250000御礼    reiさまへ



              春、夢たゆたうて覚めてまた、春
         


              

「要するに」
 手桶の水で手を洗いながら、田坂は口を開いた。
「物には限度があると云う、ごく簡単な道理も分からない人間に振り回された挙句、短期間で知識を詰め込もうとしたあまり、それ以外のものを、頭も心も受け付けなくなっていると云う状態だな」
「可哀想になぁ、総司。江戸へ帰るか?」
 診立てを聞いた八郎が、ぶつぶつと独り呟いている白い頬を撫でた。
「道理の分からない人間で悪かったな、触るなっ」
 土方は口で田坂に毒づき、目で八郎を刺した。総司に視線を戻せば、綺麗な眉を悩ましげに寄せ、相変らず伊東甲太郎の講釈を繰り返している。土方は憮然と腕を組んだ。
 

――そもそも、事は昨年の暮れに遡る。
 参謀の伊東が近藤に、奈良の興福寺に知り合いの高僧がいるから是非会わせたいと持ちかけたのが発端だった。
 これから更に勢いを増す新撰組には、力だけではなく品格も必要だ、その為にはまず局長の近藤がこの国の歴史を知らなくてはならないと、伊東は熱心に誘った。そして近藤もその気になった。土方としてはは面白く無かったが、強硬に反対する理由も見つからない。そこで土方は、総司も一緒にと云う条件をつけて受諾した。その意図は、奈良への道中、何とか近藤を懐柔し、己の意のままに動かしたいと渇望している伊東の魂胆を、総司を同道させる事で阻む事に有った。総司が傍らにいれば、当人にその気は無くとも、伊東は土方の影を嗅ぎ警戒する。それに近藤も気の置けない相手が欲しいだろう。そう云う意味では、総司ほど適役はいない。案の定、近藤は喜色を浮かべてこの案に乗った。しかし折角の目論見を邪魔された伊東の恨みは、土方を越えて総司にぶつけられた。
 同道が決まったその日から、伊東は総司に、興福寺の歴史と文化についての講義を始めた。表向きは、歴史も威厳もある寺に粗相があってはならないとの云い分だった。が、それでは近藤にも同じようになされるべきを、伊東は、新撰組の玉にある者は黙って堂々としているだけで良いと一蹴した。
 講義は、日を追って熱くなっていった。非番の日などは、早朝から始まり、一杯の茶ですら喉を潤せず夜を迎える事も珍しく無かった。見るに見かね止めてやれと、土方に訴える者もいた。しかし土方は、伊東に拮抗するように総司を励ました。そして総司も泣き言ひとつ云わず、伊東の講義を受けていた。
 そうして三十日、大晦日も無く講義は続いた。だが新しい年を迎えた今日、正確には、遠くに聞こえていた百八つの鐘の音も暮夜のしじまに融(と)けた頃合い、突然、異変は起こった。
 
 重ねた人肌の温もりだけが頼りの闇の中。情事の名残と云うにはまだ熱い火照りを、さてどう鎮めようか思案の中にいた時、ふと聞こえて来た声に、土方は身を起こした。
 高みに達した刹那、気を逸した想い人はまだ夢路にいる。そこで紡いでいる睦言が、唇から零れているのだろう。何とも云えぬ愛しいさが、土方の胸に兆す。だがそうなれば、自分を一人放っておく冷たさが気に入らない。土方は腕の中にある頬に指をあてると、
「…総司」
 耳元で囁くように呼んだ。だが総司は呟きを止めない。
「…目を覚ませ」
 今度は耳朶を甘噛みした。が、やはり総司に目覚める様子は無い。流石に、端整が過ぎた造りの顔(かんばせ)が顰められた。焦れる心は男を我儘にする。土方は蒲団から抜け出した。
 行燈に火を入れると、ぼんやりとした灯りが闇を押遣った。これで目覚めるだろうと、心の隅に意地の悪さが蔓延る。そんな思いを抱えて振り返った寸座、切れ長の三白眼が愕然と見開かれた。
 総司は瞳を開いていた。だがその瞳はぎやまんのように、ただものを映すだけで其処に意志と云うものはない。おまけに念仏のような独り語りは相変らず続いている。しかも耳を澄ませてみるとその中に、藤原鎌足だの不比等だの、縁はないが聞いた事はある名が連なる。更に運慶の弥勒仏坐像、阿修羅像と続いた時、土方は漸く、総司に只ならぬ事が起こっているのを判じた。
「おいっ」
 慌てて肩を揺すっても、総司は瞳を見開いたまま訳の分からない事を呟き続ける。
「…総司」
 この男にしては珍しく呆然とした声が、自分を見ようとしない想い人を呼んだ。
 
そうして。
 苛立ちながら夜明け待ち、やって来たのが此処、田坂邸。今年一番の挨拶先となった。その田坂の診立てが、先程の言葉だった。



「元に戻す手立てはあるのかえ?」
「難しいな。その講義をとやらを、一言一句聞き逃さず詰め込んだは良いが、詰め込み過ぎて溢れ出ているのだからな。頭の中は興福寺の事で寸分の隙も無いだろう。耳元で、もう覚えなくてもいいぞと云ってやったところで、跳ね返されるのがおちだ」
「興福寺に、か?」
「興福寺に、だ」
 頷く田坂を見ると、八郎は胡坐を回し土方に向き合った。目に、明らかな批難がある。
「土方さん、あんたとんでもないことをしてくれたな」
「おまえに云われる筋合いはない」
「あるね。今回の一件は誰の所為だ?あんたの所為だよ。あんたは伊東を目の敵にしてきた。だが伊東も大人しく黙っているような奴じゃない。折角練った画策に水を差され地団太踏んだ伊東は、早速報復に出た。伊東は利口だ。総司を苛める方が、あんたにはより痛手になると分かっていた。だから矛先を総司に向けた。講義は総司を困らせるのが目的だから、さぞ厳しかった事だろう。だがこいつは近藤さんに恥をかかせまいと必死だった。そう云う一途な気質を知っていて、あんたは止めなかった。いや止められなかった。総司が音を上げれば伊東が喜ぶ。それは即ち、自分の負けだとあんたは思っていた。だからその事だけに捉われて、こいつの限界を見極めてやれなかった」
 早い調子で繰り出される辛辣な言葉が、土方の眉間を狭くさせる。
「土方歳三なんざ、所詮それだけの男だったのさ」
 ふん、と切りあげるや、八郎は総司に体を戻した。
「いいとばっちりだったな、総司。だが安堵しろ、俺が江戸に連れ帰ってやる」
「今動かすのは返って状態を悪くする。少し静かな処で様子を見る方がいい」
 異議を唱えたのは田坂だった。今度は八郎の眉根が寄った。
「住み慣れた江戸に帰って心身を癒すのが一番だろうよ」
「この状態で、長い道中を耐えられると思うのか?」
「駕籠を使っても良し、気ままに歩くも良し、船で日和まかせで行くも又良し。急ぐ旅でも無い、こいつの様子に合わせて行くから案ずるな」
「奥詰のお役はどうするつもりだ」
「病気加療の為、返上だ」
「病気加療ねぇ」
「さっさと返上して、隠居だ、隠居」
 呟き続けている白い頬を指で触れながら、田坂に告げた口調が謳うようだった。
「折角だが、そこまでする必要は無い。沖田君のこれは一時的なものだから、少なくとも原因が取り除かれる…、そうだな、伊東、いや新撰組そのものから離れていれば、おいおい元に戻るだろう。此処なら常に俺が診ていられるし、キヨもいるから身の回りの世話も抜かりは無い」
「さっき元に戻すには難しいと聞いたが…、はて、あれは聞き違いかえ?」
 胡乱な視線に、田坂の口辺に笑みが浮かんだ。
「治らなければ治らないで、責任を持って面倒をみるから安心しろ」
「いい加減な医者だな」
「いい加減な旗本よりはマシさ」
 笑って交わした声には棘がある。
「ここの患者も気の毒にな」
「将軍家ほどじゃないさ」
「もういい」
 その棘を増やした遣り取りを、地を這うような低い声が阻んだ。声の主に、八郎と田坂が、あからさまに嫌な顔を向けた。
「総司は連れて帰る」
「何処へ?」
 欠伸のついでと云ったような、八郎の口調だった。
「新撰組に決まっている」
「頭の悪い奴だな。総司がこうなった理由は、その新撰組とあんたにあるって云っているんだぜ」
「だから責任を持って俺が治す」
 ほとほと呆れ果てたような物言いに、土方の顎が上げられた。その分、八郎を見る目の位置が高くなる。
「お前はさっさとご大層な役目に戻れ」
「無理だな」
 八郎が口を開きかけたが、一瞬、田坂の方が早かった。
「新撰組に戻れば伊東が手をこまねいて待っている。忘れた訳では無かろう」
「奈良行きには他の者を同道させる。総司は副長付きにして当分外には出さん」
「今度は監禁か」
「保護だ」
 眉を顰めた田坂に、土方も譲らない。
「そう云う訳で、あんたも他の患者の診療に精を出してくれ。正月から邪魔したな」
 云い捨てるや土方は、ぶつぶつ呟いている総司に手を伸ばしかけた。が、そうはさせじとばかりに、八郎が割って入った。
「分からねぇ唐変朴だな」
 忌々しげな視線が土方を突いた。背には、瞳は開いているものの、どこを見ているのか分からない総司がいる。
「伊庭、どけ」
「やだね」
 顔は横を向けたくせに、八郎は土方の目から総司を隠すように前に出た。
「邪魔だ」
 売られた喧嘩とばかりに、土方の声も尖る。
「少し頭を冷やしたらどうだ」
 その険呑とした空気を、鋭い叱声が裂いた。
「あんた達は、病人の容体よりも自分の勝手でしか事が見えないようだな。いや、だからこそ沖田君がこんな風になったんだろうが…」
 魂を何処かへ置き忘れてしまった者へ向けた双眸には、憐憫の色が浮かんでいる。
「新撰組、江戸。両方却下だ。沖田君は此処で預かる」
 凛と強い口調に、流石に土方と八郎が黙った。それを見極めると、田坂は、慈愛を籠めた眼差しを総司に送った。
「もう大丈夫だ。此処なら君を追い詰める者はいない、何も恐れるものもない。元に戻るまでゆっくり過ごせばいい。戻らないなら戻らないで、鳴くまで待とう不如帰さ」
 柔らかく笑いかけたが、総司は訳の分からない呟きを止めない。それでも田坂は、想い人を半ば己の掌中に掴んだ事で満足だった。が、その気の緩みは、一瞬、田坂に大事な事を忘れさせた。
 恋敵達は、不如帰が鳴くまで待ってくれるような、人の良さなぞ持ち合わせてはいなかった。

「ふぅん」
 最初に矛先を向けたのは、八郎だった。
「治せない医者なら、何も此処に置いておく必要も無かろう?」
 声音は穏やかだが、視線は鋭い。
「さっきは一時的なものと云い、今は長い目が必要だと云う。当てにも提灯にもならない診立てだな、名医」
 土方の浮かべた笑みは、ぞくりとする程冷ややかだった。
「神君家康公くらい長い目で見守る度量が無ければ、治るものも治らないと云う事だ。尤も、指揮を執る者にそれがあったら、今頃は医者も要らずに済んだものをな」
 笑って返した声には、たっぷりと毒がある。
「長い目と云う事なら、やはり江戸より他ないな。生まれ育った処で養生するのが一番だ。土方さん、あんたは新撰組に戻ってくれろ。総司の事なら案ずるな、江戸に着いたら近藤さんに文を出す」
「貴様一人で帰れ」
「奥詰を離れても、あんたには心形刀流があるだろう」
 嗜める田坂に、八郎が悠然と笑った。
「心形刀流はな、代々一番相応しい人間が継ぐと決まっているんだよ。だから隠居だと、さっきから云っているだろう?俺は恋の道を貫く、一代の莫迦でいいのさ」
 知れば迷い知らねば迷わぬと、絶妙な節をふけて謡った寸座、土方のこめかみに青い筋が立った。
「伊庭」
「なんだえ?」
 包み込むように総司の手を取っている背が、煩しげに応えた。
「俺は貴様がどんな野たれ死をしようが、鼻先でせせら笑ってやる」
「俺もあんたには、そのつもりだよ」
 後ろを向けたまま、八郎の上機嫌は続く。
「それから」
 その背に凄みのある一瞥をくれると、土方は田坂に視線を遣った。
「あんたも、だ」
「安心してくれ、俺もそのつもりだ」
 衒いの無い笑い顔のその向こうに、一筋縄では行かない灰汁の強さが見え隠れする。
 そんな丁々発止の論(あげつら)いなど知らず、総司の魂は一向返って来る気配は無い。だがその様子を見詰めながら、八郎の裡には、最初の驚きと焦りとは違う別の思いが芽生え始めていた。
――心を通わせる事が出来ないのは寂しい。だが人形のようになってしまった総司の世話をするのは、これで中々愉しい事かもしれない。
 そんな風に思った時、ふと頭を過ったものがある。それがぽろりと口を突いて出た。

「総司、東下の途中、興福寺に寄っていくかえ?」
 正気にある者に語りかけるように、優しい調子だった。
「貴様まだ腐り足りないかっ」
 後ろで土方の怒声が響いたが、聞こえてなどいないように、八郎は振り向かない。
「興福寺には阿修羅像がある。阿修羅は戦闘神とも守護神とも云われ、何とも忙しい神さんだが、今のお前のように切なげに眉間を寄せているらしい。一回その神さんに診て貰っちゃどうだ?慈悲があれば、今お前が迷い込んでいる修羅から救って貰えるだろうよ。同病相哀れむと云う言葉もあるからな。そこらの藪より診立ては確かかもしれねぇ。どうだ、上手い考えだろう?」
 問う声には、念仏のような独り語りだけが返る。だが八郎は満足げに頷いた。
「よし、決まりだ。田坂さん、あんたには総司が色々世話になったな」
「そう思っちゃい無いようだが」
「あんたを藪と云っている訳じゃないぜ」
「云われる筋合いは無い」
 一点の曇りも無い笑い顔に、初春の陽の伸びやかさを思わせるような笑い顔が応えた。だが腰を上げたのは同時だった。しかしその二人より一瞬早く、土方が総司の後ろに回っていた。
 薄い身を抱きかかえ、障子を蹴り廊下に出ようとした土方の肩を田坂が掴んだ。

「強引な人だなっ」
「これ以上総司を壊す気かっ?」
「貴様らに治してくれとは頼まんっ」
「総司がこうなったのは誰の所為だっ」
「俺の所為だっ、だから俺が治す、文句があるかっ」
「総司は江戸に帰るんだよっ」
 奪うように剥がそうとすると、土方が抱いている腕に力を籠める。その分、総司の身体は振り回される。
「智慧と云えば神頼みな愚か者と、気の長い医者じゃ、治るものも治らんっ」
「生憎医者は気が長くなけりゃ、勤まらんっ。だがな、後先考えない莫迦が傍にいちゃ、余計に悪くなるのは目に見えているっ」
 田坂も元来が短気な質である。それが医者と云う商売で辛抱と云うものを覚えた。が、一度箍が外れれば、そう簡単に元には戻れない。
「分かりの悪い奴らだなっ。総司は江戸へ連れて帰るんだよ、何回云わせりゃ分かるんだっ」
「貴様こそ、何回聞けば分かるっ。さっさと消えろっ」
「消えるのはあんただよっ」
「此処は俺の診療所だ、二人とも消えろっ」
「ああ、消えるさ、だから総司を離せっ」
 しかと総司を胸に抱えて離さない土方に、八郎が手を伸ばした。その手を強引に振り払うように、総司ごと身を交わした刹那。
「…うるさい」
 呻きにも似た小さな声に、男達の動きが止まった。
「うるさい…」
 少し間を置いて、声はもう一度聞こえた。息を詰めて凝視すると、いつの間にか開いていた瞳は瞼に隠れている。男達は水を打ったようにシンと動かない。
 やがて固唾を呑んで見守る三人の視線の先で、頬に翳りを落す睫毛が二度三度揺れ、ゆっくり瞼が開いた。

 最初、総司はまだ夢と現の境にいるかのように、ぼんやりとしていた。が、見下ろす土方の目と合うと瞳を瞠った。そして八郎と田坂に視線を回し、自分が今どう云う状況でいるかを知ると、慌てて土方の腕から下りようとした。だが寸前まで正体を失くしていた身は力が入らず、畳みに足を付けた途端崩れ落ちた。
「総司っ」
 三者三様の声の大きさに、見上げた瞳に驚きの色が走った。だがそれは、確かに総司の正気が戻って来た事を物語っていた。





「一生懸命覚えていたのに、色々な声が邪魔をするのです。それがどんどん大きくなって、伊東さんの声が聞こえなくなって、思わず…」
「うるさい、と?」
 少し大振りの椀と匙を渡しながら、田坂が問う。それに総司は小さく頷いた。
「葛湯だ。体が温まる」
 手に取ると、椀は温かかった。
「それから奈良行きだが…」
 奈良と口にした途端、匙を口に持って行きかけた横顔が、びくりと硬くなった。その正直さに、田坂は笑った。
「どうやら君は、お役御免となったらしいぜ」
 意地の悪い云い方に、大きく瞳が瞠られ、次に慌てて視線を移せば、仏頂面で頷く土方がいた。
「局長警護は斉藤にする。あいつなら、伊東も話甲斐が無いだろう」
 しかも監視の目は怠らなくて済むと、存外、土方はこの人事に腹の裡で満足していた。
「ではもう伊東さんの講義は…」
「放っておきな」
 無責任な欠伸をひとつ。一騒動の後の安堵が、八郎の声を間延びさせる。
 それにつられたか、空になった椀を置いた途端、総司の身が揺らいだ。
「おいっ」
 慌てて伸ばした腕の主を知っていたかのように、傾いた身は土方の胸に収まった。
「…眠い」
「総司っ」
「…ねむいのです…」
 瞼を閉じてしまえば、もう呂律は回っていない。
 だが眠りにつけば又元に戻ってしまうのではないのかとの思いが、土方を焦らせる。咄嗟に向けた視線に、田坂は軽く頷いた。
「本当の疲れが出たのさ。今度こそ、気持ちの良い夢路にいる筈だ」
 いらえが終わる間もなく、膝枕にした唇からは、健やかな寝息が聞こえて来た。
「名医が云うんじゃ間違いはなかろうよ」
 未だ一抹の不安を残す横顔に、軽口が飛ぶ。
「藪だの名医だの、あんたも忙しいな」
「権謀術策、魑魅魍魎渦巻く城でお役目果たすには、せめて口先くらい、滑りを良くしておかないとな」
 皮肉を軽く交わしながら、脱いだ羽織を眠りにある者にかけてやる眼差しは優しい。
 遠くで、初売りの声が聞こえた。その声に、ふと八郎は顔を上げた。
「酒、あるか?」
「台所にあると思うが…。肴は分からんぞ」
「酒だけでいい」
「年明けを祝って、漸く一杯か」
「男三人じゃ味気なくもあるが…、ま、仕様が無いさ」
 八郎は、土方の膝にある顔を覗き込んだ。貝殻の裏のように薄紫の血管(ちくだ)を透かせた瞼は、当分開きそうもない。
 
 
 
「伊庭」
「何だえ?」
 酒が程良く体を温め始めた頃、土方が呼んだ。
「預かれ」
 云うや否や、土方は総司を八郎の膝に乗せた。どうやら足を楽にしたかったようで、胡坐を組み直すとすぐに総司を取り戻し、その真ん中に小ぶりの頭を乗せた。預けていたのは、寸の間にも足らない。だが八郎の膝には、微かな温もりが残った。それが消え行くのを惜しむように、八郎は、さり気なく膝に手を置いた。
「興福寺の阿修羅像とやらを、観に行って来るか」
「あんたも物好きだな」
 杯を口元に運んだ田坂が、揶揄して笑った。
「知って迷った恋の道さ」
 謳うように口ずさみながら、八郎は総司に視線を移した。
 
 自分を映す瞳は、何も捉えない瞳でも良かった。
 自分を呼ばぬ唇は、いらえを返さぬ唇でも良かった。
 取った手は、握り返さぬ指でも良かった。
 それでも二人で行く東下の道は、さぞ愉しかろう。
 魂の無い総司に、自分はそんな夢を抱いたのかもしれない。

「なぁ、総司?」
 語りかけると、土方が露骨に嫌な顔をした。
「やめろ、目を覚ます」
「大丈夫さ、なぁ?」
 更に顔を近づけると、今度は益々眉間が寄った。その様子を目の端に捉えながら、知れぬよう八郎は笑う。恋敵の悋気を肴に呑む酒は、この上なく旨い。
 かたりと、小さな音がした。
 「キヨが、帰って来たな」
 酒の肴をねだりに、田坂が立ち上がった。


 障子の白を弾いて零れる陽が、すぐ傍らに柔らかな溜まりを作っている。
 想い人は当分目覚めそうも無い。どんな夢を見ているのか、そこに自分はいるのか、起こして問いただしたい想いは募る。堪え切れず、白い頬に指を当てても、瞼が開く気配は無い。
(…目を覚ませ)
 指を頤に滑らせると、ほんの微かに睫毛が動いた。その寸座、意地を重ねた指先が、今度は逃げるように頬を離れた。

 目覚めさせたくもあり、夢路にいさせてやりたくもあり…。

 思いは互い違いに膨れ上がる。
 そんな己を持て余し、土方は、膝にある寝顔に眸を細めた。
 






                                   春、夢たゆたうて覚めてまた、春        了





   


きりりく