呉服屋宗ちゃんのシアワセ

へのへのもへじでシアワセ、なの♪ いち!



 ぴたりと胸に寄り添う女の、丸く柔らかな腰に手を回し、
「寒くはあらへんか?」
 男はそっと囁いた。女は上目づかいで男を見ると、はにかむように微笑み小さく首を振った。ああ幸せだと、男は思った。そのついでに川へ目を遣ると、吹き曝しの川原に座り込んでいる人影が三つ。物好きなと、男はせせら笑いを浮かべた。だがそれも束の間、人影を見ていた男の目が、突然大きく剥かれた。そして、
「…ぼっちゃん」
惚けたような声が、半開きの口から洩れた。
 訝しく思った女が顔を上げたが、男の目は川原に釘付けになっている。
「どないしはったん?」
 不満げに袖を引くと、男は茫然と女を見たが、
「えらいこっちゃ…」
 と呟くなり、一目散に駈け出した。
「新助はんっ!」
 叫び声にも振り向かず、人混みを蹴散らすように走り去る男の姿が、女の視界の中でみるみる小さくなる。
「新助はんっ」
 もう一度呼んだ時には、男の姿は影すら消えていた。
「…なんやの」
 紅を塗った唇が、憮然と尖った。





「で、お前の、神頼みをしようにも、恥ずかしくて中味が云えない頼みごとって云うのは、一体何だえ?」
 三丁目の道場の若さま八郎さんは、ぽっぽと顔を火照らせている呉服屋の息子宗ちゃんの、伏せた横顔を覗き込みました。
「何が恥ずかしいのか分からないが、中身を云わずに手を合わせられても、神さまだって困るだろう。第一、正月の今はどこの寺社仏閣もかきいれ時。どこぞの誰がこう云う願い事をしたと書き留めておかなければ、神仏とて忘れてしまう忙しさだ。その場で以心伝心なんて慈善事業、してはくれないよ?」
 宗ちゃんを挟んで反対側に座っている、一丁目のお医者さんの若先生も、声を柔らかくし訊きだそうとします。それでも宗ちゃんは顔を上げず、ますます項垂れるばかり。
「困ったねぇ」
 口で云うほど困った風でもなさそうに、八郎さんは腕を組みました。
「それにしても、こんな吹きっ曝しの川原で相談事と云うのは身体に悪い。その辺りの茶屋にでも入って暖まりながら、ゆっくり宗次郎の話を聞こうじゃないか?」
 と、若先生が云うと、
「ああ、それがいい、そうしようぜ」
 即座に応じたのは、八郎さんでした。
 若先生は宗ちゃんだけを誘ったので、何で貴様がと露骨に嫌な顔をしましたが、八郎さんは歯牙にもかけず、早々と立ち上がりかけました。
ところがその時。それまで一言も語ろうとはしなかった宗ちゃんが、
「…いいのです…」
 俯いたまま、消え入るように呟いたのです。
「おいおいそれはないだろう、ここまでお前の悩みを聞かされておいて、後は勝手にやんなと突き放せる程、俺は腐った男じゃないぜ」
 しつこく聞き出そうとしているのは自分で、その上、未だ何も聞き出せていないと云う首尾の悪さは際棚に上げ、八郎さんは小気味良く啖呵を切りました。
「…でも」
「でもも鱧(はも)もねぇ、心のつっかえを吐き出してみな。でなきゃお前の正月は、何時まで経ってもやって来ないぜ」
 強い口調で迫られても、宗ちゃんは抱え込んだ膝の上に額を乗せ、身じろぎしません。
「どんな恥ずかしい事でも笑わないから云ってみな。そうだ、この人を見ろ」
 と、八郎さんは、田坂さんに顎をしゃくりました。
「この人は、世の中の大概の恥ずかしい事をしてのけているが、こんなにのうのうとでかい面(つら)をしている。自覚って奴が無いのさ。それを思えば、恥ずかしいと云う気持を持ち悩むお前は立派だ」
 八郎さんは諭すように、ゆっくりと語りました。すると田坂さんも、
「俺はかいた恥は拾う人間だが、この人は…」
 と、八郎さんをちらりと見、
「恥を掻き捨て放っしで、ここまで生きてきた人間だ。その事を思えば、恥を掻く前に悩む宗次郎はずっと救いようがあるよ」
 と、売られた喧嘩にきっちりと熨斗をつけてお返ししました。
 それに八郎さんが、
「あんたのは、拾わなけりゃなら無いチャチな恥だろ?俺のは捨てても人様に後ろ指さされない、立派な恥だ」
 と頬を歪めると、
「へぇ、旗本ってのは、恥にまで見栄を張らなきゃならないのか?疲れる商売だな」
 若先生も、あからさまな嘲笑を浮かべました。
 そうして、剣呑な空気がどれ程流れた事でしょう。一発触発の中、睨みあっていた二人が、再び口火を切ろうとしたその時。ダンマリを決め込んでいた宗ちゃんが、
「…あの…、痛いのが…」
 儚げな声で、不意に呟いたのです。それを聞いた途端、俄然目を輝かせたのは、若先生でした。
「どこか痛い処があるのかい?それならウチに行こう。すぐに治してあげるよ」
 ここぞとばかりに、身を乗り出しました。けれど宗ちゃんは、抱え込んだ膝に額を乗せ顔を伏せたまま、ふるふると頭を振りました。
「今は、痛くないのです…」
 八郎さんと若先生は、互いを牽制しながらも、訝しげに顔を見合わせました。そしてついでに、自分の方がやはり男前だと自覚すると、もう一度宗ちゃんを覗き込みました。けれどその一瞬。二人の視線が、折れそうに細い首筋の一点に、吸い付くように止まったのです。
 襟の隙から見え隠れする、雪のように白く滑らかな膚。そしてその穢れ無き雪の白を無遠慮に踏み荒らしたような、青紫の痣。
 八郎さんと若先生は、忌々しげに顔を顰めました。
 そう、これこそが二人にとっては昨年からの大問題、諸悪の根源。岡惚れした薬売りから薬を買う為に、宗ちゃんがわざわざ作った竹刀の痕だったのです。


――そもそも。
 憎い恋敵である色男な薬売に、八郎さんが道場への出入りを許したのは、色がらみでひと悶着起こしていた女と上手く話をつけてくれたら、稽古の後、門弟相手に薬を売って良いとの交換条件だったのです。薬屋さんは二日もかけず、見事な手練で悶着を収めると、約束通り道場に出入りするようになりました。そして事は、そこで万事目出度しで終わる筈でした。…ところが。世の中には皮肉がごろごろ。八郎さんの意中の人宗ちゃんが、よりによってその薬屋に恋をしてしまったのです。八郎さんは何とかして薬屋を道場から追い出そうと試みているのですが、薬屋目当てに入門した宗ちゃんは、愛しい人と一言でも言葉を交わしたいが一心で毎日痣を作り、薬屋から薬を買う始末。
 その軌道を逸した恋心も、最近では根性を超えて執念と云うに相応しく、熱が出ても、お供の島田さんに背負われて道場に現れ、か細い身を削るように打たれてはよれよれになって薬を買い、半ば気を失ったまま、又島田さんに背負われて帰ると云う有様。
 無論、宗ちゃんの父である近藤屋の主も、何度道場通いを止めさせようとしたことでしょう。何しろ、真綿にくるむように溺愛し、花よ蝶よと大切に大切に育てた一人息子なのです。けれど道場通いをきつく叱ってやめさせようとすれば、宗ちゃんは、『おとっつぁま、お願いです』と、瞳を潤ませ、白い頬にほろほろと、零す泪も止まらぬ始末。そうなれば父親とは弱いもの。今では仕方なし、嬉々として道場へ出かける愛息の後姿を、柱の陰からそっと見守っては泪しているのでした。



 とまぁ、人様の恋の行方、お家の事情はともかく。
 打たれ打たれてシアワセな創の痛みに、うっとりたゆたうた宗ちゃん。
 そんな姿を苦々しく見守っている八郎さん。
 創の手当てと称して、近藤屋への往診を率先して引き受け、宗ちゃんと二人になる機会が増えたので、美味しいけれどその元を糺せば複雑な若先生。
 と、三者三様な昨年が駆け足で行き、お気楽にやって来た新年元旦。

 今年こそは目障り極まりない薬屋を追い出す算段を考えながら、八郎さんは宗ちゃんに会いに近藤屋へ足を急がせていました。そして目的の近藤屋まではあと少し、鴨川に架かる四条の橋を渡ろうとした寸座、ふと川下に目を遣ると、荒涼と寒々しい川原に、意中の人宗ちゃんが、ぽつねんと膝を抱え座り込んでいるではありませんか。しかも川を見詰める横顔は、何やらひどく思いつめている様子。八郎さんは早々の福にほくそ笑むと、大急ぎで土手を滑り下りました。
 ところが。
同じ時、同じように宗ちゃんを見つけたのが、一丁目の若先生。互いの姿に気づき、おもむろに顔を顰めたものの、薄っぺらな背に、我先にかけた声は、
「宗次郎」
 殺風景な川原に、見事な和音となって響いたのでした。



――そんなこんなで。話はに元に戻り。

「宗次郎、お前もしかして、わざと打たれるのに嫌気が差したんじゃないのかえ?」
 八郎さんはさり気なく、宗ちゃんの肩に手を回しました。
「確かに、あれは良くないな。百害あって一利なしだ」
 若先生も負けじと、宗ちゃんの背に手を当てました。
「毎日青痣をこしらえて、辛くない訳が無い。あの胡散臭い薬のどこが良いのか分からないが、人の辛抱には堪え際ってもんがある。その一線を越えりゃ、身体が悲鳴を上げる。そうなりゃ痛いばかりで、それまでの愛しさも憎らしさに変わる。人の心ってのはそんなもんだ。薬屋だって、何だってお前に憎まれなきゃならないんだと、今度はお前に憎らしさを募らせる。それが、色恋の修羅場って奴だ。本当にお前が薬屋に惚れているのなら、好きなままで別れる方が幸せと云うものだえ」
 八郎さんは語尾を柔らかくし、自分の都合良く人の心情を語ると、伏せている面輪を覗き込みました。
「云う人間が人間だけに、伊庭君の云う事はともかくとして、あの薬屋が君を幸せにする事は出来ない。それは間違い無い。大体、ああ云う男は、とことん貢がせた挙句、用が無くなれば容赦なく相手を捨てる手合いだ。今までにどれ程女を泣かせて来たか…。あの眼つきの悪さを見れば分かるだろう?」
 その眼つきの悪さに一目惚れしたのだとは知らず、若先生は、懇々と男の見極め方を宗ちゃんに説きました。そこに八郎さんが、
「まぁこの人の…」
 と、無理やり割って入ると、
「人を見る目は眉唾としても、あの薬屋に、お前を養って行ける甲斐性の無い事は確かだ。若いときの苦労は買ってでもしろと云うが、あれは嘘だ。辛い哀しいばかりの苦労なんざ、売ってでもしないに越したことは無い」
 さも尤もらしく頷き、ついでに、
「幸い心形刀流は、全国津々浦々に道場を展開している、大鎖型道場だ。俺が流派を継いだ暁には、各地の道場から上納金を取り、更に経営基盤を安定させ、一々指南に出向かなくとも遊んで暮らせるようにする。お前には苦労のくの字もさせやしないよ」
 宗ちゃんの肩をぐっと抱き寄せ、眸を細めました。すると若先生も、
「同じ鋼でも、これからは鉄砲の時代だよ、宗次郎。奢れるものは久しからず、盛者必衰のことわりってね、やっとうで食べて行けるのも、さてあとどのくらいか…。そこへ行くと医者はどの時代も、何処へ行っても需要が尽きない。人生の安泰を掌中にするなら、これ程確実な相手はいないよ」
 と、宗ちゃんの背から腰へ手を回し、柔らかく囁いたのでした。ところがその手から奪い取るように、八郎さんは宗ちゃんの肩を胸に抱え込むと、
「忙しいだけの貧乏医者も、胡散臭い薬屋も、苦労するのは同じだぜ、宗次郎」
 白い頬に唇を押し付けんばかりにして、そっと囁きました。そうなれば若先生も負けてはいません。回していた手に力を込め、宗ちゃんの腰をぐいっと引き寄せると、
「鎖型の道場展開も、時代に乗り遅れると上納金どころじゃないぜ。あんたも一文無しになる前に、京から逃げ出す算段を考えておくことだな。あちこちに遊びのツケが溜まっていると、ずいぶんな評判だぜ?」
「ふん、他人の事を云えるのかえ?」
 八郎さんはツンと顎を上げ、上から田坂さんを見下ろしました。
「一丁目の若先生は、実は本命がいて他は皆遊びだと、祇園辺りで吹いて回ったら、さぞ見ものだろな。騙されたと知ると、女は怖いからねぇ。そういや、昨日の大晦日もお盛んだったようじゃないか?噂が聞こえてきたよ」
「へぇ、早耳だね。そういや昨晩は、あんたの放蕩ぶりもずいぶん聞こえて来たぜ」
 涼しげな目元を細め、若先生は、八郎さんににこやかな笑い顔を向けました。そして、
「先のない人間の話を聞いていても仕方が無い。宗次郎、ウチへ行こう。痛いところがあるのなら早く診ないと…」
 若先生は、宗ちゃんを強引に立ち上がらせようとしました。
「おいおい、気の早い奴だな、宗次郎はまだ痛くは無いって云ったんだぜ」
 八郎さんは宗ちゃんの肩に回した手に力を籠め、浮きかけた身体を押して又座らせました。
「早期治療が医の基本だ」
「邪な思惑が基本、か?あんたの手にかかっちゃ、治るもんも治らないな、ヤブ」
「邪悪な心が形になるなら、どっかの流派の刀は錆びきって、鞘から抜くのも一苦労だな」
 宗ちゃんの頭の上で、間髪をおかず、皮肉と嫌味が飛び交います。しかも両方から雁字搦めに捕らわれている薄っぺらな身体は、互いの手で、浮いたかと思えば沈み、沈んだかと思えば浮き、忙しいことこの上ありません。その内、頭がくらくらして来た宗ちゃんの上体が、前につんのめりそうになった時…。
「ぼっちゃんっっ」
 遠く後方から、聞き慣れた声が…。
 八郎さんも若先生も振り向いたらしく、一瞬、声がやみ、手の動きも止まりました。

「ぼっちゃんっ、ぼっちゃんっ」
 宗ちゃんも、二人の腕の隙からようよう身体を後ろを見ると、血相を変えた島田さんが、手代の新助を引き連れ、怒涛の勢いで走って来るところでした。
「しまだ、ここだよ」
 宗ちゃんは、八郎さんと若先生の手の間から、何とか手首を出し、小さく手招きをしました。




へのへのもへじ(にっ!)


花咲く乱れ箱