子が人となりし狭間に
花に滴る露が落つるが如く
あるいは残照の烈き色の一瞬が如く
幻を追うに似て儚くもつよき瞬きのときあり
彼の束のときにありて
眸に映りしもの清冽なまでに鮮やかにして
耳に届きしもの障るもの無く澄みやかにして
また胸に刻まれしもの
あるいはうねり寄せる波の激しさの如く
あるいは音も無く引く波の静かなる如く
己が運命の限りに渡り
幸いも辛きもその礎となせり
rata さまへ 2999御礼
いまだ降りやまず・・・ 玉響 〜序章〜
少しも手加減の無い真夏の日差しのせいばかりではなく、
湧き上がるように鳴り止まぬ蝉時雨の喧騒が殊更汗を滴らせる。
「これ以上見ていても同じだぜ」
十六歳の伊庭八郎は人垣の向こうに展開されている奉納試合の様子を
先程から同じように隣で見ている高木新造に面白くもなさそうに告げた。
親戚筋への用を足しに内藤新宿をずいぶんと外れた田舎へ来ての帰りに
酔狂で足を止めてしまったが、
はなから期待したものがあった訳ではない。
それでも供に付いてきた自分より二つ年上の十八になる門弟は
こういう野試合を普段見慣れていないせいか、
興味深そうに足をとめたまま動こうともしない。
いい加減腹も立ってきて、八郎は高木を置いてさっさと歩き出した。
その八郎が去って行くことすら気が付かず、
高木は繰り広げられる荒試合を見ている。
「・・・ったく、馬鹿だぜ。あいつ」
いずれ心形刀流の十代目を継ぐべき八郎から見ても
確かに神社の境内で今行われている奉納試合は、
己の流派にはない荒々しさ、猛々しさに息を呑むものがある。
だがそれだけだ。力で押すだけで技と言う技もない。
所詮田舎神社の奉納試合にすぎない。
数を見ていればおのずと飽きがくる。
耐えられようの無い暑さにも閉口するが、
それに目を奪われて八郎の不機嫌にも気付かない
高木の神経の鈍さにも腹が立つ。
「日の暮れるまで見てるがいいさ・・・」
付いて来ない高木に毒付いて歩を進める先に、
この炎天下に枝を大きく張って、唯一木陰を作っている欅の大木が目に入った。
「・・・腹の立つ奴だね」
それでも自分が横に居なければ顔色を変えて追ってくるだろう
高木を思って八郎はその木陰で待つことにして近寄った。
が、生憎先客が居た。
ひとつ木陰で見知らぬ者と言葉を交わすのも面倒で、
そのまま踵を返そうとしたとき、
その先客の様子がどうにもおかしい事に気付いた。
大木の幹に凭れるようにして、顔を伏せて座り込んでいる。
ぐったりと弛緩した体は子供の様にも思える。
「おい、どうした」
近づいて声を掛けたのは元来の義侠心からかもしれなかった。
ふいに頭の上から降ってきた声に、
それでも呼ばれた少年は大儀そうに顔を上げた。
葉と葉の間から差し込む陽が眩しいのだろう、目を細そめて八郎を見上げた。
その顔の色が驚くほど青ざめて悪い。
傍らには竹刀がある。身に付けている物も稽古着のようだ。
今は人垣が遠くに見えるあの奉納試合に関係がある少年だろうか。
「どうした。どこか具合が悪いのか」
八郎の問いに応えるのも辛そうに、少年は黙ったまま見上げている。
膝を付いて屈みこんで少年の目線と位置を合わせると、
「お前、一人なのか?誰か一緒の者はいないのか?」
たたみかけるように早口に言う八郎に、少年は微かに首を振った。
だがそれだけでは是か非かは分からない。
「持ち合わせの薬があるが、
どこがどう悪いのだか分からなければ服しても返って毒になる」
それにも少年はただ八郎をぼんやりと見上げるだけだ。
どこが悪いのかは分からぬが、
少年の様子からあまり良い状態とは思えない。
(・・・仕方がねぇな)
面倒ごとに巻き込まれるのは御免だが、
目の前の少年をこのまま放っておくわけにも行かない。
力の欠片も入らないように座ったまま投げ出された腕も足も、
見ればひどく肉付きが薄い。
近くにある農家の軒まで背負って運んでもそう造作はなさそうだ。
今は木陰になっているここも、
そのうち陽が回ってくれば容赦の無い真夏の陽射しに照らされる。
八郎は決めたように立ち上がると、
「俺の背におぶされ」
そう言って少年に背を向けて方膝を付いた。
だが少年は叉も小さく首を振るだけで動こうとしない。
「こんなところに居たらもっと具合が悪くなるだけだぞ」
多少苛つきを覚えながら後ろの少年に言葉を荒げると、
「・・・土方さんが・・」
初めて弱々しくも口らしい口をきいた。
「土方さん・・?」
いきなり的外れな言葉に、
八郎はこの少年が何を言わんとしているのか分からず訝しげに聞き返した。
少年は相変わらず蒼白な顔をしたままだが、
今度は多少はっきりと頷いて何かを言いかけようとしたが
その刹那、突然にその口元を手で覆った。
どうやら吐き気を覚えて堪えているらしい。
「戻したいのか?」
それにも応えられず、
少年はひたすら込み上げる吐き気を抑えようとしている。
「吐き出してしまえ。その方が楽になる」
その言葉には必死に首を振る。
己の醜態を晒すのを頑なに拒んでいるのだろう。
八郎は少年の後ろにまわると、その背に手をあてて一気にさすった。
骨の形をなぞれるようにごつごつと薄い背だった。
少年はそうされることを初め抗ったが、
二度三度下から上へと押されるようにされると遂に堪えられず、
もう吐き出すものもなかったのか、胃の腑にある液だけを僅かに戻した。
戻すのに力がいてそれが限界だったのか、
少年の体が前かがみに崩れかけた。
それを慌てて支えてやると、触れた体の熱さに驚いた。
「熱があったのか・・」
少年は応える気力も無いのか、うつろに顔だけを八郎に向けた。
黒曜石に似た底の無いような深い色の瞳が涙で滲んで揺らめいている。
苦しいのか縋るように八郎に向けたその視線が痛々しい。
「大丈夫だ。俺がいてやる」
思わず八郎は励ますように少年の肩に腕をまわして強く抱いてやっていた。
最初は遠慮するように身を堅くしていた少年が、
暫らく八郎の腕に抱きとめられて、人の温もりに安堵したのか
やがて少しずつ力を抜いて、体を八郎に凭れかけるようにしてきた。
そのまま目を瞑った顔に、苦しげな色が少しばかり和らいだ気がする。
誰も居ない炎天下の木陰の下で、
体の不調に一人どんなに心細い思いをしていたのだろう。
そう思えば今自分を唯一頼れるものと
体を寄せてくるこの少年が八郎にはいとおしくも思える。
どのくらいそうしていたのか、
腕に抱えてぐったりと目を閉じていた少年がふいに上体を起こそうとした。
「どうした」
驚く八郎に、
「・・・土方さんが」
訳も分からずとりあえず少年の向ける視線を追うと、
一人の男が足早にこちらに向かって来る。
その視界にも自分達の姿が入ったのであろう、
一瞬男は驚いたようだったが、次には八郎が何事かと思う程に
一気にこちらに向かって駆け寄ってきた。
「宗次郎」
以外にも男は少年に向かって叫んだ。
その呼びかけに応えるように、
少年は更に八郎の腕から離れるように男の方を向いた。
「宗次郎、具合が余計に悪くなったか・・?」
息を切らせながら額から滴る汗を拭おうともせず木陰の下に着くと、
若い男は宗次郎と呼んだ少年の様子を見て眉根を寄せた。
「あんたこの子の知り合いかい」
掛けられた声に、若い男は初めてその存在に気付いたかの様に八郎を見た。
宗次郎の背を抱えてまだ支えてやりながら、
八郎は少しばかり挑戦的な目で、その若い男の視線を跳ね返した。
今しがた知り合ったばかりとは言え、これも他生の縁と思えば
迂闊にこの腕にある弱っている少年を渡すわけにはゆかない。
回す腕が知らず少年の体を己の胸の内に引き寄せる。
「兄代わりだ」
「それなら病人をこんな処にほっとくものじゃねぇだろう」
「水を汲んでくる間に世話をかけたらしいな。礼を言う」
不敵に落ち着いた男の物腰が、
お前の様な子供に付き合う暇など無いと言っているようで八郎の癇癪を誘った。
八郎の腕から宗次郎を自分に移そうと伸ばしたその手を、
八郎は邪険に振り払った。
その仕打ちにさすがに端正に造作された男の顔に険しいものが走った。
「土方さん・・・」
突然、今まで口を開く気力も無いようにぐったりと黙っていた宗次郎が、
ふたりの険悪な雰囲気を察したのか小さく呟くと、
自分から体を起こして土方と呼んだ男に向き直った。
芯が無いような心もとない宗次郎の体に慌てて土方が手を伸ばすと、
「あとどれ程の人で私の番が来るのでしょう・・・」
その手で支えられながら、
宗次郎は先程よりもずっとはっきりとした声で問うた。
「心配をするな。試合には出られないと近藤さんには話してきた」
それに宗次郎は激しく首を横に振った。
「出られます。大丈夫です」
「馬鹿を言うな。お前は俺と帰るのだ」
「大丈夫ですから」
宗次郎は土方の襟元にしがみ付くようにして、効かん気に譲らない。
「試合にでます」
今体に残っている力をすべて費やすように宗次郎は必死に食い下がる。
いつのまにか二人の会話の外に放り出された様な格好になって、
だが八郎は無言で宗次郎を凝視していた。
これがほんの少し前まで身じろぎするのも大儀そうに、
自分の腕に体を任せていた少年なのだろうか。
弱々しい心が縋るように、
黒曜の色をした瞳を揺らめかせていた少年なのだろうか。
護ってやらねばと思った少年は一瞬の内に自分の腕をすり抜けて
今驚くほどに激しい色を同じ瞳の内に湛えて、己の無理を通そうとしている。
その光景を不思議なものを見る思いで八郎は見ていた。
「ここで少し休んでずいぶん良くなりました。本当にもう大丈夫ですから」
「それが大丈夫と言う顔か。近藤さんにも迷惑がかかる」
傍で聞いている八郎には土方の言葉は容赦の無いものにも聞こえるが、
多分このくらいに言い聞かせなければ、
この宗次郎という少年は諦めることをしないのだろう。
それだけは八郎にも分かった。
「とにかく、今日はもうお前を連れて帰れと言われて来た。
試合には近藤さんが出る。心配をするな」
それでも宗次郎は頑なに首を振る。
「誰にも迷惑は掛けません。だから試合に出ます」
お願いです、と懇願したまま瞬きもせずに見据えてくる瞳に土方は黙った。
宗次郎の手はきつく土方の襟元を握ったままだ。
きっと承知するまで宗次郎はこの手を離さないだろう。
ここまでになると誰も宗次郎の頑なさを鎮めることはできない。
土方は諦めたように、ひとつ小さな溜息をついた。
「無様な試合は見せられないぞ。分かっているのか」
それに土方に向けた視線をそらさぬまま、宗次郎はしっかりと頷いた。
「何をふざけたことを言ってんだ」
思わず横から声を荒げたのは八郎の方だった。
「さっきから聞いてりゃ、あんた達の言ってることは大概じゃ呆れるぜ。
こんな子供の病人に立ち合わせるなんざ馬鹿も休み休みいいやがれ」
「子供ではありません」
その八郎を更に強い双眸で睨みつけたのは宗次郎だった。
黒曜の瞳が己の邪魔を許さないと言うように強い光を放った。