願いしものは 弐
総司が戻った時、屯所を置いている前川家も通りを挟んで
向側の八木家の中もただならぬ緊張感に支配されていた。
八郎と別れて途中からは駆けるようにして足を急がせてきて、
まだ息も整わぬ内に総司は土方の姿を探した。
「総司」
急ぐ背に声を掛けてきたのは永倉新八だった。
「永倉さん、土方さんは・・」
その問い掛けに永倉新八の顔が険しく曇った。
江戸っ子を自負するだけあって、
さっぱりとした気性の永倉が、こんな顔をするのを総司は見たことがない。
「土方さん、どうしたのです」
我知らず強い口調で詰め寄っていた。
「桝屋を連れてきて今土蔵にいる」
「土蔵・・・」
訝しげに見る総司に永倉は黙って頷いた。
「桝屋の土蔵からかなりの武器弾薬と、潜伏している浪士達への書簡が見つかった。
尋常の沙汰で無い事を計画していたらしい。それで土方さんも焦っている。
何とか口を割らそうとしているのだが、相手もなかなかのもので手こずっている」
その言葉の終わらぬ内に、土蔵の方向に歩みだした総司を永倉が止めた。
「駄目だ」
「何がです」
「誰も入れやしねぇよ」
「入れない?」
「監察の山崎君と、島田君しか入れない」
「そんな・・」
「例えお前でも駄目だよ、総司」
拷問は凄惨を極めているらしい。永倉の顔が歪んだ。
だが土方はひとりでその修羅に臨んでいる。
そう思った時には永倉の制止の声も聞かず走り出していた。
屋敷の裏にある土蔵が見えて来ぬ内に、
ふいにこみ上げる咳に襲われて駆けていた足が止まった。
先程八郎と居た時に起こった咳とは比べ物にならぬ程、それは間断なく続いた。
手のひらを口に当て堪えようとしても、
堰を切ったように後から後から零れ出て、息もつけない。
近くにあった楓の幹に手を掛けて、漸く体を支えていたが、
遂にはそれも敵わず地面に膝を折って付いてしまった。
気を抜けば目の前が暗くなり、遠のく意識を必死で支えるのが精一杯だった。
どの位そうして苦しい刻(とき)を過ごしていたのか、
咳が治まると背中の全部を太い幹にもたらせて、そのままずるずると座り込んだ。
荒い息を吐きながら、暫らく目を閉じていたが、
薄く瞼を開けて視線を落とした先の己の掌に、鮮やかな朱の色があった。
その手のひらを握り締めると、もう片方の手の指先でそっと唇のあたりを拭った。
そうして目の前に持って来た指にも、又同じ朱の色があった。
(・・・また)
もうそれを見ても何も思わない。驚くことすら出来ない。
すでに総司にとっては、幾度か見たことのある色だった。
体の不調を覚えたのはこの春の終わりだった。
最初は風邪をひいたのだと思っていた。
それがいつまでたっても続く咳とだるさに、流石に思うところがあって医者を訪れた。
初老の穏やかな医師は、目の前で肌を晒した若者に、その胸に巣食う宿痾の存在を告げた。
早く療養生活に入ればそれだけ長く生きることができると医師は言った。
だがそれが哀しい労りだということは、自分を見る目の痛ましさから容易に察せられた。
きっと良い人柄の医者なのだろう。
国元に戻るのならば、これから掛かる医者への紹介状を書くと言ってくれた。
総司はその親身な好意に深く頭を下げて、医者の家を辞した。
そして、二度とそこへは足を向けることはなかった。
江戸に戻るつもりは無かった。
誰にも告げるつもりも無かった。
否、誰にも知られてはならなかった。
己の命の先を見限られたというのに、
総司にはどこか胸の一番深い処で安堵するものがあった。
それは不思議な感覚だった。
多分自分は土方の傍らに居たいと、焦がれるように願いながら、
いつの間にかその想いを胸に秘めることに、
堪え切れなくなっていたのかもしれない。
いつか他の誰かに土方が想いを寄せるようになるのを、
自分はもう黙って見ている事はできない。
溢れ出る想いに息がつまりそうになる。
それでも傍(そば)に居たい。
その繰り返しで、どれ程の刻(とき)を重ねて来た事だろう。
だがもう限界だった。
自分の心を隠すことにも。
隠しながら傍らで、知らぬ顔をして笑っていることにも。
追い詰められた自分に、
死はこの苦しい戒めの全てを解き放ってくれるものに思えた。
胸にあるおぞましい業病は、総司にひとつの安らぎをくれた。
己の血で染まった手のひらを握り締め、幹にもたれて体を弛緩させたまま、
総司はどんよりと曇った空を仰いだ。
一瞬吹いた強い風に、隙もなく茂った楓の葉が揺れて騒いだ。
今夜か、明日か・・
必ず大きな捕り物がある。
それは新撰組の行く末に大きく影響するものになるだろう。
初めて土方の役にたてる。そして自分はそこで死ねる・・・
もう一度静かに瞼を閉じた時、冷たいものが頬を伝わった。
一室に集められた新撰組の中枢を成す面々を前に、
局長の近藤勇はその頑健な強面(こわもて)を緊張で更に険しくしていた。
桝屋喜右衛門こと、古高俊太郎の供述は驚愕すべきものだった。
かねて勤皇志士達との繋がりを密にして計画していた事柄は、
風の強い日を選んで京の市中に火を付け、その混乱に乗じて
反長州派の公卿で、朝幕間の周施に尽力している中川宮朝彦親王と、
京都守護職会津藩主松平容保を討ち取り、帝を長州に拉致するというものだった。
何か大きな企てがどこかで行われつつある事は分かっていた。
だがまさかここまで大胆な計画を練っていようとは、誰しもが思いもよらなかった。
折りしも京では二日ほど前から突然の烈風が吹き荒れていた。
同じように降り続いていた雨は、曇り空ながらも今日は止んだ。
火薬が湿(しめ)る心配は無い。
そして襲撃の対象の一人、松平容保候は病床にあった。
全ての条件は今日、揃った。
最早一刻の猶予も許されなかった。
「・・・未だその集会場所だけが特定できん」
近藤の腹に響くような太い声が、室に張り詰められた空気を裂いた。
監察方の気の遠くなるような丹念で地道な探索によって、
どうやらその談合場所が加茂川を挟んで三条から四条にかけての
何処かという事だけは分かっていた。
「しかし襲撃は今夜をおいては考えられぬ。
今動ける隊士を二手に分けてしらみつぶしに探し出す。
苦肉の策だが、仕方があるまい。
必ずやこの企てを、我らは阻止する。
新撰組は今宵、出動する」
初めて迎える新撰組の正念場に臨む近藤の双眸が鋭く細められた。
結局この日働くことの出来る隊士は三十四名。
その少ない人数を、一対二の比率で二分し、
多勢を土方が受け持ち加茂川東側一体の捜索を、
精鋭とも言える少数部隊を近藤が指揮し、その西側を持ち場とした。
そして総司は近藤の指揮下にあった。
自分に割り振りられている室に戻ると、総司は深く息をついた。
その瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
右の手で咄嗟に胸を押さえてうずくまり、それが鎮まるのをじっと待った。
心より体の方が先に限界が来るとは思わなかった。
己のままにはよくも行かぬこの理不尽さに、今は諦めの笑みすら浮かぶ。
それでも今夜一晩だけ、この身が持ってくれればいい。
「総司」
聞き慣れた声に、ふいに背後で呼ばれて慌てて振り向いた。
室の真ん中に胸を押さえて座り込んでいる自分を、土方が不審に見つめていた。
「どうしたのだ」
躊躇いもなく総司の前に来ると、膝をついてその顔を覗き込んだ。
「何でも・・」
「顔が青い」
「八郎さんに朝早くに起こされて、付き合わされたせいです」
苦しい言い訳を、今は土方が信じることを願った。
「・・・そうか」
承知しながらも、決してそうとは思えぬ疑惑が胸のどこかで土方にはあった。
事実総司の顔には血の色が無い。
つと触れた手は自分のそれよりも、ずっと熱く思えた。
だが今この瀬戸際に、総司が戦列を離れる事は、
これから臨む新撰組の命運を賭けた戦いに決定的な打撃を与える。
「祇園会所での集合時間は七ツだ。まだ時間がある。体を休めておくといい」
総司の不調を見て見ぬ振りをする、己の勝手の忌々しさに、土方の顔が歪んだ。
「そうします」
その土方の心情を感じ取ったように、総司が笑いかけた。
自分の憂慮を機敏に察する総司の笑い顔が土方には辛かった。
長い年月を共にしてきて、総司のこういうところは手にとるように分かる。
「休むのならば布団を敷いてやる」
目を逸らして立ち上がったのは、総司を正視するのに堪えられなかったからだ。
せめて少しでも柔らかい布団の上に、具合の悪い体を横たわらせてやりたかった。
そんな事しかしてやれぬ自分が情けなくもあった。
「良く休め。集合に間に合えばいい」
総司が大人しく横になるのを見届けると、土方は室を出て行こうとした。
「土方さん」
その背に総司が声を掛けた。
足を止めて振り向いた土方の視線が、
片肘を立てて少しだけ身を起こした総司の瞳と合った。
それを待っていたように、総司が先程よりも小さく笑った。
「大丈夫ですから・・・」
「わかっている」
安心させるように苦笑しながら応(いら)えを返すと、
総司の顔に今度こそ安堵したように翳りの無い笑みが広がった。
土方が居なくなっても、総司は暫らくそのままの姿勢でいたが、
やがて力が尽きたように布団に伏した。
どうにか体の向きを変えて、仰向けになり見上げる天井の節目が時折霞む。
熱が上がってきているのだろう。
本当は土方に、ありがとうと言いたかった。
けれどそれをいつもと変わらぬ顔で言い切る事は、きっとできないだろう。
だからこれだけでいい。
もう十分だ・・・
あとはこの壊れた体が、せめて一晩持ちこたえてくれる事だけを、願った。
くじ運は近藤隊にあった。
一軒一軒、しらみつぶしに御用改めをし、
ついに三条小橋西の旅籠池田屋に集合していた浪士多数を発見した。
時にして四ツ近く、この時会津はまだ動いてはいなかった。
近藤隊は総数僅かに十名でこの修羅場に斬り込んだ。
すべては闇の中の戦いだった。
総司は柱に背をもたらせて、崩れ行きそうになる体を辛うじて支えていた。
自分の吐く荒い息だけが、不気味な静寂(しじま)に響く唯一の音だった。
もう幾度も零れ落ちる咳と共に、
胸の奥から込み上げてくる、生ぬるいものを吐き出していた。
その度に口を拭う手甲は朱の色を重く滲みこませている。
遠くなる意識を繋ぎとめておく事すら、酷く難しい。
着込んだ鎖帷子の重さが、息を吸う度に食い込むように胸を締め付ける。
だがもうそれを外す力も無い。
今自分に残された最後の力は、
直前に斬り捨てて目の前に伏している敵が、
完全に事切れて動かなくなるのを見届ける為だけにある。
まだ時折微かに動いていた相手の手が、最後に何かを掴もうとしたが、
急にだらしなく弛緩して落ちた。そのままぴくりとも動かなかった。
・・・・終わった
体が沈んで行くのを感じながら、総司は奇妙な安堵感に包まれていた。
・・・・土方さん・・
言葉にすることも叶わなかったが、自分はきっと笑っている。
それが総司に限りない安らぎを与えた。
どこかで自分を呼ぶ声が聞こえるのは・・・きっと錯覚だろう。
闇に堕ちるその刹那、一瞬の光の中で見たものは、土方その人の面影だった。