日光の輪にありて艶やかさを愛でられ 月光の輪にありて美しさを謳われ 風雨に散りて潔さを尊しとする されど桜花みせる一期の夢は 落花流水のことわりにありて あるいは狂気という名の人の闇 20001御礼 樹花さまへ 春 雷 (壱) 弥生も半ばを過ぎれば流石に昼吹く風には春特有の埃っぽさが感じられる。 突然悪戯ように下から巻き上がった風に、袴の裾がめくれたと思った瞬間には束ねて結い上げた髪の先が頬を叩くように前に靡いた。 総司は反射的に目を瞑ったが、髪の一筋がそれを触った方が早かった。 左の目に熱い痛みを感じて暫し瞳を閉じてその場に立ち尽くしていたが、ふいに背後に人の気配を感じ、傷つかなかった片方の目だけを無理やり開けて振り向くのと同時に声を掛けられた。 「大丈夫ですか?」 掛けられた声は幾分低めで耳によく通った。 やっと開けている方の瞳も、やはり涙で滲んでその人物の顔かたちを上手く判別することはできなかったが、ずいぶん上背のある大柄な男だということは分かった。 咄嗟に見た腰の二本で武士だということも知られた。 「ありがとうございます。大丈夫です」 相手の親切に礼を言いながら、予期できぬ出来事だったとは言え、往来でのあまり体裁の良いとは言えぬ己の醜態を総司は恥じた。 「ひどく目を傷つけたと思われるが」 相手の声は心底自分を気遣ってくれているようだ。 それが総司には益々恥ずかしい。 「本当に、たいしたことはないのです。片方の目だけだし…じきに治ります」 「が、それではもしも私が貴方の敵になる人間ならば簡単に倒すことができる」 親切を言ってくれるこの見知らぬ男に油断していた訳ではなかったが、一瞬身構えさせる物騒な言葉の中に殺気は無かった。 「だが生憎私はその敵方ではない」 総司の心の裡を読み取ったのか、男は緊張を解かせるよう笑いを声に含んで告げた。 「ゆっくりと目を開けてみなさい」 総司の警戒の色など頓着無いように、男は少しばかり強引だった。 それでも逆らう理由も見当たらず、総司は言われるままに片手で庇うようにしていた目を微かに開いた。 それは開くか否かの僅かのことだったが、勢いを増した日の光はまるでその隙を狙っていたかのように、傷ついた瞳を容赦無く攻撃した。 自分の意思などお構い為しに、すぐに閉じた左の眦から涙が頬に伝わった。 「やはり結構にやられているようだ」 相手の声には悪意が無い。 「もう少ししたらちゃんと開けることができると思いますから。だいぶ痛みも引いてきましたし・・」 見ず知らずの他人にいつまでもこうして係わっていて貰う事にも、些か遠慮を感じて来た所だった。 「私の知人がこの近くで医者をやっている。とりあえずそこで目を洗って貰うといい」 「そんなに大袈裟なことではありません」 事の成り行きがとんでもない方向に向いて行く気配に総司は慌てた。 「こんな少しばかりの目の傷で医者など…」 「しかしそのままでは貴方も困るでしょう」 男には自分の好意を引っ込める気は無い様だった。 「本当にすぐですよ。元は本道の医者だが最近ではあらゆるものを診ているらしい。ただ腕の方は知らぬが」 男の言葉には相手に対する親しみがあった。 「そのお医者さん、名前は何というのですか?」 そこについて行くつもりは毛頭なかったが、ふと聞いてみたのは男の言う医者の様子が自分がこれから行こうとしている田坂俊介医師と似ていたからだ。 「杉浦…いや、今は田坂と言っていたか」 ほとんど外れはしないだろうと思ってはいたが、男は寸分も違わず思った人間の名を告げた。 「田坂さんのお知り合いでしたか」 まったく警戒を解いた訳ではない。 だが田坂の名を聞けばもう見ず知らずの人間とは思えなかった。 先ほどよりはずっと楽になった左の目を薄く開けて、総司は初めて男に笑いかけた。 「田坂をご存知か?」 言葉の割にはさほど意外そうでも無く、男は白い歯を見せて笑った。 流石に患者というには気が引けて、総司は曖昧な笑みを浮かべただけで応えは返さなかった。 通いなれた所だから例え片目を瞑っていても一人で大丈夫だと言う総司の言葉を聞かず、結局一緒に歩き始めた男は田坂の診療所までの短い道すがら吉住新三郎と名のり、思った通り近江膳所藩の藩士だと自分の事を告げた。 「田坂さんとは昔からのお知り合いなのですか?」 さりげなく会話の途中で聞いたのは、総司にはひとつの危惧があったからだ。 田坂俊介という医師にとって膳所藩は決して懐かしい過去ではない。 もし自分がこの吉住という男を連れて行ってしまったら田坂が迷惑をするのではないかと、それが総司の不安だった。 「懐かしい親友の弟です」 吉住の声が一瞬遠くに語り掛けた気がした。 「それでは田坂さんのお兄さんのお知り合いなのですか?」 思わず探るような声になったが、田坂の辛い過去の要因が今吉住の言ったその兄に由来すると知っている身には仕方の無い事だった。 「俊介の兄をご存知か?」 問う男の声音が穏やかに静かだった。それにどこか寂しげな響きを覚えたのは錯覚だったのか… 「俊介の兄とは何でも腹を割って語れる、二人と居ない友人だった。もしかしたら…」 今度は吉住の方が躊躇うように言葉を止めた。 「…もしかしたら、俊介の過去をもご存知か?」 やがて意を決したように問うた吉住が、傍らの総司を見た。 「…どのようなご事情までかは知りませんが、田坂さんが膳所藩と由来のあった方で兄上がいらしたことは伺ったことがあります」 そこまでしか総司には応えることができない。 田坂とその兄の過去は土方にすら話した事の無い、自分の胸の裡だけにあるものだ。 「そうであったか」 吉住にもそれ以上この話を続ける意思は無いようだった。 総司と連れ立って入ってきた吉住を見たとき、田坂俊介の顔に一瞬浮かんだ複雑な色を総司は見落とさなかった。 やはり吉住は田坂にとって会いたくは無い客だったのかもしれない。 成り行きとは言え、田坂に対してただ申し訳無さが先に立った。 「すみませんでした」 いつものように胸の病の診察を終え、ついでに傷ついた左の瞳を洗ってもらいながら、総司は先ほどからずっと胸にわだかまっていた事を詫びた。 「何がだ?」 「吉住さんという人…連れてきてしまって」 「ああ、別に謝られる理由は無いが」 「でも田坂さん、会いたくない人だったのでは?」 「そんなことは無い。事実あの人とは夕べ久しぶりに一緒に飲み交わした」 「それならば良いのですが…」 「本当だぞ」 それでも先ほど田坂の一瞬見せた素振りは、総司の胸に重く影を落としている。 「これでいいだろう。が、明日一日くらいは日の光を直接に見ては駄目だ」 丁寧に洗い終えて貰った目は、もう開いても僅かに異物感を感じるだけで痛みも無い。 「そんな事を言っていたら巡察などできません」 「では休みにしてもらえよ」 「それはもっと困ります」 「我侭な患者だな」 「それを治すのが田坂さんでしょう?」 「俺は目は専門外だぜ」 心底うんざりとした田坂の物言いに、総司は声を立てて笑い出した。 帰りがけにちょっとした問題が起こった。 田坂を待っていたのだと思っていた吉住が、膳所藩の京都藩邸にもどる道の途中だからと総司を屯所のある西本願寺まで送ると言い始めた。 吉住は最初からそのつもりだったらしく、それはごく自然に申し出された。 が、そう言われて慌てたのは総司の方だった。 確かに傷ついた左の目はまだ右の目ほどは上手く物を映さないが、大の大人に、それも二本差しの武士に同道して貰うものではない。 相手の親切を無にするには忍びないが、それでも送って貰うなどみっともないことこの上ない。顔から火がでる思いだった。 好意は有難いがと、丁寧に断ったが吉住は引かなかった。 ほとほと困りかけていた時に、片づけを終えて奥から出てきた田坂が機転をきかせてくれたことで、どうにかその場を切り抜けることができた。 田坂は吉住に酒宴の用意をしてあると告げた。 最初から予定してあったことのように田坂にてらいは無かったが、総司にはそれが咄嗟の嘘であることがすぐに分かった。 申し訳が無いとは思いつつ、だがそれよりも何処か吉住を警戒をしている風の田坂の態度が総司の胸にしこりとなって残った。 「・・・総司」 耳朶を甘噛みされてそのまま首筋にかけられた吐息が熱い。 それで何かが刺激されたように思わず白い喉を仰け反らせた。 薄い胸にある鮮やかに染まった密やかな色どりを掌で包み込むようにして擦ると、下に組み敷かれた想い人の息が上がった。 「何を考えている・・・」 「・・・何も・・」 ひと言応えるだけが精一杯だった。 他に言葉を繋げれば切ない声を漏らしてしまいそうだった。 愛しい指に触れられれば、露(あらわ)に兆す己が恨めしかった。 ささやかな営みだけで自分を受け入れようと焦れる身体を、土方は更に追い詰める。 しっとりと汗を含んで手のひらに吸い付くような肌に手を滑らせて、拒む膝を割らせると遂に総司は瞳を固く閉じた。 いつもは貝殻の裏のように血管の色を青く透かせる瞼が、仄かに上気して今を盛りとする桜花に似た色に染まっている。 「・・・あっ」 身体の内に忍び込んだ感触に、手の甲では間に合わず咄嗟に指を噛んで堪(こら)えたが、それよりも早く声がひとつ零れ落ちた。 激しい刺激にたえられず、もう片方の手を土方の首に回すと少しだけ胸を起こし、手繰り寄せるように唇を求めた。 が、土方は一瞬それを合わせただけで体を起こすと、総司の下肢を抱えあげ宙に浮かせた。 不安定に揺らされた下半身は、すべて土方の手の内にあった。 熱い欲望の容(かたち)を身体に刻み込まれたとき、二度目に漏れた声はまだ悦楽のそれではなかった。 眉根を寄せて苦痛をやり過ごそうとする想い人の閉じた左の瞼に静かに唇を落とすと、微かに開いた瞳から露が流れ落ちた。 「つらいか?」 それに言葉で応える代わりに、総司は浮かされていた右の脚を自ら土方の腰に絡ませた。 辛いのは土方を受け入れる度に、一度はそれを拒もうとする己の身体だ。 それを土方は辛抱強く宥め、いつか緩やかに快楽の淵へと誘(いざな)ってくれる。 凌ぐだけだった律動がやがて己自身の波動となり、籠める息も漏らす息も土方その人の動きのままに翻弄され、高く低くうねる悦びの中に身を投じ、一際激しく背を反らせた瞬間に強く噛んだ指の薄い皮膚が破れ血の滲んだことすら知らず、土方の全てを受け入れた身体はゆっくりと脱力して褥に沈んだ。 「総司・・・」 自分を呼ぶ声が限りなく優しく耳に木霊する。 荒い息を繰り返すだけがやっとで、応えることはできないが、せめて限りの力でうっすらと瞳を開けた。 手指で前髪を掻き上げてやると、総司は白い額に玉のような汗をいくつも浮かせている。 まだ呼吸は整わず、薄い胸は大きく上下している。 宿痾を持つ身体には辛い思いをさせてしまったのかもしれない。 土方の胸に一瞬痛ましいと思う後悔が走る。 それを敏感に察したのか総司が右の手を伸ばして、自分を心配気に見下ろしている土方の頬に触れた。 「・・・大丈夫です」 笑いかけながら、だが紡ぐ総司の言葉は時折掠れた。 まだ己の頬に遊ぶようにある総司の手をとって見れば、中指の内側が幾ばくか朱に染まっている。 余程強く噛んだのであろう。 その指先を口に含むと、総司の瞳が大きく見開いた。 「今度は両の手首を戒めて、こんな傷など創らせぬようにしてやる」 ようやく指を唇から離して、まだ手首は掴んだままに見つめる土方の声が笑いを含んでいた。 それは奔放に悦びの声を解き放てという意地の悪い土方の言葉だった。 「・・・そんなことをしたら」 上気したせいだけではなく更に濃い色を頬に刷かせて、総司の瞳が土方を睨んでいた。 「そんなことをしたら?」 問い掛けに想い人が応えを返す前に、土方はその唇を己のそれで素早く封じ込めた。 長くも無くさりとて短くも無い抱擁は、総司にこれ以上の無理を重ねさせない、土方のぎりぎりの思いを籠めた刻(とき)の経過だった。 「さっき、何を考えていた?」 「・・・さっき?」 それでも再び乱された息は、まだ暫く落ち着かない。 「上の空だった」 それを咎める様に土方は総司の右の手を掴んだままで、未だ解いてはいない。 「昼間田坂さんのところに行く道で、不注意で目を少し傷つけてしまった時に親切にしてくれた人がいて・・・」 途中まで語りながら言いよどんだのは、吉住と名乗ったその男を見た田坂の、一瞬見せた複雑な反応を思い出したからだ。 土方は田坂の過去まで知らない。それが総司に次の言葉を語らせる事を躊躇わせた。 「目を傷つけた?」 言われて見れば総司の左の黒曜の瞳を覆う、いつもは青みのかかった白い部分が僅かに紅い。 土方の思考は別の方向に向けられたようだった。 それを見止めて総司は胸の裡で安堵の吐息を漏らした。 「大したことは無いのです。すぐに治ったし。けれど少しの間だけ目を開けることができなくて・・・その時に助けてくれた人がいたのです」 「何故早くに言わない」 「名前も聞く間も無かったし・・」 小さな偽りを言うには気がひけたが、それでも本当を言う気にはなれなかった。 「ばか、俺の言っているのは目のことだ」 「もう治ったから」 「些細なことで見えなくなったらどうする」 「そんなことはありません」 大仰な心配を慰撫しようとして、土方を見た総司の顔から浮かべかけた笑みが消えた。 「土方さん・・?」 土方の眼差しが痛いほどに強く真剣だった。 「お前は俺の腕に居ながらいつもどこかに行こうとする。どんなに強く力を込めてもするりと抜けて行きそうな気がする。お前を失うくらいならばいっそこのまま俺の腕の中で息を止めてしまいたい衝動に駆られる。そうしてお前の亡骸をいつも腕に抱いていればお前は俺から離れない。そうしたら俺は安堵できるのか・・・最近そんなことをも考える」 初めて聞く土方の告白だった。 総司は土方の言葉のひとつひとつを瞬きも忘れたように聞いている。 きっと土方は自分をいつかこの世から連れ去る病のことを重ねて言っているのだろう。 「俺は、狂い始めたのかもしれないな」 自嘲するように苦く笑った土方の首筋に、自由の効く左の腕を咄嗟に回して強く縋った。 「・・・・どこにも行かない」 どう言って良いのかわからない。やっと搾り出すようにそれだけを言葉にできた。 「分かっている」 「・・ここだけにいる」 それは土方の腕の中だと、そう伝えたかった。 瞳に滲んだものはすぐに湧き上がり、それが溢れ落ちる寸前に瞼を閉じた。 掴んでいた右の手首を離した土方の腕はそのまま抱きこむように褥の隙間を滑り、総司の背に回された。 余裕というものを置き忘れた力は骨すら砕きかねると思える程強いものだったが、たとえこれで息が止まっても自分は決して苦しみを訴えることをしないだろう。 もしも自分の骸(むくろ)を抱いて土方が安堵できるのならば、そうしてほしいと思った。 否、今はそうなることを願った。 夜半に吹く風が、入り込めぬのを苛立つように閉じた雨戸を打った。 それは春の嵐にも似て、何故か胸を騒がすものを感じさせた。 昼人々に愛でられた桜は、今の一陣の風でさぞ花びらを散らせていることだろう。 恐れるものを忘れ去ろうとするかのような土方の執拗な愛撫に再び熱く翻弄されながら、逆巻く風に舞う花弁の様が一瞬閉じた瞼の裏を白く彩った。 春から夏に向けての時期は貪欲な程にすべての勢いを増す。 そうは言っても春の雨は時に季節が遡ったかのように冷たい風を吹かせる。 昨日から続いているこの降りで、きっと桜はすべてが散るのだろう。 そのあとに来る新しい若い芽の色付きをみて、これがあの艶やかな花で枝を撓(しな)らせていた木だと一体何どれ程の人が気付くのか。 そんなことを思いながら傘をさして行く道の景色は、確かに刻(とき)の移ろいを呈して、たとえそれが雨の模様でも総司には眩しい。 必ず次の季節を迎えられると、健やかな者ならば誰もが信じて疑わぬことに猜疑する自分が嫌だった。 あの夜、土方が紡いだ言葉が胸に辛い。 土方にそんな思いを抱かせる己の身体が恨めしかった。 忘れていたくとも、今この道に歩を進めるのは田坂の診療所へと行くためのものだ。 そこで否が応でも自分は紛れも無い現実と向き合わされる。 胸にあるのは、いつか土方と自分をこの世で分かつ業病だ。 総司は遣る瀬無い吐息をひとつついた。 五条坂の手前の田坂の診療所の門を潜って玄関で案内を乞うた時に、ふと目を落とした三和土(たたき)に町家の者の物とは思えぬ草履を見つけて、あらぬ予感に胸が騒いだ。 もしかしたら吉住という男のものかもしれない。 それは勘だったが、何故か不吉な思いに捉われた自分をもてあまして、総司はその履物に視線を縫いとめられた。 「今日は早かったな」 奥から顔を出したのは田坂だった。 いつも出迎えてくれるキヨは、今日は不在らしい。 十日前に来た時と同じように田坂の様子に変わったところはなかったが、どこかぎこちないと感じるのは自分の思い過ごしだろう。 総司は訳の分からぬ自分の落ち着かなさを、そんな風に誤魔化した。 「目の方はあれからどうだった?」 ひととおりの診察を終えて、田坂は思い出したように問うた。 「一日で治りました」 「どうせ言うことなど聞かなかったのだろう」 「そんなことはない」 「まあ、いい。どうやら治っているようだしな」 向きになって言う総司に苦笑しながら、田坂はそれでも傷つけた左の瞳を覗きこんだ。 「田坂さん・・・」 丹念に傷が残っていないか探す田坂に総司が言葉を掛けた。 「・・・どうした?」 田坂の医師の目はまだ瞳を探っている。 「この間私を助けてくれた人・・」 「吉住さんか」 漸く田坂が診ていた瞳から双眸を離すと、少し距離を置いて総司に正面を向けた。 「今日いらしているのですか?」 「来てはいるが・・・」 いつもは歯に衣着せぬ物言いの田坂が一瞬言いよどんだ風だったのを、総司は見逃さなかった。 やはり田坂にとって吉住という男は会いたく無い人間だったらしい。 それに自分は再び縁を結ばせてしまったのかもしれない。 総司の心が重いもので塞がれた。 「どうした。そんな顔をして」 「別にどうもしません」 屈託の無い田坂の声に、漸く笑うことができた。 「吉住さんのことなら気にしなくてもいいぞ」 「・・・え?」 「気にしているんだろう?俺のことと関係つけて」 自分に向けられた、田坂の眼差しが柔らかかった。 「そんなことは無いけれど・・」 「あの人は俺の兄と親しい人だった。よくできた人で膳所藩では次の勘定奉行だろうと噂になっている」 「そんなに・・・」 総司は正直に驚いている。 確かに身なりはしっかりとしていた。が、いかにせよ若い。 田坂の兄の友人と言えば、三十を少し出たばかりであろう。 それがすでに一藩において奉行職を期待されているとすれば、希代な才能の持ち主と想像できた。 「今日はもうすぐに帰るのだろう?」 「そのつもりですが」 「土方さんも君が戻らないと落ち着かないことだろう。雨も降っていることだし」 「土方さんは関係が無い」 思わず声が大きくなり、耳朶まで朱に染まったのが分かった。 「早く帰ってやれよ」 そんな総司の狼狽ぶりなど意に介さぬように、田坂の表情は憎らしい程にいつもと変わらない。 だがその声に今日は珍しく有無を言わさぬ強さがあった。 それを訝しいとは思いつつ、田坂の何らかの意思を感じて、総司は軽く顎を引くようにして頷いた。 外に降り続く春の雨の音が、少しだけ強くなった。 きりリクの部屋 春雷 (弐) |