夢みたものは ひとつの愛

                   ねがつたものは ひとつの幸福

                   それらはすべてここに ある と

 

                        立原道造 夢みたものは より

 

 

春に此花の美しさを愛で、夏に蝉の命の儚きを知り、

秋の陽の優しさに戯れ、冬のつめたきに又春を偲ぶ

うつろひゆきこの世こそ我が身の終(つい)と定めしも

千歳百歳(ちとせももとせ)のときをへて

なほ人想ふ心こそはかわらず

また想ふ人の幸い願う心こそは・・・

 

沫(あわ)ときえゆく現(うつつ)が夢のまこと

 

 

 

 

6001御礼    蓉さまへ

 

 

 

 

 

願いしものは   

 

 

 

 

 

「わるかったな、こんなに朝早くから連れ出して」

そう言いながら伊庭八郎はそれを気にする風でも無く、横に並んで歩く総司に声を掛けた。

 

日中は坂の先に続く清水寺の舞台を見物する客やら、

その人込みを目当てに抜け目無く商いの算段をしている店々も、

さすがにこの早朝ではひっそりと戸を閉めている。

 

 

 

「首尾よく手に入ったら美味い朝飯を馳走してやるよ」

機嫌の良い八郎の言葉に、総司はやや遅れながら溜息をついた。

それを気配で察したのか、

 

「何だよ不満そうだな」

八郎がやっと後ろの総司を振り返った。

 

「不満じゃないけれど、こんなに朝早くに起こしてしまうのは店の人に悪い」

「お前は相変わらずだね」

「何が?」

「相手は商売をしているんだぜ。

朝から金が入りゃ有難く思っても文句なんざ言うはずがないだろう」

「そんなことを言うの八郎さんだけだ。きっとまだ寝ている」

「ばか、俺達は客だぜ。相手も寝ているよりは商売になっていいだろうさ」

 

八郎の勝手な言い分に、

総司はもう一度、今度は悟られない程度に小さく諦めの息をついた。

 

 

 

 

今朝、まだ夜も明けやらぬ薄暗い内に八郎は、壬生の民家を間借りして、

屯所を置いている新撰組に総司を尋ねて来た。

 

しらじらと夜が明けようとしてきた頃の、何の前触れもない訪問客ならば、

何が起こったのかと驚くのが普通の人間だ。

まして八郎は今、将軍家茂警護で大坂にいる。

まさか家茂に何かあったのではと、名指しされた総司だけではなく、

近藤や土方までもが八郎の来訪を聞きつけて出てきた。

 

だが緊張の色をしたその面々に、

玄関の上がり框(かまち)に腰を降ろして総司を待っていた八郎は、

 

「何かあったのかい」

この男特有の洒脱な身のこなしで振り向いて笑った。

 

 

 

結局八郎の用件は、京から大坂に下る直前の一月前、

やはり総司を連れ出した折に買い求めた

猪口の片割れを探しに行くのに付き合えということだった。

 

八郎が将軍を警護して京に来たのがこの年の二月。

家茂が先月五月の始めに下坂する時、八郎は総司と一緒に最後の京見物を楽しんだ。

その時この三寧坂の骨董を商う店で、八郎はひとつの猪口を手に入れた。

しっとりと臈たけた白い地に、鮮やかに、しかも奔放に刷いた藍の色が走るそれは、

すでに猪口として日常使われるものではない品格を持っていた。

 

猪口は二つあり、ふたつを並べて初めて文様が完成されるという趣向を凝らしていた。

最初は二つを手にした八郎だったが、

どうしたことか、その時はその片方しか買い求めなかった。

それを明日は大坂を発ち江戸に戻るという土壇場になって、

どうしても欲しくなったらしい。

 

 

 

「だからあの時一緒に二つ買えばよかったのに・・」

 

まだ夜着のままだった処を慌てて着替えさせられて、

そのまま引っ張り出された総司の声が、

後ろからうんざりしたような響きを持って聞こえてきた。

 

「仕様がないだろう。気が乗らなかったのだから」

総司の文句などは端(はな)から無視するように

綺麗に軒を並べる似通った店の中のひとつを探す為に、八郎は立ち止まった。

 

 

「おい、あそこじゃなかったか?」

言われて八郎の指差した先に視線を向けると、

確かに軒に吊るした小さなひょっとこの面に覚えがある。

 

「ほら、まだ閉まっている」

総司はこれから起こされるであろう店の主人の慌てぶりを思うと、

八郎の気まぐれを咎めるように呟いた。

 

 

 

中から閂(かんぬき)の掛かっている店を無理やり開けさせて、

だがそこに所望していた猪口のもう片方が売れずに残っているのを見つけると、

八郎は満足げに笑みを浮かべた。

 

 

しばらく、そのひんやりとした磁器の感触を楽しむように目を細めている八郎に、

 

「八郎さん、それ私が買います」

店の者に申し訳無いと思うのか、

隅に居心地悪そうに立っていた総司が、突然後ろから声を掛けた。

 

「何を言っているんだよ。俺が買うんだ。俺のものだ」

「違います。八郎さんに私が買ってあげる」

 

突然の申し出に、八郎が驚いて振り向いた。

丁度差してきた朝の陽が邪魔をして総司の表情が分かりずらいが、

どうやらその顔が少しだけ笑っている。

 

 

「お前、野暮も休み休み言えよ。俺は自分が気に入ったから買うんだ。

人にねだろうなんていう魂胆なら最初から欲しくはないね」

「でも八郎さんにはいろいろとお世話になったから・・」

「世話なぞするほどしちゃいないよ。それより俺が何かお前に買ってやる」

気楽に言い切った時には、八郎はすでに店の中を物色し始めていた。

 

 

多分総司は明日江戸に戻る自分への餞別のつもりでそう申し出たのだろう。

だが八郎はそれを意識することを嫌った。

すでに己の心の内には、総司とのこの別れは一時のものと刻まれている。

 

 

 

「何も要らない。私は八郎さんにそれをあげたい」

そんな八郎の心中など知らぬように、総司が続けた。

「いいって言っているだろう」

「でも、どうしてもそうしたい」

 

珍しく譲らぬ総司に改めて目をやると、

その黒曜石に似た深い色の瞳が、揺るがず自分を見つめていた。

いつの間にか湛えていた穏やかな笑みは消え、顔に聞かぬ強い意思を浮かべていた。

 

 

「頑固な奴だね」

呆れたようなその物言いから、それでも八郎が折れたと悟ると、漸く総司は笑った。

 

 

 

そう安いとも思えぬ代金を払い、早朝の迷惑を詫びながら店を出ると、

総司は小さな包みを八郎に手渡した。

 

「八郎さんへの土産です」

「雨が降らなきゃいいけどね」

満更でも無くそれを手のひらに受け取りながら

照れ隠しの様に仰いだ空に、いつの間にか重い雲がひろがりつつある。

 

 

「冗談でもなさそうな雲行きだな」

何の気なくそのまま視線を総司に戻したが、

その横顔が妙に蒼いことに気付いて思わず眉根を寄せた。

 

「お前、どこか具合が悪いのか?」

「どうして?」

「その顔の色、尋常じゃなさそうだぜ」

「いつもと変わらないけれど・・・ああ、」

思いついたように、総司の瞳が悪戯そうな色をして八郎を見た。

 

「何だよ」

「八郎さんに朝早くから起こされて・・・寝不足だ」

「それは悪かったな」

 

流石に苦笑いしながら八郎は、それでも明日江戸に発てば、

暫らくはこの瞳が自分を映し出すことは無い、

焦りともつかぬ寂しさを持て余していた。

 

 

「朝飯を食おう。旅籠ならばこんな時刻でもまともな飯を食わせる処があるだろう」

そんな感傷を打ち切るように思い切り良く声を掛けると、

総司はすまなそうに小さく首を横に振った。

 

「有難いけれど、今日はもう帰らなければ・・」

「何だよ、俺に貸しを作りっ放しかえ?お前もとことん野暮だね」

「今日は昼前の巡察の当番だから」

「そんなのは後にしておきなよ」

「奥詰とは違う」

皮肉を言われて八郎の苦虫を潰したような顔に、総司が面白そうに笑った。

 

「それじゃあ壬生まで送ってやるよ。それから俺は伏見で舟に乗る」

 

 

八郎とて本来ならば明日出立というこんな慌しい時に、

京まで来る余裕などあろうはずもなかった。

だが一旦江戸に下れば早々にまた京まで来ることは叶わない。

その思いが、例え束の間でも総司にもう一度会いたい己の心を抑えることに勝った。

 

まだ懐には入れずに手のひらの中に包み込む様にある小さな猪口は

八郎の切ない口実にすぎない。

 

 

「私が八郎さんを送る」

その八郎の心の内を知ってか知らずか、総司が小さく告げた。

 

「いいよ、お前こそ仕事があるのだろうに」

「伏見に下るのならここからの方が近い。

八郎さんを街道筋まで送ってから戻っても十分に間に合う」

 

その言葉の終わる頃には、総司は八郎に後ろを見せて先に歩き出していた。

 

想い人のつれなさに胸の内で吐息しながらも、

数歩遅れたその薄い背に追いつくのは、

八郎の足では容易(たやす)いことだった。

 

 

 

「・・・それにしても、今日は新撰組は何かあるのか」

急な勾配を下りながら、その転がりだすような感覚に後押しされるように、

先程から気になっていたことがつい口をついて出た。

 

「何かって・・?」

「さっき近藤さんや土方さんの様子がおかしかった」

「別に何もないけれど」

「そうか。・・・俺にはやけに殺気立っているように思えたが・・・いや、ただの勘さ」

「八郎さんの勘はあてにはならない」

「ばか、満更そうでもないぜ」

 

端正に造作された横顔にからかいの笑みを投げかけた総司だったが、

心の内で、今更ながら八郎の剣客としての鍛え抜かれた鋭さに驚かされていた。

その動揺を悟らせまいと、すぐに視線を逸らせた。

 

 

 

 

今こうして八郎と自分が連れ立って歩いているこの時、

土方は四条小橋西の桝屋喜右衛門の身柄拘束に動いているはずだった。

桝屋への疑惑はこの三月に起きた、桝屋の表戸の張り紙事件に端を発していたが、

その後監察方の地道で執拗な探索により、今日の捕縛に至っている。

 

これまでの探索の成果から、何かただならぬ出来事が起きようとしていることが分かった。

それは確かなのだが、それが何なのかが見えて来ない。

その正体の端を桝屋が握っている。桝屋を追い詰めれば必ずやすべては明るみになる。

そんな緊張感が確かに近藤や土方からは感じられたのかもしれない。

事実二人は昨夜からこの件に関しての詮議で一睡もしていないはずだ。

総司自身もまた、眠れぬ夜を明かした。

 

しかしそれは今はまだ、決して外部に漏れてはならぬことだった。

 

八郎を送ったらすぐに自分は壬生の屯所に戻らなければならない。

そこではすでに何かが動き出しているはずだ。

その焦る気持ちが総司の足を急がせる。

 

 

 

「おい、そんなに急ぐこともないだろうに。おまえもつれない奴だね」

 

そんなつもりはないのだったが、

急(せ)く心がいつのまにか足の早さになっていたらしい。

八郎の不満気な声に慌てて振り向いた時に、

ふいに胸の奥から突き上げてきた不快な感覚が咳になって唇から零れた。

 

「どうした」

 

咄嗟に手を伸ばして身体を支えるようにして背をさすってくれる八郎に、

心配はいらないと告げようとしたその先から小さな咳が続く。

 

言葉にすることも出来ずに、

暫らくその場に立ち止まり咳の治まるのを待っていたが、

ようよう息がつけるようになった時には、

総司の痩せた肩が、荒く繰り返される呼吸に大きく波打っていた。

 

 

「大丈夫か」

掛けた声に、労るよりも先に、問い詰める感情が先走った。

 

「・・・何でもない。少し咽(むせ)てしまって・・」

まだ苦しげに息を吐きながら、それでも笑いかけようとした総司に八郎の視線が鋭い。

 

「嘘も大概にしろよ」

「嘘ではありません」

「具合が悪いのならそう言え」

「どこも悪くなどない」

 

短く言い切って八郎を振り切るように背を向けて歩き出してしまったのは、

その双眸が今の自分の嘘を容易に見抜くと思ったからだ。

目を合わせるわけには行かなかった。

 

今日というこの大事な一日が終わるまでは、例え八郎といえど、

自分の進む先を邪魔させるわけには行かなかった。

 

 

 

「待てよ」

後ろから八郎に腕を掴まれて漸く足を止めた。

 

「どこが悪いのだ、土方さんは知っているのか」

「土方さんは関係ない。それに何でも無いと言っている。八郎さんが大げさすぎる」

 

強い瞳の色に見上げられながら、しかし八郎は総司の腕を掴んだまま無言だった。

 

 

 

少年だった夏の日、初めて総司と出会った時、

炎天下の木陰で、熱を持って身動きもできずに自分の腕に頼っていた少年は、

奉納試合に出ると言い張って譲らなかった。

 

あの時も総司は今と同じ瞳をしていた。

深い静けさを湛えた瞳が、一瞬にして激しい焔(ほむら)の色に染まった。

その激しさに、自分は負けた。

 

今自分を見つめてくるこの黒曜の瞳の奥深くに、

あの時から八郎は己の全てを絡めとられ、

未だ恋慕の呻吟の淵から戻る事を許されない。

 

 

自分は又負けるのか・・・

 

八郎はひとつ遣る瀬無い息をついた。

 

 

「約束をしろ。三日の内に医者に行け。五日したら俺は土方さんに手紙で告げる」

それが最大の譲歩だった。

 

「約束する」

漸く安堵の笑みを浮かべて総司が頷いた。

 

 

 

 

そのまま西に向かって坂を下りきり東大路に出た。

ここから駕籠を拾って伏見まで下ると言う八郎と別れることになった。

 

 

「暫らくは会えなくなるが達者でいろよ」

「八郎さんこそ」

「さっきの約束、反故にすることは許さないぜ」

「必ず守ります」

「どうだかな」

 

総司との約束は守られることの方が余程望みが薄い。

土方に書く手紙は五日を待たずに出さねばなるまい。

胸に諦めとも付かぬ決意をして、八郎は苦く笑った。

 

 

その様子を怪訝そうに見ている総司に、

 

「もう行けよ。ここからは俺がお前を見送る。その方がいい」

又性懲りも無くぶり返しそうな切ない感情を持て余して、八郎は総司を促した。

 

「八郎さん・・・」

「何だよ」

 

言いかけたまま黙ってしまった総司の瞳の色が深かった。

 

 

 

きっと八郎との約束は果たせない。

もしかしたらこれが八郎との最後になるのかもしれない。

自分はもう八郎にこの世でまみえることは叶わぬかもしれない。

 

八郎に紡ぐ言葉は尽くせぬ程にある。

伝えたい気持ちはきっと溢れるのを止められないだろう。

 

だがその思いの全てを今、総司は静かに胸の奥深くに仕舞った。

 

 

 

「その猪口、大事にしてやって下さい。

こんなに朝から付き合った挙句に買わされたのですから」

殊更明るく言い切って、全ての感傷を打ち捨てた。

 

「ばか、お前が俺に買いたかったんだろう」

「それは八郎さんの驕(おご)り」

 

 

他愛も無い会話に笑いながら、

それでも八郎には少しの辛い思いもせずにこの先を歩いて行って欲しいと願った。

それが自分ができる唯一の事だと言ったら、八郎は怒るだろうか。

それとも要らぬお世話だと臍(へそ)を曲げてしまうだろうか。

 

取り留めの無い思いを巡らせながら、ふいに翳った朝の陽が、

これから我が身に起こる不吉を暗示しているように思えて、総司は空を見上げた。

 

気負うものはもうなかった。

 

 

 

 

さらに強くなった風の中で、

何度も振り返る総司の頼りない後姿が見えなくなるまで、

八郎は身じろぎもせずに立ち尽くしていた。

 

 

土方への手紙は早いほうがいい・・・

 

訳も無く酷く不安に心が騒いだ。

 

 

 

 

      

 

きりリクの部屋    願いしものは 弐