知って欲しいのです

言の葉が
降りてはきえゆく雪のひとひらよりも淡きものならば
朧に射す月の華よりも心もとなきものならば

背に伝えるぬくもりで
縋る腕に籠める力で

此処にいると
此処だけにいると


・・・どうか知って欲しいのです







                  40000御礼     蓉さまへ




                        雪 (上)





間口は凡そ三間。
見た目には左右に連なる町屋と些かも風情を異にする事無く、藤屋伝五郎の隠居宅はある。
玄関の敷居を跨いで続く土間は、ひんやりと冷気を籠もらせて思いの他長く続き、やがて視界は突然に開かれる。
決して好天とは云えぬのに、それまでの薄暗さに慣れた目には余りある眩しさを、土方は眸を細める事で凌いだ。

中庭。
そう呼ぶには広大すぎた。
真っ直ぐに向けた視線の先には、表から見た殊勝さを欺くような桁違いに大きな建物が、天を覆う鉛色の暗雲に臆する事無く威容を誇示している。
そして更にその奥、敷地の東の果ては加茂川の川原に隣接している。
外からは決して分からぬ造りになってはいるが、この家屋敷そのものが一個の要塞と形容して過言では無いだろう。
だが今日が、此処への最後の訪問となる。
黙々と歩を進めながら、唇の微かな隙から漏れる息だけが、くぐもった彩りの中で鮮やかに白い。


「雪が、降るでしょう」
先に立って案内する水梨浩太が、前を向いたまま天の模様を憂えた。
「川が凍るかもやしれません」
そのまま言葉は途切れたが、冷気が水を凍てつかせ流れを止めてしまえば舟は動かないのだと、浩太の伝えたい事は直ぐに分った。
「暗くなったら発つ」
だが寸暇を置かず返した土方のいらえには、そんな事は少しも憂いになってはいないのだと知らしめる強さがあった。
それ以上、浩太は何も言わない。
一際大きな背の主の沈黙が、自分がこれから為す事に抗議する思いの行く末にあるものだと知りつつ、土方も又譲らず黙した。

六日。
一体どれ程の時をかければ一日は終わるのか・・・
触れ得ぬ想い人の温もりを欲し、時の経つ緩慢さを神仏に憤り、苛立ちと焦燥の日を六つ送った。
疾うに際を越えてしまった辛抱は、先へ先へと心を逸らせ、前に在る浩太の姿すら自分を阻もうとしている枷に思わせる。


だがその浩太が、突然立ち止まり振り返った。
「沖田さまは酷く弱っておいでです。動かす事は適いません」
これ以上遠まわしに云っても無駄と諦めたのだろう、今度は土方に直截に訴えて来た。
「貴方が此処へ連れてこられてから、ほとんど何も召し上がりません。傍らから離れず、俊介さまもこの六日、一時たりとて気を抜かれる事はありませんでした。それ程、あの方は悪いのです」
躊躇いの末に口をついて出た言葉には、それが真摯な心根から来ているのだと分り得る重さがあった。
浩太は総司をこのまま京に止めよと、これ以上辛い思いをさせずに残された時を静かに過ごさせてやれと、そう云っているのだ。
あの身体で戦の中を連れ行くのは無理なのだと、そんな事は許せないのだと、浩太の裡に在る人としての心情が、常に控えなこの男を土方に抗わせている。
見つめる目には、無体な事を為そうとする人間への憤りすらある。
「世話を掛けた」
それを承知しながら、土方も敢えて相手の望むいらえを返さない。
「どうしても、連れて行かれると云われますか」
「必ず、そうする」
射るような視線を撥ね退けて、土方の双眸に宿る意志は更に強靭だった。
――総司は必ず自分と共に在るのだと。
それは土方にとって決めた事ではなく、最初から決まっていた事だった。
だからどんな言葉も戒めも、一切聞き入れはしない。
誰の非難も怒りも、何ひとつとして、この己が信念を露ほども揺るがすものでは無い。
端正な面が、険しさを持って前に立ち塞がる者に向けられた。


浩太はそんな土方を暫し凝視していたが、やがて静かに踵を返すと、後は一言も発せずに再び歩き始めた。
それが自分への精一杯の憤りの表れと知りながら、土方も叉無言で続く。
総司を連れ帰る、己の腕の中へと。
その為だけに、今自分は此処にいる。
先に在る背を、いっそ追い越し走り出したい衝動を漸く堪えて、時折白いものを舞い始めさせた天を、土方は鬱陶しげに見上げた。




僅かな気配をも逃さぬ鋭敏な勘は、床に伏すようになってから更に研ぎ澄まされたものになったのか、それとも何時来るとも知れぬ自分の姿を求め、常にこうして待っていたのか・・・
音を立てぬように襖を開けた途端、求めてやまなかった面輪が、此方を向いて枕の括り上から笑っていた。

「駄々をこねていたそうだな」
夜具の際まで来て腰を下ろし、その動きの流れと同じくして手を伸ばし頬に触れたのは、そうでもしなければ今にもこの者が消えゆきそうな不安に駆られたからだった。
それ程に、総司のどこにも人の持つ血の色は無かった。
身を起こそうとしないのは、もうその力すら身体の内には残ってはいないからなのだろう。
「こねてなどいない」
抗うでも無くされるがままになりながら、笑みを浮かべたまま応えた声には微かな不満が籠もる。
今日迎えに来る事は、早朝、まだ日が昇らぬ内に伏見から山崎を寄越して伝えてあった。
それ故心構えは出来ていたのか、湛えられている笑みには静けさだけがある。

「飯を食わないのだと、さっき聞いたぞ」
揶揄して低く笑った声につられるように、頬に止めた指の先にある形良い唇が動いた。
「田坂さんが薬を沢山飲めと言うから、それでもう何も入らなくなってしまう・・・」
其処にいない人間に罪をかぶせての言い訳は、邪気が無いとは云え後ろめたさが先立つのか、或いは土方に憂いを作ってしまった自分の不甲斐なさを責めているのか、総司の語尾は曖昧に途切れたままその先へとは続かない。

「ではその薬も飲んで貰えない俺はどうすればいい?」
「嘘はつけんものだな」
大して驚く風も無く、土方は開かれた襖から姿を見せた声の主にゆっくりと視線を移したが、いらえ自体は事の露見に狼狽を隠せない床の中の者に向けられた。
「ちゃんと飲んでいる」
「どんなものだかな」
当人を前に偽りを重ねることは流石に臆するのか、此方に歩み寄ってくる田坂を捉えていた瞳がつと逸らされた。
「良い患者では無かったようだな」
座したまま、横に立った医師を見上げて問う声にも、苦笑が交じる。
それに同様な渋い笑い顔を作る事で是と返した田坂が、相変わらず腰を下ろす様子が無いのは、此処ではする事の出来ない話があるのだと察し、土方は今一度枕の上の面輪に視線を戻した。
「少し待っていろ」
言葉が最後まで終わらぬ内に、黒曜石の深い色に似た瞳の奥に、不安定に落ち着かぬ色が垣間見られたが、それもほんの一瞬の事で、すぐにその動揺を隠すかのように総司は物言わず頷いた。


「・・・土方さん」
だが立ち上がり背を向けた途端、躊躇いがちな声が後ろから掛かった。
「どうした?」
聞き返しても、いらえはなかなかに戻らない。
作り出された沈黙が、総司の揺れる心を物語っているのだと土方は承知している。
そしてそうさせるものが何たるかを知りすぎる程知りながら、残酷にも自分はそれを認めてやる事は出来ない。
否、しない。
置いていって欲しいのだと――
そんな懇願は聞く耳を持たない。

「何でもないのです」
やがて真実伝えたい事をひっそりと仕舞いこむかのように、総司は僅かな唇の動きだけで言葉を紡いだ。
そのまま視線は逸らされ、大儀そうに瞳が閉じられた。
そんな様を土方は暫し黙って見守っていたが、田坂に無言で促されると、漸く踵を返し後ろ手で静かに襖を合わせた。


――人の気配が遠ざかる。
土方が、去って行く。
それを自分は瞳に映す事が出来ない。
残されるのは、身を引き裂かれるよりも辛い。
だからこうして行ってしまう姿が視界から消える前に瞼を閉じてしまえば、置いて行かれたのではないと自分を騙す事が出来る。
もう・・・
追う事の出来ない背を見送るのは嫌だった。

尚も瞼の裏に焼きついている残影を消し去るように、総司は両の腕を閉じた目の上で交わし、光の一筋も入らぬ視界を更に深い闇で覆った。




「今更何を言った処で、土方さん、貴方の意志を覆す事は出来ないと承知している。だがそれでも敢えて言う」
遠路をやって来た客への心づくしなのか、室にある火鉢に火は良く熾り、一時外の厳しい寒さを忘れさせる。
だがその安閑と流れる時を切り裂くように、田坂の声は切迫していた。
「戦の中を連れて行くのは無理だ」
語調に、譲らぬ強さがあった。
「それは医者としての言葉か」
「人としてならば、渡しはしない」
瞬時に戻ったいらえには、我慢を超えた苛立ちがある。

若い医師が胸に秘めるものは知っていた。
が、これ程までに激しく、そして直截に、総司への滾る想いをぶつけられたのは初めてだった。
真摯というよりも、唯一護らなければならない者を自分から奪い去る相手として、田坂の視線は今向けられている。
だが例え三千世界に生きとし生けるもの全てを敵に回したとて、己の意志を貫く決意も又土方の裡に核としてある。

「総司は連れてゆく」
「殺す気かっ」
迸ったのは、遂に堰を切った田坂の恋情だった。
「もう戦火を掻い潜る日々を耐え得る身体ではない」
何を言っても否と拒みつづけるだろう相手へ、そしてそれに諾として従うだろう総司への逆巻く想いが、嫉妬と云う感情を凌駕し憤怒となって、今田坂を駆り立てる。
「このままでは年を越す事も覚束ない」
これは脅しだと十分に承知している、だがもう抑える辛抱を田坂は己に科さない。
「それでも連れてゆく」
そんな若い医師の、否、恋敵の激しい視線を真っ向から弾き飛ばし、土方の応えは微塵も揺るがぬ信念の証のように、静かに戻った。

ただ映る色を透かせるに過ぎなかった鉄瓶の中の水陰が、熾る火に追い立てられて白濁の彩りを得、宙に離散するのを繰り返す静寂(しじま)の中に、互いを相容れられない者同士の沈黙が似合わぬ緊張を強いた。


新撰組に一旦京を去り下坂の沙汰が下された時、土方は近藤の妾宅に預けていた総司を藤屋伝五郎の隠居所に移すと決めた。
行き先は大坂と決まっただけで、何処に落ち着くとの情報も得られぬ状況下で、すでに一日の内の大方を床に伏せる状態が続いていた病身を連れて行くことはできなかった。
しかし幕府に落日の影が濃くなり、衰退そのものを隠せなくなったとなれば、新撰組、ひいては総司自身を狙う敵に、一時の油断も出来ないのも又事実だった。
限られた時と迫られる決断の中での思案の末、最も安心して預けられる場所として、土方は此処を選び唯一の者を伝五郎に託した。

同日、田坂も診療所を閉め、戦の勃発を回避する為に京を離れると周囲を偽り、キヨだけを膳所に帰して総司の傍らに沿った。
瀬口雄之真の遺髪を江戸の菩提に弔い京に戻って来、診療所を手伝うようになっていた水梨浩太も又田坂に準じた。

伝五郎の元へ移すと告げた時、総司は頑なに首を振り続けた。
もう動けぬ自分は要らないのだと、足手まといになるだけならば腹を切らせて欲しいと、細い指に折れんばかりの力を籠めて土方の腕を揺すった。

掴まれた痛みを――
土方は今も現のものとして己の二の腕に刻んでいる。
総司は望んで此処に来た訳では無い。
この先にあるのは取り残される事だけだと信じ込み、翻弄される心は、自ら離れ行く事で置いて行かれる恐怖から目を逸らそうとした。
それすら一時の逃避に過ぎないと知りながら・・・
その必死の言葉に一度も耳を貸そうとせず、聞き分けの無さに声を荒げ、勝手を言うなと、独りで行こうとしているのはお前だと、仕舞いには脅しにも似た懇願で此処に連れてきたのは確かに自分だった。
そしてそれを、少しも悔いてはいない。
総司は自分の傍らに在らねばならなく、自分は総司の傍らに在らねばならない。
土方にとってこれは、最早何人であろうが変える事は出来無い理(ことわり)だった。


「・・もう一度」
重い沈黙を先に破ったのは、田坂の方だった。
「もう一度必ず見(まみ)えるのだと、そう誓わせる」
これまで堪えてきた恋敵への憎しいまでの嫉妬と、そしてそれを超えた信頼と・・・
土方に向けられた強い言葉には、己(おの)が想い人の生きるも死ぬも、この男にしかもう託す事が出来ない、ぎりぎりの瀬戸に追い詰められた田坂の決意があった。
「必ず」
全てを削ぎ落とし、たった四つの音で返したいらえも又、土方の崩れ得ぬ確固たる意志そのものだった。

「発つのは明日未明になるのだろうか、それとも・・・」
田坂の声は激情の名残を未だ留めて低くはあったが、口調は淡々といつものそれに戻っていた。
一刻の猶予も許され無い状況下ではあったが、舟を出すのは闇に紛れてでなければ危険が多すぎる。
「暗くなったらすぐに発つ」
応えは寸暇を置かなかった。
「承知した。ではそのつもりで用意をしよう」
止めようが無く、先へ先へと現が進むのならば、もう自分も立ち止まっている事は出来ない。
送り出すなら今度は迎える体勢を整える為に動く。
それが苦渋の末に出した、田坂の決断だった。


「時に・・・近藤さんの傷の具合はどうなのだろうか」
胸の裡に燻るものを断ち切るように、本来ならばまず最初に問わなければならなかった懸念に田坂は漸く触れた。
昨日近藤が伊東一派の生き残りに襲撃され、肩に銃創を受けたとの一報は、早朝今日の段取りを告げに来た山崎からもたらされていた。
「肩の骨を貫通している。軽いと言えるものではない」
土方の端正な面に、一瞬険しい色が走った。
それを見る田坂も、鉛を呑み込んだような重苦しさを禁じ得ない。
きっと頑健に弱音の欠片も見せはしないでいるだろう強面が脳裏を過ぎる。

その近藤の治療を、幕府御典医である松本良順が引き受け、それと一緒に総司も松本の居る大坂へ下らせる為に土方が迎えに来た。
だが総司本人には、まだ近藤の怪我は知らされてはいない。
自分の口から告げると、それが山崎に託された土方の言付(ことづけ)だった。


「松本殿とは、嘗て一度だけお会いした事がある」
切迫した事態を前に一時感傷に浸る間も打ち捨て告げた事実に、それまで冷静さを崩さなかった土方が意外な風に田坂を見遣った。
「死んだ兄の友人で、やはり医者の家に養子に出、初めは本道を専門としていたが、やがて西洋医学を目の当たりにして、其方を目指すようになった人がいる。下総佐倉の順天堂という蘭学塾で修行を積んでいたが、私が養母が亡くなったとの知らせを受けて江戸に下った時に、あちらも丁度戻ってきていて、その折に師の佐藤泰然殿の実子であり、当時は幕府の西洋医学所頭取であった松本殿に引き合わせてくれた」
「異な縁だな」
「そう、異な縁だ。自分にはこの先関係の無い人だと思っていた」

だが今こうして自分の手を離れる患者を、否、唯一の想い人を、一時たりとも託す事になろうとは、誰があの時思っただろう―――
忘れかけていた記憶を手繰れば、眼光鋭い、医師というよりは古武者のような剛毅な容姿が田坂の裡に蘇る。

「松本殿に伝えて欲しい。お預けする自分の患者、必ず迎え受けると」
それは医師としてでは無く、田坂俊介と云う、人を想う煩悶の淵で呻吟している一個の人としての言葉だった。
そして更に目の前の、未だ越えられぬ恋敵へ向けられた矜持でもあった。
「伝える」
だが返ったのも又、発した言葉に己の信念を籠めた、土方の強いいらえだった。
「・・・これ以上雪が酷くならなければ良いが」
川が凍り舟を出す事が出来なければと・・・
思いながら呟く遣る瀬無い偽りは、独り語りのように田坂の唇から低く漏れた。


舞う氷片が、天も地も、視界の全てを覆う程に激しくなり、全てを。
川に満つる水の流れとて、人の動きとて、時の過ぎ行く様とて、あらゆる全てを止めてしまえば――
此処で自分は総司を手放さずにいられる。
この期に及んでも尚、詮無き事に未だ希(のぞみ)を託す自分に愛想を尽かせ、外に在る筈の白い情景を障子越に探るように、田坂は静かに視線を逸らせた。




地が音を沈めてしまうのか、時折風に攪拌される雪は、ただ粛々と天から舞い落ちる。
だが白い破片が土に吸い込まれて消え行くまではいい。
溶けるのが間に合わず積もるようになれば、川は氷の膜を張り、流れを止めざるを得ない。
それを土方は案じていた。

「夜も遅おにならんことには、凍ることはおへん」
近づいて来る人影が、此処の主である事は察しがついていたが、土方は声を掛けられるまでは敢えて振り向かず、庭に面した廊下に足を止め外の情景を見ていた。
やがて直ぐ傍らまでやって来た気配にゆっくりと視線を移すと、やはり其処に藤屋伝五郎の笑い顔があった。

「色々と世話になった」
「それは違います、沖田はんの事はうちがそうしたくて、土方はんにお頼みしたことですわ」
頭(こうべ)を垂れた土方に、少し慌てた声が掛かった。
「けどほんまは帰しとうないんですわ」
「どうにも俺は憎まれ役らしいな」
低い笑いが、白い息と共に零れる。
「それも土方はんの甲斐性ですやろ。せやけど・・・無理に身体だけは此処に留めさせても、心まで行くなと止める事はできまへんしなぁ」
「それは総司の事か?」
「他に誰がおりますのや」
笑えば目じりにふたつ出来る深い皺は、見るものに警戒する心を解かせる。
だがその奥に隠されている鋭い光を、この穏やかな風貌の持ち主を知る者の、一体どれ程の人間が知っているのか・・・・
それだけに、伝五郎の何気ない言葉に含まれているものは重い。

「沖田はんは待っていたんですわ。一日を千秋の思いで、今か今かと土方はんを待っていたんですわ。怯えて、待っていたんですわ」
「怯えて?」
頷いた頭髪に、白いものが舞い降り消えた。
「それがどうしてなんか。・・・土方はん、あんたはんには一番よう分かる筈や、いや、土方はんで無ければ分からへん」

時に非情に人を捨て、神仏さえも恐れず百歳(ももとせ)の半分を渡ってきた男には、どうやら自分達の絆を欺くのは無理のようだった。
いらえを求めず、再び笑みを浮かべただけの主を、土方は物言わずに黙って見ていた。




「雪が降ってきた」
冷気が入らないように、身ひとつ分だけ細く開けた襖を後ろ手で隙無く閉じると、仰臥したまま視線だけを動かして見上げた面輪に、土方は外の様子を告げた。
この室を出て行ってから、まだ半刻も経てはいない。
だが総司の瞳には潤むものがある。
それが上がって来た熱の所為だと思えば、又ひとつ土方の胸の裡に暗い翳が落ちる。

霜の月が雪の月に代わったその日、総司は酷い喀血に見舞われた。
夏を過ぎた頃から幾度かあったそれは、外に血を押し遣る度に衰弱を余儀なくさせていたが、この一回が止めのように、遂に床から離れる事が出来なくなってしまった。
体内にはびこる熱は一向に引こうとはせず、時にその存在を誇張して周りを畏怖させる程高く上がり、或いは牙を潜めて総司の全身から力という力を隈なく吸い取っていった。
今では夕刻の決まり事のようになってしまった尋常では無い熱が、今日も又総司を苛み始めたのだろう。


静かに畳を踏みしめ枕辺まで来て腰を下ろすと、それを待っていたように骨ばった指が伸ばされた。
何をしたいのかと、されるがままになっていると、その先が遠慮がちに頬に触れた。
先ほど自分がやった事をそっくり真似るような所作に、土方の唇の端にも揶揄するような笑いが浮かんだ。
「仕返しか?」
「・・・違う」
微かに首を振る様が、あまりに弱い。
「では何だ?」
いらえを求めても応えず、触れている指を離さずに、総司はただ土方を見つめている。
見(まみ)えた歓びを、もうひとつ躊躇う心が邪魔をしているような、そんな仕草だった。

「・・・大坂には・・行きたく無い」
やがて唇だけが微かに動いたのかと錯覚する程に、聞き辛い小さな声が土方に届いた。
その途端、それまで瞬きもせずに見つめていた瞳が、吐露された真実の重みに耐えかね伏せられた。
「まだそんな事を言うのか」
叱る声は、低く発せられた。
「お前は俺と行くのだ」
止めたまま動かぬ指を捉え握り、それで総司の心を掴んだのだと、埒もない錯覚の中でしか安堵出来ない己の不甲斐なさを嘲りつつ、それでも土方は、包み込む手のひらに力を籠めた。

是ほどまでに、総司が自分に抗うのは初めてだった。
だがその根底に流れるものが、置いて行かれる恐怖の裏返しにあると知るだけに、こうして頑なさを貫こうとする姿を見せ付けられれば哀れさが先に立つ。
行きたく無いのではない。
帰れば必ず離れなければならなくなる時が来る。
ならば此処で要らぬ者だと打ち捨ててほしいと、総司は全身全霊で訴えているのだ。
だがそれすら所詮は叶わぬ駄々と、この愛しい者は承知している。
知っていながら困らせるのは、これが最後の我侭と決めているからなのか――

「宵になったら時を見計らい舟を出す」
ともすれば流されそうに傾く心を封じた物言いには、有無を云わせず命じる強引さがあった。
「伏見までは間もない、其処から千石船に乗り替える。順調に行けば明日陽が昇らぬ内に大坂に着く筈だ。・・・少し辛いだろうが、辛抱できるな?」
従うまでは決して離さないであろう強い双眸に捉えられ、微かに頷く力無き様が、揺れる心を隠し切れない総司の真実を物語っていた。


「副長」
襖の向こうから遠慮がちに掛かった声の主は気配を感じさせず、それ故、誰であるのかが容易に知れた。
一言で存在を露わにしただけで、指示があるまでは又閑寂に身を潜めてしまうのは、常に変わらぬこの男の特徴だった。
まだ闇が大方を支配するような早朝とも未明ともつかぬ時に遣って来、今日の土方の来訪と総司の身を大坂に移す事だけを告げ、そのまま伏見に取って返していた山崎が再び戻ってきたのだった。
それが・・・
此処を離れるまでは、もう残す間も無いのだと総司に知らしめる。
これから下る川の流れのその先にある自分の姿が、土方と離され、狂い出しそうな孤独の中へ置き去りにされる幻影となって迫る。

時を止めたように此方を凝視しているその総司を、土方も又物言わず見ている。
瞬きもせずにいる瞳が何を捉え、何を思っているのか――
切ない程に熟知しながら、それをどうしてやる事も出来ず、むしろそう強いた己から目を背けるように土方は立ち上がった。

「直ぐに戻る」
告げて向けた背を、今度は瞼を閉じずに、総司は見送った。




残された室は、誰の存在も知らずにいた時よりも余程に広く感じる。
十分過ぎる程にとられている暖すら、肌に温もりを感じる事は出来ない。

何故。
独りは嫌だと言えなかったのだろう。
出て行ってくれるなと、袖を引くことができなかったのだろう。
違う。
置いて行かれるのは嫌だと――
一言だけ、恨みの言葉を伝えられなかったのだろう。
もうどうにも出来ないのだとは知っている。
いずれ違う世で待たねばならぬ日がやってくるのだと、そんな事は最初から分かっていた。
けれど同じ世で、例えそれが瞬きする程の僅かの間でも身を隔だつのは堪えられない。


「・・・嫌だ・・」
僅かに漏れる息に隠して本当の心を言葉にした途端、慌てて閉じた瞼も間に合わず、こめかみを滑り伝うものがあった。

この時が来ても決して追ってはならないのだと、行く背を笑って見送るのだと、そう戒めてきた筈が、いざとなればこんなにも心弱い無様な自分でしかいられない。
そんな様を嘲笑うかのように、零れるものは止まらない。

ひとつも云う事を聞かない身体への、せめてもの抗いのように、総司はきつく唇を噛み締め、骨だけが浮き出た手の甲で、閉じた瞼の上を覆った。










                きりリクの部屋    雪 (下)