いまだ降りやまず・・・   七

 

 

 

 

「大丈夫か」

八郎は横に並んで歩く総司を気遣って、もう幾度目かの声を掛けた。

 

「さっきから大丈夫だって言っているのに」

総司はそう言って笑うが、

十日の余も床に伏せていた病み上がりの身をこの炎天下に晒させるのは

八郎にしてみれば気がかりでならない。

途中駕籠を拾うにしても、この田舎道を抜けぬ限りそれも叶わぬだろう。

下手をすれば今夜はどこかに宿を取らねばならない。

 

 

 

近藤の妻ツネの不在をうっかりと口にしてしまった後、

八郎は居たたまれぬ後悔に苛まれることになった。

 

あれから総司はまだ無理だと叱る姉のミツの言葉にも、

世話になっていた橋本家の当主道助の諭すような説得にも頑として譲らす、

やって来たばかりの八郎を急(せ)くようにして、共に小野路村を発った。

 

最後は懇願するようにして弟を思い留まらせようとしていた

ミツの寂しそうな顔を思い浮かべると、八郎は益々憂鬱になる。

 

 

 

知らず溜息のひとつも出たところで、それを聞きとめた総司が八郎の顔を見た。

その戸惑ったような視線に八郎は苦笑した。

 

「何でもねぇよ」

「我がままを、言ってしまったのかな・・」

「分かってんじゃねぇか」

それには応えず総司は少し俯いた。

 

「まあ、お前の気持ちも分からないでもないが」

言いながら視線を遣った先にまだ日は高い。

 

 

 

日頃自分のことはさておいても他人を気遣う総司が

今度ばかりは強引に己を通してしまった理由(わけ)を

八郎は多分に知りえるだけに、どうしても心軽くという訳には行かない。

 

総司が試衛館の窮状を知って、矢も盾もたまらなくなったのは分かる。

だがそれが全部の真実ではない。

総司は土方の元に戻りたいのだ。

土方と幾日も離れて暮らすことに、総司の限界が来ていたのだろう。

それに自分は戻る切欠(きっかけ)を与えてしまったのだ。

 

想い人を恋敵の元に連れ帰る為に運ぶ足取りは酷く重い。

 

 

「向こうについたら近藤さんの説教を覚悟しておけよ。俺は知らないよ」

半ば八つ当たりの様にうんざりと言う八郎に、

その顔を見ないで総司は小さく頷いた。

 

 

 

暫らく取り留めの無い会話を交わしながら、

甲州街道に出る手前まで来た時に

先程までの青い空が嘘のように俄かに重く黒い雲が広がってきた。

それどころか遠くで雷の音すら聞える。

 

 

「一雨来るかもしれないぜ」

 

急に翳った陽に舌打ちして八郎は空を見上げた。

事実こんなところで雨に降られるのは困る。

自分はともかく、総司を濡らす訳には行かない。

それでなくとも避け様の無い日中の強烈な日差しの下を歩いてきて、

強がりを言ってはいるが総司の顔に疲労の色が見え隠れしている。

 

 

「どこか屋根のあるところはないのか?」

この辺りは八郎よりも出稽古で行き交うことの多い総司の方が詳しい。

「もう少し行くと八幡神社があるけれど・・」

その神社で昔やはり奉納試合をしたことがあるのを総司は思い出した。

 

「濡れぬうちに辿り着けるといいがな。少し急ぐぞ」

 

振り向きざまに言って足を早めた八郎に遅れを取らぬよう、

段々と近づいて来る雷鳴の唸るような音に背を追われて、

総司は息を切らせて埃っぽい道に歩を急がせた。

 

 

 

行く道の先に八幡神社の鬱蒼とした茂みが見えてきた時には

大粒の雫がぽつりぽつりと落ちてきたが、

すぐに地を叩きつけるような強い雨になった。

 

濡れずにこの雨を凌ぐには、軒下だけでは到底無理な話で、

八郎は観音開きに掛かっていた閂(かんぬき)を外して社の中を開けた。

 

促されて入り込めば確かに狭いながらも

外の激しい雨とは無縁の世界のように乾いた空気がある。

 

 

 

 

「すぐに止むかな・・・」

防ぎきれずに濡れた髪やら肩口やらを手ぬぐいで拭いきながら総司は呟いた。

 

「夏の夕立さ。半刻もすればあがるだろうよ」

「半刻・・・」

 

今の総司にはここで足止めをくっていることすら、

このままずっと試衛館には戻れないのではないかという不安に駆られる。

社の屋根を叩く外の雨音が恨めしくさえ思えて小さく吐息した。

 

 

 

「・・・・・お前は、そんなに帰りたかったのか?」

その総司の微かな失望の溜息を聞き逃さなかったかのように、

ふいに八郎が問い掛けた。

 

「それは・・・、帰りたかったに決まっている。

だって私が戻るところは試衛館しかない」

「そうか」

「八郎さんだって知っているはずなのに」

八郎の意図するところを探ることができず、

総司は曖昧に警戒のぎこちない笑みを作った。

 

 

「いや・・・、そうかな・・」

「えっ・・?」

「お前が居なければ確かに試衛館は困るだろよ。だがそれだけか?

・・・お前がそこまでして戻りたい理由は他にあるだろう」

 

その言葉に総司は弾けるように八郎を見た。

そこに射すくめるような、強い色を湛えた八郎の双眸があった。

 

「他に理由などない」

 

己の胸の内を見透かすような八郎の視線に負ける訳にはゆかず、

そう強い口調で言い切りはしたが、それが限界で、

思わず総司は八郎から目を逸らせてしまった。

 

 

「嘘だ。・・・お前が戻りたいのは土方さんのところだ」

八郎のいつにも増して低い声が、俯いた耳朶に届いた。

 

その瞬間言葉は形を変えて凶器となり、

鋭い切っ先で総司を一瞬にして突き刺した。

 

 

俯いたまま顔を上げることができない。

体の全てから血の気が引いて

指先が氷のように冷たくなってゆくのに、

心の臓の音だけが早鐘の様に高く打つ。

 

 

 

「隠さなくてもいい」

雨の音だけが支配する静寂(しじま)に、八郎の静かな声が響いた。

 

「知っていたさ、お前の気持ちなんざ。もうとっくの昔から・・・」

 

それに呼応するように、総司がゆっくりと伏せていた顔を上げて、

咎を受ける罪人のように怯えた瞳で八郎を見た。

 

「隠していたっておのずと分かるものさ」

頬に血の色を無くして自分を凝視している総司に向かって、

八郎は唇の端に自嘲ともとれる小さな笑みを浮かべた。

 

 

 

「・・・このまま」

総司の唇が何かを言いかけて震えた。

 

次の言葉を待つ八郎に一度息を呑み込んで、

 

「このまま、誰にも黙っていて下さい・・・」

 

告げた総司の黒曜の瞳が微かに揺れたあと、

すぐに何者にも譲らぬ激しい意思の色を湛えた。

 

 

「・・・黙っていて、お前はどうするつもりだ」

が、その色を真正面から受け止めて八郎は更に鋭く問い詰める。

 

 

「ずっとこのままでいるのか。お前はそれで満足なのか。

土方さんの傍らで焦(じ)れるように恋焦がれながら、

あの人が女のところに行くのを黙って見送るのか」

 

今総司の瞳が映しているのは確かに己の姿だ。

だがその瞳が捉える先に居るのは常に自分ではない。

それが八郎の神経を嬲(なぶ)る。

 

 

「あの男がいつか嫁を迎えて子を成し、お前から離れてゆくことになっても、

それでもお前は笑っていることができるのか。

お前のことなど思い出すことも無くなっても、お前は平気でいられるのか・・・

お前にはそれができるのというのか、総司っ」

 

 

八郎の容赦ない言葉の責め苦に耐えら切れぬように、

いつの間にか顔を背けてしまった総司のその両の腕を掴むと、

八郎は強引に自分に向き直らせた。

 

 

 

「俺は・・・・」

揺らぐ総司の瞳の中に自分がいる・・

その深い闇の色に吸い寄せられ、堕ちて行く自分がいる・・・

 

 

「・・・俺はお前に惚れている」

掠れた声が吐く息だけで漏れた。

 

 

 

二の腕を痛いほどの力で容赦なく捕らえられ、

逸らすことを許さぬ激しい視線で動きを絡め取られ、

息すら詰めて総司は八郎を見ていた。

 

 

そのまま幾つかの呼吸をやり過ごしたが、

ただまっすぐに自分を見つめてくる双眸の鋭さに、

今まで知らなかった八郎の想いを垣間見る思いで、

ふいに総司の中に初めて戦(おのの)きに似た感情が突き上げた。

次の瞬間には力の限り八郎の腕を振り払おうと抗った。

 

 

「聞けっ」

暴れる体を戒めるように胸の内に抱き込むと、八郎は更に回す腕に力を入れた。

 

「いやだっ」

きつく胸に抱かれたままで、それでも総司は抵抗を止めようとしない。

 

 

「あの男にはお前の気持ちなんぞ寸分も届いちゃいやしない。

お前も分かっているはずだ。

それなのに何故、あの男に拘(こだわ)る。

何故、あいつでなくてはならない」

 

ほんの僅かな隙間から溢れた想いは、今やその壁(へき)を大胆に切り崩して、

嵐のうねりの様に八郎の口から迸(ほとばし)る。

 

押さえつけられた八郎の胸と己の体の間から、

もがきながら何とか出そうとした総司のその腕を

いとも簡単に押さえつけながら八郎の感情は更に昂ぶる。

 

 

「お前をずっと見ていたのは俺だ。

お前だけを追っていたのは俺だ。あの男じゃないっ」

 

「違うっ」

「違うものかっ」

 

 

 

自分はここまで総司への想いに追い詰められていたのか・・・

己の激しさに驚愕しながらも、だが八郎はもうそんなことはどうでも良かった。

 

総司が欲しい。心も体も全部欲しい。

それが罪だと言うのならどんな咎(とが)でも受けてやる・・・

 

是も非も打ち捨てて、最後に八郎を制したのは

留まることを知らぬ牡の性(さが)だった。

 

 

抗いを許さず、乱暴に抱いた体を床に押し倒し、

強く背けた総司の頤(おとがい)を片手で掴んで上を向かせた時、

 

 

 

「土方さんっ」

 

奪うはずの想い人の唇から漏れたのは、

細くたなびくような哀しい悲鳴だった。

瞬間八郎の動きが止まり、

やがて凍りついた様に己の下の総司を凝視した。

 

 

 

組み伏せられたまま、大きく瞠られた総司の瞳が

激しさと哀しさと、憤りと切なさと・・・

綾を織るようにそれらを湛えては消え、湛えては消え、

荒い息を最後の抗いの名残に、瞬きもせずに自分を見つめてくる。

 

その瞳に縫いとめられて動けぬまま、先に目を伏せたのは八郎だった。

 

 

 

「・・・悪かった」

 

総司の体を拘束していた腕の力を抜くと、八郎はゆっくりと起き直った。

だが床に仰向けに体を横たえたそのままで、総司は動かなかった。

 

 

 

 

 

生けるもの全てが息を殺したような重い静寂(しじま)の中で

止まぬ雨音だけが唯一の時の流れだった。

 

共に相手を見ぬままどの位の時が経ったのか、

 

「・・・総司?」

正視に堪えられず顔を横に向けていた八郎が、

いつまでたっても少しの反応も示さない総司に漸く視線を移した。

 

 

総司は両の手で顔を覆っていた。

 

「・・・泣いているのか」

 

今更そんな言葉で労わっても、

己の所業の成せる業(わざ)を思えば全ては偽りにすりかわる。

もう自嘲することすら叶わない。

 

だが落とした視線の先の総司は微かに首を振った。

 

 

「・・・いやだ」

それは聞き取れぬ程に微かな響きだった。

 

「・・・誰かのところに行ってしまうのはいやだ・・」

「総司・・・」

 

「土方さんが・・・どこかに行ってしまうのは・・・いやだ。

他の誰かと一緒になってしまうのは・・・いやだ」

 

 

 

己の醜い感情を必死に隠そうとしても、言葉の語尾は震え、

見られまいと顔を覆った指の隙間から雫が止まらない。

 

 

「・・・いやだ・・」

 

紡いだつもりの言葉の最後は、雨の音と嗚咽に消えた。

 

 

 

 

 

                裏文庫琥珀    いまだ降りやまず 八