
 
 暫し、夢うつつの邂逅に心奪われた時を素早く取り戻すと、鳴滝は、慎ましやかに座る娘へ、今一度視線を傾けた。



「しかし俊介殿は、亡き杉浦殿によう似ておられる。そのようには思いませぬか、桂穣尼様」
束の間浸った安寧の時を、又も無遠慮に破ってくれた大仰な声に、鳴滝の顔が顰められた。
「父子(ちちこ)であらせられれば・・」
田坂を見、静かにいらえを返す声音は、其処に誰かを重ねているかのように優しい。
「あのような痛ましい事件さえ起こらなければ、杉浦殿はきっと藩の重鎮となっておいででしたでしょう。今も杉浦殿のお人柄を偲び慕う者は、家中に数え切れませぬ。そのような方の忘れ形見を婿に出来るとは、この上も無い至福」
勢い語り終えると、栗谷は親しげに田坂を見、そしてちらりとその傍らに座る総司に、油断の無い視線を送った。
「ですが・・」
が、先手先手を打つ栗谷に水を差したのは、意外にも、桂穣尼だった。
「俊介さまには、既に好きおうた御息女が・・」
途端、忘れられていたのでは無く、意図して存在を無視されていた事を、これ幸いに俯いていた姿に、其処にいる者の全ての視線が集まった。
そうして慌てて上げられた面輪だったが、栗谷父娘の、仇でも見据えるかのような双眸に射抜かれるや、其れは夕に萎れる朝の花の如く、忽ち伏せられてしまった。
「いやいや、そうでござった。これは失礼」
総司に視線を据えながらも、笑う栗谷の声から勢いは衰えない。
「なに、それがしも直ぐにとは申しませぬ。俊介殿もまだ若い。早々にひとりの娘御に先を決めずとも宜しいでは無いのかと、そのように思うたのでござる」
のう、と傍らに座る己の娘に相槌を求めると、由乃と云うその娘は、口元に薄く笑みを浮かべて頷いた。
そうして微笑みながら、ゆっくりと首を回し、総司に視線を据えた。
「けれどみつ様は、ほんにお美しいお方。由乃は恥ずかしゅうございます」

 袖の端で隠された唇が、少しばかり甲高い声で賛辞の言葉を紡いだ途端、絡みついた棘(いばら)の縄手が膚に喰いこむような息苦しさに、総司は思わず背筋を寒くした。








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