桜 雨 (参) 何処まで続くのかと思われる長い土塀の一箇所を越え、見覚えのある桜の大木が、まるで盛りの姿を誇示するが如く、地まで枝をしだれさせていた。 庇の突き出た大層な門も、屋敷の重厚さも、記憶に在るそれと寸分も違わない。 だが何処かがおかしい。 それを言葉にして例えよと質されれば、たちまち窮する。 強いて言うのなら、今視界に入る全てが、先夜見たものと同じでありながらあまりに克明過ぎる、そう応える他術が無い。 花も木も、そして時折聞こえてくる生き物の鳴き声も、確かに其処に生を持って存在すると知らしめる、力強さがあるのだ。 人に語れば一笑に付されるだろうこの感覚を、だが総司は笑う事が出来無い。 それは一度目の情景が夜であった為、これ等の物が実際よりも朧気に記憶に刻まれてしまったのか、それともあの時の自分の心の持ち様がそう錯覚させているのか・・ そのどちらともつかぬ違和感を持て余し、総司は先ほどから室の向こうに開ける中庭を、見るとも無しに視界に入れている。 もうかれこれ四半刻はこうしているのだろうか―― それでも少しも退屈を感じ無いのは、この棘刺すように疼く不可解さを解くのに、あまりに思考を奪われすぎている所為なのかもしれない。 そんな事を思い、改めて瞳に映るものを意識すれば、葉に残る朝露に弾かれた陽が四方に飛び、地にくっきりと光の明暗を作って行く。 その強さ眩しさに目を細めた時、やっと現れた人の気配に、総司の視線が、庭から微かな床鳴りのする方へと向けられた。 「お待たせをした」 形良く引き締まった相貌を心底すまなそうに歪め、刑部兵部は室に入って来た。 「急な面倒が入り、思いもかけず時を経てしまった。どうか許して欲しい」 「いえ、私の方こそ突然で御迷惑だったのでは」 座すなりこうべを下げかけた兵部を、総司の声が慌てて制した。 「いや面倒は当家の中での事。貴方の来訪には何も関係無い故、そのように気に留めて頂いては、返って申し訳なさが増す」 恐縮の極みに追いやられ、細い面輪を困惑に染めている相手を慰撫するように、兵部の顔に柔らかな笑みが浮かんだ。 だがこうして自分以外の人間と会話を交わした事が切欠となり、総司の裡で、再び現が時を刻み始めた。 ふと気付けば、朝の活気に満ちた息吹は、この広大な屋敷の奥まった一室にまで、明るい空気を蔓延させている。 屯所を抜け出した事は、既に土方には知られる処になっているだろう。 その叱責を甘んじて受ける覚悟は出来ているが、今はそんな事よりも、少しも早く鏡を返し全てを仕舞いにしたいと心が急く。 「私の用事は直ぐに済むことなのです。この・・」 胸の袷から紫の袱紗を取り出すと、総司はその四隅を開き、兵部の前に丁寧な仕草で差し出した。 「この鏡を、お返しに来たのです」 「鏡?はて返すとは、如何様な事だろうか?」 畳の上に置かれた異物に一度落とした視線を、又総司に戻して問う兵部の声が、怪訝にくぐもった。 「先日ご迷惑を掛けてしまった折に、私の忘れ物と勘違いをされた家の方が届けて下さったのですが、これは最初から此方にあった物なのです」 「・・当家に、貴方が迷惑?」 総司の言葉を反問した兵部が、それだけでは飽き足らず、眉根までをも寄せて不審を露にした。 「五日前の晩、急に降って来た雨に難儀して、門の軒を借り雨宿りしている処を、此方の方が家の中に入れて下さり、その晩御厄介になったのです」 泊めてくれた好意は、もしかしたらあの初老の男の独断であり、それで主に報告出来ずにいるのかもしれないと懸念すれば、説明する総司の調子も歯切れが悪い。 「さても私には預かり知らぬ事で、何と返事をしたら良いのか分らぬが。・・五日前の急な雨と言えば、確かにその夜、私は留守にしていた。そう云えば・・」 語る途中で不意に何かを思い出したのか、記憶を手繰るように宙に向けていた視線を、兵部がつと総司へ戻した。 「その翌朝、同じ事を云って尋ねて来た客がいたが・・・貴方はその方のお身内なのだろうか?」 「そうです。家の者が私に代わり、お礼に伺ったのですが・・」 それが山崎の事だとは直ぐに承知できたが、兵部の様子から、かの人は敢えて新撰組とは名乗らなかったのだと察し、総司は曖昧に頷いた。 「その際にも家の者全部に問い質したが、誰も貴方達の事を知る者は居なかった。・・何処か他の家と、勘違いされたのではなかろうか?それにそのような鏡も、私には見覚えが無い」 袱紗の中の鏡をちらりと見遣って返った兵部のいらえは、物静かな調子ではあったが、己の言を断固として押し通す強引さを秘めていた。 そして鏡を手に取り、あたかも不思議そうに首を捻る、相手のその見せ掛けの仕草に、総司は言葉を詰まらせている。 兵部の云っている事には、どんなに譲っても納得が出来ない。 確かにあの晩の自分は、体調が思わしくなかった。 だから覚えている事が曖昧なのだと指摘されれば、強く言い返す事に躊躇いはある。 が、いかにせよ、泊めて貰った家を間違えるまで、朦朧としていた訳ではない。 それにあの晩は土方も一緒だった。 記憶に誤りなど有り得ない。 だがそう確信しながらも兵部に食い下がれないのは、それはこの人物こそが偽りを云っているのだと下した、総司の結論故だった。 理由は分らずとも、其処までして隠し通したい事情があるのならば、これ以上問答を続けるのは、自分達に親切を施してくれた、あの初老の男に迷惑を掛ける事になるのかもしれない。 一瞬の逡巡の後、総司が伏せていた面を上げた。 「お世話を掛けてしまったのは、此方に間違いは無いと思いますが、この鏡の事は知らないと仰られるのならば、今日は持ち帰ります。ですがもし家の方で、心当たりがある方が見つかったら、壬生の八木さまのお屋敷に伝えて欲しいのです」 「壬生の・・八木家?」 そう大した距離では無い村の郷士の名を、この屋敷の主は知らなかったようで、困惑げな視線が総司に向けられた。 「八木源之丞さまと仰られます。壬生寺の隣のお屋敷です」 「そのような目安があれば、万が一使いに出る事になっても、迷う心配は無いだろう」 安堵したように頷いた兵部の口から漏れた、穏やかではあるが強かな物言いは、しかしその事実は永劫に有り得ないのだと断言していた。 「そのような事よりも・・・今宵又雨に打たれれば、桜も最後の一片(ひとひら)を散らそう。こうして貴方と知り得たのも何かの縁。昼日中ではあれど、もし宜しければ花見の宴にお誘いしたいのだが」 春の陽射しの長閑けきに添う和やかな眼差しが、眩しげに総司を捉えた。 「申し訳ありません。折角の御好意ですが、直ぐに戻らなければならない用事があるのです」 兵部のゆったりとした様が、皮肉にも、急がねばならない己の身の上を、総司に思い起こさせた。 土方の怒りは承知しているとはいえ、だからと云って腹を据え長居を決め込むまでの度胸は、流石に出来てはいない。 「それは残念な事。だが無理に引止める訳にも行くまい。縁あるものならば、又まみえることも出来よう」 俄かに落ち着か無くなった心を隠せぬ総司の風情に、刑部兵部は、精悍な中にも品よく整った造作の顔(かんばせ)を綻ばせた。 「だが・・・」 ふと目を庭へ移し漏れた呟きは、何処と無くそれまでの調子と違う重いもので、それが総司を不審に誘い、深い色の瞳がつられるように兵部の見ている先へと向けられた。 「出来れば・・桜雨の、再び来ぬ内に」 その機会が有れば良いと笑う兵部に、先程の陰鬱さは既に無く、戻した穏やかな視線に促され、総司も躊躇いがちに頷いた。 天道が高い内は、勇ましい掛け声と竹刀の合わさる音が絶え間ない屯所でも、ふと織る手を止めてしまった機のように、ぱたりとそれが止む時がある。 早々に戻るつもりが、刑部兵部に会った事で思わぬ時を費やしてしまい、帰って来て見れば既に昼前の巡察の当番になっている隊は出払っており、屯所の中はその一時の静けさの中にあった。 覚悟は決めていたものの、いざとなれば、やはり土方の顔を見るのが憚られる。 そんな戸惑いが、副長室に近づくにつれ、進める歩を鈍らせる。 だが不意に後ろから現れた人の気配に、それまでの緩慢な動きが嘘のように、総司が瞬時に振り返った。 そして廊下の先に向けた瞳が映し出したのは、出来れば顔を合わせるのを避けたかった人物の姿だった。 「副長が、待っておられますよ」 山崎烝はすぐ際まで来て立ち止まると、まるで総司の心の奥深くまで見透かしたような、穏やかな笑みを浮かべた。 「・・あの、土方さんはずっと屯所に?」 もしやどこかに出かけたのならば、或いは自分の不在を気付かず見過ごしているのではと、一縷の希(のぞみ)をつい口にしてしまった途端、すぐさま己の愚かさを晒してしまった事に気づいた総司の頬に、みるみる朱の色が上り、瞳までもが慌てて伏せられた。 「副長は沖田さんが戻られるのを、待っておいででした」 だが酷な現は、少しばかり慰撫するような口調で告げられた。 土方の不機嫌を知っているからこその山崎の心遣いは、こうなれば羞恥の際に追い込まれるように、総司にとってはただ辛い。 「すみません、直ぐに行きます」 「あ、沖田さん」 居たたまれず、横をすり抜けようとした総司に、遠慮がちな声が掛かった。 だが足を止め振り向いた面輪を見ても、山崎は思案げに言葉を止めている。 しかしその沈黙の時が、悪戯に相手に不審を募らせるだけのものと気付いたのか、とりなす様な笑みと共に漸く口を開いた。 「もし違ったのならば許して頂きたいのですが、もしや沖田さんは、先日泊まられた家に足を運んでいらしたのでしょうか?だとしたら忘れ物だと届けられた鏡は、もう既にご自身で返されてしまったのでしょうか?」 一瞬固唾を呑んだ相手の表情から、いらえを聞くまでもなく、山崎は事の状況を察したようだった。 「返されては、来なかったのですね?」 念を押す山崎の視界の中で、微かに頷く総司の仕草には、秘め事を暴かれた引け目が先立つ。 「主と云う方に、見覚えの無いものだから受け取る事が出来ないと言われました」 泊めた事実が無いから、家のものでは無いと云い切った刑部兵部の言葉を、流石にそのまま伝える訳にも行かず、曖昧に言葉を濁しながらの語尾が、決まり悪そうにくぐもる。 「そうでしたか、・・つまらぬ事で足を止めをさせてしまい、申し訳ありませんでした。早く副長に顔を見せて差し上げて下さい」 其処から何かを探り出さんと、山崎は暫し総司の困惑の様を見つめていたが、やがてそれも限界だと諦めたのか、和らかな口調が、その場に縫いとめられたように動けぬ華奢な身を促した。 「遅い帰りだったな」 先客の出て行くのを廊下の角で待ち、漸く意を決して敷居を跨ぐや否や、土方は文机に向かったまま振り返りもせず、気配だけで声を発した。 「・・すみません」 応える声は、後ろめたさが大きい分だけ小さくなる。 「鏡は山崎に返しに行かせると云った筈だ」 「でもっ」 抗いの声に、ゆっくりと身を反転させた土方は、見上げた目だけで座れと命じた。 それでも暫し総司は其処に立ち尽くしていたが、段々に強くなる視線に、遂におずおずと進み出で、腰のものを抜き端座した。 その挙措の一部始終を、切れ長の三白眼に仕舞いこむと、土方の引き締まった唇が漸く動いた。 「何故お前は、俺の云う事を聞けない」 「親切をしてくれた人に、お礼を言いたかった。それにどうしても・・」 叱責そのものの厳しい眼差しに、迸る勢いのまま訴えかけた総司の声が不意に途切れ、今度はその先を紡ぐのを恐れるように、ぴたりと言葉が止まった。 自分の本当を、つぶさに見ているあの鏡を他人に託すなど出来ないと、そう打ち明けるのは、総司にとって何を犠牲に強いても出来ない事だった。 疑い妬み、挙句己の恋情の焔で焼き尽くしても尚、土方を自分ひとりのものにしてしまいたいなどとは、例え我が身が塵となり土に還る日が来ても、決して知られてはならない。 「どうしても、何だ」 だがその逡巡の沈黙を許さず、鋭い声が先を促す。 堅く唇を閉じ、瞳を伏せたままの想い人の胸中に去来するものを計りかねる焦燥は、次第に苛立ちを怒りにまで駆り立てる。 「お前はっ・・」 それでも面を上げようとしない頑なさに、遂に短気の緒が切れようとしたその時、隅に重ねてある障子に人の影が映り、それを視界の端に捉えた土方が、一度吸い込んだ息を忌々しげに吐いた。 「歳」 声は意外にも、近藤のものだった。 「いる」 影の正体が誰かを承知していたのか、邪魔された事への当たり処のように、応える土方の声は素っ気無い。 「お前もいたのか?」 後ろ手で障子を閉めながら、驚きの目で見上げた総司に、近藤は厳つい顔を緩め、頬に片笑窪を作った。 「開けといてくれ、鬱陶しい」 その近藤に向けられた土方の仏頂面は、不機嫌を隠しもしない。 「春だからな」 だが返ったいらえの暢気な調子は、そんな事は端から気にも止める風も無い。 ――新撰組を実質的に束ねる存在になってからは、僅かにもその片鱗を見せはしないが、土方歳三と云う男の元々の本質が、苛烈なまでの激しい攻撃性である事を知っている近藤にしてみれば、公務についている時の怜悧な顔が虚で、こうして自分に短気を当たり散らしているのが実に思える。 が、今その的になっているのが、どうやら不器用な程に己を表に出す術を知らない愛弟子らしいとあらば、知らん素振りをして通り過ぎる訳にも行かない。 昔から土方は総司の事となると、傍で見ていても、血を分けた弟と云う言い回しでは及ばぬ程に大事にしているが、その分己の意に添わない事をしての感情のぶつけ方には、箍が外れたように容赦が無い。 全てはこの者を案じ過ぎるが故の事と承知してはいるが、それでもこうして寂しげに項垂れている姿を目の当たりにすれば、つい味方のひとつもしてやりたくなる。 客がいれば後でも良いと思った然も無い用件を、敢えて座敷に踏み込んで邪魔しようと思ったのは、近藤のそんな親心からだった。 「あんたの用事は何だ」 その意図を察してか、土方の物言いは、身内の遠慮の無さで、早くこの場を立ち去れと暗に促す。 「大した事ではないが・・。今宵の上七軒での宴には、日の落ちぬ内に来て欲しいとの使いが、さっき植木殿から届いた。今日は既に腹も具合も心配ない故、じき終わりの桜を、夕闇から宵闇へ移り変わる時の限りに愛でたいと、似合わぬ事を云ってきた。先日お前が途中で帰ったと聞いて、酷く気に止めているらしい」 笑いながら語る主とは逆に、聞くや否や、土方の端正な面が、すぐさま苦々しいものへと変わった。 だがそれよりも近藤に怪訝の目を向けさせたのは、総司の変化だった。 「どうした?」 一瞬硬くなった細い線の面輪が、あからさまな狼狽を隠せ無い。 「・・いえ、何でも無いのです」 「何でも無い事は無いだろう、顔が蒼いぞ。何処か具合が悪いのか?」 慌てて返したいらえも、余計に相手の不審を誘うだけのものだったらしく、俄かに真顔になった近藤の視線が、留められたまま離れない。 「・・先日言付けを頼みに上七軒に行った時に、土方さんに心配を掛けてしまった事を思い出したのです」 漸く付けた言い訳は、多少のぎこちなさが残ったものの、何とか淀みなく最後まで続けられた。 「そうだったな。雨に降られて、途中の家で世話になったのだったな」 頷きながら相槌を打つ近藤の太い声には、慰撫するような柔らかさがあった。 総司は自分の身体を労わられる事をひどく嫌う。 それがこの若者の、見た目を裏切る勝ち気な質から来ている事を、まだ十も数えぬ幼子の時から育ててきた近藤は、十分に承知している。 今も上七軒と云う言葉から、帰りに打たれた雨で風邪を引き寝込んでしまった、脆弱な己の身への悔しさを改めて思い起こし、親しい者達についその感情の乱れを垣間見せてしまったのだろう。 しどろもどろの弁解に籠められた総司の心情を、多少の懸念を残しながらも、近藤はそう解釈し納得した。 「総司、お前はもういい」 二人の話の流れの切り変え時を見計らっていた土方の一言に、伏せていた面輪が弾かれたように上げられた。 退くようにとの口調は、ただ怒りの矛先だけを向けていた先程までのものとは違い、上七軒と云う何気ない近藤の一言で、総司の内面に波立っている筈の不安を宥めるように、幾分柔らかいものへと変わっていた。 だが何か云いたげとも、或いは問いたげとも思える視線は、その土方を暫し無言で凝視していたが、やがてそれも叶わぬことと知ると、総司は再び瞳を伏せ、心の裡を悟られる事を恐れるように静かに立ち上がった。 音もさせず地に染み入る細い雨は、外気に忍び、纏わりつくように肌をも湿らせる。 雨戸を一枚分だけ開け、其処から視界に入いる庭は、草木の影が濃淡を作り、余計に闇を奥深いものにしている。 あれから土方は多忙に身を拘束され、夕暮れ近く、慌しげに近藤と出かけて行った。 ――上七軒。 そう聞いただけで胸掻き毟られる苦しさに苛まれる自分は、もう正気の持ち主ではないのかもしれない。 ならばいっそ激しい嫉妬そのままに、土方の袖を千切れんばかりに引いて縋りつき、其処に行ってくれるなと懇願出来たのならば・・・否、出来るわけが無い。 思っては、即座に諦め、諦めては又願い―― 先程から終いを知らずそれを繰り返している、己の情けなさ愚かしさにはただただ嫌悪が先立つ。 だがどう目を瞑っても、何処へ逃れようと、これこそが自分の本当の姿なのだ。 遣る瀬無い溜息をひとつ吐き、室の中へ動かした視線が、ふと違い棚にある紫の袱紗に止まった。 それに吸い寄せられるように向かう足は、恋慕と悋気が目くらましした情動だった。 布の柔らかな感触とは似合わぬ、中の異物の平坦な硬さに触れた時、総司は一瞬躊躇するように動きを止めたが、しかし直ぐに包みを取り上げると、結び目を作らずにいた袱紗は、手の平の上に置かれた瞬間、自らその端を滑り落とし、内に隠していたものの姿を露にした。 行灯の仄かに淡い灯りすら直角に折り曲げ、鋭く跳ね返す鏡は、入る姿そのものを几帳面に映し出す。 自分の顔貌(かおかたち)はこんな風だったのかと、ぼんやりと見る像は、まるで知らない者のそれに思える。 もう上七軒でも、散る花に往く季節を惜しみ、賑やかな宴が始まった頃だろうか・・・ 一瞬忘れていた思いが、鏡の中の自分を通して不意に過ぎる。 土方に向かい、艶やかな笑みを湛えているのは誰なのだろう。 柔らかく戯れる指は土方の何を捉え、細めた眸は土方の何を見ているのだろう。 何を語り、何処を触れ、そしてそれに土方は―― 「嫌だっ」 思わず目を瞑り、鏡から顔を背けた途端、自分でも驚く程強い声が、唇を戦慄かせ迸った。 「・・いやだ」 今一度呟いた時、頬を滑った冷たいものを、総司は知らない。 嫌なのは・・・嫉妬の苦しさに、息をも出来ず足掻いている自分だった。 春を名残むように降り立つ雨滴(あましずく)のしめやかさが、室の隅までを、深としじまに包み込む。 必死に心に閉じ込めていた奔流が、突然堰切られた衝撃について行けず、暫し呆然と己を失っていた総司の視界の端で、ふと薄闇とは異な光が煌いた。 つられるように、虚ろに向けた目線の先に、掌に握りしめたままの、くだんの鏡があった。 それを覗き込むと、鏡はひとつ像を映し出す。 ――この貌(かお)は、あの夜土方に触れようとした自分のものと、同じものなのだろうか。 否、違ってなどいる筈が無い。 寸分も違える事無く、同じものだ。 燃え滾る情念の焔で身を焦がし、飽かず土方を欲して止まない修羅の貌だ。 総司の脳裏に、己の浅ましい挙措が蘇る。 自分の本当をありのままに映し、しかし物云わずただ静かに其処にある鏡を、慄きの中で、息する事すら忘れたように動かぬ深い色の瞳が凝視していた。 どの位そうしていたのか。 気がつけば闇は更に色を濃くし、辺りを覆う閑寂さは、いつの間にか宵を過ぎて夜の深さを知らしめるものに変わっていた。 それでも総司は暫し手にある鏡を見つめていたが、やがて震える指で其れを袱紗に包むと、足早に室を出た。 一刻も早く、この鏡を自分から遠ざけてしまいたかった。 そして此れをあの屋敷に戻せば、何事も無かったかのように、それで全ては仕舞いに出来る。 強欲で醜悪な自分も、きっと土方から隠し通す事が出来る。 誰かが呼び止めたそれすら耳に届かず、総司は一向止む気配の無い桜雨の中に飛び出した。 「花も己の最後を知って、奇麗なものだな」 駕籠から降り立ち、ふと気付いたように店の玄関先で足を止め、滴の帳の向こうに枝垂れる桜に視線を遣った近藤が、感慨深げに呟いた。 先夜見た時には、咲き誇る艶やかさだけが印象的だった花は、今宵は盛りの中にも、仕舞い際を間近に控えた侘しげな風情がある。 だがそれを横で聞きながら、散る花の様を惜しむ気持ちは土方に無い。 胸にあるのは、あれから言葉を交わす暇(いとま)も無く、顔さえ見ずに来てしまった想い人の姿だけだった。 図らずも近藤の口から、この上七軒での宴を告げられた時、一瞬の内に強張った総司の面輪が、今も土方の脳裏に焼き付いて離れ無い。 たった数日前、自ら遣いを買って出た総司は、どんな思いを胸に秘め、此処までやって来たのだろうか。 不器用すぎる拙い嫉妬を垣間見せた想い人へのいとおしさは、土方の裡で、こうしている間にもみるみる膨れ上がり鎮まる術を知らない。 そうなればつまらぬ宴に時を費やす事すら、腹立たしい。 今にも舌打ちしかねない自分を抑え、近藤の後に続き敷居を跨ごうとした時、つと遣った視線の先、建物の切れ目辺りに、華やかな賑わいと対極を為すような闇の掃き溜りがあった。 あの夜―― 格子から漏れる灯りすら届かぬ其処に、総司はひとり自分を待っていた。 妬いてくれたのかと、揶揄して問うにはあまりに寂しげな風情に、一瞬胸を鷲掴まれた感覚が、あの時と何ひとつ変わらず土方を苛む。 否、愛しい者へ狂おしく滾る想いは、僅かばかりの時を経て、尚鮮烈に、より激しく裡に逆巻く。 「近藤さん、悪いが急用を思い出した」 前を行く厳つい背に声を掛けた途端、出迎えた店の女主人も下足の者も、そのすべての視線が一斉に敷居の前で動かぬ土方に向けられた。 「何を云っているっ」 「前回は相手がすっぽかした、今度は俺が腹下しだ。これで貸し借りは無い筈だ」 慌てる近藤に片頬に笑みを浮かべた端正な顔が、言うが早いか身を翻した。 「歳っ」 止める声にも振り返らず、遂に走り出した後姿が、急速に視界の中で小さくなって行く様に、近藤が困惑と諦めの溜息を吐いた。 ――雨が作り出す霧の帳の向こうに、呆と霞む威容がある。 今朝眼(まなこ)に刻んだばかりの屋敷は、黒い大きな門塀も、其処から垂れる桜花も確かに変わらずそのままにある。 だがこの違和感は、一体何処から来るものなのか―― 敢えて違いを例えるならば、今瞳に映る光景は初めて来た夜の其れと同じで、朝見たものとは違う。 そんな曖昧な言い訳を自分に強いて、総司は門戸を叩けず、暫し屋敷の前に立ち尽くしていた。 阻むものあらばそれを蹴散らす勢いで、乱暴な音を立て前に進む土方の形相に、一瞬廊下にいた誰もが息を呑み、次に恐れをなして脇に寄り道を開ける。 「副長っ、副長っ」 その背に向かい、山崎の鋭い声が飛ぶ。 山崎の様子から、この男も今しがた帰って来たばかりなのだと知れたが、それも土方には関係の無い事だった。 つい先程、急(せ)いて屯所に着いた自分を待っていたのは、総司の行方知らずの報だった。 夕飯も食べず、この雨の中何処に行ったのかと眉根を寄せた井上は、いつまで経っても子ども扱いの抜けない身内の目で案じていたが、それを聞いた途端、土方の脳裏を過ぎったのは、小糠雨の中、見覚えのある屋敷の前に佇む総司の姿だった。 更に何かを云わんとしていた井上を其処に残して走り出し、左右の柱に叩きつけるように乱暴に襖を開けた室に、予期した通り例の鏡は無かった。 それを確かめるや、返した踵の向かう先は、もうひとつしかなかった。 総司はあの屋敷に、再び鏡を返しに行ったのだ。 それが土方の胸の裡を、禍々しく騒がせている。 理由を付けられるものではない、だが一刻も早くに姿を見つけなければならない。 馬屋へと進める己の歩の幅が限られている事すら、今の土方にはもどかしい。 「そのままで、お聞きください」 ようやっと追いついた山崎も、土方の足を止める気は無いらしく、振り向かぬ主の後ろで語り始めた。 「刑部兵部ですが、調べました処、かの者、既に正気を持たない狂人と分りました」 「狂人?」 緩めぬ足の早さに少しも遅れず、山崎が頷いた。 「刑部家は以前報告しました通り、嘗て都が京に移った際には、朱雀の門を守った古い家柄。親戚筋には未だ禁裏で勢力を誇る、同じ姓の刑部博正と云う参議の叔父もいます」 「それがどうした」 前だけに視線を据え、土方の口調は強い。 「その刑部博正の命により、狂気に走った兵部はあの屋敷に幽閉されているのです」 「己の血筋から狂人を出した事実を、ひた隠しにしている訳か」 唇の端を皮肉に歪めた横顔を、斜め後ろから見ながら山崎は続ける。 「兵部の狂気は、生まれ持ったものかと思われます。実は兵部の妹も同じように正気を逸して婚家より戻り、一年前に世を去っています。血筋の濃いもの同士の繋がりを繰り返した挙句、狂人を作り出すと云うのは、格式の高い古い家には良くある事です」 「兵部とその妹が、それだと云うのか」 「ふたりは互いに母親こそ違えど父は同じ、血の繋がった兄妹でした。そしてその妹の死を切欠に兵部の狂気は始まり、それが世間に隠しようの無くなる程酷くなった今、刑部博正を始めとする親族が、当人の身の処し方を思案している最中だったようです」 告げられる真実に眉ひとつ動かさず、走り出さんばかりに歩を早くする土方の視界が、遂に面玄関の明かりを捉えた。 「馬引けいっ」 怒涛の叫びが闇を劈いて、四方に響き渡った。 |