福徳円満にて、候 (弐)
風を入れる為に、戸は半分以上開いていた。
「ごめん下さい、喜八さんの家はこちらでしょうか?」
表に立っておとないを立てると、
「…へぇ、そうです」
中から探るような声がした。
「新撰組の者です。魚の代金を持って来ました」
すると今度はいらえも終わらぬ内、何かが倒れるような大きな物音がし、間を置かず、低い呻き声が聞こえてきた。総司が慌てて敷居を跨ぐと、狭い土間に、若い男が尻餅をついて顔を顰めている。
「大丈夫ですか?」
「おおきに、腰を上げた途端、よろけてこの有様ですわ」
喜八は白い歯を見せて笑った。
「捻った足は…?」
「今痛いのは、足より尻ですわ」
明るい声につられ、総司の顔にも笑みが広がった。が、その安堵が、肝心の用を思い起こさせた。
「あ、そうだ…」
総司は金の包みを取りだすと、上がり框に置いた。
「預かって来たお金です。忘れてしまうところでした」
「これは…、御足労をおかけさせて、申し訳の無いことです」
「こんなこと、何でもありません」
恐縮し頭を下げる喜八に、総司は笑って首を振った。胸の裡に、少しだけ誇らしい気分が湧く。
「今受け取りの証文を書きますよって」
喜八は足を庇いながら、立ち上がった。
家は煮炊きをする土間と、一間半の板の間、その奥に六畳の部屋と云う構成だった。総司は物珍しげに、家の中へ視線を巡らせた。しかしすぐに、汗の引いた白い面輪に訝しげな色を浮かべた。止めた視線の先には、喜八の姿がある。喜八は息を詰めるようにし、金の入った包みをじっと凝視している。
「…あの」
様子をおかしく思って声を掛けても、黙りこくった背は振り向かない。
戸惑いあぐねた総司が、近所の者を呼んだ方が良いのだろうかと思案した時、やがてぽつりと喜八が呟いた。
「…まだ、間に合うかもしれへん」
それは心の裡から押し出したような、重い響きだった。喜八は総司に目を向けた。その顔が、恐ろしく真剣だった。
「…頼まれてくれへんやろか」
「頼み…?」
喜八はごくりと喉を上下させて頷くと、総司の肩を鷲掴んだ。
「お願いです、どうか頼まれて下さいっ、今ならまだ間に合うかもしれへんっ」
喰われんばかりの勢いに気圧され、総司は瞳を瞠り、言葉を失くしている。
「この金を、錺師(かざりし)の朝次郎親方のところへ届けて欲しいのやっ。そんで夕顔の簪を受け取って来て欲しいのやっ」
「……あさじろう…さん?」
「そや、朝次郎親方やっ」
喜八は畳みかけた。掴んだ藁を千切れても離さないと云わんばかりの、鬼気迫る形相だった。
「ここから麩屋町通りを上がって、四条も三条も越えて行くと、御池通りと押小路通りの間に白山社云う神社がある」
総司が黙っている間にも、喜八は云い聞かせるように声を低くし、道を説明し始めた。
「朝次郎親方の店は、その南隣や」
「…そこに、行けば良いのですか…?」
黒目がちな瞳が、喜八を見上げた。
「頼まれてくれはるんですかっ?」
良いも悪いも無い、もう喜八は総司が行くと決めつけている。それに承知しなければ、この手は離して貰えないだろう。
「おおきにっ」
掴まれた肩を大きく揺すられ、波に遊ばれる小舟のように、頼りない身体が大きく前後した。
常に人通りの絶えない四条通りだが、特に今は祇園社の祭りの真っ只中。まだ昼前と云うのに、道行く人は引きも切らない。
人混みに揉まれ、身体をぶつけぶつけられ、詫びを云い云われて、たかが十三間。普段なら向う側を歩く相手の顔とて分かる道幅を、人の流れに逆らい渡り切るのに、総司は四苦八苦していた。
「あっ、えろう…」
すみません、と肩に触れた相手の声がすぐに掻き消え、姿は瞬く間に遠のく。
梅雨明け特有の風が、ねっとりと膚を湿らせる。加えて、祭りの人熱(ひといき)れが一層暑さを煽ぐ。
仕事柄、この辺りの地理は熟知している筈が、その頭が茹ってしまえば、何処をどう歩いているのかすら怪しい。それでもどうにか大路を渡りきると、総司は小さく吐息した。 その刹那、褒美のような涼風が吹き抜けた。東を見ると、人と人の間から、鴨川に架かる四条大橋の欄干が見える。団扇片手に前を過ぎた男が、昼飯は何を食おうかと、連れの女に楽しげに語りかけた。それを聞いて、総司は慌てた。もうそんな時刻なのだ。
道を渡るだけでこれ程時間を喰った自分も情けないが、今はその事に拘っている暇は無い。喜八から託された金を、朝次郎と云う錺職人の元へ、一刻も早く届けなければならない。
大体が、受取に行く期日は昨日だったのだ。
一時の休息も惜しんで、総司は足を急がせた。
使いに出された先で、使いに出される。
永倉あたりに聞かせれば、何の洒落だと返ってきそうなこの展開を、総司は不満にも思わないし、不思議とも感じていない。
困っている人間の代わりに使いに出、行った先でまた使いを頼まれた、ただそれだけの事だ。何より、喜八が打ち明けた理由には、総司自身、思わず心情を重ねてしまうものがあった。
――その中身は、こうだった。
朝次郎と云うのは、表通りに店を構え、弟子も四、五人抱える錺職人で、喜八はその朝次郎に簪を一本注文した。
朝次郎の腕は、大藩の京屋敷へ簪笄(かんざし・こうがい)を納めている事でも知れる程、確かなものだ。無論、それなりに値も張る。だが喜八はその腕に惚れ込んだ。自分が望むような彫りは、朝次郎でなければ出来ないと思った。注文したのは、夕顔の花を意匠した簪。そこまで一気に語ると、喜八は言葉を切り宙を睨んだ。そして云った。この注文を受けて貰えるか否かが、これからの人生が、売れ残りの魚の目のような空しいものになるか、はたまた水を弾く鮮魚のような勢いのあるものになるかの、一生の境目だったと…。しかしそれと簪がどう結び付くのかを総司が訊くと、いなせな魚屋の気風(きっぷ)はたちまち萎んだ。そして引き戸の方をちらっと見、俯いた。心なし、赤い顔をしている。総司は訳の分からないまま、喜八の見た方向へ視線を送った。その時、まるで気配を察したように、斜め向かいの家の戸が開いた。出てきたのは、小さな風呂敷包みを抱えた若い娘だった。紺の単の襟を、喉元できっちり合わせている。その慎ましやかな風情が、娘の清楚さを際立たせていた。
「…おゆうちゃん」
ぽつりと、喜八が呟いた。
「えっ…?」
「だからっ、あれがおゆうちゃんやっ」
喜八は顔を上げず、苛苛しげに膝を揺らした。
「おゆうさん…?」
そう云われても、総司にはどうすれば良いのか分からない。だがわざわざ名前を教えてくれたからには、挨拶に行けと云う事なのだろうか…。
貧乏ゆすりを止めず、益々顔を赤くしている喜八に、
「あの…」
総司は、そっと声を掛けた。
「挨拶に行った方が、良いのでしょうか?」
「挨拶ぅっ」
素っ頓狂な声を迸らせると、喜八はまじまじと総司を見た。そしてその口で何かを云いかけたが、突然、総司の袖を引っ張ると自分の後ろに隠した。抗いの声すら上げられない、一瞬の出来事だった。
「喜八さんっ…」
「しっ」
喜八は短く叱った。
「喜八はん」
畳に押し潰された総司の耳に、柔らかな声が聞こえた。
「足の具合はどない?」
「もう大丈夫や」
「骨にひびが入っておるんやから、この前みたいに無理したらあかんえ」
「…うん」
応えた声に、蕩けるような幸福感がある。
「あら…、お客はん?」
後ろを覗くようにして掛った声に、顔を上げかけた総司を、喜八は更に強い力で押し込めた。毎日桶を持って魚を売り歩いているだけあって、喜八の腕力は強い。総司はびくりとも動けない。
「ちょっと知り合いが来たんや。気にせんといて」
「けどお客はんやったら、お昼二人分要るやろ?おかあはんに云うとくわ」
「要らん、要らん」
喜八は急いで手を振った。
「そないな迷惑かけられへん」
「けど…」
「それにこの人はもう行くよって」
「…そう?」
おゆうは少し思案していたが、自分も急がねばならなかったらしく、
「ほな必要になったら、遠慮のうおかあはんに云うてや」
そう云い残すと、喜八の、きぃつけてぇな、の優しい声に送られ木戸へ向かった。
「…奇麗やなぁ、おゆうちゃん」
うっとりと、喜八が呟いた。
「あの、もしかして簪は…」
漸く開放された身体を起こしながら、喜八の幸福を邪魔せぬように、総司は小さく問うた。
「簪…」
その途端、喜八は我に帰り、総司に向き直った。
「そうやっ、簪はおゆうちゃんに上げるんや。今はこないに汚い裏店に住んではるけどな、おゆうちゃんの家は、元は四条に店を張るおっきな糸問屋だったんや。それがおとうはんを亡くすや、店はみるみる傾いて…。おゆうちゃんとおかあはんは、身ひとつでこの裏店へ来たんや。一年前の丁度今頃、大家はんに連れて来られたおゆうちゃんは、心細い思いをおかあはんの為に一生懸命隠して、皆に挨拶してた。その笑い顔がいじらしくて…。この人を守りたい、守らなあかんって、うちは身の内が熱く滾ったんや。…あんな想いは生まれて始めてやった。…一目惚れってやつや」
「……」
「それから一年。うちの一日は、おゆうちゃんに始まりおゆうちゃんに終わってる。けどおゆうちゃんを見て溜息ばかり吐いていても、何んも進まん。だから決めたんや」
喜八の横顔に、若々しい強さが弾けた。
「決めた?」
「おゆうちゃんを、嫁にするんや」
「その事を、おゆうさんは知っているのですか?」
「…いや」
勢いづいて語っていた声が、情けない程小さくなった。
「そう簡単に云えるようやったら、一年も悩まんわ」
「でも伝えなければ、お嫁さんになっては貰えません」
喜八は、垂れていた顔をちらりと上げて総司を見た。
「優しい顔して、きつい事云うてくれるなぁ」
「すみません…、でも」
「言葉で云わな伝わらんのは、分かっている。せやし、一生懸命金を貯めて、当代一の錺職人やて云われる朝次郎親方が彫った夕顔の簪と一緒に、嫁になって欲しいって云おうと思ったんや。…そないな方法でしか、どう伝えてええのか分からん」
「おゆうさんのゆうと、夕顔のゆう…」
呟いて、はたと気付いたように、総司は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「喜八さんの中で、おゆうさんは夕顔のような人なのですね」
どうやら図星だったらしく、喜八はもじもじと顔を赤くしていたが、
「おゆうちゃんには、真っ白い花が似合おうてる」
やがてぽつりと、声を丸めた。
かくして、話はもとの仕儀に戻る。
一年越しの恋心を形に変えた簪は、内金を入れてあるものの、昨日取りに行かなかったから、他所に流れている可能性もあった。それ程、朝次郎の作る簪笄(かんざし・こうがい)の人気は高い。大体が、魚の行商人の依頼を受けてくれるような錺職人では無いのだと、喜八は云った。そこを日参して頼み込み、出来上がりの期日には必ず残金を払うとの約束で、一月の後、漸くうんと云わせた大事な簪だった。その為に喜八は、新撰組を得意先に組み込み、現金ならば鮮魚を破格値で売る算段をつけるなど、体を張って金を稼いだ。喜八は本気でおゆうに惚れているのだ。
恋をしている者だけの持つ一途さが、総司に、喜八の事情を他人事で無くした。
「…急がなくちゃ」
足よりも、心の方が先へ先へと余程に急ぐ。
朝次郎は職人肌らしく、ひとかたならぬ頑固者だと云った時の喜八の硬い顔が、脳裏に浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
そう云う人間なら、どんな事情があるにせよ、約束を守らなかった事で簪を渡しては貰えないかもしれない。
乱れがちになる息との折り合いをつけながら、総司は足を励ました。
麩屋町通りをひたすら上がり、じき御池通りに出ようかと云う処で、右手に、こんもりと小さな杜が見えた。云われていた神社らしい。だとしたら、その隣が目的の家の筈だった。
総司は立ち止まると、瞳を細くし、先を窺った。
神社の生い茂った木が屋根の上に枝を被せ、その家だけ、天道の陽から守られるように澄ました顔をしている。
額からこめかみ、顎へと滑る汗を手の甲で拭った時、風に戯れ翻っていた暖簾がこちらを向いた。紺地に「朝」と、白く染め抜ぬかれている。
総司は深く息を吸い、気を引き締めた。
「ごめん下さい」
おとないを立てたが、返事が無い。
「ごめん下さいっ」
もう一度、今度は奥に届くように声を伸ばすと、漸く人の足音が聞こえてきた。
「どなたはんで?」
現れたのは、突き出たような頬骨としゃくれた顎を持つ、三十前後と思われる男だった。用心の目で、見慣れぬ客を探っている。
「喜八さんの使いで来た者です。朝次郎さんはいらっしゃいますか?」
「喜八…?」
「朝次郎さんに、簪を頼んであるのです」
「ああ…」
男は漸く合点が行ったようだった。そして不意に顔を厳しくした。
「あの簪は、昨日が受け取りと約束を切ってあったんや。けど喜八は来んかった」
「来る事が出来無い理由があったのです」
「金ができんかったんやろ?うちの親方の彫るもんは、行商の魚屋になぞ手の出る代物やない。せやから、親方も女将さんもやめとき云うたんや」
こうなるのは最初から目に見えていたのだと、男は吐き捨てた。その物云いに、一生を賭けるような恋を見つけた者への、羨望と妬みがあった。
「違います」
「何が違うんや」
総司の勢いに気圧されて、男の声が怯んだ。
「喜八さんは足を怪我してしまって、動く事ができなかったのです」
「怪我ぁ?」
「本当です」
「けどな」
男は引かなかった。
「歩けんでも、来る事はできるやろ。例えば駕籠を使う、とかな。いやその気があるなら、這ってでも来れる筈や」
「それは…」
無理だと云いかけて、総司は口ごもった。
今日持っていった魚の代金を足して、簪の残金にするつもりだった喜八に、駕籠を使う余裕などある筈が無い。
それに喜八は、男の指摘した、這ってでもと云う行動はとうに試みたのだ。が、無謀な試みは、木戸まで行かぬ内に敢え無く頓挫した。医者は無茶を叱り、これ以上動けば歩くに一生障りが出ると脅した。無理をするなと、おゆうが念を押したのは、そう云う経緯を指したのだ。
しかしそんな事よりも、喜八が誰にも助けを求めなかったのは、簪の事は自分一人の胸に秘めておきたかったからではないかと、総司は思う。恋とは、内緒を作りたがるものだ。
ところが金が揃った時、一度は断った希の糸が、喜八の目にもう一度その端を見せた。
まだ間に合うかもしれない…、と。
見栄も外聞もかなぐり捨て、喜八はその糸に縋った。
そんな心情を、どう説明しようかと思案にくれていた時、
「伸介っ」
女の声がした。
「あ、女将はんっ」
伸介と呼ばれた男は、慌てて振り向いた。
「お客はんをお待たせしたら、失礼やないか」
弟子に一喝しながら現れたのは、廊下の幅程もありそうな、恰幅の良い女だった。その女将に、伸介がペコペコしている図が妙に合っている。
「どなたはんですやろ?」
上がり框に膝をついた四十からみの女将は、弟子には厳しいらしいが、丸い鼻とおちょぼ口に、何ともいえない愛嬌がある。総司に柔らかい笑みを向けた。
「喜八さんの使いで、簪の代金を持ってきました」
その人当たりの良さに背を押されるように、総司は慌てて金の包んである懐紙を差し出した。
「ああ、喜八はんの…」
「約束が昨日までだとは承知しています。でも喜八さんは足を怪我して、こちらに来ることが出来なかったのです」
「あいつ、簪の金で一杯で、駕籠を使う金まで回らんかったようですわ」
伸介と云う男が横槍を入れた。
「やっぱり、そないな事情でしたんやなぁ…。あんだけ出来上がりを楽しみに、仕事帰りに何度も寄ってはった喜八はんが、まさか昨日来ないとは、うちかて信じられませんでした」
女将は喜八の良心に安堵したように、微笑んだ。
「では、あのっ、簪はまだ…」
「それが…」
だが総司が喜色を浮かべた途端、女将は顔を曇らせた。
「…どこか、他所へ渡ってしまったのでしょうか?」
一瞬息を詰め問うと、
「そこまではまだ…」
煮え切らないいらえが返った。
「ではまだあるのですか?」
「それがなぁ…」
「どちらなのでしょうか?」
焦りが先走り、つい迫る口調になった時、
「玄関で、何を騒いでおるんやっ」
又も奥から声がした。今度は男の声で、太くしゃがれている。咄嗟に、朝次郎だと総司は判じた。
「上がって貰ろうたらええ」
亭主の声に促され、女将は慌てて総司に上がってくれと云う仕草をした。
「失礼します」
小さく頭を下げた寸座、玄関の隅に、派手な男物の草履と、赤い鼻緒の女物の草履が並んで揃えてあるのに視線が流れたが、気にも止めず、総司は上がり框を踏んだ。
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