福徳円満にて、候 (六)
「おなみちゃん…」
木漏れ日が、葉と花が重なり合う隙間を縫って、白く乾いた土に斑な影を落としている。その影が、微かな風に葉が揺れるたび、おなみの足元で遊ぶ。
「おなみちゃんっ、そんな処にいちゃ駄目だよ。虫にでも喰われたらどうするんだい」
市太郎が慌てて駆け寄ると、おなみは伏せていた目を上げた。そして、唇を震わせた。
「…あんなぁ、市っちゃん」
「何?」
「うち、市っちゃんに、祇園はんに連れて行って欲しいのや」
「そんな事、わけないよ。行こう、行こうっ」
市太郎は嬉々としておなみの手を取った。だがおなみは硬い表情のままでいる。
「どうしたのさ、おなみちゃん」
「うち、祇園はんにお願いしたい事があるんや」
じっと市太郎を見詰め、おなみは云った。
「願い事?そんなもの、神仏に頼まなくたってあたしが叶えてあげる。さぁ、云ってごらんよ」
市太郎は大真面目だ。おなみは一度息を詰めた。そして、
「市っちゃんと、添い遂げられますように」
想いの丈を迸らせるように、けれどそのいらえの行方を怯えるように、小さな声で、ひと息にに告げた。
――陽盛りの余韻を残す庭に、突然、静寂が訪れた。
蜩の啼き声すら他所の世界のもののように、時が二人の傍らをよけて流れて行く。
市太郎は、顔を伏せてしまったおなみを呆然と凝視している。
そうして二人は無言のまま、どれ程向き合っていただろう。
やがてゆっくりと振り返った市太郎が、縁に佇む総司を見た。
「あんたっ、聞いたっ?」
悲鳴にも似た、叫び声だった。
「あんただけが、証人なのよっ。一言一句間違わず、ちゃんと聞いていてくれたでしょうねっ」
我に戻った総司が、慌てて頷いた。
それを見届けると、市太郎は、かっと目を見開き茜色が混じり始めた空を見上げた。
「好きだっ」
目に膨れ上がった涙が頬へ滑り落ち、天が割れるかと思われるような大声が、響き渡る。
「好きだっ、おなみちゃんが好きだっ」
「市っちゃんっ、市っちゃんっ、声が大きぃっ」
「だって好きなんだっ、好きなんだよっ」
市太郎はおなみの手を離さず、声を上げて泣き出した。
「市っちゃん…、子供みたいや」
嗜めるおなみの顔も、泣き笑いになった。
その時、声を聞きつけて、種助が飛んで来た。次においわが駆けつけ、いつの間にか二人は、何事かと集まってきた店の者達に囲まれていた。
「得心がいかねぇな」
永倉が、不思議そうな顔で首を捻った。
「あの若旦那の、どこがそんなにいいのか分からねぇ。俺の方が余程もいい男だぜ」
「たて食う虫も好き好きだ、それより…」
斉藤は汗で光る顎で、襖の向こうを示した。
「もういいだろう、出て行っても」
「おお、そうだった。急がねぇと日が傾いちまう」
本来の目的に気付いた永倉が膝を打った時、斉藤はもう立ち上がっていた。
「おいっ」
突然現れた二人の姿に、総司は瞳を見開いた。
「あの二人の毒気に当てられたか」
ぼんやりと見上げる総司をからかうように、永倉が苦笑いした。
「二人とも、どうしてここに…?」
「どうもこうもねぇ、お前を迎えに来たんだよ」
「迎えに?」
「今日の夕刻、堀内さんが来るんだよ」
「堀内さまがっ?」
白い面輪に一瞬驚きが浮かび、そして次の瞬間には、たちまち喜びの笑みに変わった。
「どうして急に…」
「急じゃねぇよ、とっくに知らせはあったんだが、お前を驚かせてやろうと近藤さんが黙っていたのさ。ところがお前は使いに出たまま帰らねぇ。そこで俺達が後を追って来たって訳だ」
語っている内に、蒸し風呂のような部屋の熱(いき)れを思い出したか、永倉の顔が渋く顰められた。
「それじゃ、早く帰らないと」
「そうして欲しいもんだな」
「あっ、でも…」
「まだ何か心残りがあるのか?」
せっかちに促され、永倉を見る瞳に困惑の色が広がった。その時、
「簪なら俺が届ける。寄越せ」
まるで心の裡を呼んだように、斉藤が手を出した。
「一さん、喜八さんとの約束を知っているのですか?」
「追って来たと云っただろう。あの魚屋に行かなければ、今此処にはいない」
更に斉藤は、西に傾きを鋭くし始めた陽の眩しさに片目を細めながら、種助を呼んだ。さんざ人を騒がせた市太郎とおなみは八坂神社に出かけたらしく、庭にいるのは種助とおいわだけだった。
「駕籠を二丁、呼んでくれ」
「はい、承知致しました」
種助は、笑顔で頷いた。
「駕籠なんていらない、走って帰りますっ」
総司は慌てて声を上げた。
「駕籠なら寄り道もせず、まっすぐ屯所へ運んでくれる」
辛辣な一言に、斉藤を見上げていた瞳に勝気な色が走った。
「一さんっ」
「あんたはこいつを連れて行ってくれ」
だが斉藤は総司には一瞥もくれず、永倉に後を託すと身を翻してしまった。
「お前も早く戻って来いよっ」
送る声を背にした長身が、廊下の角を曲がった。
斉藤が消えた先に、総司は不満げな視線を残し佇んでいる。その姿を見ながら、永倉は思う。
無口で、どちらかと云えば何事にも距離を置こうとする斉藤が、総司には時々素の感情らしきものを見せるのは知っていた。それは、同じ年の気安さがさせるのだろうと気にも留めなかった。しかし今日の斉藤は、いつもと少しばかり違った。無関心を装いながら、その実、総司の様子に注意深く神経を注いでいた。案じて見守っているようにすら思えた。もしかしたら斉藤の無愛想は彼の不器用がさせているもので、それは情の深さの裏返しなのかもしれない、そんな風に永倉は思った。
そしてもうひとつ。
おなみの背を押した一言が、永倉の中の、斉藤一と云う若者の像を変えつつあった。その事を、あとで総司に話してやらなきゃな、と思う。そうでなければ、斉藤は誤解されるだけで終わってしまう。
永倉は、まだ硬い表情でいる横顔を垣間見た。
日暮れ近くになっても、四条通りは人通りが絶えない。むしろ鴨川に涼を求めに来る人々で、昼より賑やかさが増したとさえ思える。
そんな事情もあって、駕籠の到着が遅れている。
店の框に越を下ろし、どこかすっきりとしない顔で外を見ている総司に、
「斉藤がな…」
永倉は声をかけた。
「おなみと云う女に、云ったのさ」
「何をです?」
不思議そうに問う瞳に見詰められ、永倉は一旦言葉を止めたが、ややあって再び口を開いた。
「恋をすれば、意気地が無くなるのは仕方の無い事だとよ」
「……」
「市太郎はあんなだが、一応は江戸で大店と呼ばれる四越の倅、いずれは京四越の主になる奴だ。いくら惚れても身分違いと諦めなければいけない、そう、おなみは自分に云い聞かせていたんだろうな」
「おなみさんは、私にも、自分は意気地無しなのだと云っていた…」
その時の寂しげな横顔を、総司は深く印象に残している。
「だが、斉藤の奴、人に惚れれば、意気地が無くなるだけではないだろう、その分人を想う切なさや苦しさは、自分を強くする筈だと、らしくも無い気の利いた台詞をはきやがった」
「一さんが?」
総司の瞳が瞬いた。一が他人の事情に、しかも色恋沙汰に介入するなど、すぐには信じ難い。
「口の重いあいつが、あの若旦那の、嫌われる処も弱い処も全部受け止めてやれるのはあんたしかいないと、そう云った」
永倉は少しだけ、目を細めた。
「しかも、だ。店が失敗しても、それは市太郎がそれまでの器だと云う事だ。だが市太郎が何もかも失った時、あんたは傍にいてやりたいとは思わないのか、とまで付け加えたのさ」
「一さんが、そんな事を…」
「俺も驚いた。斉藤ってのは、こう云う厄介は避けて通る奴だと思っていたからな」
語り終えると、永倉は、借りた団扇で襟元から風を送り始めた。
その横で、総司は土間に視線を落とした。
乾いた土間を見る総司の脳裏に、おなみの告白を受け、振りむいた市太郎の顔が蘇る。
それは今にも砕けてしまいそうに、強張っていた。突然の幸いを逃さんと、必死の形相だった。
そして市太郎は泣いた。おなみが好きだと、人目もはばからず大声を上げて泣いた。喜びを、命全部で迸らせるように、天を仰いで泣いた。
その市太郎に幸いをもたらせたのは、一だったのだ。
「…一さんが」
呟いた口辺が、綻んだ。
相手の心の機微を誰より敏感に読み取るくせに、優しい言葉を口にする時、殊更ぶっきら棒な物言いになる一の顔が浮かぶ。
「だから駕籠を呼んだ事は、勘弁してやれ」
はたはたと団扇が風を呼ぶ音を聞きながら、、綺麗な流線を描く面輪が小さく頷いた。
「堀内さまっ」
「おおっ、総司どの。待ち焦がれていたぞ」
懐かしい人は、満面に喜びを湛え迎えてくれた。
「遅くなりました。でも知っていたら、今日は一日何処へも出かけずに待っていたのに」
久方ぶりの挨拶すら忘れ、総司は堀内の前に端座した。拗ねた云い訳が、早甘えになっている事にも、気付いていない。
「驚かせてやろうと思ったのだが、返って仇になったようだな」
堀内の横に座っている近藤が、相好を崩した。
「どこかへ使いに行っていたのだとか…。京は江戸とは違い不慣れゆえ、道に迷ったのであろう?暑い中、体に障りは無かったか?」
総司を、まだ宗次郎と重ねてみる柔和な目が、幼子を案ずるように瞬いた。それに総司は笑いながら、首を振った。
「大丈夫です。遅くなってしまったのは、使いが三つになってしまったからなのです」
「三つ?」
総司は頷いた。そして怪訝な色を浮かべた堀内に、
「一番目は、勘定方の使いで代金を支払いに行ったのですが…」
頭の中で順番を整理するように、語り始めた。
最初に買って出た喜八の家への使いから、その喜八に懇願されて、飾職人の朝次郎の元へ走り、そこで簪をめぐり、今度は市太郎の云う事を聞く羽目になり…と、時々は手振りを交え、楽しげな声が、目まぐるしい一日を語って聞かせる。
途中、永倉が、踏み台から落ちてこぶを作っただの、慣れない鼻緒の挿げ替えで血豆を作っただの、大仰に半畳を入れたので、部屋の中は終始笑いが絶えない。
「ほう、では総司どのはこの炎天を走り回り、人助けに三役も買ったと云う訳か」
驚きの表情を作りながら、堀内には、この若者の変わらぬ一途さが愛しい。
「総司殿が西走東奔したおかげで、魚の代金は無事届けられ、簪も、本当にそれを欲していた者の手に渡り、そして何より、四越の若主も好き合ったおなごと互いに想いを遂げられた。総司どのの、福徳円満だな?」
「福徳円満?」
「左様。走り回ったのは大変だったろうが、そのお陰で皆が幸せになる事が出来た。総司どのの善行により、皆が幸せに恵まれ、そして総司どの自身も皆に好かれる…、福徳円満の所以だ」
「福徳円満…」
「四越の若主、おなみ殿、そして喜八殿とおゆう殿、…皆末永く幸せになると良いの?」
「はい」
柔らかに細められた双眸に、総司は嬉しそうに頷いた。
堀内の話に出る、懐かしい江戸の人々の近況や、近藤の語る時代の情勢など話題は尽きず、男ばかりの気の置けない酒宴は和やかに、そして賑やかに過ぎて行った。
だが総司は途中から、少々落ち着かない気分になっていた。それは近藤の横にいる、土方の所為だった。
始め、土方にいつもと変わった様子はなかった。事実、堀内との会話も弾み、笑いながら相槌も打っていた。しかしある時から、総司は土方の不機嫌に気付いた。
土方は、明らかに怒っていた。
それがどうしてなのか分からない。けれどそう思うと、そちらばかりが気になってくる。
「総司」
呼ばれた時、土方に気を取られていた総司は、慌てて近藤へ視線を向けた。
「堀内様はな、今日の内に大坂へ戻られ、明日の朝早くに江戸へ帰られるそうだ」
「今日のうちに…?」
邂逅から一日も経ずに来る別れに、総司は呆然と堀内を見た。
「そのような顔をするな。総司どのにそのような顔をされると、胸が痛む」
堀内の眸に、寂しさがあった。
「実は大坂には、親しい友の病気見舞いで来た。しかも行き帰り船を使うと云う、慌しい旅だ。なに、京へは又ゆっくり来る。それに総司どのも、江戸に帰って来る機会があろう?これが今生の別れと云う訳ではない」
包み込むような眼差しに見詰められた面輪に、一瞬、形容し難い翳が落ちた。しかしそれはすぐに、一点の曇りも無い笑みに変わった。
江戸――。
もう彼の地を踏むことは無いだろう…。
「はい」
朗らかな声音が、偽りのいらえにある哀しみを、ひっそりと胸に仕舞った。
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