瞳に在りし像の誰かは問わじ 夢寐に見る影の誰かは問わじ 密やかに呼ぶ名の誰かは問わじ さても問わぬ おのが眸に在りしもの 夢寐に見るもの名を呼ぶもの 共に映すは露も違わぬと知るかぎり 20000御礼 m-shottさまへ 花 鏡 (上) 「どうにも行儀が良すぎるな」 一日を無事に終え、束の間の安息に浸っている屯所の賑わいが遠くに聞える。 それとは一線を隔すような静かな室に、誰に言うともなしに呟かれた独り語りが、濁りの無い新秋の冷気を渡って総司の耳に届いた。 振り返り向けた瞳の先に、つい漏れた声を聞きとがめられたかと、苦笑いしている永倉新八の顔があった。 「土方さんさ」 突然出されたその名に、一瞬心の臓の鼓動が高鳴ったのを、まさか永倉は知るまいとは思いながらも総司は動揺を隠せない。 「・・・行儀が良いって?」 何気ない風を装って相槌を打ってはみても、かの人の事ならば探る気持ちを抑える事は出来ない。 「遊ばねぇんだよ」 「遊ばない?」 それが何を指しているかが瞬時に分かり、咄嗟に返した応えの声が上ずった。 だが永倉は、その僅かな変化には気付かないようだった。 「昨日は上七軒にも寄らず、早々に帰って行った。尤もあの人も京に来てからは昔程ではないが。・・・それでも珍しいことさ」 笑いながら語る口調には、今までの素行からは考えられない話題の主を揶揄してからかっている向きがある。 更に加えて、そう云う行動を土方にさせている事情に、好奇の目が動いているのも否めない。 昨夜は紀州藩京都藩邸用人三浦休太郎をもてなす接待だった。 翌日国元からの客が来ると云う事で、二条城東側にある藩邸近くの料亭を選んだから、距離的には上七軒は近い。 其処に馴染みのいる土方が足を向けず、大人しく帰ってくるというのは、永倉にはどうにも腑に落ちない出来事のようだった。 「お前の事が気になったのかもしれんな」 別段どうという深い意味を含まず、何気なしに永倉が告げた一言に、自分の表情が強張るのが総司には分かった。 丁度あちこちの室に灯がともり始め、全ての像をぼんやりと形見せる頃合で、相手に見止められなかった事が唯一の幸いだった。 「具合が悪そうにしていたのを、ずいぶん気に止めていたからな」 それで納得したのでは無いのだろうが、さりとてこれ以上詮索した処で埒が開くものでも無いと諦めたのか、一応は合点したような口調だった。 「・・・いつも、心配ばかりを掛けてしまう」 知られている筈が無いと思いながらも、早鐘のように打ち始めた心の臓の鼓動が聞えはしないかと、うろたえる心を隠して打つ相槌は、自ずと声の調子も弱いものになる。 「お前の世話をやくのが、昔からあの人の甲斐性になっているのさ。だからそんなにしおれる事はねぇ」 少し間を置いて戻った相手の声の小ささが、自分が何気なく漏らした一言を気に掛けた所為だと取ったのか、慌てて付け足した顔が困惑していた。 人の心の動き、感情の流れには敏い男だった。 今もこうしてついでに立ち寄ったように覗いてくれたのは、食事は箸だけを取って形ばかりに終わらせて、早々に室に戻ってしまった自分を案じてくれたのだろう。 血に繋がる身内と同じように掛けてくれる気遣いを、言葉には代えられないと思う程に有り難いのに、だが今の総司にはそれが辛い。 「それにしても・・・朝晩はずいぶん過ごし易くなったものだな。もっとも、お前にはこんな変わり目が良くねぇんだろうが」 薄闇が、又ひとつ色を重ねた中庭に目をやって、話題を変えた調子がその外の様と同じように一段沈んだ。 確かに永倉の言っている事は間違ってはいなかった。 うだる様な暑さから開放され、すっかり次の季節に移ろうまでのはざまの時期は、気紛れに陽気を変え、胸に巣食う宿痾はその都度壊れかけた身体を翻弄する。 寝込むまでではないが、普段どおりの職務を一通り終えた夕方近く、身体の芯に籠もって来る微熱は、何もかも放り出して横になりたい程に総司から気力を奪ってしまう。 今日もそんな気だるさを持て余して室に戻ってきた処だった。 思うに任せず動かない身体を、人から労わられるのは切ない。 そして一番嫌悪したいのは、そういう人の思いやりに素直になれない自分の頑なな心だった。 だが何よりも、今自分をこれ程までに沈ませている本当の正体を、総司は知っている。 土方に会いたい、会って声を聞き、触れたい。 それが叶わぬ事が、今の自分をかくも弱い人間にさせている・・・・ 土方に想いが通じてから、まだ指を十折るに足らない時しか経てはいない。 目を背けたくなるような嫉妬に狂い、そんな自分の心が暴かれる事に怯え、この想いは決して告げてはならぬのだと、胸に秘めて過ごして来た孤独の日々を償うように、土方は全てを受け止めてくれた。 ひとつに結び合えた時、二度と離したくは無い腕(かいな)に、背に、渾身の力で縋りながら、身を裂く苦痛を越えて迸ったのは、やっと土方を自分のものだけにできた悦びだった。 誰かに渡す位ならば、この身と共に漆黒の淵に沈ませてしまいたい、内に潜む熱に翻弄されながらそう思った。 否、そうしたいと切願した。 土方は自分だけのものだと、揺らされる度に刻み込み、そうする為には躊躇うこと無く鬼にも夜叉にもなれると思った。 苛む痛みは、その代償の証と悦びだった。 いつの間にか恐ろしく強欲な魔物が、己が胸には棲みついていた。 が、その直後に体調を崩してしまった自分の身体を案じ、土方は共にひとつ褥につく事を己に禁じている。 労わってくれているのだと、気持ちを知り尽くしていていながらも尚、今の総司にとって土方の温もりに触れ得ぬ事は、ともすれば底の無い淵へと浚われてしまいそうな不安以外の何ものでもない。 ただひたすらに追っている時は、あまりに必死すぎて何も見えなかった。 それがどうだろう。 恋情の業火に身を焼き尽くされる程に欲していた人を、漸く自分のものにできたのだと知った瞬間から、今度は離れて行ってしまうのでは無いかと、限りない恐怖に怯え始めた。 むしろ掌中に掴み得たものは、未だにそれが現の出来事と信じられぬが故に、ひとつ瞬きすれば跡形も無く消え行く幻のように心許ない。 安堵する事など、一時たりとも許されはしない。 欲し苦しんでいた時よりも、失う事を恐れる日々の方が遥かに辛い。 「今日も遅くなると言っていたか?近藤さん達」 「・・・え?」 忘我の境に足を踏み入れてしまったように虚ろな総司を、湿り気の無い声が現に戻した。 「どうした?」 普段と打って変わった暗い様子を訝しいと受け止めたのだろう、問う声に俄かに真剣な響きがあった。 「すみません、少しぼんやりしてしまいました」 慌てて繕った言い訳は、この勘の良い人間に通用する筈も無いと承知しながら、それでも胸の裡を悟られまいと努めて明るく言い切った。 だがそんな必死が、返って相手には不審を増幅させるだけのものになるのだと、余裕を逸した心は知らない。 「しかめっ面をしなけりゃ出来ない考え事は、天道が明るい内に仕舞いにしとくのが出来の良い人間のやることさ」 面輪に浮かぶものだけでは、事の真意までは推し量る事は出来ないが、目の前の若者の裡には何か重いものが囲われているのだと、永倉なりに感じたのかもしれない。 憂いから解き放たれない者への労わりが、さり気ない言葉に籠められていた。 「そういう訳なら、お前はさっさと休んじまった方が良さそうだな」 言うが早いか立ち上がった永倉を、総司は慌てて見上げた。 自分を気遣ってくれた人間に、目線を合わせて礼を言わなければと気は急(せ)いたが、それに鉛の様に重い身体はついて行ってはくれなかった。 せめて見送ろうと遅れて膝を浮かせた身を、永倉が手で制した。 「無理はしなくていい、それよりも行灯に火を入れてやろうか?」 周りを取り巻く寂しげな気配の中で、少しでも気を紛わせてやりたいと思ったのか、顔を覗き込むようにして問うた。 「大丈夫、自分でやります」 笑った筈の顔が、明るい声とは裏腹に妙に頼りなく映る。 だがそれもやはりこの季節独特の感傷に触れているからだと、永倉は無理やり自分に言い聞かせた。 「暗いって言うのは艶っぽいと褒めてやりてぇ処だが、男所帯じゃつまらんだけだからな」 じき闇が帳を下ろそうとしている薄ぼんやりとした視界の中で、白い面輪が笑ったまま頷くのを見届けると、洒脱な江戸言葉の主は切れの良い身ごなしで背を見せた。 「ここ、閉めておくぜ。夜風も過ぎりゃ毒になる」 後ろ手で合わせた障子の桟と桟が当たる乾いた音が、言葉の最後の韻と重なった。 永倉の気配が遠のき、やがて全てが叉静寂(しじま)に包まれると、総司はゆっくりと身体を横たえた。 ついこの間まで気持ちが良いと思っていた、ひんやりと直に触れる畳の感触が、いつの間にか移ろいだ季節と共に、背筋に悪寒を呼び起こすような冷たさに変わっている。 夜具を敷いて休めば良いのだろうが、今は行灯に火を入れるのさえ億劫だった。 二晩続けての接待は、今度は三浦休太郎が紀州から来た藩の重鎮を、近藤、土方に引き合わせるというものだった。 あとひと月もすれば、永井尚志等幕閣の西征に付随して近藤は長州に下る。 故にこの時期、御三家のひとつ紀州藩の主だった者たちと面識を深めるのには叉とない機会だった。 重ねて今宵は、共に征西する伊東甲子太郎も同席している。 だが土方自身は最初から今回の近藤の長州行きを強固に反対していた。 未だ賛成しかねている長州への西下と、どうにも反りの合わ無い伊東と・・・ 土方にとって、今日の酒宴は決して愉快なものではない筈だ。 それに目を瞑り、居たくもない席に座している事を思えば、早々に床についてしまうのが憚られる。 だがそれとても・・・ 愚かしい自分自身への言訳だった。 今はただ会いたい。 眠る事など出来はしない。 土方の帰りを引き止めている者が恨めしい。 そんな我儘は許されないのだとどんなに律しても、本当の心は嘲笑い、欲する人を求めて堪える術を知らない。 遅くなるだろうから休んでいろと告げた土方の温もりが、胸掻きむしられる程に恋しい。 横臥した腕を伸ばし、畳に指先だけで書く名の人は、こんな気持ちにはならないのだろうか・・・ 先に休んでいろと、そう命じた土方は残酷だ。 「・・・土方さん・・」 一度零れてしまった言葉はもう仕舞い様が無く、そのままにしておけば際限無く溢れ出してしまいそうな自分の弱気を隠すように、総司は慌てて身体をうつ伏せた。 禁門の変以前、長州が京洛で勢いを伸ばしていた頃派手に遊行した事もあって、新撰組に祇園はあまり良い風を当てない。 それを嫌ってか、近藤は殊更その商売敵の島原を使う。 特に今宵のように粗相の出来ない客で、且つ新撰組の力を見せ付けねばならない場合、おのずと設ける席はこの花街に決まってくる。 機嫌の良い酔客を見送り、これから馴染みとの逢瀬が待っているのだと笑う近藤を残し、独り屯所に戻るべく茶屋の廊下を渡る土方の足が進むにつれ早くなる。 こんな処でつまらぬ時を費やしてしまった事に無性に苛立つ。 傍らにいれば近藤にすら当たりかねない自分を思い、土方は声無き苦笑を漏らした。 昨日から蒼い顔をしているのを案じて、今日の巡察は誰かと代わるようにと諭しても、決して是とは頷かず総司は出かけて行った。 それを待って迎えてやる事も出来ずに約束の刻限に追われ、つまらぬ酒宴に赴かねばならなかった。 屯所に戻っても総司はすでに休んでいるのだろうが、顔を見れば今一度起こしてしまいかねない己の勝手さ、堪え性の無さに呆れながら、それでも土方の心は逸る。 だがその急(せ)く足が不意に止った。 建物の中庭に沿って巡らされた回廊は、座敷から零れ出る灯りで外の闇を感じさせない。 宴の賑わいが遠くに聞こえるざわめきの中にあって、まだ顔貌(かおかたち)の細部まで判別できる距離ではないが、行く手を遮るように横に伸びる影がある。 違える事無く知っているその人物は、確かに自分を待っていたのだろう。 歩を緩めることなく、土方は影の手前まで進んで足を止めた。 「珍しい処で会ったものだな」 伊庭八郎は軽く柱に背をもたらせ、組んだ腕をそのままに、顔だけを物憂そうに向けた。 「お前は此処を嫌っていたのではなかったのか」 揶揄する声も、遠慮が無い。 「嫌いだね」 あっさりと、応えは間髪を置かずに戻った。 八郎は何が癪に障ったのか、島原は気に入らないと豪語して憚らない。 それがこうして居るには、断りきれない誘いがあったのだろう 「気に入らない上に、あんたのその面見せらたとあっちゃ、どうにも収まりが尽かないね」 容赦のない攻撃に、土方の唇の端が微かに歪められた。 「ならばわざわざ待ち伏せするなぞするな。それともこれがお前の酔狂とういう奴か」 「どうやらそれとも違うらしい」 「お前に付き合ってやる暇は生憎無い」 八郎の端正な面に浮かんだ笑みが、不敵とも取れるものに変わったとき、土方の心にも構えるものができた。 総司は自分のものなのだと、この男にそう告げに行ってからまだ十日も経てはいない。 「伊庭、用がないのなら俺は行く」 半ば強引に話を打ち切ろうとしたのは、そんな己の心に残るわだかまりがさせたものだったのか・・・ 物言わず、さりとて先ほどから同じ姿勢を崩そうともしない八郎の前を、土方も叉無言で通り過ぎようとした。 「諦めちゃいないぜ」 声は背中から掛かった。 ゆっくりと振り返り向いた土方を、鋭いまでの視線が真正面から射抜いていた。 「あんたより、ずっと早かった。あいつがあんたへの想いに気づく前から、俺は総司を想ってきた」 「それがどうした」 「どうもしやないさ。あいつはあんただけを見てきた、そんな事は疾うに承知だ」 「では諦めろ」 応えず、八郎は少しだけ目を細めた。 「・・・十六の時に、初めて逢った。暑い日だった」 懐古するという生易しい感情ではないのだろう。 未だ薄い笑みを浮かべてはいるが、八郎の双眸が宿すものは少しも相手を油断させるものではない。。 そして土方も又、それに対峙するように動かずにいる。 「覚えているか?・・・俺は陰が出来ていた木の下で、あいつを腕に抱いて支えていた」 挑発とも取れる、言い回しだった。 「あの時から、ずっとだ」 「往生際の悪さも同じか」 「これもそれもひとつ身の己だと思えば、俺はいっそこの馬鹿さ加減を褒めてやりたいと思うね」 殊更感情を抑えている風でも無くむしろ淡々と語る声は、秋の乾いた夜気に、些かの不自然も無く溶け込む。 だがそれこそが伊庭八郎という男の、総司への恋慕の深さを物語っているのだと土方には知れる。 きっと・・・ 己が胸を騒がせるものが恋情と気付いたその時から、届かぬ想いにのた打ち回り、果てぬ呻吟の中に八郎は身を置いて来たのだろう。 諦めねば決して逃れられぬと、想い続ければ計り知れない深い修羅に陥るを承知で、尚この男は総司を追い求めるのだと、今自分に布告しているのだ。 否、牙を剥く獣のように挑んでいるのだ。 「俺が褒めてやる」 眉ひとつ動かさず、一瞬の沈黙を自ら破って土方の語尾も強い。 「生憎と、褒めて貰いたい相手は別にいる」 廊下の向こうの角に、すでに人の気配を察していたのか、応えを返しながらながらゆらりと柱から背を離した姿は、呆れる程無防備でいながら、その実一部の隙も無い。 更に自分に関わりのある者だと承知していたらしく、淀みなく流れる水にも似たゆったりとした所作で、八郎は土方に後ろを向けた。 小刻みに此方に近づいていた足音の主が、曲がった途端に探していた人間を見つけ、驚いて立ち止まった。 「急に姿が見えなくなりましたので、どちらに行かれたのかと案じておりました。・・・先生が探して来られるようにと」 安堵混じりの声に、酒宴の最中に消えてしまった気儘を咎める響きがあった。 「養父(おやじ)殿も気苦労なことだねぇ」 それをまるで他人事の様にさらりとかわして、八郎は土方を振り向いた。 「そう云う訳だ、覚えておいてくれろ」 世間話の仕舞いのように何の衒いも無く告げた眸には、挑戦的な色はもう無い。 だがひとつの揺れも起こらない静謐な水面を思わせる眼差しに秘めるものは、燃え盛る焔の勢いよりも尚激しいものの筈だ。 二度と振り返らない背が視界から消え行くまで、土方は其処を動かず立ち尽くしていた。 ひっそりと籠もるような静けさを、僅かにも乱す事を憚る風に忍ぶ足音が止まり、ひとつ板のように合わさっていた桟が少しだけ左右に別つた。 その気配に、伏せていた総司の上半身が弾かれたように起き上がった。 「寝ていろと言った筈だぞ」 灯も入れず、夜具も敷かず、どうやら畳にじかに臥せっていたらしい姿に、土方の眉根が寄った。 「・・・いつの間にかうたた寝をしてしまって」 暗さに慣れた視界に仄白く浮かぶ面輪が、心底嬉しそうに笑いかけている。 きっと自分を待っていたに違いない。 それを思えば、胸に切ないものがこみ上げる。 だがその己の心に敢えて見ぬ振りをし、瞬きもせずに自分を追う視線にも気付かぬ風を装い、土方は室の隅近くまで行くと、今日まだ一度も使われなかったのであろう行灯に火を入れた。 ぼんやりとした淡い灯りの輪が室に広まると、漸く大まかな様子が土方の眸に映し出される。 総司はまだ袴も着けたままでいる。 巡察から戻り、そのままの格好で眠ってしまったのだろう。 「飯は食ったのか?」 問い掛けに、意には沿わぬ応えしか用意出来ない負い目が、土方を見る瞳に翳りを宿した。 何かを言いかけて唇が動いたにも構わず腕を掴み引き寄せると、総司は驚いたように見上げたが、間を置かず頬に触れられた手の甲の冷たさに一瞬身を竦めた。 「熱もあるじゃないか」 咎める声に不機嫌を察してか、向けた面輪に戸惑いが走る。 「・・・朝になれば無くなる」 「そういう事ではないだろう」 あまりに己の身体を斟酌しない応えが、土方の癇症を刺激する。 恐ろしいのは、八郎でも田坂でも無い。 自分から総司を奪って行くものと、土方を真から恐怖させるものは、唯一この者の胸に巣喰う業病だけだった。 物言わず自分を見据えている双眸の厳しさに臆したまま、総司も又何と続けて良いのか分から無い。 気まずい沈黙に耐えられず遂に瞳を伏せ掛けたとき、掴かんでいた手が解かれ、不意に土方が立ち上がった。 「土方さん・・」 漸く掛けた声にも振り向かず、黙ったまま夜具を出して敷き始めた広い背を、総司は困惑の中で見ていた。 怒らせてしまったのだろうか・・・・ 見えない土方の心は、一度出来た水輪のようにただ不安だけを次々に起こして広がる。 つい先日までは、こんな些細な諍いは取るに足らない事だった。 だが今は、このまま土方が何かを言ってくれなければ、狂いだしてしまいそうに心許なくなる。 例えそれが罵倒であっても、応えが欲しい。 かくも、自分は弱い人間になってしまった。 今一度、不甲斐ない心に負けてその名を呼ぼうとした時、夜具を敷き終えた土方が振り向いた。 咄嗟に出そうとしていた言葉を呑み込んだ総司に向けた目には、もう先程までの諌めるような厳しい色は無い。 「早く横になれ」 不機嫌な物言いを崩しはしないが、声には脆い肉体を案じる労りがある。 逆らう事の出来ない眸に射竦められ、やがて諦めたように微かに頷くと、総司は漸く立ち上がり袴の紐に指を掛けた。 衣が肩を滑り落ち、薄い背にある貝殻骨が、腕を動かす度に、くっきりと形を露に浮き出させる。 その後姿を、土方は見ている。 一度だけ、総司を自分のものにした。 滾る想いの全てをぶつけた。 我が身を受け容れさせ、眦から零れ落ちる露を唇で掬ってやりながら、この者こそ誰よりも何よりも愛しい唯一無二の存在であったのだと知った。 何があっても、例え人の心を失くそうと、離しはしないのだとそう誓った。 だが心底人を想うとは、何と危うく容(かたち)無いものであったのか・・・ 顔を見なければ、心落ち着かずに苛立つ自分がいる。 声を聞かなければ、神経を耳に凝らせて探している自分がいる。 一時でも触れずにいれば、温もりが露と消えゆきてしまいそうな恐怖に猛り狂う自分がいる。 何時の時も如何なる時も、自分以外の誰をも瞳に映し出すなと、声を聞くなと、お前は俺だけのものなのだと、そう肌に刻み、己(おの)が腕(かいな)に閉じ込めておきたい。 焦りは、八郎から受けた挑戦が確かに拍車を掛けている。 だが今ある感情は、嘗て経験した事の無いものだった。 これを・・・ 人は嫉妬というのだろう。 ならば今その業火の焔に、焼き尽くされんばかりの自分がいる。 それ程までに、自分にとって総司は求めて止まない存在だった。 そしてその事に今更気付いた自分を、土方は罵倒したい思いだった。 「・・・土方さん」 不意に掛けられた声に現に戻されれば、其処に自分を惑わせ翻弄して止まない瞳があった。 だがその奥に揺らめいているものがあるのを見取って、土方は苦笑した。 先ほどから寡黙な自分が不安になったのだろう。 思えば昔から総司はそうだった。 応えを返さなければ戻るまでじっと待っている。 そして何気なく告げる一言で、此方が狼狽するほど沈む表情を見せるようになったのは何時からだったのか。 きっとその時、すでにこの想い人は懊悩の中に身を投じていたのだろう。 知らぬ顔をして放って置いた日々に、いったい幾つ季節は繰り返えされたのか――― 溯り来し方を取り返せるのならば、何もかもかなぐり捨てそうするだろう。 過去を埋める術を持てず、だが後悔というにはあまりに激しすぎるこの想いに、土方自身も敵わぬ痛恨の中からまだ出口を見つけられずにいた。 「眠るまで居てやる」 それがほんの少しの隙を突いて、焦燥に駆り立てられる侭に総司を求めかねない自分を律する、土方の己への苦しい戒めだった。 きりリクの部屋 花鏡(中) |