花  鏡 (中)




「そういえば・・・、今日永倉さんがおかしなことを言っていた」
土方の不機嫌が緩んだのを感じて安堵したのか、まだ半身を夜具の上に起こし、これで話が終わるのを厭うかのように総司が語り掛けた。
「永倉が?」
「土方さんが遊ばないって」
「遊ばない?」
笑いながら頷いた面輪からは、その先にある感情までは読む事ができない。
「余計な事を、大きなお世話だ」
又も仏頂面を作った土方に、浮かべた笑みだけはそのままに、だが総司はいらえを返す事が出来ない。
続ける言葉が、堰をされたように出てこない。
本当はもっと何でもない事のように、さらりと流さなければならない会話なのだ。
そんな事は百も承知している筈なのに、土方に向けている笑い顔がひどくぎこちなくなっているのが分かる。

想いが通じた途端に、今度は底の無い淵のように深い嫉妬に苦しむ修羅が待ち構えていた。
それは唯一の人の肌の温もりを知らずに、ただ背を追い続けていた苦悶の時など遥かに及ばぬ激しさで今自分を苛む。
止めるのも聞かず唇から勝手に滑り出た言葉は、心に蔓延るその猜疑が為させたものだ。
聞きたいのは・・・
土方はそれで良いのかと、満足できるのかと、そう問いたい。
そしてその応えは、是だと、他に何もなく、ただその一言だけを欲している自分がいる。
信じなければいけないのだろう。
けれどそう願えば願う程、土方を求めて止まない強欲な自分は、疑心暗鬼が暗く渦巻く澱みへと浚われる。
素直になど――
少しも、なれはしない。


「それとも」
「・・・えっ?」
いつの間にか顔を俯けていたのは、そんな自分を直視できない気弱な心の為せる業だったのかもしれない。
不意に掛かった声に漸く現にもどって上げた視線の先に、かの人の苦笑とも付かぬ笑い顔があった。
「お前は俺が遊んだ方が良いと言うのか?」
問う声には、試す風を装いながら揶揄している軽さがあった。
土方は自分をからかっているのだとそう承知しながら、だがしかし、有りのままに受け止めたのは頭だけで、総司は返すべき言葉を一瞬呑み込んだ。
残酷な冗談を、笑って受け流す余裕などどこにも無い。
嫌だと、言葉に出せばそれは悲鳴になり、次にはそんな事は偽りでも聞きたくは無いと耳を塞ぎ、縋りついて二度と言ってくるなと懇願してしまいそうだった。
埒の無い言葉の交わし合いですら、総司の心は笑って流す術を失っていた。

が、その僅かな逡巡を、土方は又別の方向に捉えた。
自分を映している瞳の奥が大きく揺れているのを知りながらも、すぐに否と応えを寄越さない総司に、今土方は自分でも信じられ無い程に苛立っていた。
どうして嫌だと言わないのだと、肩を鷲掴み激しく揺らし、欲する一言を強引に言わせしめるまで、責めて責めて責め抜いてしまいたい。
沈黙から出ようとしない、蒼い面輪が恨めしい。
焦燥は、いつの間にか胸の裡に収まりきれ無い程に膨れ上がり、形となって今にも口からついて出ようとしている。
――自分がこれから告げる事は間違っている。
言ってはいけない事なのだ。
そんな事は分かっている。
それでも言わずにはいられない。
総司にぶつけねば、胸に逆巻く激しいものは鎮まらない。
こんなにも情け無い人間だったのかと、嫉妬深い人間だったのかと、土方は必死に己と葛藤しながら、だが遂に堪える事の出来ない激情の迸りに負けた。


「お前が・・・」
行灯の薄ぼんやりとした灯りが闇に輪を作る静寂(しじま)に、一層低く乾いた声が響いた。
先程まであったものと違う様子を察したのか、総司の顔に怯えにも似た色が走り強張った。
「お前が今までどおり俺に他所で遊べと言うのなら、それで他の者の目を誤魔化せ気が休まると言うのならばそうしよう」
咎を下すように抑揚無く、棘刺す言葉は口から滑り出る。
その瞬間、見上げていた瞳が凍りついたように見開かれた。
更に間を置かず立ち上がった所作で、戦慄く唇が必死に動きかけて何か言おうとするのを土方は強く拒んだ。

色を失って仰ぎ見る蒼白な顔は、あまりに痛々しい。
そうさせてしまったのは自分だ。
つまらぬ嫉妬と意地で、ここまで追い詰めてしまった。
それを承知で、もう後戻りは出来ない。
そのまま桟に掛けた指で身ひとつ分だけ障子を開き、廊下に出て踏んだ板敷きが、夜気を吸い込んでひんやりと冷たい。
視線を逸らさない瞳の主は、きっと今これよりも凍てた寒さに震えているのだろう。
一度だけ、たった一度だけ振り返ってやれば、総司の心は救われる。
だがどうしてもそれが出来ない。
己の度量の狭さに反吐を吐きたい思いで、土方は向けた背のまま後ろ手で桟を合わせた。



独り取り残された室は、物音ひとつさせずひどくよそよそしい。
これは悪い夢なのだと言い聞かせても、背筋から這い上がって来る悪寒が、否応なしに全ては現の出来事なのだと知らしめる。
行灯の灯りの輪の中で、瞳が映し出している自分の影が長く前へ伸びているのを、まるで他人のもののように総司はぼんやりと見ている。

土方を怒らせてしまった・・・
どうしてすぐに嫌だと、そんな事はしてくれるなと、素直に言えなかったのだろう。
だがあの時、もしも何か一言でも言葉にすれば、自分の裡に棲む醜い心は何を言い出すか分からなかった。
本当の自分を暴かれる事の方が、余程に恐ろしい。

今までにだって、怒らせてしまったことは幾度もあった。
けれどすぐに他愛ない言葉を交わし始め、何事も無かったかのように元に戻る事が出来た。
だから明日土方の顔を見ていつも通りに声を掛ければ、初めはぎこちない会話も、やがて普段と変わら無い流れを取り戻し、そうして叉屈託無く笑う事が出来る。
きっとそうに違いない。
けれどそう思った瞬間に、否と叫ぶ、もうひとりの怜悧な自分がいる。
今までとは違うのだ―――
互いの想いを知らずに過ごした、安穏とした時にあった諍いとは違う。
うららかな日和に、気紛れに吹いた風が一時土埃を巻き上げるような、そんな簡単に鎮まる感情のもつれでは無い。
緩やかに流れていたものが、不意に堰き止められた拍子に渦巻いて、やがてく昏い淵の底へと沈み行くような感覚は、このまま土方を失ってしまうのではないかと云う混乱の中に総司を堕とし入れる。

やっと捉えた唯一の人は、又も手の届かない処に行ってしまうのだろうか・・・
そんな事はある筈が無いと、では狂い出しそうな呻吟の日々は何の為にあったのだと、どんなに自分を励ましても、懐疑は針の穴よりも小さな隙を縫って心の奥底に忍び込み、他を考えられない程に不安で一杯にしてしまう。
それはすでに恐怖以外の何ものでも無かった。

「・・・嫌だ」
どんなに悔恨の呟きを漏らしても、過ぎてしまった時は、それがたった一瞬前の事ですら取り返す事は出来無い。
端座した膝の上に置いた手の指が内へと握り込まれ、爪が掌の柔らかな皮膚を朱く染めるまでに強く食い込み、やがて行灯の中の油が尽きて灯が消え、辺りが再び闇に包まれても、総司は身じろぎもできずにそうしていた。




副長と云う立場に立って組織を束ねる土方の毎日は多忙を極める。
だが副長室で執る指揮は、あくまで表向きのものだと知っているのはごく僅かの人間だけだった。
だから中庭に面した廊下と室を隔つ障子は、寒い季節で無い限り開け放たれている。
それは即ち、此処では誰に聞こえても差し支えのない会話しか交わされはしないと云う事を意味していた。
公の事のみが淡々とこなされてゆく、個人的な感情が排除された執務室と云っても良かった。

だから自分も何事も無い顔をして土方の元へと行けば良いのだと、そう先程から幾度も言い聞かせているのに、足は其処にはまだ遠い室の前でぴたりと止ったまま、その先へと踏み出そうとする主の意志を拒む。
こうして費やした時は一体どればかりのものなのか―――
用事を終えて出てくる人の気配を感じれば身を隠し、そうしてもう二人の背を見送った。
今なら室には誰も居ない、土方ひとりが残っている。
いつまでもこんな事をしてはいられないのだと、叱りつけ励まし奮い立たせた心は、やっとに聞かぬ足を動かすに効現しめた。
だが一歩前に出た右足は、又しても其処で止った。
咄嗟に後ろを振り返った総司の視界が、此方にやって来る山崎を捉えた。
自分に、穏やかな笑みを向けている姿が容赦なく近づいて来るのを認めると、心の臓の音が煩い程に耳に障る。


「沖田さん、こんな処で」
互いの様子が克明に分る距離まで来た処で足を止めた山崎が、改めて総司に問いかけた。
誰もが入るのを憚るこの室に、唯一何の躊躇いも無く自由に出入りする若者の、常に無い挙措を異なものと感じ取ったのか、笑い掛けた顔が中途で俄かに真剣みを帯びた。
「何か用事がおありでしたのでしょう。私の話しは大したものではありません」
逡巡するように立ち尽くす姿には、土方との間に何かがあり、それが室に入れぬ原因となっているのだろうとまでは直ぐに勘が働いたが、山崎も敢えて其処までは触れず、総司を促すだけにとどめた。
「副長も待っておられるでしょう、私は後で参ります」
更にもうひとつ背を押すような言葉を掛けても、総司は唇を閉ざしたまま動こうとはしない。
「それでは」
或いは自分が此処に居ることこそ、この若者には躊躇いになるのかもしれないと判を下し、目だけの軽い会釈で山崎は踵を返そうとした。

「山崎さんっ・・」
だがそれを止めたのは、叫びにも似た悲痛な声だった。
振り向いた山崎に、呼び止めてしまったものの、咄嗟にとってしまった行動に、自分自身が困惑して何を云うべきか思いあぐねているらしく、総司は叉も黙り込んでしまった。
狼狽というには少々動揺が大きすぎる様子を見ながら、山崎は、先程抱いた自分の懸念が、この若者にとっては案外に根深いものなのかもしれないと朧に悟った。
愛想笑いひとつ作れない硬質な面輪が痛ましいと、見るものに思わせる今日の総司は確かにおかしい。
「何か私でお役に立つ事がありますか?」
そんな事を思いながらも、このままでは沈黙から当分出そうに無い相手を促すように山崎は問うた。
「あの・・、土方さんに伝えておいては貰えないでしょうか」
漸く耳に届いた声からは、まだ戸惑いに捉われているのだと知る事が出来る。
「何をでしょうか?」
そうする事が相手の気持ちを落ち着かせると知る山崎のいらえの調子は、いつもと変わらず静かなものだった。
「・・・田坂さんの処へ行って来ると」
「それだけで良いのですか?」
確かに今日は一のつく日で、総司が田坂俊介という若い主治医の元へ通う日でもあった。
だがまさかそんな事だけを伝えに来たのでは無かろうと思いながらも、目の前で頷く瞳の色は何を隠しているのか探るには深すぎる。

「夕刻には戻られるのでしょうか?」
戻る時刻まで突っ込んで聞いたのは、どうにも胸に残るしこりを、山崎自身持が厭う気持ちの表れだった。
「そのつもりですが・・・」
返した声が、心許ない。
「承知しました。では夕刻までには戻られると、副長には私からそう伝えておきます」
敢えて刻(とき)を区切り、念押すように繰り返し、山崎はそうする事で暗に総司に帰る刻限を約束させた。
二人の間で何があったのかは知らないが、総司の様子から察すれば、多分自分の上司も落ち着かぬ心を持て余しているだろう。
ならばこの若者の行動はなるべく身近にあってくれた方が良い。
思えば些かの苦笑を禁じえないが、それが山崎なりの判断だった。

「なるべく早くにお帰り下さい」
「お願いします」
瞳を伏せて一礼した薄い背は、行くに躊躇って止っていた室から逃れるように、山崎の視界の中から早足に消えた。




突然天から落ちてきた雫を、人々はすぐに収まるものと高を括っていたのか、然程驚きもせず進める歩とて早めず、往来は暫らくそのままの景色を留めていたが、やがてそれが大きな水の飛礫(つぶて)となり、大降りの様相を呈して来ると俄かに焦り慌て出した。
大八車に積んだ荷に筵(むしろ)を被せる者、腕を傘代わりに翳して雨の中を走り出す者、
或いは一時のものと諦めたのか軒下に身を寄せる者。
そんな喧騒が、自分とはかけ離れた別の世の出来事のように総司の視界に映る。
帰りがけに天候の崩れを気に掛けたキヨが、強いるように持たせてくれた傘の柄を、指は無意識に握っている。
軒下に身を縮めるようにしていた若い男が、傘を持っているというだけで妬ましそうに此方を見ている。
後ろめたさに気まずい思いをしながら、だが今の総司にはそういう視線を送ってくる人間の方が遥かに羨ましい。

きっとあの男には、急いで行かなければなら無い処があるのだろう。
それはもしかしたら、恋しい者の元かもしれない。
そして待っている人間も、帰ってくる者が突然の雨に濡れてはいないかと案じているのだろうか・・・
ありもしない創り話にいつの間にか心捉われた挙句、その想像の中でも人を羨んでいる自分の愚かさには遣る瀬無い息が漏れる。
だが一度そんな風に思えば、尚更土方を想う胸の裡が苦しい。
自分の心を知ってか知らずか、降る雨の音が又勢いづいて来た。
気紛れの片鱗を見せ始めたばかりの天を、総司は飛沫がかかるのも構わず傘を反らせて見上げた。


五条の坂を上る手前にある田坂の診療所から、西本願寺の一角にある屯所へと戻るには、そのまま南に下り七条の通りを西に来るのが一番早い。
いつもは必ずそうする帰り道を、敢えて外して五条の通りに出たのは、土方とまだ顔を合わせる勇気の無い、己の不甲斐なさが為させたものに他ならなかった。
だが進まぬ歩でも、じき堀川という処まで来たとき、それまで何とか傘で凌げていた雨が、どうしようもない程に激しさを増して来た。
つい先程までは乾いた土に落ちる雫が埃臭さを巻き上げていたのが、そんなものは一気に消え、地に叩きつけるような驟雨となった。
こうなれば人の作った傘など、何の役にも立ちはしない。
袴の裾はみるみる跳ね返る泥水で湿り、このままではいずれ時を経ずして全身を濡らす事になるだろう。
総司は一度立ち止まり辺りを伺うと、迷うことなく脇の民家の軒先へと入り込んだ。
視界を遮る程の雨飛沫だったが、煙る向こうにうっすら黒く見えるのは東本願寺の頑健な威容だった。
そしてその先には西本願寺がある。
或いは―――
濡れるのを避けると尤もらしい理由を付けて此処で雨宿りを決めさせたのは、還るべき場所へ戻る時を、少しでも稼ぎたい駄々に負けた、心に在る弱気だったのかもしれない。
足を止めた途端、何処か安堵している自分の意気地の無さを、総司は小さく笑った。



軒は決して短くは無かったが、濡れた袴の裾からは少しずつ雨湿りが広がる。
一向に勢いの衰えを見せない雨に諦めて、一歩を踏み出すか否か逡巡を繰り返し、結局何も出来ずに過ごしてしまった時はどれ程だったのだろうか。
それも次第に長くなれば、山崎との約束が思い起こされる。
山崎は土方に、夕刻までに戻ると告げている筈だった。
だとしたら勝手な都合で迷惑を掛ける訳にはゆかない。
それを動かぬ自分への言訳にするように、総司は帰る心を励ました。

脇に立てかけてあった傘に手を遣ろうと身体を少し横に傾げた時、初めて軒を借りていた建物に人の気配の無い事に気づいた。
そんな事すら今頃知る程に、自分は余裕と云うものを失くしていたのだと呆れながらも、少し遠くまで遣った視界の先には、外から打ち付けられた木の戸が見え、確かに此処には住む者は居ないのだと知らしめる。
そうして改めて見る建物は、ひどく寂しげに静まり返っている。
だが其れも総司にとっては関係の無い事だった。
早くに帰らなければ山崎が困る・・・
戻りたいが戻れない躊躇いの中で、山崎との約束を盾に怯む心を叱咤し、漸くまだ強い雨脚の向こうへ目を移そうとしたその時、建物と地の際に、木や土とは別の色があるのに目が止った。
何気なく其処に注意を持ってゆくと、それは五寸にも満たない朽ちかけた葉だった。
今一度軒の下へと身体を戻し、膝を折って屈み、触れようと伸ばした総司の手が不意に止まった。

確かに一度こんな事があった。
あれは何時のことだったのだろうか―――
枯れた葉に視線を置いたまま暫し遠い記憶を手繰っていたが、やがて思い起こす時の千分の一にも満たない速さで、忘れていた光景が鮮明に脳裏に蘇って来た。


それはまだ江戸にいた時で、あの頃の自分は、土方への想いに押し潰されそうな日々を遣り過ごすだけが精一杯だった。
ちょうどそんな時だった。
土方の室の縁下に、こんな風にか細く力無い生き物が根付いていたのを見つけた。
過ぎた季節には花も付けたであろう其れは、今は見る影も無い無残な姿を曝していた。
地に落ちた葉が風に浚われて千々に散ってしまう様に、自分の苦しい恋慕を重ね合わせ、辛いだけの想いなど、こんな風に跡形も無く消えてしまえば良いとそう願った。
だが叶う筈も無いと秘めていた恋情は、時を経て現のものとなった。
それを思えばもう何を捨て、何処へ堕とされようと、惜しみ哀しむものではない。
けれど未だ信ずるに遠いもののような気がする幸いを掴んだ瞬間から、自分は人では無くなってしまった。
独り呻吟している時など遥かに及ばず、きっといつか我が身まで焼き尽くしてしまうだろう、狂おしく猛る嫉妬の火玉を抱え込んでしまった。
誰よりも何よりも、強欲に土方を求めて止まない。
一時たりとも安堵する事無く、束の間とて満足する事はない。


視界に映る草は、見るからに儚い。
止めかけていた手を、再び伸ばして葉に触れた瞬間、指先に熱い痛みが走った。
明日には姿を叉見ることができるのかと疑わしく思える弱々しい茎は、意外にも針のように細い葉に鋭い凶器を持たせていた。
丁度触った角度が悪かったのかもしれない。
無意識に逃れようとした指は、逆に葉の側面を滑り、更に皮膚を裂いて行く。
それは瞬く間もない出来事だったのだろうが、漸く離した左手の人差し指の内側に、絹糸のように細い線が出来ていた。
一寸程の其処から薄く滲み出る血がみるみる溢れ、遂には玉となって滴る。
慌てて懐紙を取り出して指を挟んだが、草が作る傷は、時に鋭利な刃物で切ったそれよりも深くなることがある。
白い紙にも少しずつ朱い輪が広がる。
その様をぼんやりと瞳に映しながら、これが人の心を失ってしまった自分に、天が与える最初の戒めのように総司には思えた。




「お帰りにならはったのは、もう一刻も前の事ですわ」
キヨは身につけているものを強か濡らしている土方に、慌てて乾いた手ぬぐいを渡しながら、総司の帰った時刻をなるべく正確に頭に思い起こして告げた。

彼方に雷鳴が轟く土砂降りの雨の所為で、まだ夕刻には随分間があるというのに、玄関も建物の中までもが薄暗い。
「どうせすぐに叉雨に濡れる身故」
土方は苦笑しながら、キヨの好意を辞退した。
「せやけど・・・何処かに寄られはる、言うてへんかったし・・」
ふっくらとした手を、これまた負けず劣らず豊かな頬に当て、それで記憶の断片をつなぎ合わせているような、キヨの仕草だった。
「いや、帰ったのならば良いのです。丁度近くまで来たついでに、もしやと思い立ち寄ったに過ぎないので」
自分と総司のすれ違いを憂えるキヨに、土方は浮かべた笑みをそのままに、安堵させるような穏やかな調子で応えた。
だがそれが苦しい嘘だと、或いはこの勘の良い婦人はとっくに気付いているのかもしれない。
ならば致し方が無いと半ば開き直りつつも、こんな他愛の無い偽りなど、常ならば歯牙にもかけずつく自分が、今酷く狼狽している情けなさを、土方は胸の裡で自嘲せざるを得ない。


総司が田坂の診療所へ行った事は山崎から伝え聞いた。
山崎の伝言を、いつもと何ひとつ変わらぬ風に受けながら、その実激しい苛立ちが湧き上がるのを堪え様が無かった。
何故直接自分に伝えに来なかったのか。
想い人の胸中は分かり過ぎる程に分っている。
総司は言わなかったのではなく、言えなかったのだ。
そして其処まで追い詰めてしまったのは、紛れも無く自分だった。

総司が居ないと知り過ごす時は、ただただ落ち着かなかった。
筆を取り掛けては元に戻し、そんな様に呆れ叉やり掛けていた仕事に戻ろうとして、今度は俄かに怪しくなった雲行きが気にかかり庭に目を移し――――
雨催いの空が遂に大粒の雫を垂らし、次第に人の声すら邪魔する程の降りになった時、それまでの逡巡を振り切るかのように立ち上がっていた。
そうしてやって来た診療所に、探していた姿は無かった。


「此処を出られはる時に、傘をお渡ししましたんやけど・・」
だがもしもまだ外を歩いているのならば、その傘も今の降りでは役に立たないだろう。
キヨの声も、胸にある憂いを隠せない。
「いや、もう戻っているのでしょう。返って心配を掛けてしまい申し訳無い」
礼を言いながら下げた頭に、キヨが首を振った。
「うちがもう少し、お引止めしておけば良かったんですわ」
すれ違いになってしまった原因が、まるで自分にあるようにキヨが顔を曇らせた時、激しい雨脚を突いて、此方に歩いて来る人影があった。
玄関の正面から外を視界に入れていたキヨが、その姿が誰であるのか見止める前に、やはり気配を察した土方が振り向いた。
建物の中に居る二人の思い違い無く、それはこの診療所の主である田坂俊介その人だった。
来た時には急患で往診に出かけたのだとキヨが言っていたが、それを終えて戻って来たのだろう。
田坂は一度庇の下で差して来た傘を降って雨雫を払うと、改めて其処にいる土方に視線を向けた。


「沖田君が何か?」
挨拶を省き、土方の顔を見るなり、田坂は己の胸にあった疑惑をぶつけた。
「あいつは田坂さんに何処かに寄ると言っていましたか?」
田坂の性急さは、何かを知ってそれが懸念になっていると、土方には判じられた。
胸の裡が、叉も激しく騒ぎ始める。
「真っ直ぐに帰るとは言っていたが・・・」
「何かあったのだろうか?」
落ち着かない思いを抑えて待つ身には、相手からいらえの戻るまでの僅かな時とて果てなく長い。
「沖田君が帰って直ぐに、私も往診に出かけねばならなくなったのですが、五条の橋を渡った処で前を行く後姿を見たのです」
「五条の橋の先で?」
ゆっくりと頷いた顔が晴れない。
「ここから南に下って七条の橋を渡れば、それが一番早くに帰る事が出来ると、いつもそう言っていたので少し不審に思ったのです。今日は何処にも寄る予定も無いと聞いたばかりだったので余計に。が、声を掛けようと思った矢先に人で紛れて見失ってしまいました」
「そうですか、・・ではもう屯所に戻っている頃でしょう」
務めて何事も無い風を装いながらも、土方の裡は重く沈む。
総司はわざと遠回りをする道を選んだのだろう。
その理由を辿れば、きっとまだ戻ってはいないだろう身が案じられる。


「色々と手数を掛けさせてしまい、すまなかった」
まだ不安そうな顔をしているキヨと、帰って来てから土間に立ったままの田坂に再び頭を下げ、土方は玄関脇に立てかけてあった傘の柄を手に掴んだ。

「土方さん」
出て行こうとする背に、呼び止める声が掛かった。
「沖田君は多分五条の通りを真っ直ぐに西へ向かったのだと思う」
振り向いて動きを止めた土方に、田坂が歩み寄ってきた。
「遠回りをしても、きっと屯所に向かった筈です」
言い終えて笑った顔が、憂えるなと告げていた。


どんな理由があるのかは知らないまでも、田坂には土方がわざわざ総司を迎えに来たのだと言う事は分かる。
今日の自分の患者は、いつもと様子が違っていた。
問えば応え、時には笑い声も立ててはいたが、時折何も耳に届かないようにぼんやりとしている事があった。
それを指して揶揄すると、言った方が慌てる程酷く狼狽した。
ただそれだけに囚われてしまうような、何か辛いものが心にあるのだろうか――
そう懸念した自分だった。
そしてそれは土方に由来することなのだろうとも、叉同時に察っせられた。
だから総司は重い心を引き摺りながらも、きっとこの男の元に還るだろう。
それは想う人間の胸の裡を、自分のものとして感じる事ができるからこその、田坂の少々遣る瀬無い確信だった。

「屯所へと、向かった筈です」
今一度繰り返し告げた視界の中で、恋敵が頷いた。










          きりリクの部屋     花鏡(下)