いまだ降りやまず・・・ 六
「総司・・・」
例えようの無い不安に駆られて呼んだ何度目かに、
微かに睫が揺れて薄く総司の瞼が開いた。
だが意識は朦朧とした闇の向こうにあるらしく、
うつろな視線だけが見るものも無く彷徨っている。
多分、土方の声に反応したものでは無く、
苦しい体が何かを求めて無意識に瞳を開かせたのだろう。
その証拠に総司の瞳は土方に焦点を合わせることなく、乾いた唇が微かに動いた。
「どうした・・」
耳を唇につけるようにして聞き取ろうとすると、
息が漏れるだけでおよそ言葉にはならないが、
それでも水を欲しがっているらしいことは分かった。
土方は枕盆に残っていた水の入った湯飲みを
総司の口元に持ってゆき、少し開いた唇から含ませようとした。
が、途端に総司が激しく咽(むせ)返った。
体の表にはまだ現われ切れていない麻疹は、
先に総司の口の中やら喉の粘膜から侵し始めているらしい。
水すらしみて痛いのか、
冷たい汗を額に浮かべて辛そうに薄い胸を上下させている。
だがだからと言って水を与えなければ
熱によって水分が発散されるばかりで、弱った体に更に負担が掛かるだけだ。
土方は手にしていた湯飲みから水を自分の口に含むと、
指を総司の顎にかけて引いて口を割らせ、迷う事無くその唇に己のそれを重ねた。
唇全てを覆い、零さぬように飲ませると、
総司は乾いた体に貪欲に潤いを求め、
その一滴すら漏らさず、ゆっくりと喉を上下させる。
今、自ら与えるこのひとしずくが、
唯一総司をこの世に踏みとどまらせているものだという思いに、
己の命を分け与えるかのように、土方は幾度も唇を重ね続けた。
・・・苦しく熱い闇の中に総司はいた。
体に重い枷(かせ)を幾重にもかけられて、身じろぎひとつできない。
動けない体の節々が、軋むような苦痛に悲鳴をあげている。
体が焼かれるように熱い。
どこかで土方の声が自分を呼んでいる。
だがそれはきっとそら耳に違いない。
今は誰が呼んだとて、応えることもできない・・・
息苦しさに足掻いている内に、
ふいに流れ込んで来た潤いに、朧(おぼろ)な意識が微かに動いた。
総司を苦しめている熱も痛みも鎮めて、
体を造るひとつひとつを息吹かせるかの様にそれは滲みこんでゆく。
・・・・もっと、
無意識に言葉にならぬ吐息を漏らしたとき、
「総司・・・」
今度ははっきりと誰かが自分を呼んだ。
その声にうっすらと瞼を開くと、
そこに食い入るように自分を見つめている土方がいた。
それでも総司はまだ思考を巡らすことができず、ぼんやりと土方を見上げた。
「まだ水が欲しいか」
静かな問い掛けに、使えぬ頭より先に苦しい体が総司に頷くことを強いた。
それは傍から見ただけでは決して分からぬ僅かな意思の現れだったが、
瞳に浮かんだ色だけで土方は躊躇う事無く、
己の口に含んだ水を総司の唇を塞いで与えた。
冷たい雫が口の中に満たされ、やがて腫れて熱を持った喉に流れ込む。
その感覚に、ひとつ幕の向こうにあったような総司の意識が少しずつ戻って来る。
息が苦しい・・・
それは自分の口が誰かに塞がれているからで・・・
そこまで思って、今度こそはっきりと現(うつつ)に瞳を開いた時、
少しの息すら漏らす隙間も無く重ねられた唇の主を知った。
(・・・・土方さん)
幻を見るように、一瞬総司の瞳が瞠られた。
今自分の唇を支配しているのは確かに土方その人だった。
(きっとまだ自分は夢の中にいるのだ・・・)
だが総司はもう一度静かに瞼を閉じると、
熱に浮かされた頭で、このいっときの現実を胸の中で打ち消した。
目を瞑っていれさえすれば、夢は醒めはしない・・・
けれど自分の唇に触れる、このひんやりとした感触は何なのだろう。
乾いた唇に柔らかく触れる、この濡れた感触は一体何なのだろう。
それでも自分は夢の中にいるのだ。
そこにしか、自分は居るはずはないのだ。
土方が・・・・ここに居るはずはないのだ・・
総司は心の内で、幾度も幾度も己に言い聞かせ、
やがて引いては返す波の様に尽きぬ問答に疲れ果て、
いつの間にか又、意識の全てが深い闇に攫(さら)われて行った。
額に心地よい人のぬくもりを感じて、やっと重い瞼を開けた。
「目が覚めたか・・」
声のする方に辛うじて顔を向けると、
覗き込むようにして自分を見ている土方の視線と合った。
「・・・土方さん」
熱に侵された喉の粘膜は乾き切って掠れた声すら上手く作れない。
もう夜明けが近いのかもしれない。
行灯の灯が要らぬ程に、闇がずいぶんと薄くなっている。
「どこか辛いか」
額に手を当てて熱の按配を探りながら土方が問いかけた。
それに総司は僅かに首を横に振って応えた。
「嘘を言うな」
その言葉には微かに笑みを作った。
本当は頭も体も其処かしこの節々が、言葉にするのも辛い程に痛い。
まだ熱は高いのだろう。
それでも未だ自分の額に置かれたままの土方の掌が、
すべての苦痛を取り去ってくれるもののように総司には思え、
不思議な安堵感に浸りながらもう一度瞼を閉じた。
「水が無いな・・とってくる」
ふいに土方が立ち上がった。
音を立てないように静かに障子を閉める背を、総司はただ視線で追った。
・・・・夢ではなかった
苦しい熱が見せた幻だと思っていた。
だがそれは確かにあったのだ。
熱に乾き苦しんでいた自分を鎮めてくれたのは、間違いなく土方の唇だったのだ。
夢や幻などではなく、
瞳を閉じて再び開いても、決して消えはせぬ現(うつつ)の出来事だったのだ。
薄い上掛けの中から手を取り出して、そっと指を唇に当ててみた。
押し付けた己の指の内側の感覚は、夢と思った中で触れられたものとは違った。
それはもっとひんやりとして、少しだけ柔らかく、そしてほんの微かに甘かった。
そうして唇をなぞりながら、
ふいに自分だけのこの秘め事が泡沫(うたかた)と消えてしまいそうな不安に駆られて、
総司は慌ててもう片方の手も取り出すと、
両の手のひらで己の唇を誰からともなく護るように隠した。
夏が盛りを誇示するかのように、早朝から蝉の鳴声が姦(かしま)しい。
「姉さん、明日は来てくれなくてもいいよ。もう試衛館に帰るから・・」
今日も朝早くにやって来て、
傍らで寝巻にする浴衣やら肌着やらを、
持って来た風呂敷包みから取り出しているミツに向かって
総司は申し訳ないように小さく呟いた。
土方が夜通し看病してくれた日からすでに十日が経とうとしている。
あれから一旦熱は下がったが、麻疹という病の性格通りすぐにもう一度高く上がった。
だが何とかその熱も治まり、消耗した体力も段々に戻ってくると
総司はここに留まっていることに焦(じ)れるように窮屈を覚えた。
土方は総司の様子が落ち着くのを見届けると、
近藤だけでは流石に大変だろうからと試衛館に戻って行った。
その土方と入れ違いに近藤も見舞いに来てくれた。
近藤も土方と同じに、
迎えに来るまでは大人しく養生するようにと総司に言い置いて帰った。
この家の者達は、近藤に付いて出稽古にやって来た
まだ幼少の頃からの総司を知っているので、
それこそ身内同然にあれやこれや気を遣ってくれる。
姉のミツも毎日必ずやって来る。
だが日野にある家から小野路村までの往復は、暑い盛りに女の足では容易な距離ではない。
ミツには総司にとっても甥や姪あたるまだ幼い子供も居る。
その姉に負担を強いるのは総司にとってこの上なく辛いことだった。
「まだいけませんよ。あんなに高い熱が続いたあとですもの。
もう少し大人しくしていなければ・・。姉さん本当に生きた心地がしなかった」
そんな総司の憂慮などお構いなしにミツは持って来たものの整理を終えると
廊下についた縁に膝を抱えるようにして座っている弟に笑いかけた。
この弟を江戸の道場に預ける為に手放した時、総司は僅か九つだった。
試衛館に着いても弟は掴んだ姉の袂を決して離そうとはしなかった。
その小さな手に引っ張られている袂の感覚を、ミツはまだ鮮明に思い出すことができる。
坂の上で姉を見送る幼い弟の姿を見れば、堪えていた涙は止まることを知らぬだろう。
その弱い心に負けぬように、一度も振り返らず坂を下った。
めったに訪れることは無いが、
今も試衛館に続く坂はミツにとっては辛い思い出でしかない。
その時の胸の内にできた隙間を埋めるかのように、
ミツは総司を少しでも長く手元に置いておきたかった。
それが自分の勝手と言われるのならば、それでも仕方が無いと思った。
それでも今はこうして、
他愛も無い会話を交わしながら総司の世話をやいていてやりたかった。
「けれど、もう本当に何ともないから大丈夫。明日にでも帰ろうかな・・」
「馬鹿なことを言うものではありません」
ミツは軽く睨むようにして総司を叱ると、
着替えさせた浴衣を持って井戸を借りに立って行った。
その背を見送りながら、総司は小さな溜息を吐いた。
本当は今すぐにでも試衛館に戻りたい。
自分が居なければ近藤はさぞ忙しくしていることだろう。
大人数の腹に収まる米や味噌の心配を、井上は誰としているのだろう。
そして土方は・・・
総司はふと唇に指を当てた。
忘れえぬ感覚が蘇る。
戻りたいのは土方の元へだ・・・
何処へでもない、他の誰の元へでもない、
土方一人の元へ自分は戻りたいのだ。
もう誤魔化すことはできない。
けれど果たして自分はこの追い詰められた心を
この先土方の前で隠し通すことができるのだろうか。
今の自分は針の先程のきっかけで、
土方への想いをいとも簡単に吐き出しかねない。
それが総司を怯(おび)えさせる。
だが怯(すく)む心よりも、その人の傍らに居たい心の方がどれ程も勝る。
「・・・土方さん」
思わず漏れた響きに胸が苦しい。
そのまま抱えた膝に顔を埋めるようにして、総司は切なさにたえた。
暫らくそうしていて、遠くに聞き慣れた声がしてふと顔を上げた。
声の主は姉のミツと何やら談笑しながら、ゆっくりとここに近づいて来る。
足音がすぐそこまで来て、廊下の角から姿を現したと思った瞬間、
「麻疹だってな」
伊庭八郎は総司に白い歯を見せて軽快に笑いかけた。
「綺麗な姉さんだな」
案内して来たミツが茶の支度に奥に消えると、
八郎はそれを待って居たかのように総司に耳打ちした。
聞いた途端に、総司が吹き出した。
「何が可笑しいんだよ」
「だって、八郎さんらしいと思って・・」
「らしい・・って、お前、それはどんな意味だ」
総司は八郎の顔を見て可笑しそうに笑うだけで応えない。
「どうせ碌(ろく)なことじゃないだろうよ。勝手にぬかすがいいさ」
いつまでも笑い止まない総司に釣られて、八郎も流石に苦笑した。
先日自分の心の中を言い当てたられた時の衝撃から、
次に会った時にどう八郎と接すれば良いのか、それが総司の憂鬱だったが、
敢えて触れないようにしてくれているのか、
今目の前で笑う八郎の顔にその話題を引きずる気まずさは無い。
そのことに、総司は胸の内で安堵した。
「八郎さん、試衛館は変わりないのかな」
「変わりあるさ」
「え・・?」
「近藤さんの奥方がもうじき子供が生まれるらしくて実家に帰っちまった」
「ツネさまが?」
「この暑さで大きな腹では大変だろうと近藤さんが帰したらしいよ」
ツネの実家は牛込柳町の試衛館からさほどの距離でもない番町にある。
だが一人だけの女手が減れば、台所を任される井上はもちろん、
近藤をはじめ、そこにいる皆が難儀していることだろう。
「八郎さん、私も今日一緒に帰る」
言った時には呆気に取られて見ている八郎をしり目に素早く立ち上がり、
来たときに身につけていた絣の単(ひとえ)を手にしていた。
(・・帰りたい)
もうそれしか考えられなかった。