旧ももの木亭25000御礼 ぽんさまへ
雫 -sizuku- U (上)
まるで絡みつくように、降るものはしっとりと身体につけているものを濡らし、其処から染み込んでゆく冷たさが、総司の全ての知覚を凍てつかせ無くしてゆく。
雨のせいなのだろう。
普段ならば天道が勢いのままに昇りかける今頃は、この屋敷も十分に朝の活気に包まれているのが、今日は気配を殺したようにひっそりと静まり返っている。
総司は立ち止まり振り替えると、その向こうに八郎の室のある雨戸を仰ぎ見た。
昨夜そこで自分は生まれて初めて人に抱かれた。
刻まれた八郎の熱は未だ内に篭もり、無理を強いて重ねた情交は、苦痛をだけを残してあちこちを軋ませ総司を苛む。
まるで水を含んだ綿のように、身体がけだるく重い。
足に履く物は無い。
雨露でぬかるんだ地にはびこる泥が、頼りない身体を支えるに相応しいか細い足首まで汚している。
昨日来るときに履いて来た物は建物の玄関に揃えられてある筈だ。
其処まで行く間に、誰かと顔を合わせることを総司は恐れた。
此処神田和泉橋の伊庭道場から、試衛館のある市ヶ谷までは近いと言える距離ではない。
だが今の自分を見られるくらいならば、素足で帰ることなど何を厭うものでもない。
目覚めた時、八郎は室にいなかった。
きっと疾うに起きだして、この家の長子としての朝を迎えているのだろう。
直に道場からも、湿り気を払うような賑やかな掛け声が聞えてくるに違いない。
いつも何の感慨も無く当たり前のように過ごしてきた事柄が、たった一夜明けただけで、自分とはずいぶんかけ離れたものなってしまったように思える。
そんな思考に捉われて、暫しぼんやりと視線を建物の方角に移していたが、ふいに微かに聞えて来た人声に一瞬身を硬くすると、そのまま怯え逃れるように身を翻した。
この屋敷の一番奥に位置する八郎の自室は、庭伝いに更に奥に行けば今は空家となっている隣家の敷地に通じ、そこを通り抜けて地続きに幕府の管轄する種痘所に出ることができる。
種痘所の門は余程深夜で無い限り常に開いているから、この頃合なら気をつければ誰にも姿を見取られず往来に出ることができる筈だった。
いつだったか八郎が夜遊びを終え明け方帰るに、家人に知られること無く重宝していると言っていたのを笑って揶揄したこの道が、皮肉な事に今の総司には何に変えても有難く思える。
「朝帰りの挙句濡れ鼠で、履物も落としてきたとあっちゃあ流石の土方さんも度肝を抜くだろうよ」
背中からふいに掛けられた声の主の存在は、とっくに気づいていた。
だがそれを確かめる為に、足は止めても振り返る事ができなかった。
「それとも本当を言ってあの人を怒らせてみるか?」
更に追い詰めるような言葉にも振り向けず、総司は其処に立ち尽くしている。
「自分の浅慮を今更後悔したところで始まらないだろう」
「後悔などしてはいない」
ようやく正面を向いて捉えた八郎の顔が、嘗て見たことも無い程に険しい。
それは傘も差さず濡れるに任せている雨のせいではない。
その理由を嫌と言う程自分は知っている。
八郎は心底怒っている。
そしてそうさせたのは自分だ。
土方を諦めるために抱いてくれと願い、その傲慢な無理を受け容れさせた。
八郎の心を知っていながら、それを逆手に取って利用し傷つけた。
勝手で、愚かで、どうしようもなく情け無い自分だ。
「ならばどうして逃げようとする」
向けられた鋭い双眸が、詭弁など許さないと総司を追い詰める。
いたたまれずに逸らせた瞳の、その逃道までをも塞ぐような厳しい声だった。
応えられずに俯いたままの自分に歩み寄ってくる八郎の影を、総司は身を竦めるようにして感じていた。
頬を張られるのならばそれでも良いと思った。
そうしてくれた方がどんなに楽か。
否、いっそ今はそうして欲しかった。
この卑劣で不甲斐ない自分を、二度と起き上がれない程に打ちのめして欲しい。
もう避けきれない寸座の処まで気配を感じ、思わず瞳を瞑った瞬間、受けると思っていた衝撃は頬に無く、代わりに無防備に脇に下げていた右の手首を強く掴まれた。
咄嗟に見上げた八郎の顔に、怒りともつかぬ苛立ちがある。
「こいっ」
一瞬掴まれた手を引いて抗ったものの、力では到底敵わず、すでに背を向けて歩き始めた八郎に引き摺られるようにして、総司は再び屋敷の敷地に素足のままで踏み入れた。
足の早い八郎は無言のまま総司の手を引き、後ろを見ない。
時折ついてゆけない足が泥に掬われ縺れ、身体の均衡を崩しそうになっても、歩調も手首を掴む強さも加減する事無く決して振り向こうとしない。
こんな八郎は初めてだった。
だがその容赦の無さが、今の自分には救いだった。
例えそれが偽りでも、微かにも労わりの片鱗を見せられたら、自分はもう二度と八郎と顔を合わせることはできない。
こうして怒りを露にしてくれる方がどれ程良いか・・・
よろめく身体を引っ張られて進みながら、総司はもう何も動かぬ思考の中でそんなことを思っていた。
ようやく八郎の足が止り、連れて来られた先は人気の無い湯殿だった。
「さっき張らせたばかりの湯だ。此処は家人しか使わないから誰も来ない。どうせ芯まで冷え切っているのだろう、浸かって温まったら俺の部屋に来い」
否と応える事をぴしゃりと拒む強い口調だった。
「着替えは其処に置いてある」
指でそれを教えて言い終えた時には、もう背を向けていた。
後ろ手で閉めた戸が木枠の桟とぶつかって、湯殿全体を覆うように音を響かせた。
八郎の姿が見えなくなっても、総司は暫しそこに立ち尽くしたままでいたが、やがてのろのろと身につけているものの紐を解き始めた。
雨に濡れ、最早湿っているとは到底言いがたい程に水を含んだそれは、結び目が堅くなっていて、凍えた指で解くには難儀する代物だった。
それでもどうにか結んでいた全てを解き、身につけていたものが身体から滑り落ちると、己の肌に残る消しようの無い昨夜の名残が目に触れた。
初めて自分以外の人間に刻まれた証は、まだ鮮やかな朱の色に染まっている。
胸にも、脇にも、そして下肢にも残るそれは、総司に確かにあった情事を蘇らせる。
それは先程記憶の中で感じたものとは違い、今残る痣の全てが疼くように、身体で思い出させるものだった。
自分であって自分で無い・・
心と身体がばらばらに動き始めてしまうような恐怖感に、総司は固く目を瞑り、両の手を回して自分を抱きしめた。
「やはり大きすぎたな」
躊躇うように室に入って来た総司の格好を見て、八郎が苦笑ともつかぬ笑みを片頬に浮かべた。
「・・・これ、八郎さんの?」
身に纏っている藍地の織物には見覚えがある。
湯舟から上がったとき、其処に脱いだ筈の着物は既になく、着ろと云わんばかりにこれが置いてあった。
考えてみればそれまで着けていたものは雫が滴りそうにまで濡れていて、一度温まってしまった身体に再び袖を通せるものではなかった。
「家人に探させる手間が面倒だった」
素っ気無く言う振りをしながらだがその裏に、今は我が身を他人の前に晒したくは無いと願う自分の心を慮り、さり気なく人目から隠そうとしてくれている八郎の心が総司には嬉しかった。
「・・・有難う」
初めて自然に笑いかけることができた。
「礼なぞ要らぬが・・・」
言いながら八郎は総司の為に、火箸を手繰り幾分強く火を熾している。
どうしていいものか暫し迷った末に漸く端座した総司に、一度視線を投げかけたが、またすぐにそれを火鉢の中の様子を気にかけるかのように戻した。
「お前どうやって帰る?」
中途で終わった会話を叉続けるかのような、何の衒(てら)いも無い口調だった。
「・・・どう・・って?」
意味を分かりかね、総司がつられて小さく聞き返した。
「歩いて帰るには辛いだろう」
特別何事でも無いような物言いだったが、聞いた瞬間総司の蒼白い首筋から耳朶までが瞬く間に朱に染め上げられた。
身体に逆流する血の色を、薄い皮膚がそのまま透かしたような鮮やかな変化だった。
「歩いて・・帰る」
俯けた顔を上げられず、それだけを告げるのが精一杯だった。
昨夜無理を強いた身体がまだ悲鳴を上げている事を八郎は知っている。
湯に浸かった事で幾分強張りは解けたが、まだ辛い事には変わりは無い。
同時に目の前の人間に抱かれたのだという事実が、嵐のような羞恥となって総司を襲った。
「帰る」
これ以上、この場にいる事はには耐え難い。
だが突然立ち上げられた身体は一瞬眩暈を呼び起こし、目の前が暗くなったと思った寸座、前のめりに傾(かし)いだ感覚を覚えたがすぐに何かに支えられてそれ以上倒れ込むことはなかった。
「強情を張るな」
諭すような声が頭の上から聞こえる。
だがまだ瞳は開けられない。
それでも微かに首を振って、言葉に沿う意志の無い事を伝えた。
ゆっくりと畳みの上に座らされ、やっと目を開けてもまだ視界は薄暗い。
「急に立ち上がったから身体がついて行けないのだ」
八郎の声の穏やかさが、我が身ひとつを思うにできない己の情けなさに繋がる。
「・・・心配するから」
言い訳は何でもよかった。
此処に居ることが辛いのだと、八郎に顔を向けることが切ないのだと、そう言う事ができない心を他の言葉に置き変えて総司は呟いた。
「誰が?」
だが八郎は違う処で、その意味する処を捉えたようだった。
「・・・誰・・って」
やっと顔を上げて声の主を仰ぎ見た刹那、それを待っていたような鋭い双眸に射抜ぬかれた。
「土方さんと言えばいい」
それまで紡がれていたものと同じ人から出ているとは思えない、突き放すような物言いだった。
だが己の口から突然零れた言葉に、一番うろたえたのは八郎自身だった。
「それとも俺に抱かれて、もうあの人と顔を合わせる勇気はないか?」
みるみる色を失くして強張った総司の面に視線を縫いとめたまま、更に容赦ない攻撃は止まらない。
必死に箍を掛けようとするその傍から、次々に意志に反した言葉は繰り出される。
「遠慮をする事は無い。土方さんが恋しいと、そう言えばいい」
怯えるように見開かれた瞳に映っている自分は、何と残酷な応えを言えと強いているのだろう。
だが八郎の胸に今逆巻くものは、まだ後悔と自責の念には遠く及ばない激しい嫉妬と苛立ちだった。
「勝手にするがいいさっ」
短く言い放って立ち上がりそのまま室を出て、開けた障子の桟と桟を乱暴に合わせた時、思いもよらない大きな音が、そぼ降る雨の静けさを破り庭にまで響いた。
そんな風に仕舞いにしなければ、とことん総司を追い詰める手は緩みそうになかった。
だが歩きながら、八つ当たりのひとつも堪えきれない自分自身を、八郎は心裡で激しく呪った。
踏みしめる廊下の板張りの刺すような冷たさが、到底足りるものではない己への責め苦のようにも思えた。
ぼんやりと見る閉じられた障子の白さが、自分とはずいぶん縁遠いもののように総司には思えた。
土方を諦める為に、その心を知りながら八郎に抱いてくれと懇願した自分は何と愚かな人間だったのだろう。
否、最早人ではない酷い仕打ちを、八郎にしたのだ。
どんな言葉で責められても愚弄されても、一言もそれに抗う事はできないのだ。
それ程に罪深い事を、自分は八郎にしてしまったのだ。
どうにか立ち上がり室の外に出ると、あとはもう後ろを振り向かず総司は歩き始めた。
どれ程我が身の内と外が変わってしまっても、帰るべき処はひとつしかない。
そして其処に着いたとき、ただ一人の人に、変化の欠片など微塵も感じさせず、いつもと変わらぬ自分であらねばならない。
全てはその人の傍らに居るがために自分が決めた事なのだから。
噛み締めるようにきつく唇を結び、俯けていた顔を上げると、総司は飽かず降り続く雫に霞む前を見据えた。
「昨夜は伊庭の処に世話になったそうだな?」
声を掛けられる前に、それが誰の気配か承知しながら敢えて振り向かず頷いただけで、総司は着替える手を止めようとはしなかった。
言葉で応えず、まして自分と知っても視線を合わせようとしない総司に、いつもとは違う何かを感じ取り、土方は暫し怪訝に見ていたが、やがて衣桁に掛けられている見慣れぬ柄に目が止まった。
「あれは?」
今度は無言を許さぬ、そんな少しばかり強い調子だった。
「・・・自分のが雨で濡れてしまって、それで八郎さんが貸してくれたのです」
揺れる心を悟られまいと早い口調で言い切り、最後に袴の紐を結び終え、総司はやっと土方に向き直った。
「濡れた?どうして?」
それは尤もな疑問だった。
出かけた時からずっと雨が降っていたとは言え、その殆どを屋根のある処で過ごし、戻ってきたとき手には傘を持っていた総司が、どうして着物を借りる程濡れたのか土方には判じかねた。
総司が八郎の元へゆくと告げて出かけたのは、昨日の昼過ぎだった。
暗くなり、なかなか帰らぬのを近藤と案じるようになった頃合に、和泉橋の伊庭道場から今夜は泊めるからとの使いがあった。
土方とは既に良からぬ遊びに興じる間柄にもなってはいたが、総司が八郎の元に外泊するのは初めてのことでもあった。
今年正月を迎え二十歳になり、もう数日すれば共に京に上るという総司を、いつまでも子供扱いすることもできず、その場は承知したと使いを帰したものの、果たしてまんじりともせず朝を迎えた土方だった。
そしてもうひとつ・・・・
土方の胸の裡に消した火が灰の中で燻っているような気がかりがあった。
帰ってきたとき、総司は確かに疲れていた。
それは快活な肉体の消耗によるものではなく、何処か気だるさを感じさせるような類のものだった。
その事が土方の胸を酷く落ち着かなくさせている。
「・・・今朝・・八郎さんと些細な事で口争いになって・・」
躊躇いがちな声が、心の底にあるものを隠せず現しているように小さかった。
「口争い?」
土方の端正な面に、すぐに不審の色が浮かんだ。
それは珍しいことだった。
日頃総司は滅多に自分を表に出す事をしない。
否、しないというよりも、この若者はそうする術を知らない。
だがその内には、如何にも頼りなげな姿かたちからは到底想像のつかないような激しいものを秘めている。
だから時に焔と化した激情が、出口を知らず総司自身を焼き尽くしてしまう日が来るのではと、それを土方は危惧している。
「本当につまらないことで・・・。でもそれが元で私が後先も見ずに、帰ると言い張って雨の中に飛び出したから・・・」
自分で語りながら、言葉の終わりは情けない程小さな呟きに変わった。
「それで濡れたのか?」
呆れたように言う土方に向けられた小作りな顔が、気弱な笑みを浮かべて頷いた。
「朝からお風呂を用意させてしまうことになったり・・・本当に八郎さんには迷惑を掛けてしまった」
下手な言い訳に、それでも土方が一応の納得をしてくれたのを見取ると安堵したのか、言葉は先ほどよりも滑らかに口をついて出る。
そんな総司に懸念は残るが、これ以上の追及は返って頑なにさせるだけだと判断し、土方は探る手を止めた。
「それよりお前は何処か具合が悪いのではないか?」
一番の懸念を口にした土方に、総司の顔が凍てたように強張った。
「どうした?」
その尋常でない様子を見て、土方が眉根を寄せた。
「・・・どこも具合など悪くない」
「嘘を言え」
言った傍から鋭い声が、偽りを跳ね返した。
「嘘じゃない」
だが繕おうとする声は震える。
動揺を隠しきれない己を、総司は心裡で必死に叱咤する。
「何故俺に隠す」
視線を逸らす事を封じて静かに問うた土方の声は、嘘を咎めるというよりも、秘められる事に対する憤りを含んでいた。
そうなれば抗う事は出来ない自分に、総司は諦めの息をひとつついた。
それでも真実だけはどんなことがあっても隠しとおさねばならなかった。
「・・・雨にあたったのが悪かったのか、少しだるいのです」
そう重ねる嘘が最後の砦だった。
「何故早くに言わない」
土方の口調がつい責めたてるような強いものになった。
「明日は伝通院に行かなければならない大切な日なのに、その前に余計な心配を掛けたくなかった・・」
それは半ば本当でもあった。
明日如月四日。
浪士隊に参加する事が決まっている近藤を始めとする全員が、出立の直前に今一度小石川伝通院に集合を掛けられている。
いよいよ上洛を目の前にしての、細かな決め事の確認の為だった。
「ばか野郎が・・そんな事で大事になったらどうする」
叱る声が、幾分和らいだ。
欠かす事が出来ない行事を前にして、総司が体調の不良を隠したいと願うのは十分推し量る事ができる。
「昨夜枕が違ってあまり眠ることが出来なかったし・・そのせいだと思う。だから心配するようなことじゃないから」
「お前の素人判断はもういい。さっさと布団を敷いて休め」
「帰ってきてからまだ近藤先生にも挨拶していないのに、そんなことは出来ない」
強く首を横に振る総司に、土方が苦笑した。
「近藤さんなら戻りは日暮れてからになる。待っている間に一眠りできるだろう」
「何処に行かれたのです?」
そう言えば戻ってきた時、近藤の履物が見当たらなかったことに総司は気づいた。
漸く此処に帰りついた時、その場でそれを疑問に思わぬ程に自分は疲労困憊していたのだ。
今更ながら己の精神も肉体の我慢も、限界にまで達していたのだと総司は知った。
「明日伝通院で集合すれば出立までにもう日が無い。慌しくなる前にと、松井殿の処に最後の挨拶に行った」
松井十五郎は近藤の妻ツネの父親だった。
松井家は試衛館からもそう遠い距離ではないが、ひとつ覚悟を決めて上洛する身としては、残して行く妻の心の在り処がおのずと実家に頼るのは当たり前と近藤なりに判断し、今日は十五郎とも積もる話に時を掛けるつもりなのだろう。
「だからさっさと横になれ。それとも明日行けなくなる方が良いのか?」
まるで子供をあやす風な物言いに不満げな表情を浮かべながらも、土方の疑惑が自分の嘘に逸らされた事に、総司は心裡で安堵の息をついた。
そんな総司を横目に、さっさと夜具を出し始めていた土方が何の連脈も無くふいに呟いた。
「そう言えばもう一度、光さんも来ると言っていたな」
突然姉の名を口にされて、総司が怪訝に其方を見た。
「・・・姉さんには、もう挨拶をして来ました」
姉の光には十日程前、出稽古に行った折に義兄ともども別れの挨拶は済ませている。
「そういう事ではないだろう」
「でも・・・」
「最後は折れてくれた光さんの気持ちを思え」
いつもよりずっと強い土方の口調に、総司が瞳を伏せた。
光は最後の最後まで、弟の総司が京に上る事を反対していた。
日頃控え目すぎると思う人が、初めてと言って良い程に自分を強く出して弟の願いを拒んだ。
自分は婿を取り家を継ぎはしたが、嫡子は総司であると譲らなかったその裏に、幼い弟を手放さざるを得なかった事への呵責が、光を頑なにさせていた。
そして何よりも、光の懸念は総司の脆弱な身体にあったようだった。
せめて目の届く処に、同じ江戸に居て欲しいと願う姉の、滅多に見せぬ涙を総司もまた悲痛な思いで見ていた。
だが例えどのような艱難辛苦が待ちうけようと、自分の身を置く処は土方の傍らと決めて揺ぎ無い総司も又、姉の願いを受け容れる訳にはゆかなかった。
光は最後の頼みの綱として試衛館を訪れ、近藤土方に総司への説得を懇願した。
周斉と近藤、土方の三人を前にして、だが総司は光の言葉に首を振り続けた。
結局最後は、共に上洛できないのならば我が身は要らないとまで言い出した弟に、光が負けた形で総司の意志は貫かれた。
だが如何な言葉の綾でも言いすぎだと叱る周斎や近藤の前で、俯いて顔を上げなかった総司の頼りない項(うなじ)を見ながら、土方は又違う思いの中にいた。
総司の言葉は、迸った感情が言わせた綾などではなく、真実そのものだったに違いないと土方は感じていた。
それが何処に根拠があるものかと問われれば、土方自身にも判じかねる。
だが総司は確かにあの時、置いて行くと告げれば身を挺しても抗っただろう。
この若者の裡に秘める激しさが、時に土方を酷く不安にする。
「光さんにもこれ以上余計な心配を掛けるな」
そんな思いを打ち切るように、敷いた夜具に横になれと目線だけで告げると、それ以上は何も言わず土方は室を出てゆこうとした。
「土方さん・・・」
その背に思わず掛けた声に振り向いた顔を見て、だが後の言葉が続かず総司は慌てて首を横に振った。
そんな仕草が可笑しかったのか、背の主はからかうような笑みを浮かべた。
「さっさと寝ろ。近藤さんが戻ってきたら起こしてやる」
まだ何か言いたげにしてはいたが、やがて小さく頷く顔を見ると、土方は後ろ手で障子を閉めた。
土方の足音が遠のいてゆく。
本当はその背に縋ってしまいたい。
けれどそんな心を律する為に、土方の傍らに居る為に、自分は八郎に抱かれた。
誰にも言えず、決して知られてはならない想いの為に、八郎には取り返しのつかない仕打ちをしてしまった。
だからもう自分は人の心を持ってはならないのだ。
人を想うことなどしてはいけないのだ。
想う人の姿を隠した白い障子を、総司は瞬きもせず見つめて立ち尽くしていた。
「主さんは何を思っているのやら・・・」
少しばかり湿り気を帯びた柔らな声に、八郎は差し出された煙管を物憂そうに受け取った。
「さて、何を思っているのやら」
そっくりそのまま真似て返した応えと共に漏れた白い煙が、高く昇る間もなく空(くう)に呑まれた。
女は誰でも良かった。
若い肉体を満足させてくれればそれで十分だった。
それでもこうして値の張る大見世に上がったのは、情のやりとりなど微塵も無く、全てが形で進められる面倒の無さが今は気に入ったからかもしれなかった。
小蝶というこの女も適娼として幾度か名指ししている。
「主さんのお心には誰が住んでいるのか・・」
「それを知りたいのかえ?」
好奇の眼差しを向けたのは、八郎の方だった。
「憎らしい」
唇に笑みの形を作りながら、だが切れ長の目元にうっすら刷かれた朱の色が、それが本当の心だとも朧げに告げていた。
「言ってみたし、言わずにいたし・・・難しいものよなぁ花魁」
括り枕を胸の支えに伏せていた身体をくるりと仰向け、宙に視線をもって行ったまま呟いた声がどうにも沈む。
つい先程まで滾るような熱さを自分にぶつけていた客の、行灯の灯りが映し出す端正な横顔を、小蝶は後の言葉を引き受けずに見つめている。
若い客の心にあるのが誰とは知らない。
又知ろうとも思わない。
金で買われて抱かれる身。
例え誰かの形代であっても、そんな事はどうでもいい。
だが今日の客はいつもと事情が違った。
激しく自分を求めながら、何処か醒めていた。
肉体は満足しただろうが、その分心は虚ろにある・・・そんな思いがした。
想う人への恋情は苦しいだけのものなのだろうか。
ふとそんな風に探る心を持った自分の気紛れを、小蝶は分からぬように小さく笑った。
「独り笑いたぁ、いやな奴だね」
その様子を尋常では無い鋭い勘は察したのか、まるで己の無粋を見破られたかのように、八郎が上を向いたまま苦く笑った。
「あい、すみませぬ」
「面白い事でも俺の顔に書いてあるのかえ?」
「主さんのお顔は正直でありんす」
小蝶の白い指が、襟足のほつれ毛を絡ませ、ゆっくりとそれを手櫛にして掻き上げた。
その様を目だけで追いながら、あの夜やはり同じように乱れた髪を掬ってやったのは自分だったと八郎は思い起こす。
激しい愛欲に翻弄され精根尽き果てて眠りについていた総司の、蒼白い頬に浮かんだ翳りにかかる髪の一筋すら、我が身が乱したものと思えばたまらなくいとおしかった。
無理を承知で裂いた身体に己を受け容れさせたとき、瞳から零れ落ちる雫が胸を鷲掴みにされるほど痛々しかった。
だが何よりも愛しかった。
「・・・冷え込んできたな」
「雪が・・・」
「降ってきたのかえ?」
小蝶は言葉にせず微笑んだだけだった。
外の様子は分からない。
雨ならば音もするだろうが、雪になれば気配すら感じさせない。
今日は小石川の伝通院へ浪士隊に参加し上洛する者達は集まった筈だった。
きっと総司もその中に居たのだろう。
「京か・・」
「・・・行きたいのでありんすか」
我知らず漏れた呟きの後を、小蝶が拾った。
「どうして」
分かるのだと、向けられた八郎の目が揶揄するように笑っていた。
「主さんのお顔は・・」
「正直だったな」
今度は最後を八郎が取って、今一度苦笑した。
本当は縛り付けても京になどやりたくは無い。
これが別れと自分を言い含めることなど、到底できはしない。
だが日が迫れば更に心は言う事を聞かなくなる。
だからもう会いには行かない。
そう決めてまだたったの二日。
そしてたった二日で己の誓いは脆くも綻びつつある。
「とんだ茶番さ」
そんな風に自嘲して、とことん己を堕とさなければ、この逆巻く恋情は堪えようがなかった。
独りごちて又横に体を倒してしまった客の背を、小蝶は暫く黙って見ていたが、やがて静かに立ち上がり、微かな衣擦れの音だけをさせて格子窓の際まで行くと、それをほんの少しだけ開けた。
「主さん・・・雪でありんす」
ささやくような声を背中で聞きながら、八郎は知ってしまった想い人の肌の温もりを、音も無く地に舞い降りているだろう白い雪と重ね合わせて瞼を閉じた。
きりリクの部屋 雫U(中)
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