福徳円満にて、候
  (五)




 草履は足元を高くする為に、台を重ねてあった。一目で値の張るものだと判じられた。上手に挿げ替えなければ、市松模様に編んだ装飾に瑕をつけてしまう。だからと云って躊躇っていれば、いつまで経っても仕事は終わらない。
 総司は草履を裏返すと、前緒を縛ってある麻紐に挟を入れた。ぱちんと、後戻り出来ない、覚悟の音が響いた。
「先に麻紐を鼻緒に通して…」
 手順を確かめる心許ない呟きが、そのまま、自信の無さを物語っていた。

――実のところ、総司は鼻緒の挿げ替えをした事が無い。
 いや、ある事はあった。しかしそれは数える内に入らず、しかもすべからく途中で頓挫している。ではどうして来たか。
 幼い頃は義兄の林太郎がやってくれ、そして試衛館に来てからは土方の役目になり、今日に至っている。

「…ここでしっかり止めないと」
 器用に挿げ替えて行く土方の手順を脳裏に浮かべながら、総司は、前緒に通した麻紐を草履の裏で結んだ。
 その時、不意に廊下に人影が差した。
「総司はん?」
 おなみだった。
「草履、見つかりはったようどすなぁ」
「はい、あとは鼻緒を挿げ替えるだけです」
 その挿げ替えが問題な事は隠して、総司は笑い顔を向けた。
「なんや、芝居の役者はんが履く様な、えらい派手な草履どすなぁ」
おなみは草履を覗き込んだ。
「市っちゃん、こないなのが好きなんやろか?」
「…たぶん」
 おなみ同様、総司もあまり良い趣味だとは思えない。だが江戸からわざわざ持ってきた位だから、市太郎は気に入っているのだろう。
「こないな悪趣味な草履、うちはくれる云うてもいらんわ」
 柳のような眉が寄った。
「でもま、草履の趣味と市っちゃんの人柄は関係あらへんしなぁ…」
「おなみさんは、市太郎さんの事を好いているのでしょう?」
「好きや」
 いらえは風に乗るように、さらりと返った。
「ではどうして市太郎さんの気持ちに応えてあげないのですか?」
「どうしてやろうなぁ…」
「市太郎さんはあんなにおなみさんの事を想っているのに…。気の毒です」
「そうやな」
 紅を刷いた唇がくすりと笑って呟くと、草履を見ていた目がすっと細められた。すると派手な容貌が、驚くほど優しい印象に変わる。おなみは顔を上げ、総司を見た。
「きっと…」
「きっと?」
「うちが、意気地なしなんや」
「意気地なし…?」
 不思議そうに問う総司に、
「総司はんは、やっぱり可愛いお人やなぁ」
 切れ長の目が悪戯げな視線を寄越した。顔を近づけられて、白粉の匂いが鼻先をくすぐる。総司は背を反らせ、身を引いた。
「好きになってしまいそうや」
 そんな戸惑いを楽しむように、おなみはじりじりと膝をにじり寄せる。その時。
「おなみちゃんっ」
 天を劈くような金きり声が、陽盛りの庭に響いた。
 又か――と、目を瞑った時にはもう遅い。総司は恐る恐る声の方へ視線をやった。
 庭に、顔色を変えた市太郎が、拳を震わせ立っていた。

「これはどういう事なのさっ」
「どう云う事って、こう云う事や。総司はんがあんまり可愛くてええ人やから、好きになってしまいそうやて、云うたんや」
「おなみちゃんっ」
 血相を変えて駆け寄る市太郎を、おなみは平然と見ている。だがその横顔に、一瞬切り捨てるような厳しく冷たい色が走り、そして次に、それが例えようも無い哀しげな色に変わったのを、総司は見逃さなかった。
「おなみさん…」
 総司の声を振り切るように、おなみは素早く立ち上がった。市太郎が縁に上ろうとしている。
「市っちゃん、またな」
「おなみちゃんっ、お待ちよっ」
 おなみは立ち止まらない。その代わりに、大声を聞いたおいわが、何事かと、庭伝いに顔を出した。
「若旦那はん…」
「何でもないよっ、あっちへ行っておいでっ」
 声を荒げられ、おいわは慌てて引っ込んだ。その間にもおなみの姿は消え、悄然と立ち尽くす市太郎の背だけが残った。


「あの…」
 躊躇いながら掛けた声に、のろのろと市太郎が振り向いた。
「…何よ」
 応えた声に、もう先程の勢いは無い。
「さっきの事」
「さっきの事?」
「あれは誤解です」
「……」
「おなみさんは、私をからかっただけです」
「知っているわよ」
 意外にも、市太郎は苦く笑った。
「いつもの事よ。いちいち気にしていたらきりが無いわ」
「でも市太郎さんはあんなに怒って…」
「そりゃ、当たり前でしょ。あたしはおなみちゃんに惚れているんですからね。その相手が自分以外の人間に云い寄るのを見て、穏やかでいられる莫迦がどこにいるのよ。そんな目出度い人間、見てみたいもんよ。でもおなみちゃんはもてるからね、本気にしちゃう男もいる訳。だからあたしも気が気じゃない」
 けろりと、惚気まじりの溜息までつかれて、総司は唖然と市太郎を見上げた。が、すぐに裡から込み上げて来た笑いに、唇が綻んだ。
「何よ」
「だって…」
 胡散臭そうに見られても、一度外に出た笑いはどんどん頬を緩める。
「市太郎さん、いい人だなって思って…」
「皮肉?」
 ふんと鼻を鳴らされて、総司はとうとう声にして笑い出した。
「あんた、笑うのは結構だけれど、あたしとの云った仕事は終わったの?」
「もう少しです」
「何だか危なっかしい手つきをしているわね」
 眉を顰めながら、見せてごらんよと、草履を取り上げた一瞬だった。
「あっ…」
 小さな声が漏れた。不意に横から手を出されて、前緒を伸ばしていたつぼ引きが、総司の指を挟んだのだった。
 右の人差し指の先がみるみる腫れ上がり、小さな血豆が出来た。
「何て不器用なのっ」
 叱咤の声の大きさにも驚いたが、それよりも何よりも、次いで起こった出来事に、総司の瞳が大きく見開らかれた。素早く手首を掴んだ市太郎が、腫れた指先を口に含んだのだ。あっと云う間もない。
「市太郎さんっ」
 慌てて手を引っ込めようとしても、市太郎の力は思いのほか強い。総司は呆然と、汚れた指先を口に含んでいる市太郎の髷を見詰めた。
 
「唾ってのはさ、毒消しになるのよ。知ってんでしょ?でも痛いのは仕方が無いわね、あんたが悪いんだから」
 手を話すと、市太郎は何事も無かったようにうそぶいた。
「…ありがとうございました」
「そんな殊勝な顔したって駄目よ、約束は約束なんだから。続きはやってもらうわよ」
「分かっています」
 総司は市太郎を見、深く頤を引いた。
 交わす言葉の分だけ、傍らで時を過ごす分だけ、市太郎が親しげな人になって行く。
「暑いな」
 陽盛りを厭う声が、胸に満ちる嬉しさを隠し切れずに弾んだ。






「市っちゃんて、ほんま、いけずやな」
 襖の陰に身を隠し、おなみは吐息まじりに呟いた。
「だがあいつは、あんたに首っ丈だぞ」
 背中を叩く声にゆっくり振り向くと、斉藤と名乗った若い侍が、じっと見ていた。
「あんたも惚れているんだろう?あの若旦那の事を」
「……」
「違うのか?」
「…どんなに想うたかて、どないにもならん事が、人の世にはありますのや」
 ふっと浮かべた笑みが、眸に寂しげな翳を落とした。
「それが、自分の事を意気地が無いと云った所以か」
 おなみは暫し斉藤を見詰めていたが、やがて静かに瞼を伏せると、無言のまま、又襖の向こうに視線を向けた。

――帰ろうとして裏口に回った時、おいわが小さな声でおなみを呼んだ。
 おいわは話好きな女で、総司を見張りに来た侍の事を、誰かに話したくてうずうずしていたらしい。丁度そこにおなみが現れ、身ぶり手ぶりで大仰に語って聞かせた。ふんふんと相槌を打ちながら、おなみも残してきた市太郎と総司の事は気になっていた。 そこでおなみはおいわと別れると、木陰を拾い、この部屋までやって来たのだった。
 突然現れたおなみに、初め侍達は困惑の色を浮かべたが、市太郎の様子を見たいのだと頼み込むと、悪いとは云わなかった。
 かくして、風が通らない蒸し風呂のような部屋の住人は、永倉、斉藤、おなみの三人になった。





 総司は黙々と、鼻緒を通す作業に精進している。
「あんた、左の手も使えるの?」
 痛めた右手を庇う都合で、知らず知らず左を利き手にしていたらしい。それを見ていた市太郎が訊いた。
「小さな頃は左利きだったのです。でも直されました」
 総司は慌てて、後緒を持っていた手を右手に変えた。
「何で直すのよ?両方使えれば便利じゃない」
「そうだけれど…、小さな頃、左を使うと姉に叱られたのです」
 応えながら、心の裡に、懐かしいものが動いた。

 姉の光は、総司が左手で箸を使おうとすると、ぴしゃりと小さな手を叩く真似をした。そして優しい目をして、いけませんと叱った。まだその箸すら上手に使えぬ、幼い頃の事だ。

「お武家さんも、色々面倒ね」
 そんな感傷など知る由も無く、市太郎はツンと顎を上げた。が、ふと、奇妙な顔をした。
「あんた今、姉様に叱られたって云ったけど、親御さんはどうしたのさ」
「小さな頃に亡くなりました。だから私は姉に育てられたのです」
「ふぅん、人は見かけによらないもんね。あんまりぼんやりで太平楽だから、親に大事に大事に育てられたんだと思った」
 総司は衒いの無い笑みを浮かべた。素の市太郎を知れば、どんな毒舌でも話しは楽しい。
「市太郎さんの御両親はお元気なのですか?」
「息災よ。おっとつぁんは商いの鬼だし、おっかさんは芝居見物で忙しいし、三途の川の渡しだって値切る人間よ、二人とも」
 おもむろに眉を顰めた市太郎に、明るい笑い声が弾けた。
「お姉さん、京にいるの?」
「いえ、江戸です」
「じゃぁ、あんたも江戸の人?」
「はい」
「言葉使いで京じゃないって思っていたけどさ、江戸のどこよ?」
 市太郎が身を乗り出した。
「生まれは多摩だけれど、九つの時に市ヶ谷の道場へ内弟子に入って、それから京に来るまではずっと其処で過ごしました」
「…あんたも色々苦労してんのね」
「苦労は…」
 総司は寸の間考えるように小首を傾げたが、
「していないな」
 やがてしっかりとした声で答えた。
「そんな訳無いでしょっ。両親に早く先立たれて、おまけにやっとうなんかの道場の内弟子になって。…内弟子って云ったって、あんたの事だから、どうせ丁稚と同んなじようにこき使われたんでしょ。隠しても分かるわよっ」
「本当にしていないのです…」
「今更見栄張っても、しょうがないじゃないっ」
「見栄なんて張っていません」
 両膝を立て、前のめりで迫る市太郎に気圧され、総司は瞳を瞠り首を振った。
 市太郎は暫し睨みつけるように見ていたが、
「まぁいいわ、あんたの嘘に騙されてあげる」
 すとんと腰を落すと、憐憫を含んだ目を向けた。そんな市太郎を、総司は不思議そうに見た。
「なによ?」
「市太郎さんは、本当はこんなに優しいのに、どうしておなみさんは自分の気持ちに素直にならないのかな、と思って…」
「本当に、ってのは余分よ」
「おなみさんだって、市太郎さんの優しさを知って、好いたのだと思うのです」
「あんた、結構に人の心を見ているじゃない。そうよ、おなみちゃんはあたしを好いてくれているわ。でも四越の暖簾に気を使っているのよ。あたしが背負っているものの邪魔になるまいと思っているの。でもさ、あたしは、店よりおなみちゃんが大事」
 熱(いき)れさえ退けるような、きっぱりと強い調子で市太郎は云い切った。
「市太郎さんは、おなみさんとどうして知り合ったのですか?」
「聞きたいの?」
「はい」
「どうしても?」
「はい」
「そこまで頼まれちゃ、仕方が無いわね、あたしも江戸っ子、一途に見詰める瞳が情に棹さす。ならば教えてやろうじゃないの、四越市太郎、一世一代の恋物語。とくとお聞き」
 芝居がかった台詞をはいた口元が、にやりと吊り上がった。

「京へ出す店を任せると云われた時、着倒れと呼ばれる都で、きっと一番になってやるって、あたしは気負った。でも京に来て三月。たった三月で、あたしは商いの本当の怖さを知る羽目になった」
「市太郎さんにも、怖いものがあったのですか?」
「まぜっかえすんじゃないわよ」
 悪戯気な笑みに、市太郎の眉が嫌そうに寄った。
「元々この町は他所者に冷たいじゃない?それが商売が絡めば尚更よ。大体が、あちこちに金を使って、ごり押し同然で開いた店だもの。開けたはいいけど、来るのは他の店からの陰湿な嫌がらせばかり。それでもあたしは主。どんなに辛かろうが苦しかろうが、人前で泣きごとは云えない。けど正直に云えば、四面楚歌の中で悲鳴を上げていたのよ。そんな頃だった。同業を招いての接待で、いつもの様にねちねちと厭味をを云われた続けた帰り、一人になりたくてふらりと入った飲屋で、おなみちゃんと会ったの」
 総司は手を止め、市太郎の話を聞いている。
「おなみちゃんはそこで働いていたんだけどさ、あたしも酔っていたから、酌をされながら、他では云えない愚痴をついつい零したのよ。それをおなみちゃんは、ひとつひとつ相槌を打ちながら聞いてくれたの。そうして最後に、逃げ出したくなったら逃げだしたらいい、人の噂も七十五日、自分が思っている程、世間は気にしちゃいないって笑ったのよ」
「おなみさんが?」
「そう。…客が、樽の上に腰かけて酒を呑んでいるような小さな店でさ、行燈の魚油の臭いが澱んでいた。その薄い灯りも届かないような片隅で、まるで天道の下で花が開いたみたいに、笑ったの。それを見た瞬間、あたしは、すぅーと気が楽になってさ」
 市太郎の目がふっと遠くを見た。総司がその視線を追うと、百日紅(さるすべり)の花が、今が盛りと咲き誇っている。
「その時、定めって云うのか、ああ、あたしはずっとこの人を探していたんだって思った。そして絶対にこの人を逃さないって、決めたの」
 花弁の先を縮れさせた花は、夏の日差しを受け、濃い桃色を一層あでやかにしている。
「市太郎さんの気持ちは分かるけれど、番頭さんは、今の市太郎さんを心配しています」
「商売を放っておいて、とか云っていたんでしょ?」
 図星を指され、総司は返答に窮した。
「あんた、恋した事ある?」
 不意に訊かれて、深い色の瞳が瞠られた。そして次に、白い面輪にありありと狼狽の色が浮かんだ。
「ふぅん。その様子じゃ、…あるわね。へぇ、おぼこだと思っていたら案外ねぇ」
 忙しい変化をからかわれ、慌てて伏せた瞼の上に、朱が刷かれた。





「おいっ、聞いたか?」
 些か退屈を持て余していた永倉が、好奇の色を満面に湛えて斉藤を振り向いた。
「嫌でも聞こえる」
「総司の初恋なぞ、聞いていないぞ、俺はっ」
「本人が云わなきゃ、分からんだろう」
「相手は誰だ?」
「知るか」
 話に乗る気も無いらしく、斉藤はつれなく視線を庭に向けたが、永倉は気にも留めない。
「試衛館の頃か?いや、あの頃そんな様子は皆無だったな…。すると京に来てからか?それにも見当がつかんな?近藤さんや土方さんは知っているのか?」
 畳みかけて問う。
「知らんと云っているだろうっ」
「お前と総司は一緒の部屋だ」
「だから何だ。同じ部屋だとて、あいつが話さなければ知る分けが無い」
 うんざりと答えた声に、苛立ちが募る。しかし永倉は懲りない。
「同じ部屋で寝起きしているお前が知らんのなら、はやり江戸の頃か…」
 腕を組み天井を見上げると、永倉は昔の記憶を辿り始めた。が、暫くして、その視線を襖の向うへ遣った。
「思い当たったのか?」
 訊いたのは斉藤だった。
「いや」
 振り向かず、永倉は応えた。
「あいつも一応は男だ。男なら矜持ってもんがある。ここは聞か無い事にしてやるのが、情ってもんだ」
 どうやら思い当たる節は見つからなかったらしい。その挙句、ささやかな見栄を張らざるを得なかったのだと決め込んだ声が湿った。が、そんな一人芝居を他所に、庭を見ている斉藤の横顔に物憂い色が走ったのを、おなみだけが見ていた。
――つい先程、意気地の無い所以かと問うた若者は、もしかしたら総司の恋を知っているのかもしれない。そして又、自分と同じように、恋と云う魔物に心を波立たせているのかもしれない。
 人を好きになれば、隣り合わせにある切なさ辛さが、おなみの心情を細やかにしていた。





「人を好きになるってさ、何にも見えなくなるの」
 分かるでしょ、と向けられて、総司は頷いた。
「あたしは商いを疎かにするつもりは毛頭無いわよ、けど今一番大切な事は、おなみちゃんと添い遂げる事なの」
「でもそれは…」
「いつになるのか分からないって、云いたいんでしょ?いいじゃない、いつになっても。おなみちゃんが逃げるなら、あたしはどこまでも追って行くし、その間に店が潰れれば又立てなおせばいいのよ。あたしがいなくても、店は回る。世の中も回る。でもあたしは、おなみちゃんがいなけりゃ回らない。そのおなみちゃんはこの世で一人しかいないんだもの。追っかける方が先よ」
「市太郎さんは強いな」
 百日紅に目を向けながら、朗らかに語る市太郎に、総司は目を細めた。
「あんたはそうは思わなかったの?」
「…好きだと、云ってはいけないと思っていたから、辛いばかりだった」
「ばかりだった…って事は、今はお互い好き合っているって事?」
 市太郎を見詰める瞳が、困ったように瞬いた。それを見た目が、ふっと和んだ。
「良かったじゃないのさ、両想いになれて」
 仄かに頬を染めた総司の様子を面白がるように、市太郎は笑った。
「市太郎さんの想いも、きっとおなみさんに伝わります」
「当たり前じゃない」
 市太郎の声が尖った。
「あたしはさ、今までずっと客に頭を下げ、商いに精を出し、出来た若旦那だと云われ続けて、それで満足してたの。でもさ、そんなの、本当の自分じゃ無かったのよ。おなみちゃんと知り出会って、おなみちゃんが好きになって、我儘で、横柄で、どうしようもない人間が本当の自分なんだって、やっと知ったの。そしてそう云う自分で、堂々と胸を張っていられるの。それはさ、おなみちゃんが、そんなあたしでも丸ごと受け入れてくれるからなのよ」
「まるごと、受け入れてくれる…?」
「そうよ、あたしの嫌われる所も、憎まれる所もみんな包んで許してくれるたった一人の人。それがおなみちゃんなの。…そう云う人でしょ?あんたと好き合っている人も」
 市太郎を見、今度はしかと、総司は頷いた。
「あんた、いい子だもんね」
 不機嫌そうに云われて、真摯な色を浮かべていた面輪が緩み、やがて綻んだ唇が、楽しげな笑い声を立てた。
「何笑ってんのよっ、ほら、早くしないと間に合わないわよっ」
 咎められて、止まっていた手が慌てて動き始めた。





 前緒に手を入れ緩みを確かめ、次に後緒の加減を調整すると、総司は小さく息を吐いた。その途端、額に汗が滲んだ。
 草履を履いた市太郎が、更に具合を見る。
「あんまり上出来とは云えないけれど、あんたじゃ、こんなもんかしらね」
 踵に遣っていた視線を戻し嘯くと、
「はい、約束の簪」
 市太郎は懐から紙の包みを出し、縁に置いた。
「何驚いた顔してんのよ」
「…忘れていた」
 鼻緒の挿げ替えやら、市太郎と話しをしたりで、肝心の簪の事をすっかり忘れていたのだ。
「……」
 市太郎は一瞬声が出なかったようだが、すぐに大仰な溜息をついた。
「あんたみたいな人ばかりなら、四越も商売繁盛なのにね」
 蜩の啼き始めた夏の庭に、皮肉を受けた笑い顔が弾けた。


 仕事の出来を不安げに見守る総司の視線を背に、一歩二歩、…歩いた所で、市太郎の足が突如として止まった。

「…おなみちゃん」
 百日紅の木の下に、おなみが佇んでいた。







きりりく