早 蕨 (参) 春の到来を感じる強い風が、一瞬薙ぎるように地を滑り、その勢いのままに再び巻き上がった。 共に宙に舞った大量の土埃に、八郎は咄嗟に目を瞑った。 暫しそうしていて又瞼を開いても、視界には風の通り道にいて、まだ慌てる人々の姿だけが映る。 八郎は先ほどから同じ処に立ったまま思案している。 この辻は甲州街道と交差するところで、帰るべき道は右にある。 だが左に折れれば内藤新宿へと続く。 そしてさらにその道の先には宗次郎の姿があるはずだった。 何を馬鹿なことを考えているのかと、軽く頭を振り、右に進めようとした足が、やはり駄々をこねるように止まった。 もう一度振り返ってみる視線の先には、何の変哲も無いのどかな往来の光景だけがある。 宗次郎はすでにどのあたりまで歩いているのだろうか。 朝方坂の上から見送った背は、ひどく頼りなかった。 八郎の視界の中で宗次郎は一度も振り返ることなく、坂の下へと消えて行った。 橋本家のある小野路村は、昨年の夏、初めて宗次郎と出会った土地だった。 そこで高熱で動けない宗次郎の身体は、自分の腕の中に確かにあった。 だが宗次郎は行かせまいとする自分に抗って、腕をすり抜け土方の背を追って行った。 ・・・あの時、独り残されたのは自分だった。 ふいに八郎の胸の裡がざわめいた。 それは何と言って良い感情なのか、自分でも言葉にできなかった。 考えるよりも早く、足は戻るべき道とは逆の方角に向かって踏み出していた。 追わなければ宗次郎は又自分を置いていってしまう。 そんな思いに捕われている自分の思考を、おかしいと感じる余裕が今八郎にはなかった。 大股に歩いていて、やがて焦れるように走り出した袴の裾を、風が浚うように靡かせた。 途中幾度も休みたくなる自分を叱咤しながら、結局昼も取らず足を急がせて来たから、橋本家に辿りついた時には、日はまだ傾くという処まではいっていなかった。 井戸端で足を洗わせてもらい、草鞋を解いて座敷に上がった。 それでもこの家の当主、橋本道助の前に端座して、近藤から言われて来たように挨拶を終えると、宗次郎はそれまで張り詰めていた神経が一度に緩んだように、ひどい疲労感に襲われた。 「疲れただろう?」 道助の労いに宗次郎は小さく笑って首を振った。 今朝江戸の試衛館を出て、今の時刻に此処に着いたということは、この少年は余程に急いで歩いてきたのだろう。 道助の声が、宗次郎の身体を気遣っていた。 幼年の頃から知っている宗次郎の、剣の天凛とそれに相反する身体の脆弱さを、昔から危惧している道助だった。 「今日は早くに休んで、明日ゆっくりと帰ればいい」 「ありがとうございます。でも明日の朝早くには発たないと・・」 「江戸はそれほどいいのかい?」 「・・・近藤先生が待っているから」 からかうように笑いかけた道助に、そう応えた言葉は宗次郎の本当だった。 が、土方が待っているというのを言いかけて、慌てて近藤がと置き換えたのも、紛れも無い真実だった。 その心に、今ひどく狼狽しているのも、又他ならぬ自分自身だった。 「それにしても歳三は相変わらず試衛館にはもどらないのか」 そんな宗次郎の心裡が分かるはずも無く、道助は少々声を落して問い掛けた。 「・・・え?」 咄嗟に出た言葉のあとに、土方からもしも自分の事を聞かれたら試衛館にもいないと言えと、そう言い含められていたことを思い出して、急いで瞳を伏せたがもう遅かったらしい。 「やはりな・・」 道助が腕を組んで、呆れた風に眉根を寄せた。 「歳三の奴、逃げおりよって」 「・・・逃げる?」 宗次郎が俯いていた顔を上げた。 「見合いだよ」 「・・みあい」 呟いた声が、小さかった。 「もうずっと前から身を固めるようにと言っていたのだが、今度勇さんも嫁を貰うというから丁度良い機会だと思って、正月に来た時に見合いの席を設けようとしたのだが・・・」 そこで一度言葉を止めると、道助は深く息をついた。 「土方さん、お見合いをしたのですか?」 見つめてくる宗次郎の瞳の奥で激しく揺れる色に、道助は気がつかない。 「いや、してくれていれば私も今頃こんな難儀をしてはいないよ」 「・・じゃぁ・・」 「結局その席をすっぽかして江戸に行ってしまったままだ。相手の家にも顔向けができずにいる。向こうはすっかりその気で、こんな無礼を怒りもせずに待っていてくれているのだが・・・」 土方が見合いをする。 昨日井上が何気なく口にしたことが、現実となって突きつけられた。 土方が見合いをして自分の傍を離れて行ってしまう。 同じ事が際限無く、頭の中を堂々巡りする。 宗次郎は今心の臓を、誰かに鷲掴まれたように苦しい。 深い闇の淵に突き落とされたように、すべての音が耳から遠くなり、指の先の血はどこかに吸い取られたように冷たく、だが動悸だけはうるさい程に体中を揺さぶって響く。 「どうした?」 瞳を見開いてはいるが、どこか焦点の合わない宗次郎の様子を見て、道助が怪訝に尋ねた。 その声すら宗次郎には遠い。 「宗次郎?」 応えの無い宗次郎に、今一度道助が声を掛けた。 「・・・あの」 やっと上げた宗次郎の顔が蒼く強張っていた。 「やっぱり試衛館に戻ります・・」 「そんなことが出来る訳が無いだろう。今からでは夜道を行くことになる。それに今日は此処に泊まることは勇さんも承知の事だろう?」 「・・・近藤先生がなるべく早くにお金が要るからって。そう言っていらしたのを思い出して。今から帰れば暗くなっても今日の内には戻れます」 宗次郎の声が小さくなった。 そんな嘘を道助は容易く見破るかもしれない。 が、宗次郎は今試衛館に戻ることしか考えていなかった。 一刻も早く帰りたい。 そうしなければ土方がどこかに行ってしまいそうな気がして、今ここにこうして座っていることにすら焦れて苛立ちを覚える。 「・・・そう言えば今日勇さんが来ることの出来無いのは、松井さんが来られるからだと言っていたな」 宗次郎は瞳を伏せたまま頷いた。 「何か火急で金が要ると言っていたが・・・。婚儀を前に勇さんに恥をかかせるような事になっても悪いが」 どうやら道助は宗次郎の心の在り処とは別のところで、納得するものがあったらしい。 道助はそのまま暫し沈黙し、この目の前の少年に江戸までの夜道を急がせて良いものかと思案している様子だった。 松井家は一ツ橋家に仕え、ツネもその祐筆をしている女性だと聞いている。 良い縁談だがそれだからこそ、些細な事で近藤に形見の狭い思いをさせたくはないと思うのは、やはり身贔屓がなせるものなのだろう。 「それでは家の者に馬で途中まで送らせよう。そうすれば明るいうちに内藤新宿まで着くだろう」 それが良い案だと、道助は宗次郎に告げた後に頷いた。 陽はずいぶんと長くなっている。 内藤新宿まで行けば後は多少暗くなっても、街道に人の通りはあるだろう。 だがそんな道助の好意に、宗次郎は慌てて首を横に振った。 「大丈夫です。ここから急いで行けば日の落ちる前に内藤新宿まで歩いてでも着きます」 人手を煩わせてしまったら、近藤がこの家に気遣いをする。 「そんなことはさせられないよ。大金を持って人気の無い暗い道を行って、もしもお前に何かがあったら、私は周斎先生にも勇さんにも顔向けができない。それにお前はずいぶんと疲れている筈だよ。幾ら心が急いても足は追いついてはくれないよ」 確かに道助の言うとおりだった。 ここまで来るだけで、宗次郎の体に残っている力はもう僅かなものになっていた。 それでも土方の元に帰りたいという心が、今は何を差し置いても勝る。 「今から帰るのならば内藤新宿まで送らせる。それが嫌だというのなら、今日はひとりで帰す訳にはゆかないよ。わかるな、宗次郎」 諭すように言う道助に、宗次郎は小さく頷くとそのままうな垂れた。 送ってくれるというのは宗次郎もよく知っている、この家の下男で源吾と言う、大柄で屈強そうな体を持つ若者だった。 源吾は宗次郎の脇を両手で持つと、軽々と上に持ち上げて馬に跨らせた。 「気をつけて帰るんだよ。着いたら勇さんによろしく伝えておくれ」 「はい」 馬の上から見下ろすような形になって、宗次郎は道助に頭を下げた。 着物の襟の内側には、道助の内儀が道中落とすことのないようにと、借りた金子を布に巻いて縫い付けてくれてある。 「それから・・・歳三に一度必ず戻るようにと、それも一緒に頼んだよ」 道助の言葉に、宗次郎は今度はどこか躊躇うように小さく頷いた。 その心の動揺を見透かされないように、高い位置から遠くにやった視線が、すでに江戸の方角を捉えていた。 「ああ、やっぱり・・」 源吾は馬の鬣(たてがみ)をなでて宥めてやりながら、探っていた前足の蹄のあたりで目を止めた。 「・・・怪我をしていたのですか?」 「どこかで堅い石ころでも踏んだのでしょう。少し切れている」 走らせていた馬が急に暴れるように前立ちになったと思った瞬間、宗次郎と源吾はその上から放り出されていた。 幸い源吾が宗次郎を庇うように抱きかかえて落ちた先が柔らかい草地だったから、少しばかりの打ち身だけで、あとは怪我という怪我もなかったが、もう馬は走ることはできないだろう。 「宗次郎さん、申し訳の無いことです。私はこいつを連れて帰らねばなりません。どうか日が落ちる前に旦那さんの家に先に戻っていてくれませんか」 源吾は実直そうな顔を困惑に歪めた。 傷ついた馬の手綱を手に戻るのは、ずいぶんと暇がかかりそうだった。 それに宗次郎を付き合わせる訳には行かない。 「ここはどのあたりでしょうか?」 宗次郎は歩いて距離を測る感覚を、馬を走らせ過ごしたことで無くしていた。 「内藤新宿よりもまだずっと小野路村に近いあたりです。ですから橋本の旦那さまの家には明るいうちに戻れます」 「源吾さんは・・・・?」 「私はこの辺りは目を瞑っても歩ける位によく知っています。だから暗くなっても大丈夫です」 源吾は日に焼けて精悍な笑顔を見せた。それを見て宗次郎もやっと安堵したように笑いかけた。 「では先に失礼して戻っています」 「そうして下さい」 背を見送る源吾に一度立ち止まり振り返ると、宗次郎は小さく頭を下げて元来た道を歩き始めた。 どの位歩いたのか、沈みかけた日の残照が、山の稜線を空の色と分からなくしている。 今一度足を止め、後ろを見ると源吾の姿はもう見えなかった。 宗次郎はそれを確かめると、横に連なる雑木林の中に、その向こうから聞こえてくる、川のせせらぎの音を頼りに足を踏み入れた。 雑木林を抜ければ街道に続く道に沿って流れている浅い川に出る。 そしてその川原沿いに行けば姿を見られることなく、源吾を追い越してまた適当なところで元の道に出られるはずだった。 宗次郎は強い季節の訪れを誇示するように伸びた雑草を、急ぎ足で踏み分けながら、水の音のするほうへと進んだ。 が、突然右足を引っ張るものに気を取られた瞬間に、身体の均衡を崩してその場に膝をついてしまった。 伸びかけた蔦が、宗次郎の右足に絡んで行く手を遮ったらしい。 それを外そうと身体を動かした途端に、足首に少しばかり痛みが走った。 捻ってしまったのかもしれない・・・。 袴を捲り上げて見る限り、まだそれ程腫れても来ていない。 痛みというのならば、実は先ほど落馬したときに打ちつけた右肩の方が、じんじんと熱を持ってひどくなってきている。 源吾には怪我は無いと言い切ったが、どうもあちらこちら打っているらしい。 こうして座り込んでしまうと動けなくなってしまいそうだった。 (・・・このくらい) 自分に言い聞かせるように呟くと、身体中の力と気力を振り絞って宗次郎は立ち上がった。 こんなところで悠長にしている間は無かった。 せめて日の落ち切らないうちに、もう一度道に出なければならない。 自分の行くところは試衛館しかない。 一刻も早戻らねば、きっと土方は自分を置いて何処かに行ってしまう。 その思いだけが宗次郎を今突き動かしている。 袴についた土を手で払うと、宗次郎はまた林の奥へと歩き始めた。 八郎が橋本家に着いた時には日もとっぷりと暮れ、辺りは薄闇に包まれ始めていた。 結局あのまま途中まで駕籠を使って甲州街道を来たが、この先までは行けないと言われそれを乗り捨てたあと、徒歩で慣れない道をやっと小野路村まで来た。 が、目当ての橋本家が分からず、迷っている間にこんな頃合になってしまった。 「御免」 この地で御大尽と呼ばれる名主だけあって豪壮な構えの門をくぐると、すでに中が暗い家の奥に向かって声を掛けた。 しばらく応えを待っていたが、どうも人が出てくる気配が無い。 宗次郎も家人と一緒に何処かに出かけたとしても、これだけの家ならば下働きの者もいるだろうに。 辺りに漂うあまりの静寂さを訝しげに思ったときに、玄関からではなく建物の外を回るように裏から出てきた人間がいた。 「どちらさまでしょうか?」 「江戸から来た者で、伊庭八郎といいます。此処に沖田宗次郎が来ている筈なのですが・・」 「宗次郎さんの・・・?」 遠慮がちに声を掛けた女はおっとりと品がよく、目が慣れればここの内儀とも思えた。 それがどうした訳か、狼狽したように言葉を噤んだ。 「あの・・・」 女は暫し考えているようだったが、思い切ったように口を開いた。 「おたくさまはずっと江戸からの道を此処までこられたのでしょうか?」 「そうですが・・」 宗次郎はと聞いた自分にとんでもなく外れた応えを返す婦人を、八郎は訝しげに見た。 だがこの婦人の言っている事は、きっと宗次郎に通じる事なのだ。 だとしたら尋常ではない事が宗次郎に起こっているらしい。 八郎の胸に暗いものが過ぎった。 「宗次郎がどうかしたのですか?」 急き込んで聞く八郎に、婦人は言って良いのか悪いのか躊躇しているようだった。 「どなただ」 更に家の中ではなく、今しがた八郎が潜ってきた門を入って来ながら後ろから声を掛けたのは、この家の当主橋本道助だった。 その顔がひどく緊張している。 「宗次郎さんを尋ねていらっしゃって・・・」 「宗次郎の友人で伊庭八郎といいます。宗次郎に何かがあったのでしょうか?」 声をかけられる前にすでにその気配を察して振り返っていた八郎が、道助に詰め寄るように問うた。 「宗次郎のご友人と言われますか・・?」 「今朝此方に出かける宗次郎を試衛館で見送りましたが、どうにもあいつ一人では心元無いと、近藤さんに言われて後を追ってきました」 「そうでしたか」 八郎の嘘に道助は容易に騙されたようだった。 「宗次郎はどこに?」 八郎は道助に先を促した。 「それがここに戻る筈が戻らず、今こうして皆で探しているのです」 「戻らない?」 道助は薄闇でも分かるような厳しい表情で頷いた。 「実は宗次郎が今日中に江戸に戻ると言いまして、それでは内藤新宿まで馬で送らせようと当家の源吾という者をつけたのですが、途中馬が怪我をしてしまい先に行くことができず、源吾は明るい内に一旦引き返すようにと、宗次郎を先に帰したというのですが・・・。その源吾が馬を曳いて戻ってきたのに宗次郎は・・」 「・・・まだ戻らないのですか」 八郎の声が硬くなった。 「宗次郎は確か此方で金子を拝借する筈でしたね」 「そうなのです。その金を持っているのです。それに宗次郎はその時、源吾にどこも怪我をした処は無いと言っていたそうですが、何しろ一度二人とも馬から放り出されたのです。それに何より最近はこの辺りも夜道は物騒になりました・・・」 道助はそれ以上先を言わなかった。 この場に居た誰もが不吉なものを憚るように、その杞憂を言葉にしなかった。 ただ宗次郎の身を案じていることだけは、無言で伝わる。 だからこそこうしてこの家の誰もが宗次郎を探し回っているのだろう。 「その源吾さんと言う人が宗次郎と別れたのはどのあたりなのです」 道助に掛けた八郎の口調が、切羽詰まった緊張感で問い詰めるようになった。 「ここから一里と少し行ったところの、丁度道の両脇が雑木林に囲まれた処ということなのです。源吾も今その辺りを探しに行っています」 「馬を借りることはできますか?」 「あまり走る馬ではありませんが、馬小屋に繋いであるのを使って下さい」 道助も宗次郎を探す人手を、一人でも多く欲しい様子だった。 八郎はその道助に向かって一度頭を下げると、すぐに内儀に案内されて屋敷の裏手にあるという馬小屋に向かった。 前を行く内儀の歩調が急いでくれているとは言え、酷くもどかしかった。 いっそ追い越して馬小屋まで走り出したい衝動を、八郎は必死に堪えた。 段々に闇が濃くなってゆくさまが、八郎を底の無い不安に引きずりこむようだった。 こんなに暗くなっても川の流れる音だけは、天道の陽の射す明るい昼間と少しも変わらない。 そんなことを宗次郎はぼんやりと思いながら、熱を奪われてすっかり冷えた土の上に腰を下ろしている。 闇の中で、もう川と水際との区別も定かではない。 「・・・・どうしよう」 呟いても誰も応えてはくれない。 そんな事は分かりきっているのに、敢えて声に出してみたのはこの恐ろしい程の静寂(しじま)の中で、それが例え自分のものであっても、人の声に在る温もりを聞きたかったからかもしれない。 己の意気地の無さを叱咤しようと思った途端に、ひとつ頬を伝わるものがあった。 それを手の甲で乱暴に拭ったとき、身体を動かした反動でそれまで鎮まっていた痛みが宗次郎を責め立てるように疼きだした。 こんなことで泣くのはみっともない。 だから今自分の視界を滲ますものは、決して身体のあちこちを苛む痛みや、不安からではない。 だが零れ落ちるものは言う事を聞かず、宗次郎は唇を強くかみ締めた。 そんな自分を持て余すように、自分の左の手が握り締めている布包みに視線を落とすと、そっともう片方の手で開けてみた。 それを先ほどから幾度も繰り返している自分が愚かしかった。 それでももしや元のとおりの数だけ金子があるのではと、祈るような気持ちで包みを解く。 が、神仏はそんな宗次郎の願いなど聞き届けてくれるはずもなく、手にあるのは一枚足りない数の金子だった。 胸の襟元に縫い付けてもらった金子の入った袋の綻びに気付いたのは、川原を経由してどうにかもう一度元の道に出て暫く行った頃だった。 慌てて数えてみても、借りたはずの五両には一枚足りない。 宗次郎は蒼白になった。 急いで来た道を戻りながら、どこに落としたか見つける術も無く、水を含んだ綿の様に重い身体を引きずって、気力だけで探し続けていたが、川原の石につまづいて転んだのを切欠に、とうとうその場に座り込むと動けなくなってしまった。 すでに日は沈み、肌に触れる風も昼間の陽が持つぬるさはなかった。 考えてみれば今日は昼を取る間も厭うように歩き続けてきた。 何も入れてはいない腹はすでに空腹というのを通り越して、空いているのかいないのか、その感覚すらも定かではない。 春とは言えど夜の冷気は、衣類から出ている手指やら顔やらを容赦なく凍えさせる。 だが何よりも心が寂しい。 「・・・土方さん」 膝に顔を埋めるようにして、無意識に唇から零れ出た名は、やはりその人しかいなかった。 己の紡いだその言葉の響きは、想う人には届かず宗次郎の耳に木霊のように帰ってくる。 「土方さん・・」 もう一度はっきりと声にすると、息が詰まりそうな程に切なくなる。 胸を押しつぶされるような苦しさに伏せていた顔を上げると、宗次郎は辛うじて立ち上がった。 その人に会いたい。 自分は土方に会いたい。 急いで戻らねば、土方はいなくなってしまう。 自分の手の届かない処に行ってしまう。 だから自分はこんな処で座ってはいられる筈が無い。 宗次郎を動かしたのは、ただただひとつの思いだけだった。 だが、その一歩を踏みしめたとき、宗次郎の脳裏を過ぎるものがあった。 (・・・さっきもこんなことがあった) くじけそうになったとき、確かに自分は今と同じような事を思ってこんな風に立ち上がった。 一度つかんだ過去の片鱗は、鮮やかに宗次郎の記憶を蘇えらせる。 「・・・あの時だ」 川原に出る前に雑木林の中で蔦に足をとられて転んだ。 その時に縫ってあった糸が綻びて、落としたのかもしれない。 否、きっとそうに違いない。 本当にそれが正しいのか分からない。 が、宗次郎にはもうその事実に縋る他なかった。 「きっとあの時だ」 そう言い切る事が自分自身へのまじないのように呟くと、石だらけのおよそ足場の悪い川原を、宗次郎は覚束ない足取りで歩き始めた。 一段と深くなった闇に、行く川の流れだけが、道しるべのように音を刻んでいた。 きりリクの部屋 早蕨(四) |