282829御礼
総ちゃんのシアワセ
ハタ迷惑なお願いでシアワセ、なの(下)
「うちかて…、無理云うてるのは分かってます」
梛の宮さんは肩を落としました。
「けどどんな願い事かて叶えます云う今度の催しだけは、どないしても外す訳にはゆきませんのや。うちも梛の宮はんと地元で親しまれて早千年。ここきて、あそこはちぃっとも御利益ありまへんで、では済まされませんのや」
梛の宮さんの疲れた声を聞くと、原田さんは難しげに腕を組みました。
「確かに、あんたの云っている事も分からなくはねぇ。日頃神さん仏さんと、何かありゃ世話になっておきながら、いざと云う時にソッポを向くのは人としてどうかと、俺も思う。おい総司…」
原田さんは、畳と総ちゃんの額との僅かな隙に、無理矢理顔を捻じ込もうとしました。
「お前もよくよく考えりゃ、忘れていた願い事のひとつふたつ思い出すだろう。どうだ?」
覗きこむ視線と目を合わせないように、総ちゃんは小さく頭(かぶり)を振りました。
「そうだっ、お前、いつも薬を捨てて怒られていたな。それじゃ、天にも昇るくらい旨い薬ってのを作って貰ったらどうだ?そうしたら薬を飲むのに苦労しなくなるぜ、…おっと」
名案だろうと、背中を叩いた途端、突っ伏しそうになった身体を、原田さんは慌てて支えました。けれど総ちゃんは苦しげに咽ながらも、激しく頭を振りました。
冗談ではありません。
確かに薬は苦く、御世辞にも美味しいとは云えません。けれどその飲み辛い薬を飲む時こそ、実は総ちゃんにとって至福の時なのです。と云うのも。土方さんは、総ちゃんが薬を捨てはしないかと、いつも飲み終えるまで怖い顔で見張っているのです。
端整が過ぎる顔と、鋭い眸に見詰められ、魂が蕩け出すような恍惚感の中で飲む、苦くて不味い薬。シアワセは、常に苦しみと表裏一体。いえ、辛さが増せば増す程、悦びも倍増するのです。それが美味しい薬に変わってしまったら、土方さんの見張りはいらなくなります。この申し出は、誰が何と言おうと、首を縦にする訳には行きません。総ちゃんは固く唇を結ぶと、先程咽た煽りで潤んだ瞳を瞬きました。
そんな総ちゃんに焦れる原田さん、元々が熱くなる気質。
「それじゃぁこれだっ」
何とか総ちゃんを頷かせようと、我を忘れて加熱して行きます。
「そのひ弱な身体を、せめて人並みにして貰うってのはどうだ?」
これ以上の願い事は無いとばかりに、原田さんは大きく手の平を打ちました。その途端、総ちゃんの身体が、ほんの僅か、ぴくりと動きました。それを見過ごす原田さんではありません。
「夏負けも無い、風邪も引かない、どうだ、極上の願い事だろう?」
たたみかけるように問うと、また少し、薄っぺらな身体が上向きになりました。
「…風邪、引かないのですか?」
更に、蚊の鳴くような小さな声のおまけつき。
「引かん、引かんっ。それが願い事やったら、今すぐ風邪の神さんと話つけてきますわ」
梛の宮さんも、ここが正念場とばかりに膝を進めます。
「風邪の神さんとは、お前も長げえ付き合い。別れるとなりゃ辛れぇものもあろうが、風邪ってのはな、引くより引かない方がいいと、世間じゃ相場が決まっているのよ」
原田さんの講釈が終わる頃には、総ちゃんはすっかり身体を縦にしていました。
「風邪、ひかない…」
そうしてもう一度、ぼんやり呟いたのです。
総ちゃんは考えます。
この情けない脆弱な身体のお陰で、風邪の神さまとの切っても切れない御縁は、一体もうどれ程続いている事でしょう。一度風邪を引いてしまえば、土方さんとの嬉し恥ずかし睦事はお預け。どうせ熱くなる身体なら、風邪の熱より、土方さんの熱で火照る身体の方がどんなに良いかと…、幾つ泪の夜を過ごした事か。でも風邪の神さまと他人になれば、そんな哀しい想いから解放されるのです。
「…風邪、引かない」
夢見るような、総ちゃんの声でした。
「よしっ、これで決まりだ」
「決まりや」
そんな総ちゃんの様子に、満足そうに笑みを浮かべた原田さんと、諸手を上げんばかりに喜んだ梛の宮さんでした。ところが…。縦に頷きかけた細い首は突然止まり、その反動のように、今度は横に、千切れんばかりに激しく振られたのです。そう、総ちゃんは思い出したのです。生涯でただ一つ望んだ願い事は、もう叶えられていると云う事を。
「何故だっ、どこが気に入らない、総司。人並みになれるんだぞっ」
肩を掴まれ、波打つように揺すられても、総ちゃんは口を開こうとはしません。ただただ原田さんを見詰めるばかり。やがて潤む瞳は、白い頬に、一滴(ひとしずく)の泪を滑らせたのでした。その刹那、原田さんの裡を何とも形状し難い思いが、矢のような鋭さで突き抜けたのです。それは『哀れ』を樽に漬けて千年寝かせ熟成させてもまだ足りない、胸が締め付けられるような切なさでした。
原田さんは寸の間総ちゃんを凝視していましたが、ひとつ息をつくと、その視線を静かに梛の宮さんへ移しました。
「客人、やっぱり駄目だ」
きょとんと見る梛の宮さんに、原田さんは寂しげに笑いかけました。
「漢(おとこ)原田、弱いもん苛めはできねぇ」
「けどさっきは、日頃神仏に頼るだけ頼っておいて、いざその逆となったらソッポ向くんは人としてどうか、て云うたのはあんたやで」
「それも道理だが、弱いもん苛めと義理、天秤にかけりゃ、俺の秤は弱いもん苛めはするなと傾いたのよ」
悪びれた風も無く胸を張って云い切られ、梛の宮さんは言葉を詰まらせました。
その原田さんの背に隠れるようにしている総ちゃんは、裁きを待つ咎人のように項垂れ、心なしか震えている様子。なまじ姿形がそんな景色に似合うだけに、何とはなしに此方が悪い気分になるのも、総ちゃんには幸運、梛の宮さんには不運。梛の宮さんは、もう何度目かの、深い深い息をつきました。
と、その時。それまで俯くばかりだった総ちゃんが、突然、顔を上げました。そしてそれと同時に聞こえて来たのは、憚りの無い足音。
足音は、廊下の板敷を蹴散らすようにして大きくなってきます。
やがて…。
「原田っ」
現れた人影は、部屋の中の客など目に入らないかのように、開口一番、怒声を響かせました。
「貴様、総司を呼んで来るのにいつまでかかるっ」
「土方さんよ、そう短気を起すもんじゃねぇ」
短気ならば他の追随を許さないと自負する原田さんが、余裕の体で土方さんを見上げました。
「俺は今、この…」
と、梛の宮さんに顎をしゃくると、立ったままの土方さんに視線を戻しました。
「神さんに、総司を苛めてくれるなと頼んでいたところだ」
「総司を?」
端整が過ぎた貌を、更に近寄りがたくしている鋭い目が、初めて客が居る事に気付き、梛の宮さんを見下ろしました。
「あっ、違いますっ、うち苛めてなんかいません。それどころか、何でも願い事叶えてやる、云うてますのや」
「願い事?」
「そうです」
慌てて頷きながら、梛の宮さんは、何故願い事ひとつ叶えてやるのにここまで苦労しなければならないのか、情けなくなって来ました。
「うちのとこの神社で、一等当たり籤引いたもんは、どんな願い事かて叶えられる、云う催しをしましたのや。そんでその一等を引いたのが…」
「総司か」
眉根を寄せた土方さんに、梛の宮さんは頷きました。
「けどいっくら聞いても、願い事は無いの一点張りで…」
ほとほと疲れたと、梛の宮さんは声を落としました。
ところが。
「当然だな」
いらえと一緒に降って来たのは、『自信』の二文字で固められた、高らかな笑い声だったのです。これには原田さんも梛の宮さんも、唖然と土方さんを見上げました。が、そんな視線など気にもかけず、土方さんは総ちゃんの横に胡坐をかくと、梛の宮さんに双眸を据えました。
「総司の願いは、身も心も俺と結ばれた事で成就した。その他に願いがあるなら俺が叶えてやる。そう云う訳であんたの出番は無い」
見事な三段論法でした。自信もここまでくると尊大傲慢。自惚れと云う言葉すら奥ゆかしく感じます。流石の原田さんも、ここらで止めてやれと総ちゃんに視線を送れば、当の本人は恥ずかしげに俯き、気づく様子は皆無。しかもその右の人差し指が畳に書いているのは、のの字、のの字のシアワセな流線。
それを見た途端、梛の宮さんも、お手上げだとばかりに首を振りました。
――神さまにだって出来ることと出来ない事があります。その中でも、古今東西、恋の道ほど面倒なものは無いのです。やれくっついた事の、離れただ事の…、その度に泣きつかれては神さまだってたまりません。恋に溺れる莫迦には、つける薬も、祈祷も無いのです。
もう限界。お邪魔さんでしたと梛の宮さんが腰を上げかけた、と、その時。
「…何でも望みを叶えると云ったな」
一寸、思案げな声の主は、土方さんでした。
「願い事を叶えてやるのは、あんたやおへん」
諦めは、開き直りに変わります。梛の宮さんは素っ気なく云いきると、ツンと明後日の方角を向きました。
「云っただろう、総司の身も心も俺のものだと」
にやりと笑った口元の歪みが一層男振りを上げ、うっとり見詰める総ちゃんの瞳が潤みます。
「俺の願い事を聞けば、総司の願い事を叶えた事になる訳だぞ」
「そないな無茶、聞けまへんわ」
「無茶な事じゃないさ。総司が承知すればいいんだろう?それにあんただって手ぶらで帰る訳には行かないんじゃないか?」
痛いところを突かれ、梛の宮さんは口を噤みました。目の端で総ちゃんを捉えれば、相変らず、のの字のの字のシアワセな世界の中。確かにあれだけ惚れているなら、そう云う屁理屈も通じるのかも…、との思いが、梛の宮さんの頭をちらりと翳めます。その裡を素早く察したか、
「どうだ、悪い相談じゃなかろう?」
それ以上考える隙を与えず、土方さんが詰め寄りました。
「千年の歴史をフイにするか、百年の安泰を手に入れ一息つくか…、よくよく考えてみる事だな」
「……」
うそぶく土方さんを、梛の宮さんは恨めしそうに見上げました。そうして口をへの字に曲げていましたが、やがて大きな溜息と共に仕方なさそうに首を振りました。
「ま、しゃぁないやろ。ここらで手を打ちましょ」
あれだけ粘った割には、ちとあっさり過ぎる諦めの良さでしたが、そう云う変わり身の早さが、千歳の時を刻むには必要なのかもしれません。得難い教訓を間近に見、原田さんは一人頷きました。
「そんじゃ、あんたはんの願い事を聞きましょ。はよ云うて」
「よし」
土方さんは満足そうに、唇の端を上げました。
「まず伊庭だ」
「…誰やねん、それ」
「今二条城辺りで欠伸をしている。こいつは将軍警護とは名目、暇さえあれば遊びに現を抜かしている奴だ。そいつを江戸に追っ払ってくれ。いや、江戸でなくても構わん、俺の目に入らない処ならどこでもいい」
「それが願い事?」
「そうだ」
「ちょっと待ってやっ、うちの神社の界隈で伊庭なんてもん、誰も知りまへんわ。せやからそないな願い事叶えたかて、ちっとも宣伝にならんわ」
「新撰組副長の俺が宣伝してやる」
「あんたが?」
梛の宮さんの顔が不審一色に染まりましたが、土方さんは信じろの一言で切り捨てました。
神さまを神さまとも思わぬ傲慢ぶりに、太平楽な原田さんの頭にすら、人の分際と云う言葉が過ります。
「俺の云った事は、時を置かず、天下の噂になるぞ」
が、その良心さえ弾き返す断言でした。
「あとは、五条で診療所をやっている田坂と云う医者がいる。目障りだが、あいつが居てくれないと総司が困る。そこであいつには焼き餅だけが生甲斐のような嫁をつけてくれ。そうだな、亭主の浮気に四六時中監視の目を光らせているような女がいい」
「…そないな嫁、見つけられるかいな」
「あんた、神さんだろう?千年の人脈を生かせ」
「それから、斉藤」
親しい者の名が出た瞬間、原田さんは驚きの目を土方さんに向けました。けれどその視線をものともせず、次の願いは続きます。
「新撰組の三番隊組長だが、あいつの目も心も、剣にだけにしか向かないよう仕向けてくれ」
「…はぁ、…剣にだけ?」
「そう、剣だけに向けてくれればいい」
「けどちょっとそれ、人生寂しくあらへん?」
「剣の道を究めようとするものが、他所見してどうする。だが人間である限り、誘惑は多い。そこであんたの力で、誘惑に打ち勝つ強い心にしてやろうと云うのだ。それを奴の代わりに願ってやる俺は親切だと思うが?」
薄い笑いを浮かべた土方さんを見ながら、原田さんはあんぐり口を開けました。
――目も心も剣の道しか向かなくなること。
それは剣の道以外は盲目になると云う事で、即ち、修行僧のような人生が待ち受けていると云う事なのです。
(斉藤の奴も女は…、いやもしかしたら、男だって嫌れぇじゃねぇよな)
無口な若者の、枯れ葉色の行く末を思い、原田さんは固く目を瞑りました。
そんな原田さんの感傷など知る由も無く、いえ例え知っていても、土方さんの口は走ります。
「それから」
「まだありますのかいなっ」
梛の宮さんの、悲鳴のような声でした。
「これで百年は息つけるんだ、安いものだろう」
「けど願い事は、おっきい迫力のあるのをどぉーんとひとつ出さんと、印象に残らんからなぁ」
渋い顔の梛の宮さんに、土方さんは双眸を細めました。
「でかいのをひとつ、確かにそれは人を驚かせる。だが心に残るのは一時だけだ。が、小さいのを小出しに叶え続ければ、あんたの評判は高くなるぞ。細く長くは商いの鉄則だ」
「そないなもんやろか…」
「そう云うもんだ。それで続きだが」
胡散くさそうな視線を無視して、土方さんは片膝を立てると、梛の宮さんに向い身を乗り出しました。
「伊東と云う奴がいる」
「どこのもん?」
「新撰組だ」
「身内で騒動の多いとこやな」
「だからの神頼みだろう?」
「……」
「名ばかり参謀にしてやったが、目ざわりな事甚だしい。そう云う訳でこいつをどっかへ追っ払ってくれ。八丈島や隠岐、いっそ佐渡でもいい」
「島流しかいな」
「海の中でもいいぞ」
口辺に浮かんだ笑いに、ぞくりとする冷たさがありました。その迫力に思わず仰け反った梛の宮さんでしたが、総ちゃんは潤んだ瞳で、うっとり土方さんを見上げています。
そして原田さんは…。
土方さんの腹の中に詰め込まれている、得体のしれない黒い塊の一端を垣間見、思わず自分の腹に手を当てました。そうして、自分が『そのまんま原田』と云われる所以は、勢いで腹掻っ捌いてしまった折、腹黒さの全部が飛び出たからに違いないと、深く納得したのでした。
追い込まれる梛の宮さん。
追い詰める土方さん。
神さますら己の掌中で使おうとする土方さんを、ぼうっと見詰める総ちゃん。
人の良い神さまに情を禁じ得ず、原田さんは、目の奥が熱くなるのをぐっと堪えました。
「ああ、帰って来た。お帰りなさい、梛の宮はんっ」
「ただいま」
出迎えに応えると、梛の宮さんは、提灯を持たせてきた狐に、自分の襟に巻いていた尻尾を返してやりました。純毛の襟巻を外した首筋を、狙ったように冷たい風が刺し、梛の宮さんはぶるりと身を震わせました。
「首尾はどないでした?酒の用意もしてありますよって、一杯やって温まりながら話ききますわ」
木皇大神さんと道真公が、梛の宮さんの手を取りました。
「土方めっ」
「土方の奴っ」
二人同時の声に、杯を口に運ぼうとしていた梛の宮さんは、ぎょっと手を止めました。
「あいつ、総ちゃんを狙っておる男を、みんな遠ざけるつもりやっ」
「見え見えですわ」
忌々しげな木皇大神さんに、道真公も頷きました。
「けど、その伊東ってのはどうでもええけど、あとの三人は除けといた方がええんとちがう?一応、うちらの恋敵ですもん」
道真公が木皇大神さんに、低く耳打ちしました。
「そやな、要らんもんは外しといた方がええな」
ふたりのひそひそ声を他所に、梛の宮さんは、さてどこから手をつけようか…、途方にくれ小さく息を吐きました。と、その時。
「梛の宮はん」
人の気も知らない陽気な声が。
「うちらもお手伝いさせてもらいますわ。何、神さん同士、手を合わせれば、どうにかなります」
「そうです、そうです。うちも明日から、氏子はんの伝手(つて)辿って、悋気持ちの娘探しますわ」
「あんたら…」
木皇大神さんと道真公の申し出に、梛の宮さんの目が潤みます。
「やっぱ、持つべきもんは神さん同士の絆ですなぁ」
しみじみと語る声に、満面に笑みを湛えた木皇大神さんと道真公が頷きました。
遠くで黎明を告げる鶏の声。
「…朝かいな?」
梛の宮さんは、重い瞼をようよう開けました。傍らで木皇大神さんが、大の字になって鼾をかいています。更にその横では道真公が徳利を握ったまま、何やら寝言を云っています。
「呑気な奴らやな…」
これで助っ人になるんかいと、ふと不安に思ったその寸座。とんとんと、神殿の扉を叩く控えめな音。
「誰やろ…。こないに早く」
早朝詣での客なら、拝殿の方で柏手の音がする筈。はてと、不審に思いながら立ち上がると、梛の宮さんは薄く神殿の扉を開けました。
その途端――。
梛の宮さんのぼんやりとした頭は、一気に覚醒したのでした。
「あの…」
計らずも神さまのお宅訪問となった総ちゃん。次の言葉が続かず瞳を伏せてしまいました。その総ちゃんを見下ろしながら、梛の宮さんの心の臓ははくはくと鼓動を激しくします。
(頼むっ、もうこれ以上話を蒸し返さんといてっ…)
声にならない悲鳴が、固まった視線になっているのも知らず、やがて総ちゃんは瞳を上げました。そして思いきったように、口を開いたその時。
「総ちゃんやないかぁっ」
「総ちゃんやっ」
お気楽な声の二重唱。
「総ちゃん、どうしたん?」
「何かあったん?」
三っつの階段をひらりと下りて、木皇大神さんと道真公が、なぁなぁと華奢な身を囲みます。顔見知りの神さま達に迎えられ安堵した所為か、総ちゃんの表情からも強張りが解けました。
「あのね、昨日土方さんがお願いした事を、叶えないで欲しくて来たのです」
「土方の願い事?」
訝しげな道真公に、総ちゃんは頷きました。ところが慌てたのは梛の宮さんです。
「まってやっ、昨日のあれは、あんたかて了承の事やろっ?」
「覚えていないのです」
「覚えていないって…」
梛の宮さんは茫然と呟きました。やがてはたと気づいたように、ごくりと喉を上下させました。
「もしかして…。あん時、あんた魂もあっち放り出してしまうほど、自分のええ人に見とれてたんか?そんでなんも覚えていないんか?」
恐る恐る問う声に、総ちゃんは瞳を伏せ小さく頷きました。そして。
「…あとでね、原田さんに土方さんがお願い事したって聞いたのです。でも土方さんのお願いを叶えて貰うと困るのです」
小さな声ながらも云い切ると、申し訳なさそうに、又下を向いてしまったのでした。
そうなのです。
総ちゃんは、昨日梛の宮さんが引き上げて、夢の世界から帰って来るや、ついさっきまでの経緯を原田さんから教えられたのです。聞くなり、総ちゃんは凍りつきました。
確かに、土方さんとは一心同体。だからこそ、ここで土方さんの願い事を叶えられたら、必死に守り続けて来たシアワセの何処かが削られてしまうのです。総ちゃんは慌てて立ち上がりかけました。一刻も早く梛の宮さんに駆けつけ、土方さんの願い事を白紙に戻して貰わねばなりません。
ところが…。その腕を土方さんに取られ、まだ日もあると云うのに昨日はそのままお蒲団へ。しかも恋敵達の名前を並べたのが刺激になったのか、昨夜はやけに執拗だった土方さん。啼かされ、泣かされている内に、総ちゃんも梛の宮さんの事はすっかり忘れ、いつか夜も更け…。目覚めた時には、もう夜の気配は薄く、闇は部屋の片隅に追いやられていたのです。
そんなこんなで。
昨日の繰り返しの、今日の始まり。
「…お願い事、無いのです」
一層深く項垂れた時、細い項(うなじ)を、鎮守の森の向うから昇り始めた天道が照らしました。
その白い膚に散った、紅の土方印――。
(土方めっ)
(土方の奴っ)
お腹の中で、憎々しげに唸った二人の神さまの横で、梛の宮さんが、へなへなと腰を尽きました。
「あっ、梛の宮はんっ」
「しっかりしてっ」
「また、一からやりなおしかいな…」
うつろな呟きに交じった吐息が、澄んだ朝の気を、寸の間白く彩りました。
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