いまだ降りやまず・・・   参



 自分なら小走りにならなくては追いつけない程いつもは足の早い土方が、殊更ゆっくり歩いてくれているのは、背におう自分の体の為だと分かって宗次郎は余計に情けなくなる。
「・・・もう自分で歩けます」
 そう告げた途端に、情けなさを通り越して哀しくなった。
「黙って寝ていろ。じきに橋本の家に着く」
 叱るようにぶっきらぼうに届く声は、宗次郎を更に追い詰める。

 奉納試合は勝ち抜き戦だったが、近藤は宗次郎の不調を危惧して結局二人を勝ち抜いたところで伏せさせ、土方にここから一番近い天然理心流の後援者たる橋本家に、とりあえず休ませるよう手配したのだった。
 奉納試合は決して豊かとは言えない試衛館の貴重な収入源だった。寄付を集めて寺社に納める分を差し引いても相当の額が残る。天然理心流という流派を広く知らしめ、また財源を確保するためにも、この奉納試合に無様な試合を見せる訳には行かなかった。それが幼少から父親の様に慈しんで自分を育ててくれた近藤への唯一できる恩返しだと、宗次郎には幼いなりに胆に命じるものがあった。だから勝ち進まねばならなかった。その大切な行事に、役に立つどころか醜態をさらしてしまった。どうにか二人を倒したが、そのうち一人には一本を取られた。それが宗次郎には許せないことだった。

「・・・一本を取られてしまいました」
「だが勝っただろう。それでいいじゃないか」
「駄目です。あんな試合・・・」
 土方の首に手を回してつかまりながら、宗次郎は首を横に振った。
「それはお前の体の具合が悪かったから
相手が一本取れたのだということか」
 それが何を言いたいのか分からず、宗次郎は黙った。だがすぐにその言葉の裏にある意味に気が付いて赤面した。驕るなと、土方は言っているのである。言われて気付いた己の思い上がりに耐え切れず、宗次郎は思わず背負われている土方の背に顔を伏せた。
 そのまま、背負う者と背負われる者で、暫し無言で木陰の道を行っていた、ふいに呟くように土方が低く言った。
「具合が悪くなくても良くても負ける時は負ける。どんなに強い奴でもそれは同じだ。お前はよくやったよ」
 一瞬吹き抜ける風が、重なる枝の葉を揺らして騒がせた後、土方は背後の宗次郎に顔を回して告げた。それは紛れも無く宗次郎を労わる言葉だった。今聞いた言葉を確かめるように、宗次郎は、伏せていた目をおずおずと上げた。するとそこに、土方の双眸が深い眼差しで自分を見ていた。
 驕りを諭すように見せかけて、その実自分の心に重く残る憂慮を払拭してくれているのだと知って、宗次郎は今度こそ、その背に顔を埋めたまま上げられずに、その分土方に縋る腕に力をこめた。
 土方の背が人のぬくもりで温かい。着物を通して土方の力強い心の臓の音が聞える。それが此処こそが素の自分で居て良い場所なのだと語りかける。思わず目から何かが零れ落ちそうになった。人の背で泣いたりしたらみっともない。自分はもう子供では無い。すると、土方が、抱えなおすように宗次郎を持ち上げた。下に沈んでいた宗次郎の顔が、土方のそれと極近づいた。
「少しだけなら泣いてもいいぞ」
 耳元あたりに宗次郎の唇を感じながら、それでも宗次郎を見ないで土方は言った。その一言で、必死に堪えていた宗次郎の目からひとつ露が零れた。初めのひとつがいけなかったようで、堰を切ったように露は次から次へと零れおち、遂に堪えきれず、宗次郎は土方の肩口に顔を埋めると、あとはしゃくりあげるようにして泣いた。
 その嗚咽を聞きながら、土方は思う。
 十五歳の少年の悔しさはきっと己自身へ向けられたものだろう。めったに自分を解放することのない宗次郎だが、時折驚くほどに激しい感情の片鱗を見せることがある。だがそれもほんの一時の事で、多分自分の他は知るものはないだろうと土方は思っている。辛いも悲しいもすべての感情を瞬時の内に黒曜石にも似た深い色の瞳の奥に閉じ込めて、次にはいつも小さく笑っている。
それが宗次郎の望むものならば致し方が無い。だがその姿が自分の知る宗次郎であっては欲しくない。この少年の、奔放に解き放たれた感情のままを、自分だけは受け入れてやりたいと土方は思う。
 己の衣を通して肩を濡らす宗次郎の露が、いじらしかった。




 素足に直接に感じる、地を照りつけるような天道の熱は、季節の変わりはまだまだ先だと言っているようで、稽古の汗を冷たい井戸の水で漸く治めて八郎は大きく息を吐いた。
「若、若に客ですが・・」
 道場とは反対から回って来た門弟が、八郎に来客を告げた。
「客?俺」
「はぁ、子供なのですが、どうしても若にと。追い返しましょうか?」
「いや、行く」
玄関だな、と言った時には諸肌脱ぎのまま、門弟が呆れるほどの早さで八郎は駆け出していた。
 八郎には確信があった。きっと客は宗次郎と言った、あの時の少年に違いない。

 玄関に回ってみたが、それらしき姿が見えない。思わず辺りを見回すと、門の所に隠れるようにしている宗次郎がいた。
「なにしてんだよ。入ってこい」
 声を掛けられ八郎に気がついて、宗次郎の顔に一瞬に人懐こい笑みが広がった。それでも広い屋敷内に入るのを、どうしようかとためらっているようだったが、八郎がずんずんと近づいて来るのを見ると、安堵したように、何やら大きな包みを抱えて門を潜った。

「あの時はありがとうございました」
 八郎の前に来ると宗次郎は、丁寧すぎるほどに体を深く折り曲げ、几帳面に礼を言った。
「俺は何にもしちゃいないぜ」
「でも嬉しかったから・・・」
 その顔が、本当に嬉しそうに笑った。
 正直な感情の発露をぶつけられて、八郎は妙に慌てた。
「もう具合は良いのか」
 愛想も無く聞いたのは、せめてもの照れ隠しかもしれなかった。
 宗次郎は、はにかんだように小さく頷いた。

 あれから五日が過ぎていた。
 目の前の宗次郎は相変わらず細く頼りない。手に大事そうに持っている大きな荷物が酷く重そうに見える。
「荷物を持ってやる。こっちに来な」
 手の風呂敷を乱暴に取り上げると、八郎は先に背を向けどんどん屋敷内に入って行った。宗次郎は戸惑った風だったが、荷物を取り上げられては仕方が無く、足早に八郎の後を追った。

 八郎は母屋の中には入らず、ぐるりと建物を回ると、中庭に面した縁まで来、そこに腰掛けた。足の早い八郎に漸く追いついて、宗次郎は額に汗をかいている。
「座れよ」
 自分の隣を、八郎は指差さした。言われるがままに縁に腰掛けた宗次郎は、まだ息を切らせている。
「なんだ、他愛のない」
 八郎は笑った。
「だって、伊庭さん足が早いから」
「八郎でいい。俺も宗次郎と呼ぶ」
「・・・八郎さん?」
「八郎でいいと言ってんだろ」
「でもひとつ上だから・・」
先日八郎に子供だと言われたことを思い出したのだろう、宗次郎の目が悪戯気に笑った。つられて八郎も苦笑した。本当にあの時も今もどうみても、この少年と自分がひとつ歳の差だとは思えない。
「よくここが分かったな」
「土方さんが教えてくれたから」
「ああ、あいつか」
 土方の端正な顔を、八郎は思い出した。
 あの男なら、自分がどこの人間かは教えることができるだろう。だが土方と宗次郎が口にした時、自分の胸に俄かに走った感情が、その後の言葉を止めた。決して愉快な感情では無い。むしろその名を宗次郎から聞きたくは無かった。そしてその思いが何なのか分からず、八郎は己を持て余した。が、そんな八郎の胸の内などお構いなく、
「そうだ…」
宗次郎は縁に置かれた先程の包みを八郎に差し出した。
「これ、近藤先生が八郎さんに食べてもらうようにと…」
「何だ?」
 思考があらぬ方向に飛んでいた八郎は、突然目の前に現れた風呂敷の包みに目を見開いた。
「試衛館・・・、うちの道場だけれど、そこの近くの店の饅頭です。近藤先生が好きで私も時々相伴するけれど美味しいのです。八郎さんにお礼に行くと言ったら近藤先生が持っていけって・・・」
 宗次郎は嬉しそうに笑った。
 きっとひとつしか歳の違わない八郎の嗜好も、自分と同じだと思っているのであろう。だが疾うに酒の味を覚え、最近では女遊びに興じる面白さも知り始めた八郎には、饅頭の甘さは昔の幼い記憶だった。それでも包みを開くと、やや大きめな饅頭をひとつ手にした。饅頭は、思う程には甘くはなく、確かに稽古あとのすきっ腹には丁度良い。
「旨いな、お前も食べろ」
 その喰いっぷりを満足げに見ていた宗次郎の顔が、嬉しそうに綻んだ。
 礼を言いに行くという弟子に、せめてもの気持ちを持たせた近藤という道場主に、八郎は興味を覚えた。
「お前のところは誰でも立ち会えるのか?」
「近藤先生が良いと言えば・・、でもうちにはいろいろな人がいるから」
「いろいろ?」
「いろいろ」
「山南さんは北辰一刀流だし、永倉さんは神道無念流。ああ、原田さんなんか槍で…。本当にいろいろだ」
 自分で言っておきながら、小さく声を立てて笑い出した。
「面白そうだな」
 笑いながら、八郎も宗次郎を見た。
「今度行くよ、お前のところにも」
 頷いた宗次郎の顔に満面の笑みが広がった。
 八郎は、目を細めて空を見上げた。
 眩しいのは降り注ぐ夏の日差しのせいなのか。
 それとも、自分に向けられた宗次郎の邪気の無い笑みのせいなのか…。
 理由もつかず戸惑う自分に閉口し、八郎は、止まぬ蝉時雨にしなる枝の向こうに視線を投げかけた。




玉 響