早 蕨 (弐) どうにも寝付かれず、まんじりともせずに寝返りばかり打っていたが、夜がしらじら明け始めたのは知っている。 だがその後どうやら少しばかり眠ってしまったようだった。 うたた寝から覚めた時のように、八郎は一瞬自分の居る場所がどこか分からなかった。 滲み汚れの目だつ壁に四方を囲まれた狭い室を、仰臥したまま見回して、隅に申し訳ないように置かれた衣桁に掛かっていた絣の着物に見覚えがあった。 (・・・・泊まったんだっけな) ぼんやりと視線を横に移すと、そこにある筈のもう一つの夜具はすでに畳まれ片付けられている。 宗次郎はずっと前に自分を起こさないようにここを出て、朝の支度を始めているのだろう。 試衛館の内弟子である宗次郎の一日は、古参の井上源三郎と共に暗い内から起きだして、掃除やら朝餉の支度やら、そんな雑用をすべて終えてから漸く朝の稽古に入る。 八郎は此処に出入りし、時々は寝泊りするようになってから、誰よりも忙しい宗次郎の毎日を知った。 道場の掃除ならば幾度かやらされたこともあるが、それも修行のひとつと考える今は亡き実父の言いつけだったから、自分よりもたった一つ年下の宗次郎の生活は八郎にとっては驚くものであった。 宗次郎の剣の才は、最近では伊庭の小天狗と巷で人の口に上る程の八郎の目から見ても、天稟というに余りある。 だからこそこんな町道場に埋もれてひっそりと生涯を終わらせるのならば、八郎は我が身の事のように悔しいと思う。 その八郎の思惑など知らず、宗次郎は此処での暮らしに十分に満足しているようだった。 それは聞かずとも宗次郎を見ていれば分かる。 だがおよそ欲得とはかけ離れたような宗次郎を見ていると、このところ八郎は何故だか苛立ちを覚える。 それは宗次郎が己の天賦の才を知らず、この日々の中で安寧と過ごしているからではない。 心を満たしてやまない存在が此処にあり、宗次郎がそれをいつも追い求めるだけに精一杯だからだ。 その事に八郎は無性に腹立つ。 それは時に宗次郎に突っかからなければ落ち着かない程に、過激に八郎を走らせる。 そしてその後は決まって反吐が出る位に自分に嫌気がさす。 だがそんな風に後悔しておいて試衛館に来る足を止めれば、その努力は十日も持たずに崩れ落ちる。 顔を見れば責めずにはいられない。 けれど見なければいたたまれない。 八郎は頭の下で両の腕を交差させて、それを枕に天井の木目をぼんやりと見ながら、訳の分からない自分自身に憤りにも似た息をひとつついた。 「昨夜は行儀のいい事だったな」 ふいに掛けられた声の主は見なくても分かっている。 「行くのが億劫になっただけさ」 顔も動かさずに、その人物に応えた。 「お前にしては殊勝なことを言うな」 見上げた土方の顔は朝の陽が逆光になって表情が分からない。 「あんたとは違うよ」 素っ気無い応えを返して、すぐに眩しそうな素振りを作ると体を横に倒して背を向けた。 そんな八郎の態度を咎めるでもなく、土方は無言のまま又奥に向かって歩き始めた。 足音が遠くなってゆくのを聞きながら、八郎はひどく不機嫌になる自分を止められなかった。 春とはいえ道場の粗末な板張りは、まだ素足で踏みしめれば一度に体中の神経を覚醒させてくれる程に冷たい。 やはり宗次郎はそこにいた。 入り口の手前から磨いて行ったのか、一番奥にある神棚の下の辺りの床を熱心に拭いている。 が、すぐに人の気配に気付いて顔を上げ、それが八郎だと分かると笑みを作った。 「八郎さん、朝ご飯なら台所にとってあります」 「あとで貰うよ」 「そんな事を言っていたら此処では無くなってしまう」 笑った顔には、昨夜自分に見せた神経を張り詰めたような危うい脆さは無い。 それがどうしてだか八郎は瞬時にして悟ることが出来た。 紛れも無い。 宗次郎のこの心の安定は土方が戻って来た事に由来する。 土方ひとりによって宗次郎の心は荒波に浮かぶ小舟のように揺れ、また凪ぐ海のように穏やかにもいられる。 宗次郎は相変わらず屈託無く自分に笑いかけている。 だがその後ろにはいつも土方がいる。 そんなことはとっくに知っていた筈なのに、突然八郎の中に凶暴とも言える攻撃的な感情が芽生えた。 ふいに湧いたこのどろどろした思いを、何と言って良いのか分からず、八郎は壁に掛けてある竹刀に目をやるとそこまで行って一本を手にした。 「久しぶりに立ち合わないか」 が、その申し出に宗次郎は首を横に振った。 「何故?」 「掃除が全部終わっていない」 「そんなものは後回しにしておけ」 宗次郎は頑なにまた首を振る。 「近藤さんに叱られるのか?」 「そんなことはないけれど・・・」 「ではいいだろう」 躊躇う宗次郎の気持ちを分かっていながら、八郎は無理を強いる。 「持てよ」 もう一振りを手にして差し出すと、宗次郎の顔が困惑に染まった。 それを見て八郎が更に歩み寄ろうとしたとき、 「宗次郎」 突然掛けられた声に、宗次郎が弾かれたようにそちらを見た。 「近藤さんが探しているぞ」 土方は道場の中に入ってこようとはせず、入り口に立ったまま宗次郎に来るようにと促した。 一瞬安堵したように表情を緩めたが、すぐに八郎に申し訳無さそうな視線を送ると、宗次郎は土方に向かって駆け出した。 自分に向かって走ってくる姿を認めると、土方は何も言わずに背を向けた。 宗次郎がついてくると信じて振り向きもしない土方に、八郎の胸の裡が波立つ。 八郎の思いを知る由もなく、必死に前を行く者を追う宗次郎の頼りない後ろ姿が、独り残された視界の中ですぐに小さくなって消えた。 「悪いな。お前ばかりに難儀をさせてしまって」 この試衛館の三代目当主近藤周斎の養子勇は、すまなそうに目の前の少年に詫びた。 頑強そうな顎を持つ強面の面構えは、ともすれば威圧感だけを見る者に与えるが、こうして人の良い感情を表に出せば、不思議と温かい朴訥さが滲み出る。 土方よりもひとつ年上のこの師は、いつも自分を大きく包み込んでくれる。 最早宗次郎にとって、近藤は師を超えて父に近い存在だった。 その近藤が十日程したら嫁を迎える。 確かに胸に一抹の寂しさはある。 だが土方に嫁をと昨日聞いた時に感じた、立っている足元が崩れ落ちるようなあの不安定さはない。 「他に誰か行ける者がいれば良いのだが、生憎父上は一昨日から腰痛が出始めてとても小野路村までは行けない」 「私ひとりで大丈夫です」 近藤が言った言葉に、宗次郎が過敏に反応した。 少しでも近藤の役に立ちたかった。 だから大人でなければ駄目だと、自分は子供なのだから一人前ではないのだと、そう言われているようで悔しかった。 が、宗次郎の応えを聞いても、近藤はまだ躊躇っているようだった。 「本来ならば俺が行かなくてはいけないのだが、今日は松井殿が婚儀の打ち合わせに来られると昨日使いが来てしまってな・・・」 松井とは、この度近藤の妻となるツネという女性の父親だった。 松井八十五郎は一ツ橋家の家臣で、ツネも其処の祐筆をしていた。 そんな嫁を貰う事を、周斎は殊の他喜んでいる。 その松井八十五郎が来るというのならば、近藤が留守をする訳にはゆかない。 「小野路村の橋本さまから金子をお預かりしてくれば良いのでしょう?」 「そうだ。・・・・だが少しばかり大金だ。歳が行ってくれれば良いのだが・・」 「土方さんはどうして駄目なのですか?」 「橋本家には行かないと・・・」 近藤が困ったものだと言うように眉根を寄せた。。 きっと土方はその理由を何も話さず、ただ行く意志の無いことだけを近藤に告げたのだろう。 橋本家は小野路村の名士であり、土方の祖母の実家にあたる。 この地域のもう一つの名士小島家と同じく、天然理心流の強力な後援者でもあり、宗次郎も試衛館に入門した幼い頃から近藤に連れられて、あるいは土方と一緒に何度も往復している出稽古先だ。 土方はこの橋本家がどうにも居心地が良いそうで、昔からこの家に行けば暫くはそのまま滞在することが多い。 それが行きたく無いとは、余程のことがあるのだろう。 「借金の使いにお前をやるのでは俺も情けない男だな」 近藤は自嘲するように、やる瀬無い息をついた。 ただですら金のやり繰りが大変なこの道場で、祝言にかかる費用を捻出するのは大変なことなのだろう。 その借金の使いに自分を出すということで、近藤は己を責めている。 それが宗次郎には辛い。 近藤は自分にとって血の繋がる父よりも大きい存在だ。 例えそれがどんなことであろうと役に立ちたいと思う。 「近藤先生、私一人で大丈夫です」 宗次郎は近藤に向かって満面の笑みで頷いた。 「結局お前が行くのか」 すぐに小野路村に向かう支度をする為に、自分にあてがわれている狭い室に戻るとその真中に、土方が胡坐をかいて座っていた。 「近藤先生が土方さんは行くのが嫌だと言っていた」 口調がいつもよりも素っ気無くなるのは、それを土方が断ったがせいで自分に役目が回って来たからではない。 最近朝帰りする土方を迎える自分はいつもこんなだ。 怒っているはずなど無いのに、気がつけば咎めるような物言いをしている。 それが宗次郎を戸惑わせる。 「怒っているのか?」 「怒ってなどいない・・・」 心の裡のどこかひと処を言い当てられて、宗次郎はそれを隠すように隅で着替えを始めた。 「借金の使いは嫌か?」 「そんなことはない」 思わず振り返って見た土方の眸にある色が、気のせいか弱かった。 土方も自分に悪いと思っている。 けれどそれでも行けない何かが橋本家にあるのだろう。 だからこうして自分を待っていてくれた。 その土方の心を知れば、胸に切ない思いが込み上げる。 「・・・そんなことはない」 急いで俯いて、袴の紐を結び始めたのは、そんな心の動揺を見られたくはなかったからだった。 「橋本の家で俺の事を聞かれたら、どこかに行ったまま帰ってきてはいないとでも言っておけ」 宗次郎の思惑など知ろう筈もなく、土方は畳の上に仰向けに体を倒した。 「土方さん、何か悪いことをしたんだ」 その姿を見て、いつもと変わらぬ会話ができる自分に宗次郎は安堵した。 「子供には分からないことだ」 土方は目を瞑った。そのまま此処で眠るつもりなのだろう。 「もう十六なのに・・・」 「十分子供だな」 瞼を閉じた端正な顔は、宗次郎の浮かべている不満気な様子を知らない。 やがて軽い寝息を立て始めた土方を、宗次郎は動きを止めて飽くことなく眺めている。 規則正しい呼吸だけが、今宗次郎の耳に届く全てだった。 閉じた瞼は一向開く気配はない。 眠りは浅くは無いらしい。 静かに近づいて指を伸ばしてその頬に触れても、もしかしたら気が付かないかもしれない。 が、無意識に一歩を踏み出して、踏んだ畳の冷たさが宗次郎を現に戻した。 一瞬の衝動に駆られた自分の行動に驚いて、凍りつくようにその場に足を止めた。 ふいに己の胸に芽生えた思いに怯えるように身を翻すと、宗次郎は又慌てて身支度を整え始めた。 手が震えて上手く袴の紐が結べない。 ただ心の臓の音だけが激しく高鳴る。 そんな自分から目を逸らすように、宗次郎は一度固く目を瞑った。 眠りを覚まさないように、そっと音を忍ばせて足元の方を回り敷居をまたいで廊下に出ると、今一度立ち止まって土方の姿を見たが、やがて何かを断ち切るように足早に室を後にした。 玄関には近藤と八郎が待っていた。 「俺も一緒に行ってやろうか?」 八郎は近藤から宗次郎の急な出立を聞いたらしい。 その言葉が嘘でもないように、上框(のぼりかまち)に腰掛けて草鞋の紐を結んでいる宗次郎の横に腰を下ろした。 「八郎さんはもう御徒町に帰らなければならないのでしょう?」 宗次郎は手を休めず、八郎の気紛れを嗜めるように見上げた。 その八郎は宗次郎の言葉に暫し沈黙した。 宗次郎の言うことは尤もなことだった。 昨夜此処に泊まるからと一応断って出てきたときも、養父は否とは拒まなかった。 が、それが先代の実子である自分への遠慮から来ていることは百も承知だった。 養父である心形刀流伊庭道場の元高弟、堀和想太郎は九代目軍平を継いだ後も、何かと気遣いをして自分を立ててくれる。 それを十分に有難いとも思い、また心のどこかで申し訳ないとも思っている八郎だった。 もしもここで宗次郎と共に小野路村まで行けば帰りは明日になるだろう。 これ以上養父やその家族に我儘も言えぬ身だった。 「伊庭君が一緒に行ってくれれば心強いが、だがそうも行くまい」 そんな八郎の事情を機敏に察して、近藤が遠慮をしたが、しかし告げた言葉には半ば本当があった。 最近は江戸の周辺も何かと物騒になってきている。 黒船の来航以来攘夷熱に浮かされた無頼の徒の暴行やら、流行病の万延で疲労困憊した者達が追い詰められて殺傷沙汰を起こしたという話も良く耳にするようになった。 そんな落ち着かない世情に大金を持って、宗次郎ひとりではもしもその身に何かあった時が心配される。 確かに道場でも剣術の腕は師の自分をいずれ凌ぐだろうとそれを楽しみにしているが、それでも今は十六の少年に相違ない。 しかも近藤の目に映る宗次郎は、その身体つきも袖や袴の裾から出ている手も足も、ひどく細く頼りない。 「私ひとりで行って帰ってこられます」 だが近藤の言葉は宗次郎のささやかな矜持を傷つけたようだった。 向けられた黒曜石に似た深い色の瞳が、少し勝気な光を宿していた。 それを見て近藤が苦笑した。 この愛弟子はめったに人に見せないが、驚く程の強い激しさを内に秘めている。 それは自分の意志に決して沿おうとうはしない、己の脆弱な肉体へ対してぶつけられることが多いという事も近藤は知っている。 今も自分が宗次郎よりも八郎を頼りにしたことを怒っているのだろう。 「そうだな、宗次郎ひとりで大丈夫だろう。今日は泊めて貰って明日日の高い内に帰ってくればいい」 頷く近藤に、宗次郎がやっと満足したように笑みを浮かべた。 「何が面白く無いのか知らないが、あんたにも行きたく無い処があるらしいな」 天道が回って射していた温(ぬく)い陽が、天井に向けられていた土方の視界の中で急に翳った。 「宗次郎は行ったのか」 「さっきな」 ずかずかと遠慮の欠片も無く狭い室に足を踏み入れて、八郎は仰臥している土方の横に腰を下ろすと胡坐をかいた。 ふと目をやった隅に、さっきまで宗次郎が身に着けて道場の床を拭いていた稽古着が畳まれていた。 宗次郎が帰ってきてあれを着るのは明日になるだろう。 だがその時、自分はもう此処にはいない。 それを一瞬寂しいと思った己の心に八郎は呆れた。 そのまま視線を移した先に、土方がゆっくりと体を起こした。 それを見ていて何故だか無性に腹が立った。 この男は宗次郎がここに戻ってきた時にも、何の変わりも無く迎えることができるのだ。 ふいに湧き起こったこの感情の在り処を、八郎は知らない。 「何に拘っているのか知らないが、あんたが行ってやれば宗次郎もわざわざあんな処にまで足を運ぶこともなかろうに」 その苛立ちをせめて言葉に変えてぶつける他、今の八郎は己を鎮める術を知らなかった。 「行けば見合いと分かっている場所におめおめと行けるか」 土方は面白くもなさそうに狭い庭に顔を向けた。 「見合い?」 「正月からしつこい」 歳は離れているが、最近では共に遊び仲間とも言える八郎には忌憚無く話せるものがある。 ひとつ上の近藤が身を固めるとあって、土方の周りでも嫁を娶れば落ち着くのではないかと、最近行けばその話しになる。 何とかのらりくらりかわして来たが、それもそろそろ限界らしい。 今度行けば確実に見合いをさせられる。 そんなことをする気はさらさら無いが、その話を聞くのももう億劫だった。 「そういうことだったのかい」 八郎の声が笑いを含んでいた。 「お前もあと二、三年すれば他人事ではなくなるだろう」 「二、三年しなくても中々に気の早い奴は煩いさ」 実際十七の八郎の元に、すでにその手の話は幾つか持ち込まれている。 だが自分にはまだ遠いものだと思っていたそれは、土方の周りにしてみれば気を揉む出来事なのであろう。 思えば土方もすでに二十五になる。身を固めるのには早いとは言えない。 「さっさと落ち着けば周りも文句も言わないだろうに」 「お前に言われる筋合いは無い」 振り向かない土方の背がどうにも不機嫌そうだった。 「・・・だが宗次郎は其処に行ったら、きっとあんたの事を聞かれるだろうな」 「あいつには俺はどこかに消えて行方が分からないと伝えておけと言ってある」 「見合いの話はしたのか?」 「そんなことはいちいち言わなくても相手が教えてくれるだろう」 土方がうんざりとしたように、八郎を振り向いた。 が、八郎の思惑は別の処に今ある。 もしも宗次郎が土方の見合いの話を聞いたら、どう思うだろう。 大人たちは宗次郎にその事を隠しもしないだろうし、むしろそれを勧めるように言って欲しいとくらい頼み込むかもしれない。 宗次郎はそれを聞いても頷くしかないだろう。 だがその胸の裡は複雑な筈だ。 こんなことは根拠の無い憶測に違いない。 しかしこのところ宗次郎だけを見ている自分だからこそ、八郎にはその時の宗次郎の戸惑いが手に取るように分かった。 多額の金子を預かってひとり戻る道はただですら神経を張り詰めるだろう。 それに加えて土方の事で少なからぬ衝撃を受けているとしたら・・・・ 田舎道を俯いて歩いている少年の姿が、八郎の脳裏を過ぎった。 (・・・関係ない) 八郎は突然に宗次郎を追って行きたい衝動に駆られた自分を、そんな言葉で打ち捨てた。 「やはり行った方がいいか・・」 ふいに土方の低い呟きが耳に届いた。 それは八郎に掛けられたものではなく、土方が独り言のように、無意識に漏らしたものらしかった。 それが証拠に土方は八郎を見ずに、視線を落として考え込んでいる。 「まだそんなに先には行っていないだろうよ。すぐに追いかけるのなら間にあうぜ」 追って行きたいのは自分の心だ。 だが八郎はそれを土方よりも己自身に誤魔化すように、胸の裡にあるものとは別の言葉を掛けた。 「いや、行くならば明日の朝でも間に合うだろう」 「ああ、今日はむこうに泊まると言っていたな」 先ほどの出立ならば小野路村に着くのは宗次郎の足では夕刻になるだろう。 大金を持っての夜道は危ないからと、近藤は明日明るい内に戻ってくるようにと言っていた。 「ならば明日途中まで迎えに行けばいいだろう」 土方が決めたように、また畳の上に体を投げかけた。 「どうしてもその家に行くのは嫌か?」 再び眠ることを決め込んだ男に掛けた、八郎のからかう様な口調だった。 「お前もそのうち俺の立場になれば分かることさ」 煩そうにいいながら横を向いた土方に、八郎はまだ胸にわだかまる何かを隠しきれずに立ち上がった。 「帰るのか?」 土方が顔を見ないで聞いた。 「帰る」 「宗次郎がいないとからかう相手がいなくてつまらんか」 「さあな」 愛想も無く言い捨てて見下ろした男の一言一言が、何故か今日は癇症に神経を触る。 これ以上いたら何を言い出すか分からない自分を遠ざけるように、八郎は廊下を大またで歩き始めた。 きりリクの部屋 早蕨(参) |