桜 雨 (弐)




「無い?」
訝しげな呟きと共に、座して文机に向かっていた広い背が、ゆっくりと振り返った。
「無いと云う表現には語弊があります。確かに仰られるような屋敷は存在しました。が、屋敷の主は、副長と沖田さんを泊めた覚えは無く、それどころか、昨夜はひとりの来客も無かったと云うのです」

山崎は、此方から求めなければ、自分の意見や憶測と云うものを一切省き、ただ事実だけを淡々と語る。
其れはこの男の持つ、本来の気質による部分も大きいが、そうする事により、相手の思考を悪戯に捻じ曲げない為の配慮でもあった。
それ故土方も、己の疑問を直截にぶつける事が出来る。
「主が居たのか?それでは昨夜留守を預かった者が、まだ伝えていないのだろう」
「いえ、私もそう問いました処、そのような風体の者で、屋敷に仕える者はいないと・・・」
「いないだと?」
流石に不審が勝り眉根を寄せた土方に、山崎は黙って頷いた。


――思わぬ厄介を掛ける事になってしまった家の主は、一夜が明けても帰って来なかった。
昇りきらぬまでも、勢いづいた天道の明るさが、月を透かせる朝まだきの頃合、昨夜屋敷の内に招き入れてくれた男から、駕籠の用意が出来たと遠慮がちな声が掛かった。
それに敏感に反応したのは総司だった。
夜具から起き上がろうとした薄い肩を制し襖を開けて見れば、男は廊下に端座し、通いで使っている下男が朝になりやって来たので、その者を走らせ駕籠を調達したのだと、立ちはだかる土方を見上げた。
結局鏡の一件から、眠る事叶わず、さりとて会話を交わすでもなく、互いに長い無口の時を持て余し、まんじりともせずにいた二人にとって、それは願っても無い申し出だった。
殊に総司は、まるで何かに怯えるように、一刻も早くこの屋敷を辞したい様子を隠しもしなかった。
乗った駕籠の茣蓙を指先で除け、後ろを顧みた土方の視界の中で、見送る男は、数軒先の像すら影となる濃い乳色の霧に紛れて消えるまで、深く垂れたこうべを上げる事は無かった。

揺られて帰る道のりは思った程長くは無く、小半刻もせずに西本願寺にある屯所へ着いた。
だが土方は、自分達の乗って来た駕籠を空では返さず山崎を其れに乗せ、取り敢えずの礼の使者として、かの屋敷へと向かわせたのだった。
そしてつい先ほど、云われるような昨夜の出来事は、当家では預かり知らぬ事との返事を持って、山崎は帰って来た。



「主が居たと云ったな、どんな奴だった」
思えば思う程、不審だけが募る拘りをひとまず後回しにし、土方は思慮の邪魔をせぬよう黙していた山崎を促した。
「人品卑しからぬ風情で、中々の人物と見受けました。歳は三十を少し超えた辺りかと。副長の云われた通り、周囲は閑散とした田舎風景でしたが、帰りに其処から一番近い家の者に聞きました処、くだんの屋敷の主の名は刑部兵部、京でも大層古い家柄の郷士だと云う事です」
「おさかべ?」
「はい、刑部兵部です。副長は朱雀門をご存知でしょうか?」
「東青龍、西白虎、北玄武、南朱雀のあれか?」
「そうです。都を京へと移した時に、東西南北の鬼門を護らせる為に置いた門のひとつですが、元々刑部家は、その朱雀門を護る任を命じられていた家とか」
「苔の生えて来そうな話だな」
吐き捨てる調子で呟いたのは、そうして言い紛らせる事で、脳裏に焼きついた、どうにも禍々しいあの夜の記憶に引き摺られそうになる己を鼓舞する、土方の強気だった。
「確かに溯るのも大変な歴史でしょうが、取りあえず副長達が一夜の宿にした家には、そう云う曰くがあるそうです。ですが屋敷には使用人も多くおりました故、もしかしたら私が帰った後に、昨夜の件を報告した者がいたかもしれません。いえ、主に断り無く勝手な事をしたと、案外口に出せずにいるのかもしれません」
語りながら、珍しく片頬を歪めて笑う様は、この男の常を知る者ならば不自然だけが際立つ。
それは山崎が、己の抱いた疑念の孕む曖昧さに、何処か落着かぬものを感じている所為なのかも知れない。
いらえの最後に漏れた苦笑は、この不可思議な話から、山崎自身も意識して離れようとしている証として、土方は受け取った。
ならば全ては終わった事と、早々に過去にしてしまった方が良いのかもしれぬと、らしくも無い自分の引きの悪さを、土方は胸の裡だけで苦く笑った。
「ご苦労だった。もうこの件はいい」
その土方の心裡を読み取ったように、山崎が無言で頭を下げた。

「山崎」
だが出て行こうとした背を、再び文机に向かった土方が振り返らず呼び止めた。
「この話、総司にはするな」
相手を見ないで命じる声は、先程とは打って変わって低く、否と拒む余地を与えぬ厳しいものだった。
それにゆっくりと一礼するだけで応じ、山崎は静かに踵を返した。



建物の奥まった場所に在るこの一室にまで、道場からの賑やかな声が聞えてくる。
それはものの輪郭をより鮮明にする雨上がりの陽射しの中、何憚る事無く四方に響き渡る。
その現の力強い掛け声を聞くとも無しに耳に入れながら、先程から土方は、筆を止めたままの姿勢で思索に耽っている。

山崎は、あの家の使用人は多いと云った。
それは屋敷の大きさと、丹念に手入れをされていた中の様子から推し量っても、間違い無いだろう。
だとしたら、昨夜の人の気配が、あの男より他に無かった云う事実が、再び土方の疑惑を膨れ上がらせる。
あれだけの屋敷だ。
幾ら何でも寝泊まりしている使用人が、一人だけと云うのは納得が行かない。
そして更に、それら多数の使用人の誰ひとりとして、昨夜泊めた客の事を聞いていないと云うのは、あまりに不自然すぎる。
だが土方は其処までで、己の思考を打ち切った。
不可思議と首を捻った処で、行き詰まるだけの思案ならば、端から仕舞いにした方が得策に相違ない。
それに自分も総司も、こうして無事屯所に戻って来た。
この件に関してはどうにも関わりを避けようとする、己の為体(ていたらく)を苦く笑い、土方はゆっくりと立ち上がった。

早朝に帰って来、延べられた床に横になるなり、総司は精も根も尽き果てたように眠りについてしまった。
それでもそろそろ、目覚めている頃かもしれない。
そんな事を思いながら中庭に遣った視線の先で、翠に射し撥ね返る光の眩さを、土方は少しばかり目を細める事で凌いだ。




「此れを私に?」
「お前の忘れ物だとよ。渡してくれれば分かる筈だと云っていたぜ」
「・・忘れもの?」
「覚えが無いのか?まぁ見れば分かるだろうさ」
無造作に差し出す藤堂から、骨ばった手指を伸ばして受け取った其れは、紫の袱紗に包まれ、総司の手の平よりも少しだけ大振りだった。
だが布の端を落として広げるまでも無く、手を変えられた拍子にその一辺が滑り、中に包まれていたものの正体が露わになった刹那、総司の瞳が驚愕に見開かれ、次の瞬間、凍りついたように身の動き全てが止まった。

「どうした?」
流石に尋常でない様子に気付いた籐堂が覗き込むと、鏡がひとつ、包んでいた袱紗の紫を深く映して華奢な手の内にある。
「鏡か?江戸への土産にでもするつもりだったのか?」
珍しい物を見るようにはしていたが、しかし其れが総司の持ち物だと云う事に、藤堂は少しばかり怪訝そうに問うた。
「藤堂さんっ」
だが悲愴な叫びにも似た突然の声に、藤堂は鏡に据えていた視線を、驚いたようにそれを持つ主へと向けた。
「これを持って来た人、どんな人でしたかっ?」
夜具から身を乗り出し、掛けていただけの羽織が肩から滑り落ちるのも構わず、総司は藤堂に詰め寄る。
「そうさな、歳の頃は五十・・いや、もっと行っていたかもしれない。髪は全て白かったが、存外に背筋は伸びて、物云いは慇懃でしっかりとしていたな。土方さんとお前を昨夜泊めた屋敷の者だと云っていたから、俺も疑いもせずに受け取ったが・・何かまずかったか?」
取り乱すと云うのでは無いが、其れに近い総司の様子に呑まれ、語る藤堂の顔も次第に真剣なものになる。
「いえ、・・・あの、そんな事は無いのです。すみません、驚かせてしまって」
自分を案じてくれる視線に合えば、後ろめたさが先立つだけに、詫びる言葉も切れ悪く口籠もる。
「確かに私のものなのです。あの晩土方さんの処へ行く時に見つけて、それで姉に送ろうと思って買ったのだけれど、ああ云う事になってしまって・・」
咄嗟の言い繕いは、必死であればある程、時にそれが仇となり、皮肉にも相手に綻びを晒してしまう事がある。
今の総司が正しくそうだった。
「だがその鏡、新品って訳じゃねぇな」
「えっ・・?」
「え、じゃねぇよ。ぼんやりも大概にしろよ。そいつは、誰が見たってさんざ人に使われたお古だって分かるぜ。お前の危なっかしさは、そう云う風に簡単に騙されるところだ」
呆れて説教する仕舞に、しかと見極めろとばかりに、藤堂はすいと腕を伸ばすと鏡を指差した。

「・・本当だ」
だが言われて視線を己の手に移した総司は、少しの間改めるように其れを見ていたが、やがて感心したように頷いた。
更に可笑しそうに声すら漏らして笑い出されれば、辛口の意見をした方が詮無くなり、流石に藤堂も諦めの息をついた。
「ともあれ、人の良いのもほどほどにする事だな。俺は見たくもねぇ仏頂面に付き合わされるのは御免だぜ」
言外に土方の存在を匂わせた意地の悪さを、せめてもの置き土産にして、この男の気性そのもののようにすっきりと立ち上がると、藤堂は閉めてあった障子の桟に手を掛けた。

「・・藤堂さん」
が、それを開ける寸座、躊躇いがちに掛かった声に振り向いた藤堂の視界の中で、細い縁取りで造作された面輪が、困ったように見上げていた。
「この事、土方さんには・・」
「黙ってろって云うのか?」
先手を取ったいらえに、申し訳無さそうに総司が頷いた。
「きっと叱られる」
「誉められりゃ、しないだろうな。まがい物を掴まされたとあっちゃ、説教のひとつふたつは覚悟だな」
然もありなんと顎を擦る主を、深い色の瞳が瞬きもせず見つめる。
「確かに・・その方が、面倒が無さそうだな」
やがて尽きぬ思案にも飽きたのか、宙に向けていた視線を戻すと、同情しているのか、それとも巻き込まれるのは御免とばかりに揶揄しているのか、そのどちらとも取れる笑い顔を、藤堂は向けた。
それにつられるよう安堵の笑みが、総司の頬にも浮んだ。


――遠くから聞えていた活気のある掛け声が、いつの間にか止んでいる事にも気付かず、総司は先程から自分の掌にある異物を見つめ、息すら止めてしまったように身じろぎしない。
丁度周りを縁取る銀の分だけ掌を隠す輪郭は、手鏡と云うには大きすぎ、姫鏡と云うには小さすぎる。
だがこの中途半端な形は、確かに忌まわしい記憶を鮮やかに蘇らせる、あの鏡だった。
そして自分の醜悪な心根の一部始終を映し出されてしまったと、恐怖を覚えさせた紛れも無い代物だった。

それがこうして天道の明るすぎる陽の下で改めて見れば、其処此処にある鏡と何ら変わりなく、こんな他愛も無い道具にどうしてあれ程怯えたのか、その時の自分の心の有り様が、総司には分らなくなる。
鏡は床の間でも無く、室の隅にあった乱れ箱の中にでもなく、畳の上に、まるで飽きた玩具のように無造作に放り出されていた。
だから屋敷の者が、あの室で一夜を過ごした自分の落とし物だと思い違えたとしても、何の不思議も無い。
それに話から察するに、藤堂に此れを託したのは、どうやら昨夜案内してくれた初老の男らしい。
きっと大事な物と思い、親切に後を追い届けてくれたに違いない。

拘りの全てを、芽吹く季節の力強い陽射しの中で結論つけようとしている強引さは、あの時の慄きの名残から、未だ解き放たれない自分の心の弱さだと総司は知っている。
しかしだからこそ、少しも早く、そして土方に分らぬように、此れを返しに行かねばならない。
総司はゆっくりと五つの指を折り曲げると、己の秘め事を隠し込むように、手の平の小さな鏡を包み込んだ。




「・・もう・・」
啜り泣きにも似た忍び音は、噛んだ手の甲の隙をぬい、密やかに漏れ落ちる。
覆いかぶさる者の背に爪を立て、許して欲しいと懇願しても、内に潜んだ土方は、思うがままに蹂躙し飽く無く攻め立てる。
それどころか総司の下肢を拘束していた両腕を、腰と背に滑らせるや否や、その勢いのまま薄い身体を床から持ち上げた。
突然宙に浮いた心許ない感覚に、堅く閉じた瞼がうっすらと開かれ、雫を滴らせるに終始していた瞳が覗いた。
だが執拗な愛撫に、或いは内から直截に与えられる激しい刺激に、半ば朦朧とした総司の思考は、己の身がどのようになっているのかを直ぐには判じる術を持たない。
「・・あっ」
それを探る間も無く、雷(いかずち)のように脳髄にまで達した衝撃に思わず声が漏れ、大きく見開かれた双つの瞳は、像を結ぶ事敵わず虚ろに彷徨う。
やがて滲む視界の中で、自分の目線の下に見上げている土方の眼差しを見つけた途端、抱え起こされた己が身は、かの人の膝の上にあるのだと知るや、総司の項も頬も足の指先も、隠すもの何ひとつ纏わぬ裸身の隈なく全てが、一瞬の内に鮮やかな朱に染まった。
「・・いや・・だっ・・」
羞恥の限界に、せめて動きの利く上半身を捩り抗っても、ふたつ身をひとつに重ねて互いの熱を溶け合わせた其処からは、貫くように間断ない刺激が這い上がる。
堪えられず逃れようと浮く腰は、すぐさま強い力に引き戻され、その都度薄い胸は大きく波打ち、更に深く土方を受け容れる。
初めて深淵を穿たれる鋭い痛みは、しかし吐く息の幾つかを数えぬ間に、たちまち荒々しい悦びにすり変わる。
だが残酷で甘やかな責め苦に乱れまいと、必死に足掻く愛しい者の姿こそは、極限にまで追い詰めてしまいたい可苛心で、土方の理性を奪い去る。
平坦な胸の、其処だけが白で無い仄かに異な彩りに舌を這わせれば、華奢な腰が背が喉首が、ひとつ弦のように弓なりに撓る。
更に腰を支えていた手指を滑らせ、秘めやかに湿った欲情の証を包み込めば、内からも外からも棘の蔦で絡め取られた身は息を止めて硬直し、膚を粟立たせるようにして震え始める。
やがて土方の指が、捉えた昂ぶりに戯れを強くした刹那、短い悲鳴が噛み締めていた総司の唇を戦慄かせ、一瞬にして弾けた薄い身体が、支えられていた腕の中でがくりと崩れ折れた。
同時に強く絡め取られた土方自身も又、堕ちて来る身に逆行し、滾りの限りを深く解き放った。

――静かに倒され行く感覚すら、半ば現に無い意識は朧なものに思わせるのか、総司はされるがままになっていたが、背が床につけられ、土方がふたつ身に戻ろうとした寸座、瞳を閉じた面輪が辛そうに歪められた。
昂ぶりが弾けた後ではどんなに気をつけても、身を分かつ時、受け容れている側に、引き摺られるような一瞬の苦痛を伴う。
せめてその幾らかなりとも辛さを和らげてやりたいと、土方の唇が、きつく結ばれた想い人のそれを塞いだ。
それでも総司は首を振り抗う仕草を見せたが、微かに開かれた隙から舌先を滑り込ませると、濡れた熱が躊躇いがちに絡み付いて来る。
唇を重ね合わせながら静かに土方が身を引き去ると、初めて総司の瞼が細く開き、雫を溜めた深い色の瞳がその奥から覗いた。


「・・こんなのは、いや・・だ」
戒めを解かれた唇から、荒い息を繰り返し見上げる瞳は、揺れながらも強引な所業を責める。
「こんなの、とは?」
額に玉している汗を指で拭ってやりながら、問えば怒らせると承知して囁く自分に、土方は胸の裡で苦い笑いを禁じ得ない。
それでも今一度塞いでしまいたい唇から、敢えてそれを言わせてみたいと願う思いの強さが、己の稚気を窘める殊勝さなど、とっくに何処かへ押し遣ってしまう。
だが欲するいらえは中々戻らない。
「悪かった」
束の間の沈黙の後、やがて薄闇に響いたのは、低い笑い声だった。

勝ち気に睨む瞳が徐々に潤み出し、言葉ひとつも紡げず無言で責め立てられれば、もう其処で負けを認めざるを得ない。
否、負けると承知で、同じ所業をあざとく繰り返す自分には、最早呆れが先立つ。
この者を腕(かいな)に捉えれば、激情の迸るままを止められなくなる己の堪え性の無さに愛想を尽かしつつ、それを誤魔化すように、土方は褥に散らばる黒髪を指で掬った。

「意地をしたな」
揶揄して詫びる声の軽さとは裏腹に、向ける眼差しはひどく真摯で、そうなれば今度は土方の意図を掴みかねた深い色の瞳は、あからさまに狼狽し不安定に揺れ動く。
「もう怒るな」
だがそんな弱気を見せられれば、又も艶な誘いをかけて、この面輪を困惑と羞恥で染めさせてみたいと、聞かぬ駄々は暴れ出し、それを抑えるには呆れる程酷な辛抱を、土方は己に強いなければならない。
「怒ってなどいない・・」
その土方の心など知らず、想い人の腕は躊躇いがちに伸びて来る。
肩に触れようとした指先を取り己の首裏に回してやると、それに勢い付けられたように、総司が渾身の力で縋り付いて来た。
「怒ってなどいない」
「・・分かっている」

怒らせ、戸惑わせ、果ては心まで揺らし・・それでも満足の欠片も得られぬ自分は、一体何をしているのか。
己の事など疾うに知り尽くしていた筈の自分が、この愛しい者には一切の手加減容赦の出来無い不可思議を持て余し、だが尚も強欲に、土方は総司を抱く腕に力の限りを籠めた。


――欲情の滾りを解き放った後の、互いの肌から分かち合う温もりは、余韻を通り越して更なる昂ぶりを生む。
だがこれ以上は、この脆弱な身には障りになる。
ともすればその箍すら外し走り出そうとする己をどうにか抑えつけ、巻いていた頼りない腕をゆっくりと外した土方の視界の端に、ふと神経を其方に逸らさせる何かが映った。
が、その土方の様子を察した総司の面輪が、みるみる強張る。

「・・・あれは・・」
「あの時の鏡か?」
褥に組み伏された恰好のまま、言い訳するより先に、土方の鋭い観察が、床の間の違え段の上にある紫の袱紗の中身を看破した。
「持って来たのか?あれを」
視線を下に在る者に戻して問う声が、訝しげに先を促す。
あの時総司は、小さな手鏡ひとつに尋常でない反応を示した。
それ故その総司が、まさか其れを持ち帰るとは、土方には信じ難い。
その不審が、つい詰問するような厳しさになる。
「違う。・・・私の忘れ物だと勘違いして、あの家の人が届けてくれたのです」
「あの家の者?俺達が会った初老の男か?」
「直接受け取ってくれたのは藤堂さんだったのです。・・けれどきっとその人だと思う。話してくれた様子が似ていたから」
土方の双眸に捉えられ、総司の声が語る内に小さくくぐもる。
「明日、返して来るつもりなのです」
押し黙ってしまった土方に笑みを向け、敢えて明るく言い切ったのは、一刻も早くこの話題から遠ざかりたいと願う、総司の急(せ)く心がさせたものだった。
「それはお前がしなくてもいい」
だがそれへのいらえは、叱るように低い声で返った。
「でもっ・・」
「山崎に行かせる」
否と拒む事を許さぬ強さで一言云い置くと、あとは無言で身を起こし、改めて室の隅にある紫の袱紗を見る横顔は険しく厳しい。
その土方を、総司はただ戸惑いの中で見つめていた。





都と云えど、上洛して直ぐに屯所を置た壬生界隈は、四方を田畑に囲まれ、その中に八木家のような郷士屋敷が点在していると云う、田舎の情景を色濃く残していた。
総司はその懐かしい地に、今歩を進めている。

これならば出稽古に向かった多摩や日野と大して変わりはないと、間借りしていた家人の前で、悪びれる風も無く言ってのけた原田の明け透けさに肝を冷やす思いをしてから、まだ幾年も経てはいない。
だがその僅かな間の目まぐるしい変化は、自分と云う人間を何と変えてしまった事か。
生きとし生けるもの全てが静かな眠りに身を置き、薄闇に朝の活気を閉じ込めている閑寂な道を行きながら、総司は視界の後ろに流れ過ぎる懐かしい風景に、そんな思いを馳せていた。


――手鏡を山崎に返しに行かせると昨夜告げた土方は、早々にそれを実行に移すだろう。
だから山崎が取りに遣って来るよりも早く、夜明け前に、総司はくだんの鏡を胸の袷に入れ屯所を抜け出した。
何故かこれを、人の手に託したくなかった。
それは物言わぬこの鏡に、嫉妬の修羅に狂う自分を見られてしまった事への、あまりに頑是無い総司の負い目だった。
誰にも知られぬよう、早く遠くへ退けてしまえば、斬り捨ててしまいたい醜悪な自分から、きっと解放される。
子供騙しにもならない哀れな錯覚を、だが唯一の拠り処として、総司は信じている。
求めて止まない土方への想いは、その激しさと背中合わせに、臆病な心をも植え付けた。
そして今自分を突き動かしている正体こそが、土方恋しさのあまり燃盛る、嫉妬の先にある哀れだと、恋情の焔に目くらましされている総司は知らない。


壬生を抜け、どの辺りまで歩いて来たのか・・
夜の気配は既に何処にも無く、その代わりに、しらじら明けの白い霧がうっすらと立ち籠め始めていた。
つと足を止め、来た道を振り返った視界の果てに、靄の中、黒い塊(かたまり)が輪郭を朧にしてその威容を浮かべている。
其処が二条城と確かめると、総司は再び先へと視線を戻した。

三日前の朝、あの屋敷を辞して駕籠に乗る直前に、ほぼ真東の位置にやはり同じ影が在った。
だから二条城を背に西へと行けば、あれだけの大きな屋敷、きっと見つける事が出きるだろうと、それが総司の手がかりであり頼りでもあった。
土方に知られないように事を終えるには、馬で往復するのが得策だったが、それでは地理の感覚が今ひとつ不確かなものになる。
それ故敢えて徒歩で来たものの、目当ての屋敷はまだ見つからず、途中の民家で尋ねようとも、眠りにいる人たちを起こして迷惑を掛ける訳には行かない。
しかしあまり時が過ぎ、屯所に戻るのが遅くなれば、土方に気付かれてしまう。
霧中に立ち尽くしたまま、自分の浅慮愚かしさを幾ら悔やんでも、屋敷が現れてくれる訳では無い。
引き返す他ないのかと、諦めの小さな息をついた寸座、総司の内にある全ての神経が、一瞬逆立つようにして硬く張り巡らされた。

――しじまの向こうから、確かに人の気配が近づいて来る。


白い帳の中、影はゆっくりと此方に歩んで来、やがて顔かたちは分からぬまでも、全身の像を判別出来る処で立ち止まった。

「此処は既に当家の敷地だが、はて、何方であろうか。迷い込んだのならば致し方が無いが、仇名す者ならば手加減はせぬ」
太い声が厳しさを孕み、露に変わりつつある朝霧を震わせた。
「すみません。どなたかの家とは知らず、迷い込んでしまいました」
慌てて詫びる総司の様子に、籠めていた相手の殺気が解かれたが分った。
「それならば咎めはせぬ。・・が、このような早朝に、迷い人とは珍しい」
声の主は静かな物云いに笑いを含み、更に一歩前に進み出で、その姿形の全部を現した。
歳は土方と同じ位なのだろうが、ゆったりとした風情がこの人物を本当の年齢よりも余程に落ち着いて見せている。

「何を探しているのだろうか?」
背丈の関係で、少し視線を下げて語り掛ける男の眼差しが、更に和らいだ。
「夜の事で、他に手がかりを覚えてはいないのですが、この近くで、立派な黒い門のある家をご存知ないでしょうか?・・・見事な枝垂れ桜がある家のですが」
記憶の端に残る光景を丹念に手繰り寄せ、目星となるような事柄を思い起こして伝える総司の視界の中で、男の口元が緩やかに解かれ、直ぐにそれは親しげな笑い顔になった。
「多分、お探しの家は当家の事と思われる。門塀はただ古いだけで然したる物ではないが、その枝垂れ桜は毎年春を忘れず、主の目を楽しませる律儀もの。ご覧になればより確かに思い出す事が出来るだろう。私はこの屋敷の主、刑部兵部と申す」
「・・あるじ」
驚きに瞠られた深い色の瞳に向かって、男はゆっくりと頷いた。
「申し遅れました。私は沖田と申します」
「春とは云え、朝霧の湿り気は身体に良いものでは無い。探しておられたのが当家ならば、すでに貴殿は客人。用件は屋敷でお聞きしよう」
名乗る事を失念し、それを恥じて耳朶まで朱に染め、俄かに声音を硬くした若者に、慕わしげな眼差しを送りながら、総司の唇がいらえを紡ぎだそうと動く前に、刑部兵部は広い背を向けて先に歩き出した。

その後姿を瞳に映しながら、総司は困惑の中で立ち尽くしている。
霞み立つ春暁と云う風情は既に無く、辺りはいつの間にか強い光に覆われ始めていた。
西本願寺にある屯所の中も、もう朝の活気で賑わい始めている頃だろう。
そして土方も、とっくに起きている筈だった。
否、もしかしたら既に山崎に、遣いの件を託しているのかもしれない。
いずれにせよ、もう密かに抜け出した事は知られてしまっている。
その叱責を憂える訳ではないが、落ち着かなさに我知らず胸にやった手が、ふと堅いものに触れた。
それが件(くだん)の鏡だと思い出した刹那、総司の足が、前を行く姿に向かい地を蹴った。

――これを返してしまえば、全てを仕舞いに出来る。
己の秘密に封印し、深く沈める淵の逆巻きに呑み込まれるように、追う総司の身が、少しづつ刑部兵部との距離を短いものにして行った。






きりリクの部屋    桜雨(参)