・・・・さてとふと見れば立派なる黒き門の家あり。訝しけれど門の中に入りて見るに、大きなる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり。其庭を裏の方へ廻れば牛小屋ありて牛多く居り、馬舎ありて馬多く居れども、一向に人は居らず。・・・・奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。・・・・・遠野には山中の不思議なる家をマヨヒガと云ふ。マヨヒガに行き当たる者は、必ず其家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。其人に授けんが為にかゝる家をば見する也。

(柳田国男 遠野物語 六拾参・六拾四『マヨヒガ』より)



けむるけむる桜雨
いざやいざや濡れ行かん

みずとばりの向こうに映りしは
現にありて泡沫のまぼろし

さればされば惑わされん
今宵ひと夜は胡蝶の夢

朧なり朧なり







50000打御礼   Ryoさまへ



桜 雨 -sakuraame- 壱





花街の踏み入り端には、つい其処で足を止めてしまうような、大きな桜の木がある。
今が盛りと咲く花は、我が身に与えられた束の間の宴の時を知っているのか、夜目にも一層艶やかな姿態を誇らせ、それが闇を薄ぼんやりとさせている。
時折、辺りを憚らぬ賑やかな声が興るのは、生ぬるい風に乗った甘やかな匂いが、酔客を更に惑わせ、現の行儀など忘れさせてしまう所為なのかもしれない。
そのうちのひとつである、建物の玄関を少し離れた軒の下。
全てが浮かれた華やかさにある中、其処だけが異質な空間を作っている暗がりに、先程から総司は、黒い格子を背に身じろぎもせずに立っている。

土方に言付けを頼んでから、まだそれ程の時は経ていない。
伝えてくれるだけで良いのだと頼んで帰るつもりが、女主人は気をきかせたものか、執拗に座敷に上がって欲しいと総司を促した。
だがどうしても帰ると譲らぬ相手に、今度は土方を呼んで来るから待っていて欲しいと言い出した。
そこまで云われればもう断る理由も見つからず、結局曖昧に頷きはしたが、白粉のむせる煌びやかな耀(あかる)さの中にいる事には耐えられず、それならば外で待っていると、慌てて出て来てしまって今がある。
店の者が幾度と無く覗くのは、大事な客の連れ合いを夜風に当たらせている事への気苦労だろうが、そうされる度に、自分の頑なさを顧みられているようで、居たたまれない思いが総司の裡を走る。


――言付け自体は、大したものではなかった。
今宵この上七軒での酒宴の席に招かれていた客のひとりから、腹を下して夕方まで様子を見ていたが、どうにも治りそうにないので失礼をしたいとの文が届いた。
当人も際まで粘っていたらしく、使いの者が来たのは、既に近藤も土方も出かけて小半刻も経てからだった。
まだ見習いに席を置く隊士でも十分に事足りるそれを、丁度八郎の居る二条城北の所司代屋敷に行く処だったからと、さり気無い風を装い自ら使者に立ったのは、総司の裡に、上七軒と云う名を聞けば、抑え難い葛藤があったからだった。

上七軒には、嘗て土方の馴染みがいた。
誘われれば祇園や島原にも繰り出してはいたが、決まった妓が居たのは上七軒だけだった。
共に花街通いをしていた永倉や原田が、芸妓の名を挙げては土方を揶揄していたのを聞く度に、胸を締め付けられるような息苦しさに襲われていた日々は、今も総司にとってまだ過去には成り得ない。
そんな片恋の重さに押し潰される際を見計らったように、天がこの想いを土方に通じさせてくれたのは、昨年の秋の事だった。
だが未だそれが現と信じる事が出来ない心は、今度は嫉妬と云う魔物に成り変り、昼に夜に責める手を緩める事無く、総司を苛み始めた。
新撰組副長として花街に赴く事は、決して珍しい事ではない。
むしろ土方はそう云う機会を、名を売り込む場として積極的に利用している節がある。
が、そこまで物事を怜悧に割り切る事の出来る人間が、殊更上七軒だけは外すようにしていたのは、自分の心情を気遣ってくれての事だとは、総司も薄々感ずいてはいた。
だがその土方が、身を重ねてから初めて、今宵上七軒に足を向けた。

土方を信じていないのではない。
来てどうとなる事でもない。
そんな事は承知している、それでも自分を抑える事ができなかった。
廓の玄関から漏れる灯りは、伏せている視界の隅々までを、遠慮無く侵す。
それが、つまらぬ猜疑心に負けて、矢も盾も堪らず此処まで来てしまった自分の愚かしさ、醜悪さと不釣合いに目映い。
こんな自分を見たら、きっと土方は呆れるだろう。
否、こんな自分だからこそ、土方に見せたくはない。
待つ時は、それが長くなればなる程、総司に自分を取り戻させ、今度はその感情の落ち着きが、心に怯えを呼び起こす。
土方の顔を見る前に、帰らなければならない――
遂に堪らなくなり踵を返そうとしたその刹那、不意に後ろから覆い被さるようにして前を暗がりにした影が、ただ明るいだけだった地に人の像を作った。

「どうした」
咄嗟に振り返り、驚きに瞠られた瞳が捉えた主の声は、常と変わらず低い。
「・・すみません」
「何を謝る?」
思わずついて出た詫びの言葉は、自分の卑しさに引く総司の狼狽がさせたものだったが、その心の襞が分らぬ土方は、怪訝を露わにして問う。
「あの・・、用事はもう伝えて貰った通りなのです。だから・・」
自分は帰る処だったのだと告げる前に、無言で此方にやって来る土方の勢いに呑まれ、続けられる筈の言い訳が、消え入るように途切れた。
「帰るぞ」
だが土方は総司の動揺など素知らぬように、店の者が差し出した提灯を受け取ると、一言云い置いただけで、後はもうついて来ると信じて疑わず、ずんずん歩を進める。
総司は暫し、先行く広い背を唖然と見ていたが、その後姿が段々に遠くなり、やがて闇に紛れてしまうまで小さくなるや漸く現に戻り、次の瞬間には、何を思う間もなく、絡め取られたように動かなかった足が慌てて地を蹴った。




「土方さん・・」
漸く追いついても、ただでさえ足の早い土方と歩を並べるのには、初めの内は小走り加減を余儀なくされる。
「わざわざこんな夜に出て来るばかが居るかっ」
乱れる息の主の歩みに、歩調を緩めて合わせてやりながらも、土方の最初の言葉は激しい叱責だった。
何故叱られるのか・・その意図を判じかねた深い色の瞳が、正面を向いたままの端正な横顔を見上げた。
「身体を休めるようにと、云ってあった筈だ」
視線を察し、一瞬だけ向けた三白眼が、心底怒っていた。
「けれど今日は暖かいし、別に何処も悪くない」
だが応えた総司は、土方の不機嫌の真相が分かり逆に安堵したのか、柔らかな笑い声が、ふわりと宵闇に遊んで消えた。
しかしその安穏ないらえを聞きながら、益々膨れ上がる苛立ちを抑えるには、最早己を沈黙に沈めて蓋する他無く、土方は返事もせずに先へと歩を進める。
ちらりとでも視線を流した途端、待っていたように返るであろう笑い顔を見れば、即ちそれが己の負けと、顰める顔には必要以上に力が籠もる。
が、総司にはこうして二人で道中する事自体が嬉しいようで、いらえの戻らぬ不満を訴えるでも無く、崩さぬ仏頂面の横に並び、黙って歩を刻んでいる。
そんな姿をいとおしいと思いはすれ、想い人の己の身への無防備さは、常に憂鬱の内から自分を解放してはくれず、土方は心の裡だけで諦めの息をついた。


――総司の胸に巣食う宿痾は、こんな季節の変わり目を好み、攻撃を仕掛ける隙を常に狙っている。
今夜のように生ぬるい風は湿り気を多く含み、それが叉病には恰好の味方となる。
外気に触れて良い事など、ひとつも有りはしない。
賑やかな宴の途中で受けた言付を、誰が持ってきたのかと、何気に店の者に問うてその名が返った時、土方は一瞬自分でも顔が強張るのが分かった。
後の座を近藤に託し、外で待っていると云う総司の元へと、廊下を走るように渡り、やがて建物の、丁度死角になる暗がりで、見紛うこと無い華奢な身を見つけた瞬間、言葉を掛けるよりも早く、足は其方に踏み出していた。
だがあの時自分を突き動かしたのが、総司の身を案ずる苛立ちでは無く、他にもっと激しい感情であったのを、土方はまざまざと思い起せる。
佇む姿は酷く寂しく、気配に気付いて振り向いた面輪はあまりに儚げで、己の腕にしかと掴まなければ、幻と闇に消え行きてしまいそうだった。
そして何よりも――
総司を他愛も無い使いに自ら買って出させた唯一の原因が、此処が上七軒であると云う事情ならば、それは土方を、狂気にも似た悦びと愛しさへ駆らせる。
想い人の拙い嫉妬は、そのままこの者が己のものだとの証となる。
だからこそ、何故此処まで来たのだと、そのいらえを総司の口からどうしても言わせたい衝動が、先ほどから土方に、聞かぬ駄々をこねさせている。


「お前・・」
遂に辛抱の枷が外れて漏れた言葉が、しかし不意に途切れたのと同時に、土方の足までもが止まった。
同じように立ち止まり、不思議そうに見る総司の瞳の中で、土方は掌を開いて上に向け、其処に何かを受け止めるようにしていたが、直ぐに握り締めて拳を作ると、今度は天を睨んで渋面を作った。
「もう降って来やがった」
引き締まった唇から、忌々しげな呟きが零れた。
だが朧な月を隠した厚い雲からの滴は思いの他大きく、やがて冷たい飛礫は、地に居る者に後悔する暇も与えぬ勢いで落ち始めた。
まさかこれ程早く降ってくるとは思わなかったから、傘も借りては来なかった。
しかも会話の無い道のりは、黙々と歩く分、思いの他遠くまで来てしまったようで、上七軒は本降りになる前に戻れる距離では無くなっている。
更に上七軒自体が、都の外れに在ると云う地理がこうなれば災いをし、駕籠を拾おうにも、往来には人の影すら見つける事が出来無い。
だが総司を雨に濡らす事は、極力避けねばならない。
万事が後手後手に回った己の読みの甘さが、舌打ちするでは足りない焦燥へと、土方を追い込む。


「・・土方さん」
下手をすれば罵声でいらえの返ってきそうな気配に臆したのか、暫しもの言わず土方の様子を伺っていた総司の唇が、躊躇いがちに動いた。
「あそこに・・」
声を掛けられ漸く振り返った主の視線を促すように、雨雫を滴らせた細い腕が、先の一点を指して真っ直ぐに伸ばされた。
「あそこを借りれば、雨宿りが出来る」
言い終えて見上げた顔が、案ずるなとばかりに笑っていた。

骨ばった指が示した其処は、脇の民家も途絶えた田舎道にある建物にしては、あまりに似つかわぬ大層な威容だった。
人の背丈よりも余程に高い土塀は、夜の帳に半ばを隠しているが、何処まで続いているのか想像するのも難しく、其処から枝垂れた桜の花弁だけが、闇に仄かな白を浮かべている。
その門の庇を借りて、暫時の雨を凌げば良いと、総司は言っているのだった。
「お前にしては上出来だったな」
見つけた事への褒美を揶揄する笑いに代えて、漸く土方の面にも安堵の色が浮んだ。
だがそれに不満を返そうとする間もなく、強く右手首を掴まれたと思った時には、総司の足は、引かれる勢いのまま、土方に続いて走り出していた。



――頑丈な門構えの庇は、ふたりの人間の身をすっぽり隠してしまっても未だ余りあり、雨を横に薙ぐような酷い風さえ吹かねば、飛沫すら届かぬ程に長く突き出ていた。
遠くから見た時も、稀に見る大木と分かった桜の木が、塀を越えるだけでは飽き足らず、庇の上からも覆い被さるようにして、花をつけた枝を垂れさせている。

「桜だ・・」
雨を纏い、更に重そうにしているそのひと枝に手を伸ばし、思わず唇から漏れ出たのは、闇に息吹く花の艶やかさに惑わされた、総司の感嘆の呟きだった。
「珍しい物でもないだろう」
土方の皮肉など聞えぬのか、総司は暫し露を滑らせる度に鮮明となる花弁の彩を面白そうに見ていたが、此処で雨宿りを決め込むと思っていた土方が、突然門の脇の潜り戸を叩き始めた音に、驚きの瞳を向けた。
「土方さんっ」
掛けた声には、無遠慮を咎める響きが籠もる。
まだ宵の口を少し過ぎた頃合ではあったが、それでも夜中見知らぬ屋敷の門を叩く行為には臆するものがある。
「雨なら此処で凌げる。そんなにしたら家の人に迷惑がかかる」
「朝まで上がらぬ雨など待ってはいられるか、これ程の屋敷ならば駕籠を呼ぶ手間も大した事ではあるまい」
窘め止める言葉も意に介さず、屋敷の中からのいらえを求めて、土方は木戸を叩き続ける。
だがその手が不意に止るや否や、門の向こうからやって来る気配に、更に唇を開きかけた総司も、一瞬にして神経を其方に向けた。
足音は、泥濘に立てる音すら忍ぶように、静かに此方にやって来る――


「何方さまでございましょう」
やがて一枚板を挟んで掛けられた声は、突然の無礼を然程咎める風でも無く、外の者に慇懃に問うた。
「途中、雨に遭って難儀している。夜分にすまぬが、駕籠を呼んでは貰えないだろうか」
「それは大変でございましょう。・・生憎この屋敷の主は今宵留守にしており、今は私一人だけでございます。私は当家で働く者ですが、老いてそのような気働きができませぬ。ですがそれでお断りをし、難儀なさっている方を帰したとあらば、後で主に叱りを受けます。宜しければ屋敷の中で、雨が上がるのをお待ち下さい」
云い終わらぬ内に開けられた戸の向こうに、少し腰を屈めた初老の男が立っていた。
「それでは貴家に迷惑が掛かる。それにこの雨は、朝まで上がらぬ」
思いもよらぬ申し出には、流石に土方にも躊躇するものがあったらしく、ついて出たのは遠慮の言葉だった。
だが男は、大仰に頭(かぶり)を振る。
「ならば朝までおいで下さい。主は明日昼過ぎにならなければ戻りませぬが、貴方さま方をお泊めした事で、私を叱りはしませんでしょう。・・・それに」
それまで土方だけに向けられていた男の目が、つとその後ろに逸らされた。
「お連れさまが、震えていらっしゃいます。お顔の色も大層悪い」
眉根を寄せて案じる男の仕草につられ、振り返った土方の視線に合い、総司は慌てて首を振った。
「私は大丈夫です」
だが必死に訴える唇が、短い一言を紡ぐのに小刻みに震えている。
「すまぬが、言葉に甘える」
再び視線を戸の内側にいる男に向けると、土方は深く頭(こうべ)を垂れた。





「苦しくはないか?」
案じて問う声に、それが今出来る精一杯なのか、総司は瞳に気丈な色を湛えて頷いた。
厚い夜具に身をくるまれても寒気は止まらないようで、色を失くした唇からは、時折乾いた咳も零れ落ちる。
濡れたのを拭ってやった折に、ほつれ乱れた髪の幾筋かを掻き揚げ額に手をやれば、几帳面に上がって来た熱が掌を通して伝わる。
例えあれだけの雨でも、宿痾を抱えた身はてき面に不調を訴える。
「朝になれば治る」
すまなそうに掛けられた細い声に、つられて向けた土方の視線の先で、つい今しがた眉根を寄せた憂慮を慰撫するように、笑みを浮かべた面輪が、括り枕の上から見上げていた。
「喉が渇いていないか?」
これではどちらが案じられているのか分からないと、胸の裡で苦笑しながら問うた声に、総司は再び微かに首を振り否と応えたが、だがたったそれだけの一連の所作で精も根も尽き果ててしまったのか、一度細い息を漏らすと、静かに瞼が閉じられた。

そのまま眠りにつくのだろうか・・・再び瞳を覗かせる気配は無い。
それを見守りながら、土方は改めて室の風景を見渡した。


――気に止めていなかった訳では無い。
だが総司の様子が落ち着くまでと、敢えて其方に思考を馳せる事を控えていたが、思えば不可思議な事が多すぎる家だった。

外観からある程度の予想をしていたものの、それを遥かに陵駕して、屋敷は敷地も、そして建物自体も恐ろしく広大なものだった。
案内されて玄関からこの室に至るまで、短い間隔で柱には燭架が据えられており、長い廊下を渡って来る時も、足元が危ない事は無かった。
途中、本当に他に誰もいないのかと尋ねた土方に、寡黙な男は、この家は主と自分の二人だけだと繰り返し、それ以上は堅く口を噤んでしまった。
通された室は火鉢に火が良く熾っており、掛けられた鉄瓶の口からは、煮え滾る湯が蒸気となり、湿った音を立てて宙に拡散していた。
十分に取られた暖は、庇うように回した腕の中で、小刻みに震えている総司の身を思えば有り難かったが、予め客をもてなす為に支度をされていたとしか思えぬ心配りは、やはり土方の胸に、消しようの無い不審を植えつけた。
そしてもうひとつ。
通り過ぎて来た室の幾つかは、僅かに襖が開いていた。
歩を刻みながら、視界の端に流れ行くその中の光景は、この室と同じく、まるですぐ間際まで誰かがいたような温(ぬく)い空気を感じさせた。
だが先ほどから、人の姿は影も無い。
それが土方の疑惑を益々膨れ上がらせる。

糸のようにしめやかに降りそぼる雨が、映る彩を透けさせ、花の上を転がる様の心許なさにも似て、落ちつかない夜が次第に闇を濃くして行く中、唯一確かなものを求めるように、土方は眠りに在る想い人の頬に手を伸ばし、その温もりに触れた。



「・・ひじかた・・さん」
夢と現の挟間で零れ落ちた其れは、声になる事は無く、総司の唇を震わせるだけに終わった。
喉の奥深くまで焼けるような乾いた痛みに目覚めて見れば、朧に照らす行灯の明りが、見知らぬ室の様子を瞳に映し出す。
此処は何処なのだろうと、未だ覚醒し切れぬ思考でぼんやりと辺りを探り、求めていた人の姿を見つけた時、漸く総司は安堵の細い息をついた。
土方は柱を背に、抱えた大刀を、前に傾ぐ体を止める唯一の支えにして目を閉じている。
寝入っているのか、いつもならば気配を鋭く察する人が、こうして視線を向けていても、少しも気付く気配が無い。
それを要らぬ心配で疲れさせてしまった自分の所為だと決め付けて、総司は掛けられていた夜具を除けると、水を含んだ綿のように重い身を持て余しながら起き上がった。
眠りを邪魔せぬよう、忍ぶ足音にも神経を張り詰め傍らまで来ると、静かに膝をつき覗き込んだが、目を閉じた土方には何の変化も起こらない。
それに安堵し、けれど少しだけ寂しいと思う自分を叱咤して、総司は暫しそうして端正な横顔を見つめていた。


間近まで身を寄せて、仄かに鼻腔をくすぐるのは、土方の着衣から未だ抜けやらぬ白粉の匂いだった。
宴の華やかさは、時折こうして悪戯な土産を忍ばせる。
――誰の移り香なのか。
触れた処で分かるものでもあるまいに、指は怯みながらも、匂いを立ち上がらせている衣に向かい伸びて行く。

手弱女の手は、何処に置かれ、どんな戯れの動きをつくり、土方を誘ったのだろうか。
甘やかに紡がれる柔らかな声は、何を告げ、何を囁いたのだろうか。
そして土方は、それにどんな風に笑い、応えたのだろう――
それを知りたいと、ただ知りたいと、指先はゆっくりと伸びて行く。

否、そんな優しいものではない。
今自分の裡に逆巻くものは・・・
誰かが土方に触れた跡も、誰かが土方の耳に囁いた声音も、誰かが土方に移した残り香も、――ぎやまんの器を頭上高く振り上げて、強く地に、欠片すら残せぬ程粉々に叩きつけてしまうように。或いは、一辺の切れ端も残さず、糸よりも細く衣を切り裂いてしまうように、――その全てを、この手で払いのけてしまいたいと。
指は先を震わせながら、伸びて行く。

だが遂に指先が、峻厳な面の頬に正に触れんとしたその寸座、それまで一点しか捉えていなかった総司の視界の端に、鋭い光が走った。
その刹那、忘我の淵を漂っていた心が、たちまち現に呼び戻される。
総司は伸ばしていた右の手指を急いで引くと、更に左側のそれで、決して知られてはならない秘め事を隠すように包み込んだ。
自分は何と云う事を、しようとしていたのか・・・
心の臓は早鐘のように高鳴り、その度に胸も背も波打つように揺れる感覚の中、総司はほんの一瞬前の自分を、慄きに震え愕然と振り返った。

土方の重荷にだけはなるまいと、固く自分を戒めて来た。
否、そうなる事だけを恐れてきた。
だから受け容れて貰えただけで、十分の筈だった。
けれどいざとなれば、こうして嫉妬ばかりが先走る自分を、止める事が出来なくなる。
そんな己の浅ましさが、身を切り刻んでしまいたい程に疎ましい。
それでも、誰かが土方に触れるのは嫌だった。
堪えられないと、土方は自分だけのものだと、叫び狂う自分がいる。
・・・いつの間にか恐ろしく強欲な魔物に、自分には成り変ってしまった。

ぼんやりと土方を見る総司の視線の先で、だが今一度、残酷な現を知らしめる鋭い光が反射した。
心の臓の真中に氷の刃を突き立てられたような戦慄の中、ようよう其方に目を遣ると、焔の灯りの届かぬ暗がりに、闇を撥ねて存在を誇示している何かがある。
暫し瞳を細め、総司は必死にその正体を判じようとしていたが、其れが小さな鏡と分かるのにそう時は要らなかった。
相手が生無き鏡と云う物であった事に、ふと安堵の息を漏らした途端、あまりに臆病すぎていた自分の愚かしさに、淡い彩の唇から、思わず声にはならぬ自嘲の笑いが零れた。
だがそのしじまを震わす音無き響きが、皮肉にも土方を仮寝から覚めさせたようで、それまで堅く閉じられていた瞼が不意に開いた。


「・・何をしている」
驚きに動けぬ総司の腕を捉えて問うのは、その直後まで深い眠りにいた者のそれとは思えぬ、鋭い声だった。
「熱は?」
応える暇もなく、もう片方の手で前髪を掻きあげられ掌を当てられれば、もう挙措も言葉も全てを封じられてしまったも同然で、翳された大きな手の下の瞳を瞬きもさせず、総司は息を詰めて土方を凝視している。
「まだあるじゃないか」
無理を咎める声が、不機嫌にくぐもる。
「もう大丈夫なのです。けれど喉が渇いて・・」
咄嗟につけた言い訳は、後ろめたさが先立ち曖昧に途切れた。
「ならば起こせ」
が、土方はその理由を最もなものに受け止めたのか、物云いは幾分和らいだものとなった。

――流石に勢いを失ってはいたが、それでも鉄瓶の下では残り火がちろちろ熾っており、幸いな事に湯も冷めてはいなかった。
それを用意されていた湯呑みに移すと、土方は総司を振り返った。
「総司?」
だが潤いを欲した当人は、夜具にも戻らず薄い背を向け、何処か一点に視線を据えたまま、身じろぎもしない。
「総司」
少し声を大きくして再び呼ぶと、今度は驚き竦んだように、深い色の瞳が向けられた。
「どうした」
「すみません・・」
慌てて詫びた声が、酷く狼狽していた。
「・・鏡か。あんな処にあったか?」
総司が見ていた先に視線を投げかけた土方は、直ぐにその正体を見極めたようだったが、漏れた呟きは不審を露にしていた。
「そんなものを気にするよりも、お前はさっさと床に入れ」
だが叱る声を受けても、総司は暫く動きを止め鏡を凝視していたが、苛立つ土方の手が肩に掛かり強く促されると、やっと諦めたように夜具の中へ戻った。

「あの鏡・・、この家の人のものだろうか?」
骨ばった手指で湯呑み受け取りながらも、総司の神経は未だ小さな異物に捉われおり、見上げて問う瞳が、いらえの返るのをじっと待つ。
「俺たちの物でなければそうだろう」
「けれどそれなら、何故あんな処に落ちているのだろう」
凡そ素気無い声にも負けず、珍しく総司は執拗な食い下がりを見せる。

総司に云われるべくもなく、土方もその置かれ様には訝しく思うものがあった。
改めて見遣れば、鏡は通常婦女子が使用するものよりもずっと小さく、手鏡と云って良い大きさだった。
其れが畳の上に、まるで放り出されたようにある。
そして何より、総司を休ませるのに幾ら急(せ)いていたとは云え、自分が今までその存在に気がつかなかった事自体が、土方にとっては信じ難い事だった。
確かに、不審が多すぎた。

ふと思いついたように突然立ち上がり、鏡に向かって歩き始めた広い背に、驚き見上げた総司が何を云う暇も無く、土方は闇を映している鏡を無造作に拾い上げた。
そのまま再び無言で夜具の端まで来ると、見開かれている深い色の瞳の前に、今手にしたばかりの其れを差し出した。
「気になるのなら、枕元にでも置いておけ」
乱暴な挙措に隠したものは、総司の拘りが身体の不調による神経の昂ぶりの所為と結論づけた土方の、せめてそれを和らげてやれればとの労りだった。
だが意外にも、総司は激しく首を振った。
「これが、気になるのではないのか?」
「違うのです。・・・ただ・・」
「ただ?」
何かを言いかけ中途で噤まれてしまった唇から、更にその続きの言葉を紡がせるよう、土方は先を促す。
「最初から・・・、この鏡があそこにあったのかなと思って。それで気になっただけなのです」
言い終えて浮かべた笑みが、ぎこちなく強張るのが自分でも分ったのか、見つめる土方の眸から逃れるように、総司は夜具の中に潜った。

一気に語られた言葉は、あまりに不器用な偽りと直ぐに承知できたが、それを問い質し処で、堅く閉ざされてしまった唇は、もう真実を口にしようとはしないだろう。
その苛立ちを、まさか手鏡相手に当たる訳にも行かず、我が身を隠すように夜具に包まってしまった想い人を、土方は遣る瀬無く見つめていた。


その土方の吐息を背中で聞きながら、総司はかの人の掌中にある異物に怯えていた。
たかだか手鏡ひとつ。
けれどその小さな鏡は、先ほどの自分の有様を、つぶさに見ていた。
目を瞑りたくなる程に醜悪な心を、夜叉のように嫉妬に猛り狂う自分を・・・

――やがて夜が明け天道の眩い陽が辺りを覆い尽くし、そうして何事も無かったかのように土方と二人屯所に帰れば、きっと全てを忘れる事が出来る。
そう信じる事が、今の総司にとって唯一の逃げ場所だった。
それが少しも早く訪れるよう・・・夜具の端を握り締めていた指の先が白くなるまで力を籠め、総司はただひたすらに祈っていた。










きりリクの部屋    桜雨(弐)