いまだ降りやまず・・・ 四
「けれど、あんたとこんなに長い付き合いになるとは思わなかったね」
八郎は汲んだ井戸の水で手ぬぐいを絞ると
諸肌脱ぎになって汗に濡れた体を拭きながら
傍らで同じように顔を洗っている土方に語りかけた。
「俺もうんざりしているよ」
「お互い様ってところか」
皮肉に唇の端だけで笑ったが、胸の内にしこるものは無い。
「たまには内藤新宿もいいもんだな」
八郎が横の土方に意味ありげに笑いかけた。
「お前が言うと皮肉に聞こえるよ」
「素直じゃないね、あんたも」
「お前、自分の道場はどうした。いつまでもこんな所に居ていいのか」
「俺がいなきゃ誰かがどうにかしているさ」
「貧乏道場とは違うってわけか」
「勝手に言っておきなよ。それより・・・」
八郎は竹刀の合わさる音と、掛け声の聞こえる道場の方を見た。
「そろそろ総司が稽古を終えて来そうだな」
「あいつに余分な事を言うなよ」
「余分な事ってのは例えば、俺たちがついさっきまで一緒だった女の事とかかい」
八郎が面白そうに土方を見た。
「それが余分だと言っている」
「どうして。総司だってもう十九だろう。歴(れき)とした大人だぜ。
あんたが何処でどんな女を抱いたと言ったところで驚きゃしないさ」
それには応えず、土方は手で掬った水を顔に浴びせた。
確かに八郎の言うとおり、
今更自分がどこの誰と褥を共にしようが総司に隠す事ではない。
だが近頃の総司はおかしい。
女遊びに出かけようとする自分を、時折酷く寂しそうな目で見ことがある。
それはほんの一瞬のことで、あるいは自分の思い過ごしなのかもしれない。
土方自身がこの先どう道を進めば良いのか、
その道すら見えてこない苛立ちを、外で発散させる他に鎮めようが無い為に、
以前の様に総司の相手をしてやることもめっきりと減った。
多分それを寂しがっているのだろうが、己も又目に見えぬ焦りで、
今は総司の心まで慮(おもんばか)ってやる余裕が無い。
その引け目と言うのも可笑しな話だが、
殊更総司の憂鬱の種を刺激することをしてやりたくはない。
「総司も一度遊びに連れて行ってやればいいのによ。
そうすりゃあいつの機嫌を伺いながら朝帰りすることも無くなるぜ」
八郎は土方の反応を楽しむように言葉を繰り出している。
その挑発に気付いたか、
「勝手にしろ」
短く言い捨て置くと、土方はさっさと縁から母屋に上がってしまった。
その後ろ姿を八郎は苦笑しながら見送った。
「あの鈍さは一体どこから来ているんだか」
八郎はすでに視界から消えた背に向かって一人愚痴てみる。
「いっそ鈍いままで居てくれた方が俺は有難いけどね」
呟きながら見上げた空にすでに日は高い。
眩しげに目を細めながら抜いていた腕を着物に通した時、人の気配に振り向いた。
「お帰りなさい」
そこに先程の噂の主の総司が小さく笑みを浮かべて立っていた。
「何だ、稽古終わっちまったのか?今から行こうと思っていたんだぜ」
「嘘ばかり言っている」
「嘘じゃないさ。たまにはお前と竹刀を合せたいと思っていたのさ」
「そういえば最近八郎さんとは手合わせをしていないな」
ここには良く来るのに、
そう続けながら総司は八郎を見てからかうように笑った。
その邪気の無い笑い顔を見ながら、
こういうところは初めて会った四年前と少しも変わらないと八郎は思う。
昨年夏、師の近藤勇が正式にこの試衛館の四代目を襲名した時に
総司は十八で塾頭になった。
その折幼名の宗次郎を改め総司としたが、中身が変わったわけではない。
四年前と変わったものと言えば上に伸びた多少の背丈だけで、
八郎の目からすれば相変わらず頼りない体をして
塾頭という名すらその背に負うには重たげに見える。
「土方さん・・・、一緒じゃなかったのですか?」
自分も稽古の汗を拭おうと、水を汲みに井戸の釣瓶に手をかけながら、
総司が遠慮がちに八郎に問いかけた。
何気を装ってはいるが、
それが聞きたかったに相違ないことは伏した横顔に落とした翳で知れる。
「一緒だったよ。ついさっきまで。およそどっかで寝ているんだろうよ」
「昨夜は・・・」
何かを言いかけた総司だったが、
それを口にするのを躊躇ったのか途中で止めた。
だが八郎はその言葉の後を取って応えた。
「昨夜は内藤新宿へ二人で行った」
「内藤新宿へ?」
「吉原のようには行かないが、
たまには宿場の飯盛り女も良いって土方さんが言うものだからな」
それを聞きながら総司は、
八郎と視線を合わせないようにして釣瓶を引き上げている。
そのまま何事かを考えているようで
桶が井戸の縁(ふち)まで上がって来ても気付かず、
「おい、何をやってんだ」
八郎が慌てて縁に当たって引っくり返りそうになった桶を支えた。
その声に我に戻った時には胴着の前が跳ね返った水でいささか濡れた。
「ぼんやりするのも大概にしろよ」
それでも八郎が手にしていた手拭を渡してやると、
さすがに気恥ずかしかったのか、それを申し訳なさそうに受け取った。
「土方さんが女のところに行くのはそんなに寂しいか?」
「・・・えっ?」
突然の八郎の問いに、
手拭で水に湿った胸元辺りを拭きながら総司は顔を上げた。
「あの人が女と寝るのは嫌かって聞いてんだよ」
冗談とも思えぬ八郎の物言いに、総司の頬に一瞬にして朱の色が上った。
「何でそんなこと・・・。土方さんが誰の処に行こうが関係ない」
ぶっきら棒に八郎に向けた横顔が
必死に動揺を悟られまいとしているようで硬い。
それがたった今、総司の唇から漏れた応(いら)えが
己の本当では無いことをあからさまに物語っている。
瞳を捉えればさらにそれが真実と分かるだろう。
否、遂には総司の薄い皮膚を透してうなじまでをも染め上げた
その色の鮮やかさを見ればすでに隠しようの無い事実だ。
「関係がなけりゃ、何故お前はそんな顔をするんだえ」
間髪を置かずに繰り出される八郎の言葉は総司に逃げ道を与えない。
問い詰めるつもりはなかった。
だが今自分に硬い横顔を見せて
揺れる思いを表に出すまいとしている総司を見ていると
自然に八郎の言葉は己の意に反して辛辣になる。
逆巻く感情をそのままに総司にぶつける己の未熟さに
心内(こころうち)で舌打ちしても、
最早八郎は自分を止める術を知らない。
いっそその腕を掴んで振り向かせ、
お前の望んでいる男にはその気持ちの欠片すら届いちゃいないと
叫んでやりたい衝動の苛立ちを八郎はようように抑えている。
それが総司への恋慕のすでに堪えようの無い昂ぶりだということをも、
又八郎は自分で辛いほどに知りすぎている。
四年前の、あのうだるような少年の時の夏が見せた朧(おぼろ)な邂逅から、
総司の黒曜の深い色の瞳に絡め取られて動けない自分がいる。
その瞳に自分の姿だけを映し出させたくて、
八郎は昼に夜に飽くことない苦しい呻吟の時を過ごして来た。
胸の内を知られまいとするかのように、ゆっくりと振り向いた総司の瞳が
八郎の射るように見据える視線とぶつかった。
その双眸にある激しい色に思わず総司は怯え竦(すく)んだ。
「・・・今日の八郎さんはおかしい」
やっとそれだけを搾り出すように掠れた声で告げると、
そこにこれ以上いるのが居たたまれないように身を翻した。
「確かにな・・・・、俺はおかしいだろうよ」
その背が視界から消えるまで立ち尽くしたまま、
叉もひとり残されて八郎は声も出さず苦く笑った。
遊び終えて迎える朝はいつもこうだ。
若い体は肉欲の吐け口を得ることができれば一時の満足に浸れる。
だが心は別だ。
想う相手がいながら違う相手で体を満たしても、やがて残るのは寂寥感だけだ。
こんな風に総司を追い詰めるはずではなかった。
これしきの事で我慢が効かなかった自分が情けない。
総司が井戸から汲み上げた桶の水に自分が映っている。
「馬鹿野郎だぜ・・・」
そのまま乱暴に、水に映つる己を掴むように桶に手を突っ込むと、
着ているものが飛沫(しぶき)で濡れるのもお構いなしに
両の手のひらで掬った水を、顔に打つように叩きつけた。
道場とは棟の離れているそう広くも無い母屋の廊下を
総司は何かに追われる様にして足早に歩いた。
何も考えられなかった。
八郎のあの何もかもを見透かしている視線から、少しでも遠くに離れたかった。
知られてしまったのだ・・・・
自分の土方への想いを、八郎は知っていたのだ・・・
ただそれだけが今総司の全てを捉え、
底の無い闇に突き落とされるに似た衝撃が他の思考を許さない。
どの位そうして歩を進めていたのか、
ふいに己の意思を無視して足がひとつ室の前で止まった。
庭に向かって開け放たれたその座敷にぼんやりと視線を送った。
決して素通りしたことの無いその室に、
体は正直に総司にいつもどおりの習性を強いた。
どこに行ったのか・・・
主のいない室はがらんどうのように静まり返っている。
隅の行李に脱ぎ捨てた藍に染めた木綿の着物が散らかっている。
気がついた時には行李に歩み寄り、少しざらつくその布の端を手にしていた。
つい先程まで身につけていたのであろうか、
背の部分の汗を吸った湿り気がその人のぬくもりのようにも思える。
「土方さん・・・」
思わず小さな呟きが漏れた。
これを着て土方は朝を共にした女のところに行ったのだろうか。
それが嫌だと思ってはならない。
その誰かを恨む気持ちを持ってはならない。
そこまで欲の深い人間にはなってはならない、
そう自分に言い聞かせてきた。
ただいつも自分の視界の中にいて欲しい。
どんな時も自分の名を呼ぶ声を耳にしていたい。
たったそれだけを望むのは許されないことなのだろうか。
土方の背を追うことだけで満足していた自分は、
いつの間にか遠くに消えてしまった。
その背に縋りつきたい衝動に駆られる自分を
必死に抑えるようになったのはいつの頃からだろうか。
今はそれすら辛抱がきかなくなっている自分がいる。
土方への想いが日々膨れ上がって露(あらわ)になるのを堪えるのに
心が哀しい限界の悲鳴を上げている。
こんな自分を知ったら土方はきっと軽蔑するだろう。
それでも傍らに居られるのなら、どんなに嫌われても耐えられる。
だが二度とまみえる事が出来ないのならば死んだほうがいい。
「・・・土方さん・・」
もう一度密(ひそ)やかに言葉にしたその響きすら、酷く罪深いものに聞こえた。