いまだ降りやまず・・・    五

 

 

 

 

「そんなものは片付けなくてもいいぞ」

 

ふいに声がして驚いて振り向いた先に、手にしていた着物の持ち主が居た。

咄嗟に背中に着物を隠そうとした自分の仕草は

土方の目に不審に映ったかもしれない。

 

 

「・・・土方さん、昼寝をしていたのではなかったのですか?」

その狼狽を隠すように、総司は土方に問い掛けた。

 

「馬鹿、皮肉を言うな」

「皮肉に聞えますか?」

「そのものだろう」

「そんなつもりはないのだけれど・・」

   

ゆっくりと心の臓の高鳴りが治まって来るのを確かめながら、総司は漸く笑った。

 

 

「お前のことを近藤さんが探していたぞ」

「近藤先生が?」

なんだろう、と小さく首を傾げながら呟く総司に、

 

「どうせ誰かと出稽古を代われということだろうさ」

土方は不機嫌そうに言った。

まるで自分が代われと言われて面倒がっているような土方に、

総司が声を立てて笑い始めた。

 

「何がおかしい」

「だって土方さんが行けと言われた訳でもないのに、そんな仏頂面をするなんて」

「俺はお前の代わりに文句を言ってやっているんだよ」

「私の代わりに・・?」

それでもまだ可笑しそうに、総司は小さく笑っている。

 

「何もお前ばかりが出稽古に行く必要はないのさ。

ここには食客といえば聞えはいいが、居候だけはごろごろしている。

そういう奴等を使えばいいんだ。お前はここの塾頭なんだぞ」

日頃思っている不満が口をついて出ただけだろうが、

自分を案じてくれていると思えば、土方の言葉は総司の胸に温かい。

 

 

「でもみんな流派が違うから・・・。

本当に天然理心流は、近藤先生と、井上さんと、私と・・・・」

総司は悪戯気に土方を見た。

 

「俺だって言いたいのか」

それを受けて、さすがに土方が苦笑した。

「代わってくれるのなら、土方さんが代わってくれれば良いのに・・」

「そのうちにな。・・・近藤さんが待っているぞ、早く行ってやれ」

とんだところに御鉢が回って来そうな様子に、土方が総司の背を押して促した。

 

「いつもそう言って逃げる・・」

口だけは不満そうに言いながら、

それでも総司は笑みを含んだまま立ち上がった。

 

 

 

そのまま総司が室を出て行くのを見送ると、土方はごろりと畳にころがった。

総司は何気ない冗談で言ったに違いないが、確かに自分は逃げている。

 

生まれた地である日野に居た時は、そこは自分の求める処では無いと思った。

そうして辿り着いたここ試衛館も叉、己の留まる処では無いと知った。

では何処に行けば良いのか・・・。

 

その道が見つからず、だが歳月ばかりが悪戯に過ぎて行く焦りを覚えて

最近の自分はどうしようもない苛立ちを隠せない。

その感情に負けて目の前の現実から逃れるように

日がな一日、道場を省みることもせず興にうつつを抜かしている。

 

 

天井の木目を見ながら、土方は己の不甲斐なさを笑った。

 

先程総司の後姿が見せた薄い背に、

全てを背負わせている自分が情けなかった。

 

 

 

 

「小野路村でなければ良いのだが・・・すまないな総司」

近藤は心底申し訳無さそうに、頑健そうな顔を歪ませた。

 

「いえ、日野に行くのは好きですから・・」

はにかむように笑ったその裏に、

幼少時代を過ごした故郷への総司の愛着のようなものを感じて

近藤も叉顔をほころばせた。

 

「他のところならば山南でも誰でも良いのだが、

あそこはやはり天然理心流の人間が行かねばなるまい」

 

 

小野路村の名主、小島家と橋本家は天然理心流の強力な後援者である。

故にこの地における出稽古だけは他流派を極めた者を遣わす訳にはゆかない。

一度行けば小島、橋本両家に二、三日は滞在し、

そこの庭先を借りて近隣の者達に稽古をつけることになる。

 

今回は近藤が行く予定だったが、急な用事で総司にその役が回って来た。

と言っても、最近では近藤と総司の二人で交代という風になっている。

 

 

 

「暑い盛りだから気をつけてな」

近藤は何かと負担を掛けることの多い愛弟子を、そんな言葉で労わった。

 

「大丈夫です。橋本様の御分家には屋根のついた道場がありますから」

 

橋本家のすぐ近くの分家には近隣で唯一屋内に道場がある。

普段は庭先を借りて稽古をつけるが、

暑いさかり、寒い時には屋根があるのはずいぶんと助かる。

 

総司は近藤の憂慮を晴らすように、殊のほか明るく笑った。

 

 

 

 

 

翌朝は夏の早い夜明けも待たず、暗い内に牛込の試衛館を発った。

近藤と、めずらしく昨夜から出かけずに居た土方が見送ってくれた。

 

「坂の下まで送ってやる」

草履を引っ掛けて追いかけて来た土方を見て、

総司が驚いたように目を瞠った。

 

「雨が降ると困ります」

「馬鹿、素直に喜べ」

それには応えず総司は嬉しそうに笑った。

 

並んで下りながら、何の会話も無かったが、

未だ薄い闇に眠る家々の静けさが、

総司には自分の胸にある密やかな思いを隠してくれているように思えた。

 

 

「気を付けていって来い」

坂が終わって立ち止まると、それだけを言って、

土方は愛想も無く総司に背を向けた。

 

いつか少年だった自分を背負ってくれたその背が、

坂を登りきって見えなくなるまで、総司は其処に立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 

夏の夜は明けるのも早いが、日が昇る勢いはもっと早い。

すでに天道は昼を過ぎた高さにある。

その明るさに遊び帰りの我が身を照らされるのは、さすがに後ろめたい。

そんな勝手な事を思いながら古びた試衛館の門を潜った途端に、

 

「歳っ」

玄関の上がり框(かまち)に腰を降ろして

草鞋(わらじ)の紐を結んでいた近藤が、

めずらしくうろたえて土方の名を呼んだ。

尋常とは思えないその顔つきに土方の方が驚いた。

 

 

「どうした、近藤さん」

「総司が倒れた」

一瞬、近藤の言葉に土方の動きが止まった。

 

「麻疹ということだが・・・」

「いつのことだ」

つい言葉尻が荒くなる。

 

「昨夜らしい。つい先程橋本家から使いが来た。

とにかく俺は今から小野路村へ行って来る」

留守を頼む、と言い置いて

腰を上げた近藤の腕を思わず土方は掴んで止めた。

 

 

「俺が行く」

「何を言っている」

「俺が行く。あんたはここに居てくれ」

「しかし・・・」

「総司は大丈夫だ。だからあんたはここに居ろ。絶対に大丈夫だ」

最後の方は自分に言い聞かせるように低く呟いた。

 

 

麻疹は当時江戸市中でも大流行の兆しがあった。

高い発熱や発疹の後、通常は十日程で治まるが

一旦合併症を引き起こすと命を落とすことも珍しくはない。

決して油断のできる病ではない。

 

 

土方は自分の室に一旦とって返すと、袴だけを付けてすぐに戻ってきた。

途中駕籠を拾うにせよ、馬を調達するにせよ、その方が動きやすい。

 

「行って来る」

そう言いざまに

まだ玄関口に突っ立っている近藤の横をすり抜けて往来に飛び出した。

 

気が急くばかりで坂を下る足がもつれそうになる。

それでも駆け下りなくては間に合わない不吉な予感に、土方は焦れた。

 

 

 

 

途中やはり駕籠を拾い、ありあわせの金の尽きた処で乗り捨て、

それでも小野路村の橋本家に着いた時には、あたりはすっかり暗くなっていた。

 

迎えに出てくれた家人に総司の様態を聞きながら、

案内された奥の客間の襖を開けると、

広い畳の室の真中にぽつんと延べられた布団があった。

その横に端座していた女性がすぐにこちらを振り向いた。

 

総司の長姉のミツだった。

 

ミツは総司に良く似た細面の面差しを憂いに暗くしていたが、

それでも土方の姿を見ると、安堵したように丁寧に白い指先を畳に付いた。

 

「近藤先生にも、歳三さんにもご心配をおかけして・・」

「挨拶などはあとで。総司の具合は・・」

 

急きこんで聞きながら、

布団の中を見ると総司は眠っているのか瞳を閉じていた。

だが頬に上った血の色は不自然な朱で熱の高さを物語っている。

浅くせわしない呼吸を繰り返す唇が熱で乾いている。

苦しいのか、時折薄い瞼だけが微かに動こうとする。

 

 

 

「お医者様に頂いたお薬を飲ませても、昨夜から高い熱が下がらないのです。

それどころか何だかどんどん酷くなってゆくようで・・」

 

ミツは総司の額の濡れ手ぬぐいを替えてやりながら

その眠りを覚まさぬように小さな声で言った。

土方に向けるその顔が青い。

 

 

昔から綺麗な人だと思っていた。

控えめな物腰と柔らかな眼差しに、年上のこの人に憧れた少年時代があった。

だが今その人の瞳は唯ひとりの弟に注がれて、

俯いた硬い横顔が不安を露(あらわ)にして痛々しい。

 

 

「麻疹は高い熱が出るものです。一旦下がってもすぐにまた熱が上がる。

が、十日もすれば元気になります」

そのミツの憂慮を断ち切ってやるかのように、土方は言った。

 

自分の弱気を労わってくれるような土方の言葉に、ミツは微かに微笑んだ。

それでも憂いの色を消すことができない。

 

 

「いつ此処に来たのです」

「昨夜こちらさまからお使いの方が来て下さいまして、とるものもとりあえず・・」

「では昨夜からずっと?」

「はい。参りました時にはそれでもまだ、

私が家を留守にする心配をしてくれる元気があったのですが・・」

 

心配気に視線を戻した先に眠る弟は

先程と少しも変わらず気忙しい呼吸を繰り返している。

 

 

「それでは昨夜は眠ってはいないでのしょう」

「いえ、少しは休みました」

小さく笑みを浮かべて言うミツの言葉は、

うっすらとできている目の下の隈と

心持ち面窶れした白い頬で容易に嘘と分かる。

 

土方は座を立つと、この家の家人の起居している奥に行き、

総司の寝ている隣の室に床を延べてくれるように頼んだ。

橋本家は土方とは縁続きで小野路村に来ればここに泊まるという気安さがあった。

 

 

戻ってくるなり下働きの者に床を敷き始めさせた土方を、

何事かと驚くミツに、

 

「今夜は代わりに見ています」

それだけを愛想もなく土方は告げた。

 

消えぬ不安で到底眠ることなどできはしまいが、

せめて今はこの好意に素直に甘えようと思ったのは

その少々乱暴な物言いの奥に、

昔変わらぬ土方の優しさを見たからかもしれなかった。 

 

ミツは土方に向かって深く頭を下げると

「それではどうか、宜しくお願い致します」

しとやかに言って上げた瞳に、

土方に弟を任せると決めて縋る色を湛えていた。

 

 

 

 

ただ広い室が闇に覆われ、

行灯から漏れる灯りだけが総司の上気した頬の朱さをうつし出している。

 

 

安心させる為にミツにはああ言ったが、

総司の息遣いを確かめるように見入る土方の顔は厳しい。

 

今麻疹にかかっても特効薬と呼べるものは無い。

肺腑に炎症を起こせばそれはそのまま死に至る。

子供や老人、体力の無い者には怖い病だった。

 

 

 

総司は先程よりも更に苦しげに時折呻くように顔を歪める。

冷やす手拭を換えるのが間に合わぬ程の額の熱さは尋常の熱ではない。

 

「・・・総司」

呼びかけても、その声は荒い息を繰り返す総司には届かない。

 

 

時折じりっ、と響かせて小さくなる行灯の蝋燭のその音すら

今の土方にはひどく胸に落ち着かないものに思えた。

 

 

 

       

 

裏文庫琥珀      いまだ降りやまず 六