ゆめのあと   

 

 

2002.5.30 追悼 沖田総司

 

 

 

 

先ほどからこちらを見ている視線が邪魔をする。

夜明けが来る前に仕上げなければならないものだったが、それももう諦めた。

 

 

「・・・総司」

一つ溜息をついた。

 

「そんな処にいないでこっちへ来い」

 

筆をおいて言葉を掛けても、呼ばれた主はまだそのままでいるらしい。

 

仕方無く振り向くと、室の隅の壁に沿うようにして、

総司は行儀良く座っている。

視線が合うと、申し訳なさそうに微かに笑みを浮かべた。

 

 

「もう終わった」

その言葉に困ったように首を傾(かし)げた。

 

「本当だ。もうすべて、終わった」

言いながら、促すように手を差し伸べると、

それでも暫らく躊躇うようにしていたが、漸く腰をあげて傍に来た。

 

 

そのゆっくりとした仕草に焦れるように、

土方が伸ばした手で、総司の腕を掴んだ。

強く引かれて、足を縺(もつ)れさせ、

体勢を崩したところを、胸の内に抱きこんだ。

 

 

腕の中に収まった痩せて薄い肩が、土方の胸に辛い。

この儚い背にどれほどのものを背負わせて来たのか・・・

思えば哀れさと、愛しさだけがつのる。

 

 

 

「こんな時刻まで眠りもせずに、体にこたえるだろうに・・」

 

その言葉に伏せていた顔を上げると、総司は小さく首を振った。

それが総司のいつもの嘘だと言うことはすぐに分かる。

 

 

 

自分が夜を徹して片付けねばならない雑事に追われていれば、

総司は必ずそれが終わるのを待っている。

襖を隔てた室の褥にひとり横たわり、瞼を閉じながら、

しかし眠りには落ちず、全部の神経を隣室の自分の行動に集中させている。

 

最初のうちは幾度か先に眠るように促した。

総司の胸にある宿痾は、疲労をその糧とする。

叱るようにきつく言い含めるうちに、

いつのまにか総司は返事をしなくなった。

眠っているふりをしているのだとは、容易に知れた。

 

時に危うくすら思える素直さの中に、時折驚く程頑なな顔を見せる。

それがいつも自分に由来する処から来ていることを、土方は知っている。

 

だからこそ、余計に切ない。

 

 

 

「田坂さんに叱られても知らんぞ」

 

無理をさせたと、結局あとで総司の主治医の田坂に責められるのは自分だ。

そんなうんざりとした思いが声音に表れたのだろう。

自分を見つめていた総司が嬉しそうに笑った。

 

 

「ばか、嬉しがるな」

 

苦々しげなその顔が、また総司の笑いを誘ったようで、

土方の腕の中で、背を丸けるようにして、声を立てずに笑っている。

ふいにそれが小さな咳に変わった。

 

 

「人を笑うからだ」

 

咄嗟に骨ばった背をさすってやったが、総司の咳は続く。

息ができない苦しさから、土方の腕をきつく握る手が震えた。

暫らく続いた咳がようよう治まると、総司は大きく息をついた。

 

 

「大丈夫か・・」

 

すぐには応える事ができないようで、

少しの間荒く呼吸を繰り返していたが、

それも次第に静かになり、やっと土方の顔を見上げた。

 

「大丈夫だったか?」

 

憂いの色を濃くした土方の双眸に覗き込まれて、

微かに頷いた黒曜石の深い色に似た瞳が、苦しい息の後で、潤んでいた。

 

だがすぐに総司は、視線を逸らせた。

こんな風に自分に心配を掛けさせたあとの総司の癖だ。

 

きっと総司は自分の心に憂慮の影を落させる己が許せないのだろう。

 

 

 

「・・・・何も怒ってなどいない」

 

頤(おとがい)に手を掛けて、上を向かせると、黒曜の瞳が不安に揺れた。

 

「本当に、怒ってなどいない」

 

 

 

後悔の鞭に苛まれなければならないのは、むしろ自分の方だ。

いつも傍にいてくれるだけでいい。

決して放したくはない。

たとえ病でも、自分から総司を奪うものは許す訳にはゆかなかった。

だから辛いと、苦しいと、一言も零さずに、

無理を重ねる総司に憤りすら感じた。

 

だがそれを言葉にしても、総司には届かない。

自分の為に何の躊躇いも無く、

その身体も心もすべてを総司は捨て去ろうとする。

 

自分は総司を想い、総司は自分を想っていたはずなのに、

心は互いの反対側をすれ違っていた。

 

その苛立ちを言葉にして荒げると、

総司は瞳に寂しげな色を湛えはするが、

決して己の信念を変えようとはしなかった。

 

土方さんの為に生きるのだと、それだけが願いなのだと、

いつも小さく笑うだけだった。

 

 

 

「怒ってなどいないから、もうそんな目をするな」

 

それでもまだ自分を見る総司の瞳に翳が宿る。

 

 

黙ったままの総司の唇に静かに己のそれを重ねると、

一瞬抗うように身を捩ったが、

僅かな隙から滑るように忍び込んだ土方の舌先が、

蹂躙するような激しさで口腔を奔放に犯し始めると、

頼りない体は腕の中に、崩れるように力抜けてゆく。

 

 

長い抱擁の後に、やっと開放されて漏れるのは、

荒々しくも、どこか切ない甘い吐息だ。

微かに血の色の通う朱く形の良い唇が、濡れて艶を含んでいた。

 

 

 

「抱きたい・・・総司」

 

瞳を逸らさせないように見つめると、総司は首を振った。

 

「・・どうしてだ?」

 

応(いら)えを返さず、総司はただ土方を見上ている。

こちらが切なくなるような、哀しい瞳をしていた。

 

 

 

遠くで誰かの声がしている。

 

土方は胸の内で総司にわからぬように、小さく舌打ちした。

 

 

総司が躊躇い、怯えているのは自分以外の他人だ。

自分との情事が人に知れることを、総司は極端に恐れている。

それが土方の為にならぬと、頑なに信じて総司は譲らない。

 

 

「大丈夫だ。誰も来ない」

それでも総司は土方を諌めるように黒曜の瞳で見つめる。

 

「ここにはお前と俺しかいない。・・・だから」

 

欲望を伝える言葉の全てを終わらせぬうちに、総司の指が土方の唇に触れた。

そのままそっと輪郭をなぞると、微かに笑みを浮かべた。

 

「・・・嘘つきだといいたいのか?」

囁くように不満を告げると、応えはしないが、瞳は笑っている。

 

 

前にもこんなことがあった・・・

 

 

 

 

『・・・土方さんは、嘘つきだ』

 

富士山丸に向かう舟の中で、総司は確かにそう言った。

想い人の命の限界を己の胸に刻む事ができなかった土方を、

総司はそんなささやかな言葉で咎めた。

 

 

 

「お前は俺を疑うことしかできないのか?」

 

苦笑して問う土方に、つられて総司も小さく笑った。

是とも否ともとれる瞳の色が、ただ揺れていた。

 

「いいさ。そのかわり・・・」

 

 

次にこの唇からどんな言葉が零れ落ちるのか・・・・

指を当てたまま、総司は瞬きもせずに土方を見つめている。

 

 

 

「今度こそ嘘とは言わせはしないから、そう覚悟しておけ」

 

唇に触れていた総司の指を取ると、その先を軽く噛んだ。

その突然の所作に、総司が驚いたように瞳を瞠った。

 

 

 

 

「その痛み、まだ消えぬうちに行く」

 

総司を射抜く土方の静かな眼差しは、

だが否と拒む全てを許さない激しさをも、また湛えていた。

 

 

 

噛まれた指を大切そうに掌の中に握り締め、

黙ったまま総司は身じろぎもしない。

 

深い淵に誘うような黒曜の瞳に籠められる想いが、

言葉よりも饒舌に土方の胸に伝わる。

 

 

 

「すぐに行く」

 

自分の傍らにはいつもこの瞳があった。

それが、当たり前だった。

だからもう、待っていろとは言わない。

自分はそこに叉戻る。

 

ただ、それだけだ。

 

 

 

今まで己を律するかのように沈黙の中にいた総司の唇が、

初めて何かを紡ぎだそうと微かに動いたとき、

近づいてくる足音が聞こえた。

 

瞬間土方の腕の中で体を固くしたが、

すぐに又小さな笑みを浮かべた。

 

それはこの上なく幸せそうでもあり、

ひどく哀しそうでもあった。

そのどちらが本当なのだとは、もう問わない。

 

問わずとも、すぐに分かる・・・・

 

 

 

 

足音は段々に近くなり、木の扉の前で几帳面に止まった。

 

「土方先生、新撰組、出陣の準備が整いました」

「分かった。今ゆく」

 

土方の応えを聞いて、叉足音は遠ざかってゆく。

 

 

 

それを確かめて、腕の中にいるはずの想い人に視線を戻した。

だが強く抱きしめていたはずのその人は、

微かな人肌の温もりだけを余韻に残していなかった。

 

 

「黙ってゆくな・・」

つれない仕打ちに苦笑しても、想い人は姿を見せない。

 

 

薄くなった闇に向かって、土方は語り掛ける。

 

 

 

 

「伊庭が悪いらしい」

 

室を支配する静寂(しじま)が僅かに揺れた気がした。

 

「心配しなくてもいい。あいつは俺を出し抜きたいだけさ。

が、一緒に迎えに行ってやったら、怒るだろうな」

それも面白い、

呟いて、低く笑った。

 

 

「だがこれから先もあいつが邪魔をすると思えば、

俺はあいつをこのままここに置き去りにしておきたい気がする」

 

大人気ない嫉妬だとは思う。

しかしそれを次の世にまで持ち込むのには、いささかうんざりもする。

そんな自分を、総司がどこかで笑った気がした。

 

 

「笑うな。諦めてはいるさ。あいつとは腐れ縁ってやつだろさ」

 

 

 

窓から室に差し込む明かりが、俄かにその強さを増してきた。

すでに夜明けが近いらしい。

 

 

「総司・・・、お前は俺からどこにもやらん。

これだけは、伊庭にも誰にも譲れない」

 

 

 

 

 

ひとり言葉を続ける土方に、今一度足音が聞こえた。

先ほどと同じ音の主が、再び扉の向こうで足を止めた。

 

 

「土方先生・・」

なかなか来ない土方を案じた相馬主計の声だった。

 

 

「今ゆく」

 

応えて、漸く椅子の背に掛けてあった陣羽織を洋装の上から羽織った。

 

最後の身繕いを整えると、

もう一度振り返って人の気配を探した。

 

 

呆れるほどに静かな空気だけが、そこにあった。

 

 

 

「・・・今、ゆく」

 

姿こそ見せぬが、確かにそこにいる想い人に向かって告げた。

 

「総司・・・」

 

密かな問いかけにも、応えはない。

 

 

暫らく立ち尽くして、

一瞬射しこんだ強い朝の光に眩しげに目を細めた。

 

 

「すぐにゆく」

 

 

 

 

やがてゆっくりと踵を返し、

その向こうに相馬が待っている扉にむかって、歩き始めた。

 

 

二度と、振り向かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

慶応四年が明治と改められた年の五月三十日、

沖田総司がその生涯を終えた。

 

翌明治二年同じ五月十一日、土方歳三箱館にて戦死。

一日遅れて十二日、伊庭八郎がそのあとに続いた。

 

 

 

 

同十五日、弁天岬砲台に立て籠もり

幕臣として力限りの抵抗も時の流れには打ち勝てず、

新撰組最後の隊長相馬主計は五稜郭よりも三日早く

取り巻く官軍に降伏の使者を送った。

 

・・・ここに新撰組はその幕を下ろした。

 

 

 

 

 

 

むかし、むかし

いにしえひとの見た色は

陽の紅か、空の蒼

 

ひとつ季節をくりかえし

いくつ季節をくりかえし

 

とおく彼方に見る色は

つわものどもが夢のあと

 

戯れの風にまなこ閉じ

うつつにありて思うのは

露ときえゆく玉響のゆめ

 

 

 

 

                 ゆめのあと    了

 

 

 

 

   

 

琥珀短編