福徳円満にて、候 (参)
「あら、さっきのっ」
案内された部屋に入るなり、突然、声が上がった。驚いてそちらを見ると、喜八の店であった女が、にこにこと笑っている。確か、名をおなみと云った。
「先ほどは、ありがとうございました」
端坐すると、少しばかり硬くなって、総司は礼を云った。
「いややわ、そないに畏まって。同じ裏店のもんは、皆親戚みたいなもんどす」
くすりと、おなみは悪戯げな視線を寄こした。だがその途端、
「おなみちゃんっ」
耳を塞ぎたくなるような金切り声が響いた。しかもその声は、
「またあんたかいっ」
今度は険を持って総司に回って来た。だがそう棘棘と敵意を剥き出しにされても、何がこの男を怒らせているのか、総司には分からない。睨みつけている男が、確か『市っちゃん』と呼ばれていたと、せいぜいそんな事を思い出したくらいだ。困惑の色を浮かべた瞳が、救いを求めるように瞬いた。
「お侍はんにこないな事云うたら失礼やけど、ほんま可愛らしい方やなぁ。何やほっとけん気持ちになるわ」
うふふと笑われて、総司は狼狽した。女性と云えば、姉の光かキヨが基本だから、こう云う女性にはどう接して良いのか皆目検討がつかない。
「おなみちゃん、あんたその、人さまをからかう癖、やめぇや」
「けどほんまの事やもの。女将はんかてそないに思わへん?」
「そりゃ…」
云いかけて、女将は口を噤んだ。そして慌てて続けた。
「思うたかて、云うてええ事と悪い事があります。仮にも、こちらはお侍はんどすえ」
堪忍しとくれやすと、おなみの代わりに頭を下げた女将だが、自分も失礼の上塗りをしている事には気づかない。その時、女達の向うから、
「いい加減にしいや」
先程と同じ、太いしゃがれ声がした。
「お客はんに、茶くらい出さんか」
女房を叱り、煙草盆の灰吹きのふちをぽんと叩いて吸い終わった灰を落すと、声の主は総司に顔を向けた。
「うちが朝次郎ですけど、どないな御用件で?」
ぎょろりと光る大きな目、しっかり座った鼻と厚い唇。堅気の職人とは思えない、押し出しの強い視線が、総司を捉えた。
「頼んであった簪を受け取りに、喜八さんの代わりにきました」
「喜八との約束は、昨日ですわ」
「分かっています」
「ほな、お帰り願いまひょ」
取り付く島も無い。だがそれが、総司の負けん気に火をつけた。
子供の使いではないのだ。
総司は朝次郎を見据えた。瞳に、頑固な色が浮かんでいる。
「分かりました」
「へぇ、やっぱり姿形とおんなじで、意気地の無い事」
「市っちゃんっ」
おなみが、男の太ももをつねった。
「だってぇ…」
男は、媚びるようにおなみを見た。
「おなみちゃんが、この人にあんまり優しくするからさぁ…あたしゃ、妬けて、妬けて」
「あほらし」
ツンと顎を横に向けると、おなみは手団扇で首筋に風を送った。
「ほんま、あほらし」
つられたように、朝次郎もぼそりと呟いた。その寸座、雁首の火皿に新しい煙草を詰めている横顔が緩み、強面が、気のいい親爺の表情になった。それを自分でも悟ったか、朝次郎は慌てて、軽く咳払いをした。
「それじゃ、話は終わりやな。喜八には縁の無い簪やったんや、そう云うといて下さい」
元の威厳を取り繕うように、朝次郎はゆっくり煙草をくゆらせた。
「その簪、もう他の人の手に渡ってしまったのでしょうか?」
「へっ?」
他所へ気を取られていたのか、それともくだんの喜八の事を思っていたのか、宙に霧散する煙を見ていた朝次郎の厚い唇から、腑抜けた声が漏れた。
「簪です。喜八さんがお願いした、夕顔の簪。もう他所に売られてしまったのでしょうか?」
総司は、朝次郎をひたと見詰めた。
「いや…、まだ」
気迫に押されて、朝次郎がしどろもどろになった。
「それなら、ここにあるのですねっ」
弾けるような喜色を浮かべた総司に、
「無い…と云う事も、あらへんけど…」
朝次郎のいらえははっきりしない。
「ここにあるのなら、私に売って下さい、その簪」
「売らん事もないけど…」
「お願いしますっ」
じり、じりっと膝を詰められて、朝次郎が屈強な体を仰け反り気味にした時、
「あら、残念」
冷ややかな声が、総司の背を刺した。
「あの簪なら、あたしが買うことにしたんですよ」
振り向くと、四越の若旦那が、唇の端を釣りあげていた。
「簪は、おなみちゃんのものになったの。あたしもあの簪が気に入っていてね、もし約束が反故になったらあたしが買い受ける事になっていたの。ねぇ親方」
「うっ、うっ」
ねっとりと視線を回されて、朝次郎は、慌ただしく視線を宙に巡らせた。
呆然と見詰める総司に、
「だって、あの簪は頼んだ親に捨てられて、迷子になっちまった可哀想な簪なんですよ。そこで見るに見かねたあたしが買ってやる事にしたんです。ありがたいと手を合わせられても、恨まれる筋合いはありませんよ」
若旦那は、顎を突き出すようにして云った。
「市っちゃん、市太郎はん、うちはかまへんのえ」
その横で、おなみが市太郎の袖をそっと引いた。
「何を云うんだい。おなみちゃんは、私があれを買ってあげる、これを買ってあげると云っても、いつも首を振るばかりじゃないか。それがようやくこの簪ならいいと云うから…。あたしは大喜びだったんだ。やっとおなみちゃんに、あたしの気持ちを受け取って貰えるって。それなのに…。おなみちゃんは、そんなに私の事が嫌いなのかい」
「市っちゃんの事は好きや。けどうちはこの簪に、そないな事情があるとは知らなかったんや。しかも喜八はんが注文していたんやなんて。…それに」
おなみは、総司に視線を移した。
「このお方が簪を欲しい云うんは、喜八はんの為やろ?」
総司は硬い表情のままでいる。
それで合点したように、おなみは市太郎に体を向けた。
「なぁ、市っちゃん、うちはこの簪でのうてもええんや。けど喜八はんは、これでのうてはあかんのや。せやからうちは、市っちゃんには別のを買うてもらいます。な、それでええやろ?」
白い指が袖を引いても、市太郎は口をへの字に曲げて返事をしなかった。だがおなみが、お願いやと、掴んだ袖を振ると渋々頷きかけた。
「おおきに、市っちゃん」
「ありがとうございます」
嬉しさを顔一杯に弾けさせて礼を云う総司に
「そないに喜んでもらえると、なんやこっちまで嬉しくなるわ」
おなみは照れくさそうに笑った。ところが。
「やっぱり、譲れません」
井戸の底から響いてくるような凍てた声が、二人の幸福に割って入った。
「市っちゃんっ…」
むっつりと総司を睨んでいる市太郎に、おなみが驚いた顔を向けた。
「今、ええって、云ったやないの?」
「云っていませんよ、あたしは」
「けど頷いたやろ?」
「途中まで、ね」
「あんた…」
おなみは絶句した。
「とことん、いけずやなぁ」
こうなればおなみも黙っていない。
「うちは市っちゃんの根性が、そこまで曲がってはるとは思わへんどした」
「いけずで結構、根性悪で上等」
責められて、市太郎はソッポを向いた。そして斜めに総司を見ると、
「あんた、本当にこの…」
懐から細長い包みを取りだした。油紙を捲って出てきたのは、銀の簪。
「簪が欲しいの?」
「はい」
「ふぅん。じゃぁ譲ってあげてもいいわ」
「えっ…?」
「ただし、ただって訳には行きません。今日これから、あたしの云う事を聞いて貰います。それであたしを納得させる働きをしたら、この簪を譲ってあげます」
「市っちゃんっ、お侍はんに、何てこと云わはるのっ」
「おなみちゃんは、黙っていて。これはあたしとこの人の勝負なんだから」
市太郎の目の端が、毒を含んで光った。明らかに総司を挑発している。大店(おおだな)の、我侭な若旦那と思ったのは、少しばかり見当違いだったようだ。市太郎はこの若さで、すでに強かな商人(あきんど)の顔を持っていた。総司はじっと市太郎を見た。
「云うことを聞けば、本当に譲ってくれるのですね」
「嘘は云いませんよ、あたしだって四越を背負っている人間です」
総司は簪に目を遣った。
銀の簪は、飾りの部分に夕顔を彫ってある。風が戯れた水面に立つ、漣(さざなみ)のように捲れている花弁の先は、陽を弾き、光を巻き、まるで生あるもののように踊り、作り物と云う事を忘れさせる。見事な出来栄えだった。喜八が、おゆうに似せて、否、おゆうそのものを彫って欲しいと願った想いが伝わってくる。
総司は市太郎に視線を戻した。
「何をすれば良いのです」
「そうね、じゃぁ…」
市太郎は、細くした目を総司に向けた。
「あたしの用を手伝って貰おうかしら。本当は店でお客さんの相手をして欲しいんだけれど、おなみちゃんに叱られちゃうから」
「市っちゃんっ」
「いいじゃないか、おなみちゃん。裏で私の用事を手伝って貰うだけだもの」
「けどっ…」
「やります」
「お侍はんっ」
これには様子見を決め込んでいた朝次郎も慌てた。
「簪やったら同じもんを作ります。せやし今日のところはうちの顔を立ててもろおて」
と、朝次郎は厳つい顔に似合わぬ臆病そうな視線を、ちらりと、総司の脇にある刀へ向けた。
「いえ、それでは朝次郎さんの作った夕顔の簪は、この世にふたつ在る事になってしまいます。それは困るのです」
「はぁ…」
「親方、こちらさんがこう云っているんだから、いいじゃありませんか。じゃぁ早速だけど、うちの店に来て貰おうかしらね」
「分かりました」
市太郎の楽しげな声が、部屋に響いた。
もう手に負えないとばかりに庭に顔を向けてしまったおなみと、刀に目を釘付けたまま顔を強張らせている朝次郎を他所に、総司は市太郎を見、しかと頷いた。
「じゃぁ、総司の奴は、その朝次郎とか云う錺職の親方の家へ行ったんだな?」
「へぇ、藁をも縋る思いで、つい」
永倉に訊かれて、喜八はしょんぼり下を向いた。
「そりゃ…」
永倉は難しげな顔をし、腕を組んだ。
「あんたも、とんだ藁に縋っちまったな」
「へっ?」
「いや、こっちのこと。で、此処を出たのはどの位前だ?」
「かれこれ、一刻は立ってますわ」
「一刻か…」
「もうそろそろ帰ってきやはる頃やないかと、思うてるんですけど」
喜八の不安も膨れに膨れ上がっているようで、目を瞬いた顔は、これでは魚も腐りそうに萎れている。
「その錺職の家へ行った方が、手っ取り早いだろう」
戸口に背を預けていた斉藤が、口を挟んだ。
「確かに、間違いねぇだろうな」
永倉も頷いた。
「すんません。うちの為に、お侍はん達にまで御迷惑をおかけしてしもうて…」
喜八は申し訳なさそうに肩をすぼめた。
「なに、これには色々訳があってな、あんたのせいじゃない。そう気にするな」
永倉は喜八の肩を軽く叩くと、斉藤に顎をしゃくり家を出た。が、夏の白い陽に焼かれた路地に出ると、すぐに眉を顰めた。
「どうやら総司の奴、又面倒の坂を転り始めているようだな」
「まだ分かるまい、無事使いを果たしているかもしれん」
斉藤の意見に、永倉はすぐには応えなかった。だが暫くして、
「俺にはどうもそうは思えんのさ」
自分も面倒の渦中に巻き込まれたかのように、軽い溜息をついた。
「こっちが番頭の種助。こっちが女中頭のおいわ」
紹介されると、種助は丁寧に頭を下げ、そして戸惑いの目を市太郎に向けた。
半年前、京に支店を開いた時、同業の嫌がらせに困り、屈強そうな浪人者を用心棒に雇った事はある。だが目の前の若者は、そう云う類の者とはかけ離れている。気紛れな若旦那が又何をしでかしたのかと、考えはついついそちらに走り、種助の顔に愁いを帯びさせた。おいわも同じ思いだったらしく、恐る恐る総司を見、そして市太郎を見た。
「この人は沖田総司さん。総司さんでいいよ。今日はこれからあたしの用事を手伝って貰います。お前達も何か頼む事があったら、遠慮なく手伝って貰らうがいいよ」
「ですが若旦那…」
種助はちらりと総司に視線をやり、云いにくそうに口ごもった。
「何だい、はっきりお云い」
「その…、お武家さまにお手伝いをして頂くなど…」
「ああ、その事なら気にしなくてもいいんだよ。これは総司さんと私との約束でね、あたしだってただでお使いしようって訳じゃないんだから」
「……」
「本当なのです。市太郎さんには私がお願いしたのです。だから何でも云いつけて下さい」
案ずるなとばかりに衒い無く笑われても、はいそうですかと頷けないのが、世間の怖さを知っている者の常識。しかも江戸日本橋四越で、丁稚から鬢に白いものが混じるまで商いを仕込まれた苦労人とならば、尚更。
「…はぁ」
種助は頬を強張らせ、笑った。
「ここがあたしの部屋」
市太郎は上機嫌だった。
「本当はさ、江戸の家みたいにもっと広いのが欲しかったんだけれど、出来合いの店を買ったんだから仕様がないわね」
四条通りにある四越は、鴨川と八坂神社の間、南座の並びにあった。京に良くある造り同様、店も屋敷も奥に細長く、奥まった市太郎の部屋まで来ると、祇園祭りで賑わう表の喧噪も届かない。
「総司さんっ」
天道が中天に回り影が消えた中庭で、元気の無くなった朝顔に目を止めていた総司に、容赦のない声が飛んだ。
「今から暑さ負けじゃ困りますよ」
云いながら、市太郎は続きになっている隣の部屋との襖を開けた。その途端、かびと埃の匂いがむっと鼻を突いた。何日も閉め切ってあったらしい。
「とりあえず、この荷の中に紛れ込んじまった草履を探して、その鼻緒を挿げ替えて欲しいのよ。表が市松模様の重ね草履でね、気に入って買ったは良いけど、下ろす暇も無くこっちに来ちゃったの。でも黄色の鼻緒がどうしても気に入らないのよ」
「市っちゃん、なんやのっ、この荷物」
おなみが、袖の端で口元を多い、部屋の中一杯に積まれている行李やら長持を呆然と見上げた。
「梅雨の走り頃に、江戸から船で送らせたあたしの荷物なんだけどね、忙しくて開けるのも面倒で放っておいたのさ。でも今のあたしには何も要らない。おなみちゃん一人がいればいいんだ」
意地悪ばかりを云っていた目が、ふと恥じらうような柔らかな色を帯びた。
「市っちゃんは、てんごが上手いなぁ。いっつもそないな事云うて、おなごはんをええ気持ちにしてはるんやろ」
「そんなこと無いよ、おなみちゃんだけだよっ」
「うちだけや…か、ほんま、罪つくりやなぁ」
謡うように呟くと、おなみはくるりと背を向け濡れ縁から中庭に下りた。
「おなみちゃんっ」
その後を、急いで市太郎が追う。が、足の指が鼻緒にひっかかりよろけた。
「大丈夫ですか?」
慌てて声をかけた総司に、
「余計なお世話っ、それより、半刻の間に挿げ替えて頂戴よっ」
尖った声が返った。
百日紅の木の下で団扇を使っているおなみに、市太郎が何やら必死に話しかけている。
総司はしばらく二人を見ていたが、やがて緩慢な動きで後ろを向いた。
重ねられた長持は、何が入っているのか、重みで畳を沈ませている。
行李の上には目で分かる程、埃が溜まっている。
「一番上の長持ちから探さなきゃ駄目かな、やっぱり…」
自分より丈高く積み上げられた荷物を見上げ呟いた声が、覇気ない溜息に変わった。
|
|