藤色戀歌 -fujiirorenka- (参) 総司の首には、喉を痛めていると客には断り、白い布が巻かれている。 なだらかな隆起を成す喉仏を隠す為に、念には念をと、仕上げにキヨが巻いたものだが、其れがほっそりとした首筋を余計に強調して痛々しい。 が、その布の下で、もしや男である事が露見したのではないかと、喉をからからに干している総司の動揺など、誰も気付く筈が無い。 「で、みつ殿は、どちらのご家中で、どのようなお役に付かれる方の御息女で?」 その慄きに、心の臓を早鐘のように打ち鳴らしている事など知りもせず、問う栗谷の声には、気がかりを探り出そうとする響きがあった。 「俊介殿と先を約束されているからには、それ相当の御家でしょうな?」 物色するような視線に絡め取られ、俯いたままの面輪が、答えに窮し、みるみる蒼ざめる。 が、沈黙にも限界がある。 どうにかしてこの場を云い逃れなければと、唇を動かしかけたその時だった。 「みつ殿は幼い時にふた親を亡くされ、養い親の元で育ちました。その養い親が、先頃京務めになり、共に上洛されたのです」 総司の耳に、田坂の滑らかな語り声が聞こえてきた。 「それはそれは・・・。そのように、お辛い身の上であられたか。で、その養い親とは?」 栗谷の問いは、執拗に其処に戻る。 「会津中将松平容保様で、あらせます」 「会津さまっ・・」 虚を突かれたように、息を呑んだ栗谷の口が半開きになった瞬間、咄嗟に見上げた総司の瞳もまた、驚きを通り越し呆然と見開かれた。 「ほう、会津様の・・」 しかしそこに漏れた感嘆の声は、それまで無言で成り行きを見守っていた、鳴滝のものだった。 「会津様は忠義に篤く、尊き精神をお持ちのお方。そのようなお方が養い親なれば、みつ殿の親御殿も、何のご心配もされてはおるまい」 笑みを浮かべ、頷きながら目を細める鳴滝は、腹の中でこの大法螺話に呵呵大笑しているに相違ない。 「叔父上の、仰る通りでございます」 しかし其れを承知でいらえを返す田坂にも、後ろめたさなど微塵も無い。 ――嘘は、何ひとつついていない。 大体が、新撰組は会津藩の預かりであり、云いかえれば、会津藩は新撰組の養い親のようなものである。 だから新撰組に属する総司の養い親を会津藩と云った処で、間違いでも何でも無い。 ついでに、そんな道理が通用されるかと叱咤されようが、罵倒されようが、知った事では無い。 「会津様は、影に日向になり、みつ殿を支えておられます」 確たる調子で云い切る声が、いっそ見事な程に、突拍子も無い飛躍を正道に変えた。 だが会津と云う名の前に勢いを失った父親とは相反し、突然気を吐き始めたのは娘の由乃だった。 「まぁ、会津のお殿様が・・。ですが会津様が親御様ともお同じならば、みつ様のご趣味もさぞかし広うございましょう?何と云っても、会津様は大きなお家でございますもの」 あまりの大法螺に思考を奪われ、田坂の横顔をぼんやり見上げていた総司だったが、突然振られた話に慌てて振り向くと、そこに、射竦めるような双眸が据えられていた。 「・・趣味?」 「そう、ご趣味」 眦を上げて問い詰める目は異様に輝き、頬まで紅潮している。 「あの・・」 座っているだけで良いと、そう云い含められているとは云え、由乃の眼差しには、それを許さない強さがある。 「あの・・、剣術を・・」 趣味とは云えないが、生まれてこの方、師について学んだものと云えば剣術しかない。 何とかここを凌ぎ切ろうと焦る総司だったが、傍らの田坂は、この莫迦のつく正直さを、舌打ちしたい思いで聞いていた。 「会津様は、ご家中に文武両道を御奨励されておられます故、女子と云えど武芸も嗜み」 その苛立ちをようよう堪え、田坂は柔らかな笑みを浮かべると、云うや否や俯いてしまったか細い声の後を継いだ。 「まぁ、そのような御家風が・・?ですが竹刀を振り回すなど、私にはとてもできませんわ」 その、田坂の視線に会うと、由乃は驚きに目を瞠ったが、すぐに恥ずかしげに顔を伏せた。 「・・でも、・・意気地の無い女子など、俊介様は、さぞかし軽蔑なさいますでしょう?」 そうしてちらりと上げて向けた眼差しに、艶のある色が滲んだ。 「左様なことは事はありません。花が己の咲く季節を知り、愛でる者の心を和ませてくれるように、婦人にも、それぞれの咲き方があります」 声は良く通り、語りには些かの不自然も無い。 だがその澱みの無い口調を、俯いたまま聞いている総司の脳裏には、キヨを困らせた時もあったのだと笑った、田坂の昔話が蘇っていた。 ――土方には、昔から女性の噂が絶える事が無かった。 そしてそれは同様に、八郎にも云えた。 ところが田坂に関しては、そう云う昔を聞かされても、何故か信じ難い処があった。 が、今その思いは、由乃と交わされる会話で、揺ぎ無い真実であったのだと、総司の胸に刻まれて行く。 土方も、八郎も、そして田坂も又、女性のあしらいには、長けすぎる男達だったのだ。 改めて胸の裡で吐息を漏らした総司だったが、その刹那、自分に注がれる視線を感じ、慌てて瞳を上げた。 向けたそこに、穏やかな双つの眸が、微笑むように見詰めていた。 「花なれば・・、みつ様は、どのような花をお好みなのでしょう?」 そして其れを待っていたかのように、桂穣尼は緩やかに目を細めると、静かな声で問うた。 「・・はな・・」 しかしその途端、総司の思考は、又も見つけ得ぬいらえを求め、闇雲な手探りを始めた。 大体が、土方のように、好んで梅を俳句の題材にするなどと云う風流は持ち合わせていない。 沈黙は、計る事すら難しい一瞬だったのかもしれない。 だがその一瞬に、我が身に集まった視線に、総司は堪え切れなかった。 「・・牛革草の花が・・」 「牛革草?」 今にも消え入りそうな呟きに、由乃の怪訝な声が被さった。 「牛革草とは、どのような花なのでしょう?障りなければ、この尼に教えて下され」 身を強張らせている相手の心を解きほぐすかのように、桂穣尼は、口元に柔らかな笑みを浮かべた。 「あの・・、秋に川原へ行くと、見る事が出来ます。花弁は白くて先の方だけ薄い桃色で、・・花は小さいのですが、覆いつくすように沢山咲くので、その時ばかりは、まるで川原が白くなってしまったように見えるのです」 それまで憚るように影を潜めていた人形が、突然、人の息吹を注ぎ込まれたかのように雄弁に語り出すのを、その場の者達は唖然と見詰めている。 「けれど沈みかけた日が当たると、今度は花弁が一斉に光を弾いて煌いて・・、まるで何もかも、光の中に埋もれてしまうようで、本当に綺麗なのです」 懐かしげに語る深い色の瞳には、忘れ得ぬ江戸の風景が広がっているのだろう。 硬いばかりだった横顔の頬が、田坂の眸の中で、淡く色づいて行く。 が、総司の云う処の牛革草とは、土方の実家に伝わる薬の元となる葉の事である。 聞きなれない草の名ひとつとて、全ては恋敵に通じるものと思えば、この束の間の安寧を護ってやりたい思いと、意地のひとつもしてやりたい癇症とが、田坂の胸を交互に行き交う。 「みつ様の仰る様子が、まるで目に浮かぶようです。・・お国元は、さぞやお美しい処なのでしょうね」 田坂の心裡を複雑にしているものなど知らずして、桂穣尼の声音は、夢路をたゆたう者の邪魔をせぬよう、頬に触れる風を、たおやかに、ふわりと揺らした。 「それに牛革草の葉は、薬にもなるのです」 「薬にも?」 「はい、打ち身や切り傷、他に痛み止めにもなります。土用の丑の日に皆で摘み取って、其れを干して作ります」 驚く桂穣尼に、総司は嬉しそうに応える。 が、その邪気の無い声を聞きながら、田坂は、次第に増して行く苛立ちが抑えきれなくなるのを持て余していた。 土方に関わる事ならば、総司は尽きる事無く語り続けるだろう。 それも癪に障る。 が、それよりも、饒舌が作り出す隙を、栗谷父娘は虎視眈々と狙っているのだ。 交わす言葉が多ければ、それに準じて墓穴は深くなる。 「もしやみつ様も、その何とか草とやらを摘みに、野に出られるのかしら?」 そろそろ口を噤ませなければと、視線を送りかけた田坂よりも一瞬早く、高い声がその動きを阻んだ。 「牛革草をですか?」 「ええ、その牛革草。・・土用の丑の日と云えば、暑い盛りでございましょう?そんな時に草摘みなど、まるでお百姓仕事のようですわ」 「その日は村の人達が総出で、朝早くから日暮れまで草を摘みます。風も陽射しも強くて暑いけれど、とても活気があって楽しいのです」 くすりと笑った悪意にも気付かず、総司は脳裏に浮かぶ光景を、夢中で語り聞かせる。 「やっとうやら野良仕事やら、お姿からは、とてもそんな事をなさるようには見えませんのに、みつ様は大層勇壮でございますのね」 指先で隠した唇から、嘲笑の忍び笑いが零れても、総司には何が可笑しくて由乃が笑っているのか分からない。 それどころか、つい先程まで絡みつかれていた視線から、射竦めるような険しさが消えた事に、安堵の息すら漏らした。 「医者には、患者を選ぶ事はできません。又昼夜の区別無く、病人やけが人はやって来ます。野良仕事のきつさには到底及びもつきませぬが、医者の仕事も似たようなものです。そう云う意味では、町医者の嫁は勇壮でなければ務まりません」 皮肉を、好意に受け止める鈍感さに胸の裡で吐息しつつ、このままでは襤褸(ぼろ)を出すのは時の問題と踏んだ田坂が、横から助け舟を出した。 「そうそう、それでござる」 が、その田坂の言葉に被せるようにして、其れまで会津と云う後ろ盾に怯んでいた栗谷が、勇んで身を乗り出した。 「貧しき者を救おうとされる、その気概には感服致しますが、俊介殿は、御典医への推挙を再三に渡り拒んでいるとか。しかしこれは、殿自ら望んでおられる事と、御伺いしております。・・そうでございますな?桂穣尼さま?」 「殿は、杉浦様の忘れ形見であられる俊介様が、御立派に成長された事をお耳になさり、殊の外、お慶びになられました」 相槌を求められた桂穣尼は、静かに微笑むと、鳴滝へ面を向けた。 「これ程頑固者になろうとは、予想外でありましたが」 「それは・・」 不機嫌な視線が田坂に送られた途端、慎ましやかな笑い声が零れ落ちた。 「鳴滝様に、似られたのではありませぬか?」 そう告げた途端、桂穣尼の目が、少々意地悪く、そして楽しげに細められた。 似た者同士と揶揄されても、涼しい顔を崩さない二人だったが、その実、微かにも視線を合わせようとしない様が、互いに対する不愉快を如実に物語っていた。 そんな田坂の頑固を横目で見る総司の口元が、知らず知らず綻ぶ。 「みつ様も、そのようにお思いですか?」 それに気付いた桂穣尼に、小さな笑みを浮かべた面輪が、嬉しそうに頷いた。 「そこまで御所望されながら、俊介様は、何故ご典医のお話をお受けにはなりませんの?」 が、桂穣尼と総司の間に流れた和やかな気を強引に割って、由乃の声が、仕官話に首を縦にしない田坂を問い詰めた。 しかもその声には、既に婿と決め付けた者を詰(なじ)る響きすらある。 「人には向き不向き云うものがあります。幸いな事に、私は今の仕事を天職と思っております。この放蕩者に、到底城勤めはできませぬ」 潔い程に、しかと云い切る物言いには、嘘を包んでいる調子は無い。 その声音を聞きながら総司は、己の胸に重く蟠っていた塊が緩やかに解け始め、代わりに、吐息にも似た安堵感が身の核(さね)を満たして来るのを感じていた。 ――田坂が膳所に行くのならば、その時は感謝の念だけで送らなければならない。 そう、云い聞かせて来た筈が、今回の話があってから、重なるように心に沈み行く澱(おり)を、総司は禁じ得なかった。 そしてこの時になって漸く、自分がどれほど深く、田坂に寄りかかっていたかを、まざまざと知った。 だが今、田坂は京を離れないと云った。 その一言が、瞬く間に胸の痞えを打ち砕いた勝手を、総司は心の裡で小さく叱った。 「俊介様は、膳所よりも、京がお好きなのでしょうか?それよりも、みつ様が・・?」 俯いた横顔から硬さが消え、安堵の色が灯ったのを、恋する娘の恥じらいと思い違えたか、揶揄するように、桂穣尼が柔らかな眼差しで田坂を見、そして総司を見た。 「さて、いかがなものでしょう」 突然、現に戻され慌てる総司の傍らで、含み笑いで返した田坂の応えは惚気(のろけ)以外の何ものでもない。 「ですが俊介様」 が、その田坂を、今度は由乃が、膝をにじり出す勢いで見上げた。 「俊介様は御典医だけでは無く、近く出来る医学所の教授にも、ご推挙されているとの事ではありませぬか。市井の者達を救うのもお医者様の役目かもしれませんが、そのお医者様を育てるのも、大事なお役目ではありませんか?」 「・・医学所の・・?」 「あら、みつ様はご存知ありませんでしたの?」 予期せぬ言葉の来襲に、思わず繰り返した声が儚く消え、 咄嗟に向けた瞳を、甲高い声が、勝ち誇ったかのように嘲(あざけ)た。 ご典医の話だけならばまだしも、後進の育成とならば、田坂の気質からして、心動く事もあるかもしれない。 否、あって当然と云えた。 そう思った途端、田坂の先にある光を慶ばなくてはならないと思う心を凌駕し、虚空のような寂しさが、みるみる総司の胸を覆う。 「あの・・、医学所は、直ぐに出来るのでしょうか?」 医学所の設立が、何時になるのかは分からない。 だが其れが、少しでも先に延びて欲しいと、焦る心は希(のぞみ)の糸を探し求める。 「はて、そのような話、私は聞いておりませぬが・・」 だがそんな動揺とは裏腹に、傍らで応える田坂の声は、総司が思わず苛立ちの視線を向けてしまう程に、のんびりとしたものだった。 「其れは、まだ俊介様のお耳に届いていなかっただけですわ。お城の御用を足す紀州屋など、すでに材木の手配をし終えたと、先日当家に報告に見えましたのよ」 「・・そんなに早く・・」 「全ては、もう決まりごとですのよ」 呆然と呟いた総司を蔑(なみ)するように、由乃の顎が反り上がった。 「由乃っ」 が、その横から、栗谷の慌てた声が、娘の止まらぬ勢いを叱った。 「喋りが過ぎるっ・・」 「あらお父さま、お父さまとて、あの時紀州屋が土産に持って参りました錦鯉を、大層喜ばれておられたではありませぬか」 「これっ」 「ほぉ・・、栗谷は、紀州屋に錦鯉を?」 栗谷の声が一際大きく響いたその時、話に堰されかけた柵(やらい)を、それまで聞くとも無しの体を装い、うららかな陽射しを浴びていた鳴滝が押し上げた。 「いえ、其れは・・」 「何、遠慮する事は無い。近年城下で大層な羽振りの紀州屋に、錦鯉の一匹二匹貰ったとて、誰も驚きはせん。が、未だ構想だけの医学所の普請を紀州屋が請け負うとは、わしも知らなかった・・。はて、もしやこの事は、わし一人が知らずして、既に殿は御存知の事か?何しろ膳所の国家老は昼行灯ゆえ、端にも棒にも掛からぬ。普請奉行のそちらには苦労ばかりを掛ける、困った事よのぉ、栗谷」 喉だけをならし、自嘲するように苦く笑った鳴滝だったが、しかし栗谷に据えられた双眸には、その顔に浮かぶ表情の、ひとつも見落とすまいとする鋭さがあった。 「そのような事は・・・。医学所の件に付きましては、御家老様の仰せのとおり、まだ海のものとも山のものとも定まりつかぬ、素案の状態でございます。其れをつい紀州屋に漏らしたのは、そのような医学所が出来れば、さぞや家中の気運も高まろうと・・酒の席で話が膨らみましての失態。其れを又紀州屋が真に受けまして、材木の値上がらぬ内にと、とんだ勘違いをしたようです・・」 しろどもどろの栗谷を見ながら田坂は、どうにか繋がれる言葉よりも、照りの良い額から鬢に掛けて滴る汗の方が、余程に滑りが良いとは云えず、漸くこの茶番劇が本筋に入った事に吐息した。 そしてちらりと動かした視線の先で、真摯に話を聞き入る想い人の硬い横顔に、思わず緩めそうになった口元を引き締めた。 「それではお父さまは、私に嘘を仰いましたのっ?」 「これっ、見苦しいっ」 今にも膝立ちになりそうな勢いで詰め寄る娘に、叱る父の方が気圧されている。 「俊介様は、御家老様の後ろ盾で、いずれ御典医になられるお方。それに今度の医学所の普請を紀州屋に任せれば、栗谷の家は中老も間違い無いゆえ、俊介様との婚儀には、どのお家にも負けぬ、贅の限りを尽くして下さると仰ったではありませぬかっ」 「由乃殿とやら、其れは真(まこと)か?」 「嘘ではございませぬ。其れに父の中老への昇格は、今のご中老、木村左玄様が当家にお越しの折、木村様のお口からお伺いした事、間違いはございません。・・・其れは・・、私とて、俊介様とならば多少の苦労は厭いませぬけれど・・」 父親すら負かす勢いだった由乃のその語尾が、不意に一段小さくなり、眦に、ふと恥らうような色を浮かべた。 が、其れも一瞬の事だった。 「ですが私は、百姓仕事など真っ平でございます」 いつ掴めるとも分からぬ夢よりも、堅実な現実を掌中にせんとする娘の、ぴしゃりと甲高い声が、何故か鳴滝では無く総司に向けられた。 「栗谷が中老にと、木村がのぉ・・」 柳眉を逆立て総司を睨んでいる由乃の後を、これは又、柳に風のような、のんびりとした呟きが引き受けた。 そしてそのまま、鳴滝は、袴に差していた扇子を抜き取り、其れを畳に立てると、考えるように目を瞑った。 「栗谷」 そうして暫し無言でいたが、やがてつと顔を上げるや、気色ばんで総司を睨みつけている娘とは裏腹に、色を失くして身を固くしている父親の方を呼んだ。 「わしには医学所の普請と、そちの中老昇格と云うのが今ひとつ結びつかん。しかも何故其処で木村の名が出て来るかも、だ。分かるように、説明してはくれぬか。それと、近頃紀州屋がずいぶんと商いを賑やかにしているそうだが、其れはそのほうの中老昇格と関係があるのか?」 宙に視線を止め、時折、質す事を思い浮かべるように言葉を切りながらの声は、間延びすらし、緊迫の輪郭をおぼろげにする。 だが其れは、じわじわと首を絞めて行く下手な真綿よりも確実に、栗谷に恐怖だけを与える。 その慄きが、冷たい汗となり、太い首筋に滑り落ちたのを見届けるや、鳴滝は庭へ視線を向けた。 「磯谷、江尻これへっ」 鋭く呼んだ声に、いつの間に隠れていたのか、植垣から二人の武士が身を現した。 程なく、離れの縁まで歩み来ると、桂穣尼に目礼し、鳴滝へ体を向けた。 「馬場は、着いたか?」 「大目付様、半刻程前に、藩邸にお入りになりました。それから、木村左玄様には、先の城壁修理の折、紀州屋との癒着が明るみに出、今朝早く殿より逼塞の沙汰が下りました由、御家老様にお伝えするようにとの事でございます」 「ふむ」 鳴滝は微かに頷いただけで、栗谷に視線を戻した。 「どうやら大目付の馬場も、国元の雑事を急ぎ片付け終わったらしい。栗谷、医学所の普請と紀州屋との件、そして木村がそちの中老を約束した件、藩邸に戻り、ゆっくりと聞く」 「・・・は」 先程までの長閑な物言からうって変わった低い声と、据えた双眸に沈む厳しい色に射抜かれ、栗谷の喉が、ごくりと鈍い音を鳴らした。 |