雫 -sizuku- U (中)
気付いてみれば結局内藤新宿も、じき手前まで来ていた自分の愚かしさに、苛立ちの息をひとつつくと、八郎は漸く何処に向けるでもなく急がせていた足を止めた。
手に持つ包みの中には先日総司が身につけていた着物と袴がある。
あの日、濡れて到底着けるには忍びない代物になってしまったこれを、総司は置いて帰った。
その前に小さな諍いを起こし、感情の迸るままに総司を責め立てた自分は、頼りない後姿が独り門の外に出て行くのを、視界から消えても暫らく動かず見ていた。
追って腕を掴んで振り向かせ、引き止めたい衝動に駆られる己を制するだけが精一杯だった。
あと僅か、ほんの数日自分の心を偽れば、総司は京に旅立つ。
それまで逢わずにいれば、すべては終わったものと諦めがつく筈だった。
だから総司が身に着けて帰った代わりの着物を昨日返しに来た時も、居留守を使って逢うことはしなかった。
だが総司はその事で、一緒に受けとろうとしていた自分のそれを、返して貰う事はできなかった。
もしかしたらそんな行動に出たのは、そうしなかったのでは無く、そうさせたく無かった、己の心のさせたわざとだったのかもしれない。
着物を返してしまえば、再び逢う口実は無くなる。
「呆れた馬鹿野郎さ・・」
その事にとっくに気付いている自分を、八郎は今度こそ自嘲して笑った。
そんな自分の情けなさ、思い切りの悪さを仕舞いにすべく、漸く試衛館に行く心を決めたのは、一晩眠れぬ夜を過ごし、夜も明けかけた頃だった。
だが足は向かうべき場所へと続く道を折れず、試衛館などとっくに通り越し、いつの間にかこんな処にまで来ていた。
どうにもだらしの無い自分を叱咤しながら、今一度戻りかけようとした時、往来を急ぎ足で行く見知った姿が目に入った。
一度見ただけのその人の顔を忘れる筈が無い。
今こうしているだけで心掻き乱される想い人の面影を強く彷彿させる横顔を、八郎は考えるよりも先に追い始めた。
「もし」
突然後ろから掛けられた声に、光は一瞬迷ったが足を止め、それが自分に掛かったものかどうなのか確かめるように振り向いた。
昼にはまだ遠いが、日中の陽射しは冬でもすでに力強い。
その陽光の中にあって若者は寸分も臆することなく、人違いで無かった事に安堵したように笑った。
「やはり総司の姉上殿であられたか」
少し眩しそうに瞳を細めて相手を見る表情が、弟によく似ていた。
「伊庭さま?」
警戒を解いた光の、細い線で丹念に描かれたような面輪に、漸く笑みが浮かんだ。
光は一度だけ八郎と会った事がある。
弟の総司が小野路村で麻疹に罹った時に見舞いに来てくれた。
その時一緒に江戸に戻ると言い張り、結局聞き分けなく意志を貫いた弟を、光は指をついて深く頭(こうべ)を垂れこの若者に託した。
「お礼が遅くなり申し訳ございません。あの節はありがとうございました」
光の言っているのが昨年の夏の事だと、八郎は気付いた。
「何もできずに・・」
「いえ、本当に助かりました」
心底感謝しているのだろう。
八郎を見上げる瞳には真摯な色がある。
「今日は総司の処に?」
手にある大きな包みが、細い腕にはずいぶんと負担見える。
「はい、明後日いよいよ京に上る事になりまして・・身内の愚かさとは思いましたが、あれやこれや細々と持たせるものを用意して参りました」
形の良い小さな唇から紡がれる声音に、寂しさを隠し切れない響きがあるのを、八郎は知らぬ振りをして光の手から荷物を取り上げた。
「私も試衛館に行く処でした」
驚く光に、八郎は快活に笑い掛けた。
「伊庭さまも?」
「今日は総司の忘れ物を届けるつもりが、その先にも用事が出来、今それを終えた処です」
試衛館とは違う方角に向けていた足の言い訳を、光は素直に受け取ったようで、一度嬉しそうに微笑んだが、すぐに八郎の手にある自分の荷物に目を遣った。
「ですがそのようなご迷惑はおかけできません。持って頂くほど重いものではありませぬゆえ・・」
恐縮して手を差し出した光に、八郎は首を横に振った。
何が入っているのか、確かに中身はさほど重いものではない。
だが光の腕でこれを持っての試衛館までの道程は、決して楽なものではないだろう。
「私が持った方が、少しも早く足を運ぶことができる」
そう言い回しすることが、光に気遣わせる負担をかけまいと、咄嗟の八郎の判断だった。
「行きましょう」
これ以上の遠慮の言葉を遮るように、潔く伸びた背が先立って歩き始めた。
「総司とは久しぶりで?」
光に歩を合わせながら、八郎の問い掛けは、会話の糸口を作るように何気ないものだった。
「いえ・・」
だが返って来た応えは、思いがけず少し憂いを籠めた風にそこで止った。
「京に上りたいと、そう初めて言ってきた時から、もう幾度か会ってはいるのです」
怪訝に振り向いた八郎の視線に、光は慌てて笑みを浮かべた。
「私がなかなか首を縦に振らなかったものですから・・・」
そう言い訳する白い横顔が、ふと沈んだ。
「それではあいつは姉上の説得をする為に?」
殊更明るい調子で掛けた声に、光がまた八郎を見て微笑んだ。
「説得したのは私でございました」
「姉上殿が?」
「はい。恥をも省みず、近藤様はもとより歳三さんにまで、どうか弟の気持ちを止めて欲しいと・・」
「それを聞かぬ奴だった訳だ」
独り呟いた八郎に、光は微かに首を縦にしただけだった。
「今日姉上殿が来る事を、総司は承知なのでしょうか」
言葉にはせず頷くだけで是と伝えた処に、まだ弟を止める事を諦めきれない光の辛い思いを感じとり、八郎は敢えてその話題を変えた。
「もう一度会いに行くとは伝えてありますが、それが今日とは知らせてはありません」
「それでは喜ぶでしょう」
「・・・そうでしょうか」
気弱な笑い顔が、まだ弟との間にあった拘りは解けていないのだと言っていた。
「普段は欠片も見せないくせに、総司は妙に頑固な処がある」
「本当に・・」
そんな八郎の少々乱暴な物言いが、歩を進める度に心の重くなってゆく自分への気遣いと知り、その好意に応えるように、光が小さな声を立てて笑った。
「京へ上れないのならば、命など要らないと言われた時には、流石に諦めねばならないのだと思いました」
微かに笑いを含むような声音で光は語るが、それはきっと激しい言葉のやりとりの中で成されたのであろう。
思い出すように瞳を細めた面に、明るすぎる陽に不釣合いな翳りが浮かんだ。
「そんな事を、あいつは言ったのですか」
歳の離れた長姉の光は、早くに両親を亡くした総司には母親も同然と聞いている。
その姉を哀しませることは、総司にとっても本意では無い筈だ。
だから結果的にそうなってしまったことで、どれ程胸を苛まれているであろうかは想像に難くない。
だが他に代えられるべくもないその大切な人の願いを、命を掛してまで拒んだ理由を自分は知っている。
そしてそれに行き当たれば、常に抑え切れない苛立ちに、己の胸の裡が猛り狂う事も。
血を分けた肉親より、自分の命より大事なものの為に、総司は京に上る。
たった一人の人間の為に江戸を発つ。
総司にとって、それが唯一で他は無い。
思えば逆巻く嫉妬で、いつか我が身すら焼き尽くすだろう業火の焔を鎮める術を、八郎は知らない。
「伊庭さまの処に、あの子は一体何を忘れていったのでしょう?」
突然黙り込んだ八郎を不審に思いながらも、光は姉としての疑問を先に問うた。
「ああ、これですか・・・」
掛けられた声にふいに現(うつつ)に戻されて、八郎が手にあるもうひとつの包みに目をやった。
「先日来た時に雨に濡れたあいつの着物です」
「それはお手数掛けさせてしまい、申し訳の無い事を・・」
到底目の前の若者が濡れた着物の後始末をしたとは思えない。
きっと家人の手を煩わせてしまったのだろう。
光はそのことをひどく気に掛けた。
「うちには門弟も多い。こんな事は別段どうという事もないのです。どうかご懸念無く」
憂いを帯びた顔からそんな光の思いを察して、八郎は苦笑した。
濡れた理由を話したら、この婦人はどんな風に顔を強張らせるのだろう。
だが真実を突きつけてやりたい人間は他にいる。
これから行く先で土方と顔を合わせた時、果たして自分は何事も無いように遣り過ごす事ができるのだろうか。
総司を抱いたのだと、そう告げる一言を、自分は堪える事ができるのだろうか。
そしてその一言を我が口から解き放ったとき、内に滾る想いを最早封じるものは無くなり、どんなことをしても総司を掌中に捉えるべく自分は走り出す。
「もし、伊庭さま」
諦めるのだと、そう決めた心が次の瞬間にはいとも簡単に翻る己の心の不甲斐なさを戒めたとき、光の柔らかな声がした。
「・・・弟は伊庭さまに何か申し上げてはおりませんでしたでしょうか?」
「何かとは?」
光の表情は、躊躇った末に意を決して問うたという風なものだった。
「いえ、何もお話していなければ良いのです」
笑った顔が、無理に作ったものだとは容易に知れた。
「何か総司が私に話すような悩みを抱えていると仰るように聞こえたが・・」
穏やかに語りながら、だが八郎の調子はその先を噤むことを光に禁じるかの如く強かった。
それでも光は暫し逡巡するように、言葉を切らせていた。
だが歩を止め、じっと自分の応えを待つ八郎に、光は微かな諦めの吐息を漏らした。
この若者は自分に隠す事を許しはしないだろう、いっそそう思い切ることが、光にひとつの決心をさせた。
「大した事では無いのですが・・・。お友達の伊庭さまになら近藤さまや歳三さんにも言えない不安を打ち明けたかもと・・」
「不安?」
不吉を暗示する言葉の意味を判じかね、八郎は光に視線を据えた。
土方について、ただそれだけの為に京に上る総司に、不安や迷いなど無いはずだった。
が、そうとは認めたくない心が、同時に八郎を苛立たせる。
「・・私ども姉弟の両親(りょうおや)は共に若くして胸の病で亡くなっております」
八郎の心裡を知るはずも無く、漸く語りを始めた光の横顔が、まだ全部を言うに戸惑うように硬かった。
「私は・・・弟の総司が、その質を一番に受け継いでいるように、そんな風に思えるのです。ですから・・」
振り向いて八郎を見た顔が、まだ見ぬ先への暗い予感を闇雲に危惧するには真剣すぎた。
「余計に、弟を京にはやりたくないのです」
言い切って、あとは黙って俯いてしまった佳人の憂い顔を、暫し八郎は見ていたが、やがて静かに口を開いた。
「それだけでしょうか?」
「・・え?」
「ご自分の心の中にある不安だけで、そのように言われるとは思えない」
見上げた光が、その口調の強さに一瞬怯んだ。
「何か他にご心配ごとがあるのでは無いのですか?」
八郎の言葉は更に強引とも思える性急さで、光に先を促す。
「何か・・いえ、誰かに言われたのではないのですか?総司の身体の事を」
それは八郎にとっても、常に懸念するべきものだった。
宗次郎とまだ呼ばれていた初めて会った少年の頃から、総司の脆弱な肉体は、天稟とも言える剣の才が開いて行くのと背中合わせに、消えることなく八郎に不吉な影を感じさせていた。
肉親の光がそれを案じるのは当然と言えばそれまでだが、ごくありふれた憂慮を確信に変え、更に京にやることを危惧させるまでの具体的な何かを知ったからこそ、上洛間際のこの時まで、この婦人は弟の旅立ちを憂慮している。
それを、八郎は知りたいと思った。
否、知った事実が総司を繋ぎとめておける術になるのなら、卑怯と侮られる事など何を厭うものでもなかった。
それ程までに・・・・
追い詰められているのは自分なのだと、まざまざと見せ付けられながらも、だがもう後戻りできない事をも、八郎は又承知していた。
道は次第に勾配がきつくなってゆく。
試衛館のある甲良屋敷へと続く急な坂が、じき見えてくるだろう。
「誰にも・・・、無論、近藤さん土方さんにも言いません」
時を限られ、八郎は今一度光を真っ向から見た。
八郎の双眸に射抜かれて動けず、佇んだまま沈黙が支配する中で光は、本当は自分の胸にだけ秘めておかねばならなかった事実を、つい他人に漏らしてしまった心の弱さを後悔していた。
「決して他言はしません」
交わして逃げる術は無いのだと、更に自分を追い詰める声音は、だが酷く真摯で硬い。
それが当惑の中にいた光に、さらにもうひとつ深く踏み込んだ決意を促した。
この若者になら話しても良いのかもしれない。
近藤土方には近すぎて打ち明けられない重い不安を、或いは誰かに打ち明けねば堪えられない瀬戸にまで、光自身も来ていたのかもしれない。
「案ずる程のことでは無いのですが・・」
語り始めた小さな声は控えめと言うよりも、むしろまだ戸惑いを抜け切れない光の心模様のようだった。
「去年あの子が麻疹をやりました時に、診て下さったお医者様に少し気になることを言われました」
「夏のことですね?」
敢えて念を押す八郎に、光は小さく頷いた。
忘れもしない。
否、忘れる訳が無い。
あの時小野路村で静養していた総司は周囲の反対を押し切って床を離れ、丁度見舞いに来た自分と試衛館に戻った。
途中、雨を凌ぐ為に身をよせた神社の社の中の出来事を、八郎は記憶ではなく、今も五感を震わすような血の昂ぶりとして思い起こす事ができる。
そしてあの時も自分は、総司の土方への激しい想いを目の当たりにしなければならなかった。
「元々が脆い造りの身体なのだと・・・。剣術で激しく身体を使う場に身を置けば、いつか命そのものを削ることになるだろうと・・・、そう言われたのです。それで京に上れば今の生活よりもずっと忙しい日々を送らねばならなくなるのではと・・姉の愚かさで、そのような事を懸念しているのです」
そこまで言って揺れる心を隠すかのように瞳を伏せてしまった所作が、光の不安の大きさを物語っていた。
光自身も総司を育ててきて、その言葉の意味するものは漠然と感じていたに違いない。
だが昨夏たまたま麻疹に罹った時に、医師から告げられ急に現実味を帯びていた処へ、今回の上洛という思いもかけない事柄が舞い込み、膨れ上がった不安を抑えようが無くなってしまたのだろう。
姉の光が総司の願いを頑なに拒んだ理由が、八郎には痛い程に分かる。
「総司にはそのことを?」
きっと告げたい相違ないと確信しながらも、八郎は問い質さずにはいられなかった。
そうでなければ幾ら感情が昂ぶったとは言え、近藤土方の前で京に上る事ができぬのなら我が身など要らないと、そこまで言い切る事はなかっただろう。
そして光はその事を弟が心の重荷にして、友人である自分に不安を明かしはしなかったかと問うたのだ。
「・・・私が、必死すぎたのでございましょう。ついあの子の身体の限界を口にしてしまいました。人よりも無理が効かない身体なのだと・・・。遠まわしにとは言え、先のある身に残酷な事を言ってしまいました。それで悩んだあの子が伊庭さまに、もしや何かお話したのではと・・そんな風に思ったものですから」
総司に伝えた事が、光の心を強く苛んでいるのは、言葉にしている途中から次第に沈んでゆく声音で判じられた。
だがそうまでしても、この姉は弟の上洛を止めたかったに違いない。
それを思えば決して責める事はできない。
そして総司はその光の、血を振り絞るようにして告げた一言にも首を振り続け、むしろ命を削る事など何も厭わないと撥ね付けた。
何もかも捨て去ってもついて行きたい人間が、総司にはいる。
命に代えて守りたい想いが、其処にある。
だがそれ程に激しい土方への想いを聞いてしまえば、己の裡にも堪えようの無い焦燥が渦巻く。
総司を京にはやりたくは無い。
京は遠すぎる。
否、やりたいのは京ではなく・・・
土方の元へとだ。
諦めようと決めた心は、それを遥かに凌ぐうねりに呑み込まれ、波が浚った跡には捨てきれない狂おしい想いだけが残る。
「姉上殿のお気持ちは分かりました。この件、決して誰にも口外致しません」
改めて知った総司への恋情が、更に激しく胸に滾り出し、今どうにもならない葛藤の中にいる八郎の胸の裡を知らず、光は強い口調に励まされるように微かに頷いた。
「つまらぬ愚痴をこぼしてしまいました。どうかお許し下さい」
伏せがちだった瞳を上げて言い切った時、こんな話を聞かされて気が重くなったであろう八郎に、光は申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
出立を明後日に控えれば此処に腰を据えている食客連中も、流石にその準備に各々の国元に戻っているらしく、普段は賑やかなこの建物も今日は酷く落ち着いている。
その静けさが、不思議と落ち着きの無いものを感じさせる。
馴れとは恐ろしいものなのかもしれない、ふとそんな思いに苦笑した八郎を、総司が怪訝に見上げた。
「何でもない。いやに静かでらしくもないと思っただけだ」
「でもみんな明日になれば戻って来る」
総司自身も一抹の寂しさを感じていたのか、八郎に向けた面に笑みが広がった。
先日雨の中を断りも無く帰って来てしまい、その後尋ねた時には八郎は留守をしていた。
気まずいままで別れる事を気がかりにしていた総司にとって、叉こんな風に自然に話せることが何より心を軽くさせてくれる。
「それよりおまえ・・」
言いかけて、八郎が障子の向こうを見た。
「姉さんに会わなくていいのか?」
「今は近藤先生に挨拶をしているから・・・姉とはあとでゆっくり」
姉と言う言葉を口にしたとき、ほんの一瞬総司の瞳が翳ったのを八郎は見逃さなかった。
先程まで同道していた光に良く似た細い面輪は、そのまま唇を結んで沈黙の中に入り込んでしまった。
火鉢の中の炭を熾す振りをして自分から視線を逸らせたのは、或いは総司自身の心に残るしこりのせいなのかもしれない。
まだ俯いて何かを考えている様子の総司を見ながら、八郎はそんな風にこの姉弟にある葛藤を思った。
「姉さんがお前の事を言っていた」
「・・何を?」
ふいに掛かった声に、現に戻されたように総司が顔を上げた。
「聞かぬ頑固者だと」
「姉には・・・詫びて済むことではないけれど・・」
言葉は、総司の苦しい心そのものの様に、最後まで紡がれず途切れた。
「少しは悪いと思っているらしいな」
曖昧に頷いただけで是と応えた仕草が、それがより深いものだと告げていた。
「育てて貰って・・・・大切な大切な人なのに・・いつも哀しませてばかりいる」
それはつい零れた本音なのだろう。
呟きは八郎に向けられたものではなく、むしろ自分自身への咎として言い聞かせるように苦しげな響きがあった。
俯き加減に火箸を手繰りながら今総司は、情ないと己を罵倒したい思いの内だけにいるのだろう。
その悔恨の時を邪魔せぬように八郎もまた無言で、陽の当たり始めた障子に移した目を眩しそうに細めた。
暫し互いの思惑の中に居て、ふいに顔を上げた総司の視線が、八郎のそれと合ったのが同時だった。
だが聞え来る足音に敏感に反応し、そちらに顔を向けたのは総司ひとりだった。
それが誰のものか分かるが故に八郎は、敢えて視線を火箸を握る総司の骨ばった細い指に縫い付けたまま振り向かなかった。
「光さんが待っているぞ」
開けられた障子から姿を見せたのは、やはり土方その人だった。
其処に八郎の居るのを気にも留めず、少し不機嫌とも思える声で促した。
すぐに立ち上がり、しかし躊躇うように、座して動かぬ八郎を総司は見た。
その視線を感じ取って、漸く八郎が視線を上げた。
「行って来いよ。俺は今日は急ぐ用もない」
それを聞いて安堵したように小さな笑みを浮かべると、総司は今一度土方に向き直った。
「光さんは客間に居る。近藤さんも二人で過ごすようにとの事だ」
「・・・でも」
「でもも何も無いだろう。これ以上姉さん不孝をお前はする気か?」
土方が叱るのは尤もな事だった。
だが先程光からこの二人の姉弟の間にある、もっと深い事情を聞いてしまった八郎には、総司の心の揺れ動く様が手に取るように分かる。
おそらく光の懇願を拒み通した時から、姉は弟がすでに自分の手の届かない処にあるのを知り、弟は姉を捨てたのだと自分を責め苛む日々を送ってきたのだろう。
そして何より大事な筈の姉を退けても捨てられなかった者が、今総司を諌めている。
「きちんと話をして来い。それがお前の償いだろう」
突然掛けた八郎の声が、それまでの二人の会話を断ち切るように厳しかった。
が、その言葉が総司の何処かに響いたようで、暫らく動きを止め八郎を見下ろしたまま立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと頷いた。
籠めた意味を分かって去って行く背は酷く薄く頼りない。
だがその裡に秘める土方への想いは、いつか総司自身をも焼き尽くすだろと思わせる程に激しい。
それを八郎は、何よりも憎いと思う。
「償い・・とは何のことだ」
それがずっと引っかかっていたのだろう。
総司の姿が見えなくなるや否や、後ろ手で障子を閉めながら、土方は座りもせず八郎に問うた。
「姉さんを捨てて行くことへのさ」
「捨てるとは容赦の無い言い様だな。あいつも辛い筈だ」
つい庇ってしまったのは、例え八郎と言えど総司の心情にまで立ち入り触れることが、どうにも許せない土方の癇症がさせたものだった。
「いや、捨てる。・・そう、捨てるのさ。総司は全てを捨て去る」
そしてあんたについて行くのだと、思いのままに迸りそうになる激情を、八郎は漸く堪えた。
八郎の言葉の意図するものを分かりかね、だが向けられた視線の険しさに土方が眉根を寄せた。
「どういう事だ」
問うた声が我知らず低くなった。
「捨てて、京に上るのだと言っている」
今回浪士組に参加して上洛するにあたっては、近藤も道場を閉め皆それなりの覚悟をしている。
だが八郎の言葉はそんなことではない、もっと具体的な鋭い何かを土方に突きつけていた。
「お前は何を言いたい」
無言で、射抜くような八郎の強い視線を、土方は逸らさず撥ね返した。
「知っていることはそれだけだ。あとはあんたが自分で知るがいい」
言い終えた時、更に双眸に湛えられたのは挑戦の色だった。
この目の前の男の背だけを、総司は追い続けてきた。
脇目もふらず、否、他の誰も何も目に入らず、ただこの男だけを見ていた。
そして尚総司は振り向かない男に、我が身すら捨ててついて行こうとしている。
それを思えば、八郎の裡に焔立つ嫉妬はもう出口を見つけられない。
「総司が何か・・」
土方の一層低い声が、暫し制していた重い沈黙を破ろうとした時、それを邪魔する慌しい足音が聞えてきた。
当然行過ぎると思ったそれは、以外にこの前で止り、声も掛けずに音の主は障子を開けた。
だがそうした本人が、室に漂う尋常でない空気に一番驚き、中にいた二人の顔を交互に見比べた。
「どうした」
気圧されたように言葉の出ない近藤を、先に促したのは土方だった。
「・・・ああ、すまん。小野路村から小島殿が見えられた。わざわざ出立の挨拶に来てくれた」
其処にいる八郎に少々申し訳無さそうに顔を向けると、近藤は土方に告げた。
道場を畳んでの出立を明後日に控えれば、来客は多いだろう。
「俺の事ならどうか構わず。今日は総司に会いに来ただけですから」
「慌しい事ですまんな」
笑えば、厳つい顔を不思議な程人懐こい表情にさせる近藤に、八郎も釣られて片頬を緩めた。
「先に行って待っている」
来た時と同じように忙(せわ)しく戻って行く近藤の背を土方は追わずに見ていたが、それも視界の端から消えるともう一度八郎を振り向いた。
「伊庭、先ほどの話あとで聞く」
それが今土方の心にある苛立ちそのものとでも言うように、乱暴に閉じられた障子が無遠慮な音を立てた。
「・・聞いてどうする」
恋敵への捨て台詞が、届かぬ想い人への恋情と重なり合う。
己の心を止める術はもう何処にも無いのだと、だがそうなる事を何処かで望んでいた自分を知って、八郎は低い自嘲の笑い声を漏らした。
ゆっくりと立ち上がりふと見下ろした視線の先に、上洛の支度なのか、風呂敷の包があった。
たった一人土方への想いを貫く為だけに、総司は居なくなる。
決して大きくは無い、むしろ旅立ちの荷物にしては少なすぎる程の小さな包みが、全てを捨て去る総司の覚悟を物語っているようだった。
総司には土方への想いだけがある。
そして他には何も無い。
人影の無くなる狭い室は、叉ひっそりと主の帰りを迎えるのだろう。
だがもう此処で、自分は想う人を待つことはできない。
土方の名を呼ぶ唇を奪い、離れ行こうとする足を斬り、がんじがらめに縛りつけ何処にもやらない。
それを実として為してしまいそうな自分を、総司の顔を見たらもう抑え込む事はできない。
廊下を踏みしめる度に鳴る板張りの軋む音が、まるで己にかせていた箍(たが)の、ひとつひとつが切れて外れる様のように、八郎には聞える。
「畜生っ」
短く吐き捨てた低い叫びは、総司に向けられたものか、或いは自分自身に向けたものなのか・・・
そのどちらでもあるように八郎は、爪が食い込むまで掌を握り締めた。
きりリクの部屋 雫U(下)
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