春  雷  (弐)






田坂の処に来る時には煙るように降っていた雨が、加茂川を渡って暫く行く途中で俄かに驟雨(しゅうう)の様相を呈し、そのうちに闇の如く暗くなった天に稲妻が走り、雷鳴が轟くころには、差していた傘は物の役には立たなくなっていた。
この篠突くような降りも僅かばかりの間のものと思えば、どこかの家の軒にでも身を寄せて濡れぬようにした方が得策だと辺りを見渡した時に、誰かに見られている気配を感じて振り返った。


「やはり沖田さんではないか」
そこに吉住新三郎が立っていた。

「吉住さん・・・」
咄嗟のことに他に言葉も出ず、総司はただその人の姿を見た。

「似ている人影だとは思ったが、まさかこのようなところで又会うとは」
吉住はこの邂逅を真から喜んでいる風だった。
端正と言って良い顔に浮かべた笑みに邪気は無い。

「いけないな。こんな処で濡れていては。宜しければ私の家が近くにある。少しの間雨宿りをしては如何か」
「すぐに止むでしょう」
そう言った傍から耳を劈(つんざ)くような雷鳴が響いた。近くに落ちたのだろう。

「そうでもなさそうだ」
まるでそれを合図にしたかのように、吉住の笑った声すら消してしまう酷い降りになった。
「俊介の処の患者と知っておきながら濡れさせたら、あとで私があいつに叱られる」
自分のことを田坂の患者と言ったことに総司は一瞬躊躇ったが、吉住はそんなことには頓着がなさそうだった。

「私の家・・・と言っても、妾宅だが、そこの桜の枝が塀を越えてのぞいている家がそうです」
言いながら吉住が指差した先に広く板塀を巡らした屋敷がある。
奥行きは間口よりもずっとありそうで、かなり広い敷地と思えた。

「それでは余計にご迷惑がかかります」
妾宅と、吉住は言った。
そうならば吉住の情人と会うのは更に気が引けた。
「今は里に戻って明日にならねば戻らぬはず。こうしている間にも濡れ鼠になってしまう。半刻もすれば雨はやむだろうに」

半刻という刻(とき)を限られたことで、総司の内で何処か安堵するものが生まれた。
確かにこのままでは幾つ数える間も無く、着けているものなど要らぬように全身が雨露に濡れそぼるだろう。
一瞬自分の身体を執拗に案じる土方の顔が思い浮かんだ。
芯まで濡れたままで屯所に戻れば土方に又要らぬ心配をかけさせる。


「さあ、行きましょう」
まるで心を見透かしたような吉住の誘いだった。

その言葉に促されるように、総司は吉住の広い背の後ろについて歩き始めた。







まだ昼というのに暗い室にともされた行灯の淡い灯りがさらに白くぼやける。
油断をしたのだと知った時には、ともすれば前かがみに倒れそうな身体を起こしているのが精一杯だった。
四肢の先までが痺れているわけではない。
むしろ知覚ははっきりとある。


「・・・どうして」
しかし目の前に座る男に問う言葉は、声にするのがやっとだった。
「それほど強くはないから安心して頂いて結構。あまり沢山の量を入れると君は敏感に気づいてしまいそうだったからな。どうやら丁度良い加減だったようだ」
何とか立ち上がろうとするが、立てた膝は途中で挫けるように力が入らない。

「どうしてこんなこと・・・」
「君を逃がさない為さ」
吉住の声には抑揚が無い。

己の失態を罵倒したい思いで見上げた先に、吉住が立ち上がってこちらに向かってくる姿があった。
それに構える姿勢と取ろうとするその意思を、出された茶に混ぜられていた薬によって自由を拘束された身体は拒む。
吉住の身体がゆっくりと視界の中で大きくなってゆく。

斬られるのかもしれない・・・

まるで現(うつつ)の出来事とは思えぬように、総司はぼんやりとそれを見ていた。
必死に動かそうとしている思考は、霧が掛ったように朧にぼやける。

吉住の姿がふいに霞んだ視界から消えた。
自分の後ろに回ったのだと思った時には、鳩尾にえぐられるような激しい衝撃を受けた。

記憶に残っているのはそこまでだった。





ひんやりとした何かが頬に触れた。
それに導かれるように、うっすらと瞼を開くと闇になれた瞳には淡い灯りすら眩しかった。

「少し強く入ってしまったようだ。苦しくはないか?」
まだ半ば覚醒していない総司の意識は、声の主を判別するのに難儀しているようだった。

「水が欲しいか?」
押し付けるような少々強引な物言いは、確かに聞いた事がある。
「兵馬・・・まだ痛むのか・・・」

物言わぬ総司を覗き込む様にして見たその顔が、押し寄せる高波のように全ての記憶を蘇らせた。

「・・・吉住・・さん」
「気が付いたか」
吉住は心底安堵しているようだった。言葉と共に漏れた吐息が何よりもそれを物語っていた。
自分はどうやら夜具の上に寝かされているらしい。
どうしてこんな事になったのか。
それを吉住に確かめる為に動こうとして、腕の自由が利かないことに気が付いた。
更に両の手首は後ろで戒められていると知って愕然とした。


「吉住さんっ」
謂れのない仕打ちに憤り、吉住に身体を近づけようとした途端に、鳩尾に激しい痛みが走って呻いた。

「だから言っただろう、少し強く入りすぎたと。まだ動かぬ方が良い、兵馬」
「・・・ひょう・・ま・・・?」
「どうした、兵馬。そんな不思議そうな顔をして」
総司を見る吉住の眼差しが限りなく優しい。

「やっとお前と二人になれた。安心しろ。俺は藩には役務を退く願いをすでに届けてある。もうお前とふたりでいつまでも暮らせる」
「私は兵馬という人ではない」
総司の言葉は吉住には届いていない。
それが証拠に吉住はさも愛しそうに、総司の乱れた前髪を指で掻きあげた。

「まさかお前が弟の俊介のところに隠れて居たとは迂闊だった。またも俺はお前をあいつに奪われてしまうところだった」
吉住の目に憎悪の色が湛えられた。

それを認めて総司の瞳が驚愕に見開かれた。


吉住新三郎は誰かと自分を錯覚している。
それは多分田坂の死んだ兄なのだろう。
そして吉住の意識ははすでに正気のものではない。
総司の背に一瞬戦慄にも似た冷たいものが走った。


「私は貴方の探している田坂さんの兄上ではない」
「まだお前は俺に嘘をつくのか。そんなに俺が憎いのか」
総司を見下ろす吉住の眸が哀し気に揺れた。

それは吉住の心にできた一瞬の迷いだった。
だがその隙を総司の必死が見落とさなかった。
先ほどよりはずっと自由の効くようになった身体を俊敏に起こすと、後ろで戒められている手はそのままに、吉住に身体ごとぶつかって道を開こうとした。

死にも狂いの体当たりを受けて吉住は流石に均衡を崩したが、それは僅かな時のことで、身体の大きさ強さを比べれば総司に利はなかった。

よろめく足で閉じられた襖に辿り着く前に、体勢を持ち直してすぐに追った吉住に後ろから羽交い絞めにされた。


「聞き分けの無い」
力の加減が効かない吉住の腕が総司の胸を圧迫した。
それに思わず咽(むせ)るように咳き込んだ。
それでも吉住は抱きこんだ力を緩めはしない。
咳は開放される場を求めるように、唇から間断なく零れ落ちる。
その息苦しさに、遂に膝の力が抜けて吉住の身体に背中から凭れるように倒れ込んだ。

「言う事を聞かぬからだ」
吉住は咳する事も許さぬように、更に腕に力を込めた。
「兵馬は油断ができぬ」
ともすれば気が遠くなりそうな苦しい息の下で、吉住の声が容赦なく耳に響く。

「そうだ良い事がある」
身体をかかえ込むようにして前を向かせると、まだ苦しげに喉を笛を吹くような細い音で鳴らせている総司の蒼白な顔を嬉しそうに覗き込んだ。

「俺から去ろうとするこの足など動かぬようにしてしまえば良い」
それは残忍というよりも、どこか陶酔した響が篭っていた。

総司は応えることができない。
今は息を吸うことができぬ苦しさに、失わそうになる意識を繋ぎとめておくだけが精一杯だった。

吉住の手が、総司の袴の裾から剥き出しになった左の足首に触れた。
「兵馬の足は細い。お前が長い道を疲れて歩けぬと言えば背負ったのはいつも俺だ。なのに何故俊介などにお前は心を寄せる」

ようやく咳は治まりつつあったがまだ荒い呼吸を繰り返すだけの総司に向かって、吉住が笑いかけた。
「だが今度こそそんな勝手は許さん。俺の元からお前はどこにもやらん」

吉住の手が総司の足首を握り締めた。
それは長い指を持つ大きな手のひらの内に容易に納まってしまう頼りないものだった。

「動かなくしてしまえばよいのだ」

狂っている・・・・そう思った瞬間、焼け火箸で心の臓まで貫かれたような衝撃が足首に走った。
それは呻き声ひとつも上げる間も許さず、今度こそ総司を闇に堕とした。


今の今まで自分を拒んでいた身体は、がくりと弛緩して全てを任せるように己の腕の中にある。
無理やり強い力で不自然な方向に向けられたか細い足首は、すでに無残なうっ血が始まってきている。

「痛いか兵馬。だがこうでもせねばお前はまた俊介の元に行ってしまう。堪忍しろ」
意識無い総司の額に浮いた冷たい汗を唇で拭ってやりながら、吉住新三郎は愛おしそうに頬までそれを滑らせた。








総司が戻らなかった夜が少しずつしらみ、降り続いていた雨はとっくに上がり、辺りが明るい陽に覆われ始めた。

それでも土方は組んだ腕を解こうとせず、むしろ流れ行く刻の経過に暗澹たる思いで白い障子に映える朝の陽光を睨みつけている。


「田坂先生がお見えになりました」
言葉の終わるのを待たずして立ち上がり、内から障子を開けたのは急(せ)いた気がさせた衝動だった。

「朝早くから申し訳ない」
「いえ・・」
田坂の顔色も優れない。

「呼ぶまで誰も近づけるな」
静かだが恫喝するような土方の低い声は、田坂を連れてきた若い隊士を怯えさせるに十分だった。



「沖田君が戻らないというのは本当なのですか」
人影が消えると、田坂は性急に切り出した。
「昨日は貴方のところに行く日だった。別に変わりもなく出かけたが・・」
土方の、時に冷たくすら見える端正に造作された顔に、俄かに険しい色が走った。

「それきり戻らないのですね」
問い詰めるように聞く田坂の面もまた緊張の中にあって硬い。


「田坂さん、あなたのところを総司が出たのは何刻頃か」
「いつもよりは早い時刻に帰したはずだが・・・」
田坂の応えにどこか含むものがあるのを、土方は聞き逃さなかった。
「何か心当たりがあるのか」
土方の問い掛けに、田坂は何かを思案するように沈黙を破らない。

「田坂さん」
詰め寄る土方に余裕というものは無かった。


「・・・少し調べる時を頂けないか」
「何かを知っているのか」
やっと重い沈黙を破って口にした田坂の言葉は、土方をただ焦らすだけものだった。

「今日一日・・・いや、半日でいい。昼までの猶予を頂けないか」
「それで手がかりが掴めるのか」
「・・・多分」
「もし掴めなかった時には・・・」
土方の双眸が激しく田坂を射抜いた。

「信じて頂く他ない」
それを受けた田坂の応えは後の無い際に立たされて一種悲壮感すら感じさせるものだったが、しかしその声音は断固として強かった。








どれほどの時が経ったのか、四方を闇に覆われた中では、それがまだ夜なのか朝なのかも分からない。

ただ薄ぼんやりとした行灯の灯りが、自分の居る周りだけは物の形の影を映し出している。
後ろで戒めている細い麻縄のささくれが食い込んだ両の手首は、痛みを通り越し今はただ痺れ切って何も感じない。
左の足首は心の臓の動きすら止めかねるような焼付く痛みを伴い、それだけではなく身体全部がそこからの熱に侵されたように熱い。
身体を少しでも動かせば激痛が貫く。そのたびに幾度気が遠くなりかけたことか。

折れているのだろうか・・・
それすら確認することができない。



ふいに板敷きを軋ませて、足音が遠くから聞こえて来た。
それに思わず身構えた時、静かに襖が開いた。

「兵馬・・・目が覚めたか?」
穏やかに問いかけるその声の主は吉住新三郎だろう。
それでも総司は身体の向きを変えてその姿を見ることが敵わない。


「痛むか?」
足首に触れられた時、低い呻き声が堪えられず零れた。
「可哀想に・・・こんなに酷く腫れて。熱もあるではないか・・」
額にのせられたもうひとつの手は、そのまま頬に滑り汗で張り付いた総司の乱れ髪を指で梳く。

「兵馬、許せよ。だがこうでもしなければお前はまた俺の元から逃げてしまう」
「・・・私は、・・兵馬さんでは・・ない」
時折消えゆきそうになる意識をどうにか繋ぎながら、総司の紡ぐ言葉は途中幾度も途切れた。

「まだそんな事を言うのか。お前はそれ程俺が憎いのか」
「・・・憎い・・?」
「お前が俺を憎むのは当たり前だ。俺はお前を見捨てて我が身の安泰を選んだのだ」
吉住の顔が苦しそうに歪んだ。

「お前が俺に老中暗殺を持ちかけたとき、俺はそれを拒んだ。あれほどお前を欲していながら、俺は土壇場でお前よりも自分を取った。そんな俺にお前は、あの時侮蔑の言葉ひとつかけることもせず何も言わずに背を向けた」

語る吉住を見上げている総司の瞳に、額からの汗が入り込んで滲む。
一時たりとも解放しない足首の痛みは、更にそれだけでは飽き足らず、身体に高い熱をもたらせているらしい。


苦しげに息を吐く総司の様子を見ていた吉住が、ふと後ろで縛られている手指に視線を落とした。
それは手首を戒めている紐で血が止められ、生きている者のものとは思えぬ程に白かった。


「少しきつく縛りすぎたか・・・。これでは指の先にまで血が通わぬ」
ひとり呟いて麻紐を緩めようとした吉住の目に、総司の右の中指に微かに残る傷跡が映った。

突然動きを止めた吉住を訝しいとも思ったが、自分に後ろを向けているその表情までは総司には分からない。


「・・・うっ」
縛られていた両手首が解放されたと思ったその時、右の手首を思い切り捻り上げられた。
一瞬目の前が昏くなり、一度に身体中から血が引いてゆくのが分かった。


「この傷・・・自分で噛んでつけたものだな」
まるで今ある力の全てをそこに集めたかのように、強く総司の右の手首を掴んだまま、吉住の声が震えていた。

「お前はいつも俺と睦む時自分の手指を噛んでこうやって傷を作った。だが俺はこの傷を知らない」
吉住の声が薄く幕を張ったように総司の耳に届く。

「相手は・・・」
吉住は総司の手首を外に向けて更に反らせた。
その衝撃に呻き声を零すことすらもう出来なかった。

「相手は俊介かっ」
物言わぬ総司に苛立つように、吉住の狂気の折檻が細い手首に鈍い音を立てさせた。
その刹那総司は撥ね上がる様に身体を反らせたが、すぐに力抜けたそれは、もう何を抗うことも無く夜具に崩れ落ちた。

「・・・どうしてお前は俺を許さい」
茎を折られた花の様にくの字に内側に曲がった手首をつかんだまま、その身体を抱き起こして腕に抱え、吉住は微かにも開かない瞼に唇を寄せた。

「可哀想に・・・兵馬。だがこうして足も手も動かぬようにしておかねば、お前はきっと又俊介の元に行ってしまう。お前が本当に望んだ相手は俊介でもいい。そんなことはもうどうでもいい。今はお前は俺の腕の中に戻ってきてくれた。俺はそれを二度と離さなければ良いのだから・・」

己の唇に触れた吉住のそれを、闇にいる総司は知らない。








たった半日が一体どれほど長く思えたことか。
今朝、時をくれと別れた田坂が約束どおり現れた時に、土方は漸くすでに昼をとうに過ぎていることに気付いた。


「何か分かったのか」
案内してきた者を下げて障子を隙無く閉めると、振り向きざまに田坂に問うた土方の目は獲物を狙う鷹のそれにも似て鋭かった。


「土方さん、あなたは沖田君から私の兄のことを聞いておられるか?」
「いや、何も」
「そうですか・・」
田坂の面に一瞬の躊躇いが浮かんだ。が、それはすぐに消された。

「今から私が話すことは身内の恥と思い聞き捨てて欲しい」
「もとより」
土方の応えはその先を急(せ)いて求めていた。

「私には血の繋がらぬ兄が一人居た。兄は良くできた人だったが、藩の老中暗殺の企てに加担しその失敗の後即日斬首、父も子の責を追ってその日の内に腹を切りました」
淡々と語られる言葉のひと言なりとも聞き漏らさぬように、土方は田坂を見ている。

田坂の過去についてはその大方を以前伊庭八郎から聞いてはいた。
が、こうして本人の口から語られる過去はひどく生々しく土方に迫る。


「兄が無謀な企てに走った理由は私にある」
「田坂さんに?」
それは初めて聞く事実だった。
「私は兄に想いをよせていた。それは肉親に対するものではない。そしてまた兄も同じ想いを抱いてくれていた。だが兄はそれを禁忌のものとして自分の胸に封じ込めようとした。その堪えきれなくなった想いを吐き出す先に見つけたのがあの暴挙だった。兄は最初から死ぬつもりだった」


土方はただ無言の中にいる。
思えば田坂の兄の心の迷う様は、自分の想い人の嘗(かつ)てに良く似ている。
もし総司の胸の裡を知らずして、自分が気付く前にその人間と同じような結果に行きついていたとしたら・・・

思い重ねた土方の背に慄然と震えが走った。


「自分の真実を見ないと決めた兄は、その代償のように一人の男と情を交わすようになった」
それまで何かに憑かれたように語り続けていた田坂が、初めて意思を持った眸で土方を見た。

「そういう弱い人間を、あなたは蔑まれるか」
土方を捉えた田坂の眼差しが静かに澄んでいた。

「いや。貴方の兄上に良く似た心の持ち主を俺は知っている。ただ違うのは、貴方の兄上よりもその者の方が少しだけ強かっただけだ。だが今俺はそれを、他の何を差し置いても天に感謝している」
土方の語るのが総司だとは、互いに言葉にせぬ了解だった。


「兄の情人は吉住新三郎といい、若いながらも今では藩の重職に名を連ねる身。その吉住と再会したのは先月の半ば頃だった。偶然往来で呼び止められた。吉住は京都藩邸に公務で来ていると言うことだったが、その日招いた私の家で沖田君を見たのです」
「その吉住という男が何故総司と関係があるのか」
「吉住は沖田君に視線を縫いとめたまま、暫し放心しているようでした」
「・・・もしかしたら」
土方の胸に言いようのない暗い予感が走った。

田坂が覚悟したように、ひとつ息を漏らした。

「沖田君は私の兄に良く似ています」
「だが総司は貴方の兄ではない」
言いようの無い苛立ちに、土方が語尾を荒げた。


「兄は多分吉住に老中暗殺の企てを漏らしたはずです。が、吉住はそれに加担しなかった」
「だとしたら貴方の兄上とその男との関係はそこで切れているはず」
「吉住の密告で企ての全貌は事前に知れるところとなっていたのです」
あまり表情を出さない土方の切れ長の目が、微かに見開いた。

「ではその吉住という男は貴方の兄であり自分の情人を売ったというのか」
田坂は頷くだけでそれに応えた。
「だが何故総司に固執する。ただ似ているというだけで・・・」

「吉住は本心から兄に想いを寄せていた。だが兄の心は私に向けられていた。その憎さが吉住を裏切りに走らせた。
が、兄の死によって、吉住の正気は壊れ始めた。
幾度か最近の吉住を見た時にそう感じたことを、私は確かめる為に今藩邸に行って来ました。
私の勘は紛れも無く当たっていた。今では吉住を知る誰の目から見ても、その姿が正気で無いのは知れる処となっていた。確かに・・・吉住は狂っていた。
吉住は兄を殺したのは自分のせいだと言う自虐の苦しみから逃れる為に、現から目を逸らした」
語る田坂の面が次第に苦渋に満ちて来る。

「すでに吉住は身体の不調を理由に職を辞していました。今はどこにいるか、その所在を知る者はいなかった。だが昨日偶然に雨の中で吉住らしい人間を見た者がいました。その者が言うには沖田君と良く似た背格好の若者と一緒だったと言うことでした」
田坂の顔が更に険しく歪んだ。

「吉住は沖田君を見てから、頻繁に私の元に出入りするようになった。それは沖田君と会う偶然を狙っていたのです。
沖田君を兄と混同した吉住は、今度こそ兄を手に入れようとしたのです。例えそれが他人であっても狂気の中にいる吉住には分からない。
そして昨日、吉住はその機会を得る事ができた。
沖田君は・・・多分吉住に何らかの形で拉致されているのでしょう」

土方の面が驚愕に強張った。

「・・・総司がその男の手にあると言うのか」
「相手は狂人です」
「だから何だっ」

唸るように叫んで土方が立ち上がった。


「土方さん」
「どこもかしこも探して探して、必ず見つけ出す」

田坂の前で足を止めるのすら惜しむように、土方は室と廊下を隔つ障子の前まで行くと、両の手で左右にそれを開け放った。
すでに限界を超えた土方の憤りと焦りを映すかのように、勢いのまま柱にぶつかったその桟が驚くほど強い音を立てた。







室に残されて、田坂は端座したまま身じろぎしない。
自分と居た時にどこかに手がかりを吉住は残さなかったのか・・・
その思考だけが田坂の全てを支配している。



膝の上に置いて強く握りしめた拳の上に、いつの間にか縁から延びてきた春の陽があたっている。
それすら今の田坂には見えてはいなかった。











     


          きりリクの部屋     春雷 (参)