福徳円満にて、候 (四)
「それじゃ、総司は四条通りにある四越と云う店へ行ったんだな?」
「へぇ…」
朝次郎は、しどろもどろに頷いた。
問う永倉の調子は穏やかだが、目は笑っていない。しかも入り口で腕を組み外を見ている斉藤は、言葉に行き詰るやすかさず鋭い一瞥をくれる。朝次郎の鬢にも太い首筋にも、白い塩が浮きそうに、汗が噴き出している。頑固一徹な職人を気取っているが、元は気の良い親爺なのだ。
「もう一度訊くが、総司が四越へ行ったのは、四越の若旦那と賭けをして、それに勝ったら喜八が注文した簪を取り返せるからだな?」
「賭け…とは、少しちごおて」
「では何だ」
それまで黙っていた斉藤が、口を挟んだ。その瞬間、朝次郎が、大きな体をびくりと竦ませた。茹だるような暑さが鬱陶しいのか、低い声には、険しい威圧感すらある。永倉は後ろを向くと、黙っていろと、若い苛立ちを目で嗜めた。そして、
「あいつは元からああ云う物言いの奴でな、何、悪気は無いのだ。気にせんでくれ」
怯えるように斉藤を覗っている朝次郎に、笑いかけた。
「で、続きだが。…若旦那はどんな条件を出したんだえ?」
「はぁ…。今日一日、何でも若旦那の云う事を聞いて、その出来に若旦那が及第点を出したら簪を譲る、と云う事どした」
「何でも?」
「へぇ、そう云うてはりました」
朝次郎は、目をしょぼつかせた。
「それに総司はやると云ったのか?」
「……」
「云ったから、四越に行ったんだろう」
自分が悪いことをしたように項垂れてしまった朝次郎の代わりに、又も後ろから声が掛かった。
「四条か…、後戻だな」
斉藤は、辿って来た道を引き返す無駄を思ってか、苦い顔で呟いた。が、すぐに身を翻し、外へ出た。足はもう四条へ向かっている。
「おいっ」
その背を、慌てて永倉が追った。
二人の姿が見えなくなるや、へなへなと、朝次郎は上がり框へ座り込んだ。
「なんやったんやろ…」
ぼんやり呟いた時、天道の陽が差し込むがらんとした土間に、一陣の風が、土埃を誘って舞い込んだ。
「四越の若旦那ってのは、どんな奴だ?」
足を休ませず、永倉は問うた。
「知らん」
斉藤のいらえは短い。永倉は黙った。
「総司は腕は立つが、他人に対して無防備すぎる。いや、あそこまで行くと、お人好しの上に馬鹿がつく」
前を見たまま、斉藤が眉を寄せた。
「そう云っちゃ可哀想だろう。そこが総司のいいところだ」
「……」
返事が無いのを是と受け止め永倉は、
「ま、早いとこ行って、往生していたるようなら助っ人に入ってやるさ」
頭上から差す灼熱の陽を、恨めしそうに見上げた。
「そう簡単には行くまい。自分がやると決めた事を、あいつは他人に手出しをさせる奴じゃない」
「…確かに、な」
永倉も、斉藤の推量には、思い当たることが多々ある。
「総司はあれで、意外に頑固だからな」
目に入りかけた汗を、永倉は顔を顰めて凌いだ。図星を突きつけられた途端、暑さが増したようだ。
細い路地を曲がると、正面に、西へ東へ行き交う人の波が見えて来た。
祭りで賑わう、四条通りだった。
「店は南座の並びと云ってたな」
遠くを覗うように、永倉が目を細めた。
「あそこだ」
顎をしゃくった斉藤の視線を追うと、軒下に、御呉服江戸日本橋四越の看板を掲げた店が見えた。
京の商家にありがちな格子を全て外しており、二人のいる場所からでも、店の内部が良く見える。
恵比須顔で客の相手をしている者、中腰で、客の間を泳ぐように手にした反物を運ぶ者。着倒れの京と云われる都で、堂々江戸流を持ち込んでの商いは、結構繁盛しているらしい。
「さて」
永倉は、ひとつ息をついた。
「行くか」
そして止めていた足を、人混みの中へ踏み出した。
「お手伝を致しましょうか?」
不意の声に驚いて振り返ったのが、悪かった。あっと云う間も無く、踏台に乗っていた細身が均整を欠いて揺らいだ。
「危ないっ」
種助が叫んだ時には遅く、総司は背中から畳に叩きつけられていた。
「大丈夫ですかっ?」
「…大丈夫です」
咄嗟に身を捩ったのが幸いしたようで、種助の手を借りながらも、総司はすぐに半身を起こす事が出来た。が、額の辺りがひりひりする。そこに手を持って行くとぷくりと膨れていた。
「ああ、こんなに大きなこぶがっ…。これっ、おいわっ、おいわっ」
種助は顔色を失くし、女中頭を呼んだ。
「大丈夫です。こんなの、いつも道場で作っています」
赤く腫れた額を隠すように、総司は衒いの無い笑みを向けた。
「ですが…、お武家さまにこんな事をさせて。おまけにお怪我まで…。一体若旦那は何を考えているのか」
ほとほと疲れたと云うような、重い溜息が漏れた。
「これは市太郎さんと私との約束なのです。だから番頭さんが気に病む事はありません」
「はぁ…」
種助は目をしょぼつかせて、総司を見た。
そうきっぱり云われても、はいそうですかと、単純に頷ければ苦労は無い。まして人に頭を下げてなんぼの商人(あきんど)。それをこの年まで続けてくれば、胸を騒がせるのは、主の奇行に振り回され、果て無く膨らむ不安ばかりだ。
その時、慌てた足音が遣って来た。おいわだった。
「番頭はん、どないしはりました?」
「ああ、おいわ、砂糖をね、水で溶いて持ってきておくれ。粘り気の出る位にね、それと晒しをこの位に切って…」
と、種助は指で大きさを示した。
「お砂糖、どすやろか?」
おいわは不思議そうに首を捻ったが、総司の額にあるこぶを見ると、大きく目を見開いた。
「そんなにして頂かなくても、大丈夫ですから」
吃驚して声の出ないおいわの先手を打って、総司が断りを入れた。
「大丈夫な事おへんっ。そないに大きなこぶをこさえはって…。早よう冷やさんと」
あわあわと、総司の声も振り切り、おいわは踵を返した。
「御迷惑を掛けてしまって…」
おいわが消えると、総司は恐縮して種助に詫びた。
「とんでもございません。御迷惑をおかけしているのは、うちの若旦那の方です。京の店を任され此方に来た時は、あんなに張り切り一所懸命でいらしたのに…。それが三月もした頃から、人が変わったようになってしまって…」
「市太郎さんが…?」
「はい」
種助は、息を吐いた。
「江戸に居た頃、若旦那は、誰もが認めるほど商売熱心でいらしたのです。若旦那には、いずれ四越を継ぐお兄様がいらっしゃいます。ですが、旦那様は次男であられる市太郎様の商いの資質を見抜き、他所へ養子に出すのは惜しいと、若旦那の為に、京へ支店を出されたのです。むろん、いずれ京、大坂はもとより、西国一体に根を張り、四越を日本一の大店にするつもりもございましたが」
「市太郎さんが、そんなに…?」
思いもよらない市太郎の側面を聞かされて、総司は目を瞠った。
「それが、最近は、店など放りっぱなしなのです」
「どうしてでしょう?」
「其処のところがとんと分からず、頭を抱えている次第です」
「番頭はん」
種助が首を振った時、おいわが砂糖を練った鉢を乗せた盆を持って来た。
腫れた個所に触られた瞬間、痛い、と云う言葉が転がり出そうになったのを、かろうじて総司は呑み込んだ。が、目が潤むのだけは、堪え切れなかった。
「堪忍しとれくれやす。こぶの上が、擦り創になっとって浸みるんどすわ」
おいわは申し訳なさそうに目を瞬かせた。だが砂糖の効用は直ぐに現れ、じんじんと熱を持っていた痛みが、みるみる和らいだ。
「ありがとうございます、もう大丈夫です。」
額に貼られた晒しは情けないが、痛みが引けばそんな事を云っている暇は無い。何しろ天井高く積み上げられた長持の中から、早々に目当ての草履を探し出し、鼻緒を挿げ替えなければならないのだから。総司は長持を見上げた。
「失礼ですが…」
さてどう取り掛かろうかと思案にくれている背中に、種助が小さく声を掛けた。
「沖田さまは何を探しておいでなのでしょうか?」
「草履です」
「はぁ、草履…」
「その草履を、市太郎さんはとても気に入っているのだそうです。でも黄色の鼻緒が気に入らないから、探し出して紫の鼻緒に挿げ替えるように云われました」
「……」
種助の体から血が引き、その代わりに汗が噴出した。
「番頭さん?」
石のように動かなくなってしまった種助に、総司が訝しげな視線を向けた。
「…いえ、何でもありません。ちょっと暑さでぼんやりしてしまったようです」
鬢の汗を拭き拭き、種助はどうにか笑い顔をつくった。しかし本当のところは、いくら気のいい若者でも歴とした侍に草履の鼻緒を挿げ替させるなど、常軌を逸脱した市太郎の言動に、気の遠くなる思いだった。苦労人の杞憂は尽きない。
「沖田さま…」
「総司でいいです、市太郎さんの臍が曲がる」
総司は首をすくめる真似をした。その仕草につられて、種助の顔から少しだけ強張りが解けた。
「では総司さん。その草履、私にも探させて下さい」
「番頭さんが…、ですか?」
「はい、どうか人助けだと思って」
種助は悲壮な面持ちで迫った。そして迫られて、総司は返答に窮した。
人の手を借りたと知れば、市太郎は黙っていまい。約束も反故にするだろう。だが目の前の種助は、断るに断りきれないほど、切羽詰まった顔をしている。
寸の間、思い悩んだが、総司の天秤は、大きく情に傾いた。
「ではお願いします」
「ありがとうございます」
種助は泣きだしそうな声で、手を合わせた。
「これは私の勘ですが、そう下の長持ちでは無いような気がします」
種助が云った。
「江戸からわざわざ持って来たくらいですから、若旦那は余程その草履を気に行っていた筈です。だからすぐに取り出せるよう、多分その長持を上に置かせたと思うのです」
「そうかな…?だと助かるけれど」
「きっとそうでございますよ」
小首を傾げ、恥じ入るように慌ててそれを戻した総司に、種助の口元が綻んだ。
小僧が顔色を変えて、台所へ転がり込んで来た。
「廊下を走るやなんて、行儀が悪いえ」
丁度大根を切っていたおいわが叱った。だがおいわの胸のあたりまでしか背丈の無い小僧は、わなわなと顫るばかりで声も出せない。
「どないしたんや?」
流石においわも不審に思い、屈んで小僧と目を合わせた。すると小僧は、恐る恐る後ろを振り返った。そしてその視線を辿ったおいわも、ひっと短い悲鳴を上げた。
「市太郎さんは、どこに行ってしまったのでしょう?」
種助と力を合わせて、上の長持ちを下ろしながら総司が訊いた。
「暑気払いに、甘酒でも飲みに行ったのでしょう」
「おなみさんと、ですか?」
悪戯げな瞳にあって、種助が苦笑した。
「若旦那がおなみさんを初めて連れて来られた時は、あのように見た目の派手な方でございますし、それに私は江戸育ちで京の言葉がまどろこしくて、若旦那は京女に騙されてしまったのかと、ずいぶん嘆き夜も眠れぬ程悩みました」
「おなみさんは良い人です」
「ええ、それはもう。今では十分承知しております」
長持ちの中のものを外へ出しながら、目尻の皺を深くして種助は微笑んだ。
「市太郎さんが、おなみさんを好きだと想う気持ちは本当なのに…。おなみさんだって、市太郎さんの事を好いていると思うのです」
総司の語りに、種助はひとつひとつ頷く。
「でもおなみさんが市太郎さんの想いをかわしてばかりなのは、このお店の事を考えてしまうからなのでしょうか?」
「それは、おなみさんが、ご自分の身分を考えていらっしゃると云う事ですか?」
「はい」
「そうなのかもしれませんね」
色恋の難しさを問う総司に、種助は柔らな調子でこたえた。
「どんなに好き合っていても、世間と云う壁を乗り越えるのは、大層勇気の要る事です。けれどその覚悟が無ければ、添い遂げる事はできません。ですが私は…」
言葉を切った種助の目に、悪戯そうな色が浮かんだ。
「少なくとも若旦那には、その勇気と覚悟が出来ていると思うのですよ」
「本当ですか?」
笑って頷いた顔には、若い恋人達を見守る温かさがある。
「後は、おなみさんだけか…。上手く行くといいのに…」
ぽつりと漏れた呟きに、総司を見る目が優しげに細められた。
「他人の色恋に首を突っ込む前に、まずてめぇの身の始末をしろっ…と云った所で、自分が置かれた立場を皆目分かっちゃいなけりゃ無理か…」
長い文句をたれると、永倉は手団扇で、襟元から風を入れた。
一番奥にある部屋は、土蔵の影になって風が通らない。まるで釜の湯の中にいるようだ。横を見ると、斉藤は片膝立てて柱に凭れている。行儀が悪いなどとは云っていられないらしい。日焼けした首筋には、汗が光っている。口数の少ないのは元々だが、この暑さに辟易しているのは見て取れる。
――四越に着くと、永倉は店先で水を打っていた小僧を掴まえ、新撰組の者だと名乗った。それだけで小僧は一歩退き、泣き出しそうに顔を歪めた。永倉はその怯える小僧の腕を離さず、疑わしい人物が当家に入ったのを見たのでそれを探りたい、ついては誰にも知られず店の奥を仕切る者の処へ連れて行けと、半ば脅した。そして小僧は台所へ駆け込み、女中頭のおいわがこの部屋へ案内した。
と、経緯はこうだった。
裏塀と庭の木々との間に身を隠しながら着いたそこは、総司が草履を探している部屋と、八畳の間を挟んで続いており、少し襖を開けると、明瞭に声が聞こえてくる。襖から身を乗り出せば、総司の姿も見えないではないが、そうすれば此方の姿も見えてしまう。そう云う訳で、永倉と斉藤は襖と壁の影に潜むようにし、ひとつ向こうの部屋を覗っている。
「あの女中、こぶを作ったを云っていたな」
永倉が呟いた。
おいわは永倉に、総司がここに来てこぶを作った事まで詳しく教えた。
「まずいな…。こぶを見た近藤さんは、どうしたと、間違いなく聞く。それに総司は、素直に理由をしゃべる。すると近藤さんは驚き、土方さんの機嫌が悪くなる。しかも今日は堀内さんまで居る…。どう考えても、面倒な展開になるのは間違い無い。…いっそ鉢巻でもさせて隠すか」
冗談が冗談にならない状況に、ぼやきも止まらない。
「しかしどうしてあいつが動くと、こうも余計がくっついて来るのかね…。元を正せば新入りが魚屋に金を払いに行く使いを代わってやっただけだ。ところがその魚屋に使いを頼まれ、そこで終わるかと思えば、今度はこの…」
「それがあいつのいいところだ、と、さっきあんたも云っただろう」
とどめもない愚痴を切りあげるように、斉藤は、鬢から滑った汗を手の甲で受け止めた。
「まぁな」
これ以上、巻き込まれた不運を呪っても仕方が無いと諦めたか、永倉も宙に目を据えた。
「番頭さんっ」
長持の中を探っていた総司が、逸った声を出した。
「これ、この草履ではありませんか?」
総司の手に、掌をはみ出る大きさの包みがある。油紙の間から、黄色の鼻緒が覗いていた。
「市太郎さんは黄色の鼻緒だと云っていました。それに市松模様です」
「ああそうです、その草履です。間違いありません。江戸を発つ直前に、若旦那が気に入って買って来たと云って見せてくれたのを覚えています」
種助も身を乗り出した。そして安堵の二文字が浮き出そうな笑顔を向けた。その時、行儀の良い足音が、こちらに近づいて来た。
総司が顔を上げるまでも無く、障子に映った影が廊下に膝をついた。
「番頭はん」
紺の前垂れをした若い男は、丁寧に総司に頭を下げ、それから種助に顔を向けた。
「どうした?」
「へぇ、お客はんが柄を決めかねはって…」
「…そうか」
種助は申し訳なさそうに総司を見た。
「私の事なら気にしないで下さい。こうして草履も見つかった事だし、あとは鼻緒を挿げ替えれば終わりです」
「そうですか…。それでは申し訳ありませんが、お言葉に甘え店に戻らせて頂きます。挿げ替えるに必要な道具と紫の鼻緒はすぐに用意させますが、もし他に必要なものがあったら、おいわでも誰にでも遠慮なく云って下さい」
手代とおぼしき若者に、必要な道具を持って来るよう云いつけると、種助は深く頭を下げた。
「挿げ替え…か」
小さな溜息が、蝉時雨にかき消された。
部屋の隅々まで射しこむ天道の陽は肌に痛い程だ。しかも風が止んだ。普段汗をかかない質の総司の額にも、うっすらと汗が滲む。その汗が、額の創(きず)に滲みる。だがそんな事より憂鬱がある。
総司は横に視線を落した。そこには紫の鼻緒、麻紐、金槌、鋏、つぼ引き…。鼻緒を挿げ替えるに必要な道具が並べられている。その中の紫の鼻緒を、総司は手に取った。
じっと見詰める瞳に、当惑の色が濃くなる。
「何とか、なるかな」
それでも気を直したように呟くと、市松柄の草履に手を伸ばした。
「悪い事は云わねぇが、俺はやめといた方がいいと思うぜ」
襖の陰から覗きながら、永倉が声を潜めた。
「斉藤」
そして追いかけるように、付け足した。
「総司はああ云う類の仕事はあまり得意じゃなかった気がするぞ、俺は」
「不器用だ」
身も蓋もない。
「…やはりな」
「だが出て行く訳にはいかないだろう」
「不審な輩がいると店から連絡を受けて来たら総司、お前だった…、と云う筋書きはどうだ?」
「下手な筋書きだな。が、万が一信じても、挿げ替えは譲らないだろう。それが約束だからな」
暑さに渋い顔をしながら、斉藤の答えは明確だった。
「じゃぁ、どうするってんだ?下手をすると、日が暮れても終わらんぞ」
「……」
気まずく押し黙った男二人に、息さえ苦しくさせるような暑い風がねっとりと絡まる。
その熱(いき)れから逃れるように、永倉は又襖の向うに耳を澄ませ、斉藤は少し首を反らして流れる汗を拭った。
|
|