総ちゃんのシアワセ 一さんのシアワセなキブン♪なの (はじめ) 「近藤さん、あんたの気持ちはありがてぇんだが、何分俺達も、たった今巡察から帰(け)ぇって来たばかりだ」 玄関の上がり框に腰を掛け、外した手甲を傍らの者に渡しながら、永倉さんは、後ろに立って熱く語りかける近藤先生を制するように、振り向きました。 「無論、そんな事は見れば分かる、だが斬り捨てと云う神さんはっ・・」 「だったらここはひとつ、説法よりも、早く凍えた体を温(ぬく)めろと、あんたも局長として、皆に懐の深い処を見せてやっちゃぁくれねぇか」 と、そんな風に説かれれば、迸りかけた勢いも、ぐうと呑みこまざるを得ません。 「まぁ、話は又後日と云う事で・・」 どうやら諦めてくれたらしい近藤先生に、決していつとは決めない約束をし、さしあたりの厄介を遠ざけた永倉さんの声に、漸く安堵が混ざりました。 ですが草鞋の紐を解こうと、再び背を向けかけたその一瞬、ふと視界の隅に映った華奢な姿を見止めた途端、永倉さんは、緩みかけた情の結び目を、慌てて締め直しました。 そうして、思います。 何を又思いついたのかまでは知らぬものの、どうせ近藤さんの魂胆は、正月も二日目を迎え、客も少なくなった退屈をもてあましての、暇つぶし。 此処までは適当にあしらえば良いものの、問題は、その後ろで成り行きを案ずるようにして佇んでいる愛弟子の方。 切なげな瞳に見詰められば、いかにも頼りなげな容姿と相俟って、道理を説くこちらが意地をしているような後味の悪さを禁じえず、ならばいっそ、無理のひとつふたつ押し通させて、西から昇る天道を見てやるかと、江戸っ子の血は疼きます。 けれどそうやって情に流され、幾度とんでもない災禍に巻き込まれて来た事か。 それでも己一人ならば、莫迦と笑われ上等と啖呵も切れようが、今は困惑の極みにいるように立ち尽くす部下達までを、巻き添えにする事は出来ません。 となれば、選ぶ道は唯ひとつ。 ――永倉さんは向けている背に、気組で、非情と二文字刻むと、黙々と、雪で湿った草鞋の紐を解き始めました。 「総司、永倉君の云う通りだよ。寒い中をお役から帰ったばかりの者達には、わし達の話よりも、きっと火鉢の方が喜ばれるのだろう。わし達の話は、その後でも十分だろう?」 そんな永倉さんの心の機微を知ってか知らずか、近藤先生は後ろを向くと、背中に隠れるようにしている総ちゃんに、静かな口調で言い含めたました。 そして総ちゃんは、その近藤先生を見上げ小さく頷きましたが、それでも名残惜しそうに、憂いに満ちた深い色の瞳を、永倉さんに向けました。 「では総司、次の斉藤君の処へ行こうか」 同じように未練がましく見ていた近藤先生でしたが、頑なに振り向かない背にひとつ息をつくと、やがて総ちゃんに視線を戻し、慈しむかのような笑みを浮かべたのでした。 「・・あの・・」 その、大小でこぼこのふたつの影が見えなくなると、まだ紐が解けず屈んだままの永倉さんに、島田さんが遠慮がちに声をかけました。 「良いのでしょうか、仮にも局長のお話を・・」 ちらちらと、ふたりの消えた先へと視線を送りながら、大きな体を縮めて問う口調には、近藤さんと、そして最後まで寂しげな瞳で見詰めていた総ちゃんへの、憐憫がありました。 「放っておきな。あの人の話ってぇのは、暮れに伊東から聞いた、異国の、何とかってぇ神さん・・ああ、斬り捨てとか云っていたっけな。そいつの話に、いたく感動した受け売りだ。大方、土方さんに置いてきぼりを食らった、その暇つぶしだろうよ」 「しかし沖田さんは、何か大切そうに箱を抱えていましたが・・」 「箱?」 「はい、こう、大きさはこの位の・・・」 と、島田さんは、訝しげに顔を上げた永倉さんに、身振り手振りで箱の大きさを示しました。 それには永倉さんも、はて?とばかりに腕を組み、少々考えていましたが、ふと思いついたように 「そういや・・」 と、低く呟きました。 「そういえば?」 今度は返るいらえを待つ島田さんが、ごくりと唾を呑み込みました。 「近藤さんがすっかり傾倒しちまった、その斬り捨てとか云う異国の神さんだが、弟子の中に、貧しい者に小判を配った奴がいたらしい。何でも猪に大八車を引かせて、その名を、確か三太と・・・」 「小判っ」 「しっ、声がでけえっ」 愕きのあまり思わず声が上ずってしまった島田さんを、永倉さんが、辺りを憚るように見回し、諌めました。 「ではあの箱の中は、小判だったのでしょうか?」 島田さんも、慌てて大きな手で口を押さえはしたものの、興奮の余韻を抑え切れません。 「・・・かも、しれねぇ」 ならば、早々に追い返してしまったのは、ちと早まったかと、顎に手を当てた永倉さんの顔が忌々しげに歪みました。 「・・次は斉藤の処へ行くとか云っていたな、あの二人・・」 ぽつりと漏れた呟きに、島田さんが、そうですそうです、とばかりに大きく頷きました。 「なら斉藤の処で何を仕出かすかを見て、混ざるのはそれからでも遅くはねぇだろう。云たかねぇが、何しろあのふたりのやる事だ。先を見据えてからじゃねぇと、とんだとばっちりに巻き込まれちまうからな」 小判は欲しい、けれど厄介事は御免と、角が立たぬよう智慧だけを働かせ、そっと声を潜めての物言いに、島田さんも油断のならぬ面持ちで頷きました。 と、こちらは、その永倉さんから、あまり有難くも無いお墨付きを貰った、近藤先生と総ちゃん――。 道場へ続く道すがらは、何処もかしこもすっぽりと白一色に覆われ、重みに耐え切れなくなった枝が、時折、意地をするかのようにばさりと雪を落とし、二人の行く手を邪魔します。 その何度目かに、其れを避けようとした総ちゃんの身が、足場の悪さも手伝って、大きく前に傾ぎました。 「総司っ」 咄嗟に伸ばした近藤先生の腕に支えられ、どうにか転ぶ事は免れたものの、けれどその衝動で、大切に抱えていた文箱が、総ちゃんの手からするりと離れてしまったのです。 「あっ」 細い悲鳴が上がった時には、既に文箱は、角のひとつを突っ込むようにして、雪の中に落ちていました。 その寸座、深い色の瞳は驚愕に見開かれ、面輪からは色が引き、慄きで足がもつれるのか、総ちゃんはよろめくようにして、文箱へ駆け寄りました。 そして黒漆に、これでもかこれでもかと金の蒔絵を施した蓋を、震える指で開け、中に納められていた、短冊に似た細さの紙の束が無事である事を確かめると、まるで体中の力が抜け去ってしまったかのように、冷たい地にぺたりと座り込んでしまったのでした。 「総司っ・・」 「・・・あのね、大丈夫だったのです」 薄っぺらな肩を抱きしめるようにし、そっと後ろから覗き込んだ近藤先生に、総ちゃんは、瞳を潤ませながら小さく笑いかけました。 「そうかい、そうかい。これもきっと、斬り捨て様のご加護だろう。ならば其れに報いる為に、わしらも一人でも多くの者の心を救わねばならん。それが功徳と云うものだ。さぁ、行こう」 立ち上がった総ちゃんの袴に付いたむつの花を、大きな手で二度三度叩(はた)いて取ってやると、近藤先生は、竹刀を合わせる音の烈しさが、新撰組の勢いを象徴しているかのような道場へ、毅然と目を向けました。 ――さてさて、この近藤先生と、総ちゃん。 何故ふたりして、永倉さんや島田さんを悩ませる、奇怪な行動へ出たかと云えば。 その、そもそもの原因は、昨年も暮れ、伊東さんから聞いた異国の神様、斬り捨てさまに端を発していたのです。 師走の二十五日にお生まれになった、斬り捨てさま。 一生を恵まれない人々の為に捧げ、最後は自ら磔獄門になったと聞いた時、その精神の強さ潔さに、近藤先生は、己の目頭を熱くするものを禁じ得ませんでした。 そして近藤先生の横にちんまりと座り話を聞いていた総ちゃんも又、白い頬に、はらはらと零れ落ちるものを、骨ばった指先でそっと拭ったのでした。 そう云う訳で、一時は確かに、師弟を感動の坩堝に巻き込んだ、斬り捨てさんには違いなかったのですが・・・ ところが、その翌日ともなれば。 大雑把な気質の近藤先生は、いつものように、昨日の出来事などころりと忘れ、総ちゃんは総ちゃんで、大坂出張から戻ってきた土方さんに、毎度の如く身も心も奪われ、ふたりとも斬り捨てさまの事は、すっかり何処かに消え去ってしまったのでした。 其れがどうして今頃になって、又振り出しに戻ったのかと云えば――。 それには、全て土方さんが絡んでいたのです。 正月に、堅苦しい、形ばかりの年始回りに忙殺されるのは、世間さまをつつがなく渡り歩いて行く為がゆえの、そこは譲れぬお約束。 そんな訳で正月二日目の今日、まだ日も昇らぬ内から起き出した近藤先生が、昨日回り切れなかった処を、ひぃふぅみぃと指折り確認していると、突然、がらりと無遠慮に襖が開いたのでした。 驚いてそちらに目をやれば、其処には、五つ紋を染め抜いた羽織袴姿の土方さんが、近藤先生を見下ろすようにして立っていたのです。 そして一言。 「あんたは、いい」 ぴしゃりと云い切るや、ここに居る、今この時すら勿体無いと云わんばかりの素早さで、背を向けてしまったのです。 更に止めをさすように、いつの間にか控えていた山崎さんが、大股で去って行く土方さんの後姿を呆然と見ている近藤先生に向かい、 「・・そう云う事ですので」 と、恐縮そうに頭を下げると、静かに襖を閉めたのでした。 これだけを聞けば、あまりと云えばあまりと、誰もが思う土方さんの仕打ち。 けれど土方さんにも土方さんなりの、事情があったのです。 と云うのも・・・。 元旦の昨日、近藤先生とふたりして黒谷へ挨拶に上がった・・・、と、其処までは良かったのです。 ところが近藤先生は、会津藩のお歴々方とは勿論の事、茶を運んで来た者にも、はたまた廊下で擦れ違った見ず知らずの者まで捕まえ、今の世情から、果てはお気に入りの馬頭饅頭の旨さまで、とうとうと語り出し、結局予定していた半分も回る事が出来ず、初日を終えてしまったのでした。 そしてそんな近藤先生の傍らで、終始苛々しっぱなしだったのが、土方さんだったのです。 土方さんにしてみれば、一刻も早く屯所に戻り総ちゃんをこの腕に抱きたいと、焦れる心を漸く堪えているにも関わらず、近藤先生とくれば、話を終わりにしかけては、『おお、そう云えば・・』と、又一から蒸し返す始末。 その間、土方さんの苛々は募りに募り、やがて親友のお喋りは、遂には己の恋慕を邪魔する、猛烈な憤怒の対象にまで至ってしまったのです。 そう云う訳で、半日で済む年始回りも、近藤先生と行けば、全部が終わる頃には桜が咲きかねないと踏んだ土方さんは、昨夜愛しい総ちゃんと枕を共にしながら、自分ひとりで、全ての年始回りを今日一日で終える段取りを組んだのでした。 それが、先程の非情な一言に繋がったと云う訳なのです。 そんなこんなで。 土方さんに置いてきぼりを食らった近藤先生が、手持ちぶたさに屯所の中をうろついていた時、幸か不幸か、少しばかり開いた障子の隙から、抱えた膝に顔を埋め萎れている総ちゃんの姿を見つけてしまったのです。 土方さんのいない寂しさに意気消沈している総ちゃんこそ、お喋りに嵩じたくてうずうずしている近藤先生にとっては、飛んで火にいる夏の虫。いえ、口の大きい賽銭箱に投げ込まれた小判も一緒。 『どうしたのだい?』と、優しい言葉と共に、いそいそと部屋に入り込んだ近藤先生は、驚いて瞳を瞠った総ちゃんの前に、ゆっくりと、据える腰を下ろしたのでした。 そうして、近藤先生と総ちゃんの、ちょっとちぐはぐな会話が始まったのですが・・・ ところが問題は、其処からだったのです。 何がどう転んで其方に話が進んで行ったのか、もうどちらに聞いても、今となっては首を傾げるばかりでしょうが、取り合えずいつの間にか話は、暮れに伊東さんから聞いて涙した、あの斬り捨てさんに及んでいたのです。 大体が、この師にしてこの弟子ありと、折に触れ、試衛館時代からを知っている者達に思わせるふたり。 この時もその例外では無く、すっかり頭の中から弾き出してしまっていた事などきれいに忘れ、斬り捨てさんの慈愛の深さに、語る近藤先生も、聞く総ちゃんも涙を流しながら、再び感動の坩堝へと、真っ逆さまに落ちてしまったのです。 そして、感極まった近藤先生が辿り着いた先が――。 京の治安を護る為、緊張の中で殺伐とした日々を送る隊士達の心を癒す事こそが、新撰組局長として己に課せられた使命と云う、とんでもなく飛躍した勘違いだったのです。 そしてその近藤先生の熱い信念を聞く総ちゃんも又、師の懐の深さと志の高潔さに、深い色の瞳をみるみる潤ませたのでした。 と、まぁ。 ふたりのこの奇怪な行動の裏には、そんな経緯があった訳なのですが・・・ 「おっと・・」 「近藤先生っ」 今度は近藤先生が足を滑らせたのを、慌てて総ちゃんが支えようとしましたが、何とか体勢は持ち直され、華奢な身が、その下敷きになる事だけは免れました。 「大丈夫だよ」 心配げに見上げる瞳に、近藤先生は柔らかく笑いかけると、愛弟子の肩を抱くようにし、雪の中へ、新たな一歩を踏み出しました。 ですが――。 母屋と道場は、ひょいと一跨ぎの距離。 それをどうして、まるで巡礼中の孤高な仏師とその弟子のように、あれ程大仰に歩かねばならないのか・・・ 「・・正月早々、何が哀しいのか分からねぇが、色々と、のめり込み易い奴等だからなぁ」 建物の影に隠れ、ふたりの様子を伺っていた永倉さんが小さく呟くと、その後ろで、息を潜めて覗いていた島田さんも、確かに確かにとばかりに、大きく頷きました。 そうして、その、ひょいと一跨ぎの道場では・・・ 斉藤さん率いる三番隊の面々が、如何にも新撰組の精鋭隊らしく、荒々しい掛け声を響かせていました。 ところが其処に忽然と現れた近藤先生と総ちゃんに、先程までの勢いは何処へやら、皆一様に動きを止め、注ぐ視線には困惑と動揺を隠し切れません。 しかし其れは、これから我が身に降りかかる火の粉を、最小限に止めようとする、人としての本能と云っても過言ではありませんでした。 「いやいや、ご苦労である」 そんな皆の胸の裡など露知らず、近藤先生は下駄を脱ぐと、上機嫌で冷たい板敷きを踏みしめました。 そしてその後ろから、先程の黒漆の箱を大事そうに抱えた総ちゃが、足早に続きました。 ですが・・・ 「次が控えているので、話なら手短に願いたい」 なるべくふたりと視線を合わせないよう、目を泳がせている隊士達の間を縫うようにし、容赦の無い台詞で迎えてくれたのは、あまり愛想の良いとは云えないけれど、引き締まった面差しの、この隊の長である、斉藤さんでした。 「あ、一さんっ」 ところが総ちゃんは、そのあからさまな迷惑顔に向かって、それはそれは嬉しそうな笑みを浮かべたのでした。 そしてそれをちらりと見た斉藤さんの横顔に、一瞬苦い色が走ったのを、明り取りの窓から覗いている、永倉さんと島田さんは見逃しませんでした。 「・・あいつも、ああ見えて、結構に人の良い処があるからな。上手く交わせりゃいいが・・」 ぽつりと漏れた声には、既に斉藤一と云う若者の行く末を垣間見、其れを哀れむような響きがありました。 そしてその後ろで島田さんは、そう云えば斉藤さんは、普段あまり表情と云うものを面に出さないながらも、総ちゃんといる時は、何処と無く落ち着かない風情に見える気がして、それは何故かと、己の人生に突如立ちはだかった難問に、太い首を傾げました。 「お前まで、何をしに来た」 「まぁまぁ、そう先を急いでは行けないよ、斎藤君」 その斎藤さんの、少々苛立たしげな声をやんわり受け止めて、近藤先生は厳つい顔に穏やかな笑みを浮かべました。 「あのね、近藤先生のお話を、みなに聞いて欲しいのです」 その近藤先生のあとを受け、頬を紅潮させ見上げて語る総ちゃんの深い色の瞳に捉えられるや、一さんの顔が、再び渋く歪みました。 「・・お前の隊の奴等はどうした」 「誰もいないのです」 別にそれが不思議でも無さそうに、笑みを湛えたまま即座に返ったいらえに、一さんは、逃げられたかと、お腹の中で舌打しました。 「逃げやがった・・」 そして窓の外から覗いている永倉さんも又同じように、機敏に危機感さとった一番隊の者達の動きを、目線だけで後の島田さんに訴えると、島田さんも、それはそうでしょうとばかりに、難しい顔で頷きました。 ――人間、幾度か同じ厄介に巻き込まれれば、始めの一声を掛けられたその瞬間、そう云う具合に物事が展開して行くだろうと察しをつけるのは、余程の鈍感で無い限り自然のことわり。 となれば、其れを避けるべく行動に移すのを、一体誰が責められるでしょう。 そう云う意味では、一番隊の面々は、精鋭と云われるだけあり、元々が勘の研ぎ澄まされた者達ですから、我が身に降りかかる厄介を事前に回避しようとする本能も、素晴らしく長けているのかもしれません。 「尤もその位の神経でなきゃ、あいつの下じゃやっていけねぇが・・」 視線を道場の中の総ちゃんに戻し呟いた永倉さんの声には、巻き込まれるも避けるも、全ては自己責任と云わんばかりの、重い響きがありました。 で、その道場では。 そんな周りの人間の心中を知らずして、近藤先生は、喉の調子を確かめると、 「諸君っ」 厚い胸板を突き出すようにし、鬼人の如き大音声を轟かせたのでした。 「かつて異国に、斬り捨てさんと云う、それはそれはごりっぱな神さんがいたっ。その神さんは、右の頬を殴られたら、左の頬を差し出してやれと云う、大層剛毅な気性をお持ちであったっ。しかもだっ、その弟子の中には、恵まれない者達に、小判を撒いて歩いたと云う者もいたそうだっ。わしもそのような、世の人々に感謝される弟子を育て上げ、尚且つ、諸君の心の父となりっ・・・」 「局長」 目のやり場を無くし、困惑げに下を向いている隊士さん達を前に、拳をかざし、顔を赤くして振るう熱弁を、突然遮った抑揚の無い声に、近藤先生は呆けた顔のまま其方を向きました。 「道場を使う、次が来たようなので、ご高説はこの辺で・・」 「・・次?」 「あそこに」 不思議そうな近藤先生に、一さんは目だけで明り取りの窓を指し示しました。 そしてその外で、しまったと舌打ちした時には既に遅く、永倉さんは正面から、一さんと近藤先生、そして総ちゃんの三つの視線に、雁字搦めに捉えられていたのでした。 「あっ、永倉さんっ」 総ちゃんの心底嬉しそうな声を耳にしながら、知らぬ振りしてこの場を去るのは隊規に触れるのかと、ちらりと傍らを仰ぎ見た永倉さんでしたが、その視線を受けた島田さんは、例えこの先どのような厄介に巻き込まれようと、此処で後ろを見せたのならば武士の一分がすたるとばかりに、苦しげな面持ちで頷きました。 けれど島田さんは、闇に閉ざされた道に、唯一の光を求めるかのように、自分の視線をちょっとだけ動かし、永倉さんの其れを、ある一点へと導きました。 ――そして、其処にあったのは。 こちらに向かって佇んでいる薄っぺらな身と、そしてその両の手が大事そうに抱えている、黒漆に豪華な蒔絵を施した文箱。 「・・・確かに、厄介と承知しても尚、其処で目を瞑らぬ事こそ、武士の一分」 己が欲を都合良く武士道に被せ、永倉さんは重々しく呟くと、仕方なしの一歩を踏み出したのでした。 |