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88888御礼 芙沙さまへ 暮れの春 (上) 不意に湿り気を帯びた風の具合で、降るだろうとは予想していたが、雨足は思ったよりもずっと早かった。 闇の中、足音を忍ばせ宛がわれている室に辿り着き、薄い夜具を引きずり出して体を横にした途端、風に煽られた雫が軒を叩き始めた。 だが閑寂を破る煩わしい音も、目を閉じるなり自分とは無縁に遠ざかり、泥のような眠りに落ちるのを、何ら邪魔するものではなかった。 ――土方の記憶は、そこまでだった。 そうして幾ばくかして目覚めてみれば、思いの外、意識が現を離れていた時は短かったようで、しらじら明けの薄闇が、未だ夜の名残で室の中を覆っている。 このまま動かず寝足りぬ分を補うよりは、春暁の冷水で膚を禊いだ方が、頭を覚ますには遥かに成果を得られようと、若い判断は気だるく重い体を起こさせた。 誰も彼もが眠りにある朝まだ来、音を潜めて進める歩では、井戸までの距離がひどく長い。 が、その気遣いとて、褒められぬ遊びに呆け過ぎ、幾日ぶりかで戻った後ろめたさに他ならない。 そうと気づいた途端、らしくも無い己の殊勝を自嘲するように、この男の端正な容貌を殊更強く印象付ける整った唇の端が僅かばかり歪み、薄い笑みが浮んだ。 やがて朝の陽が木目を照らし始めた廊下の床を、今度は誰憚る事無く音を鳴らして、土方は大股で歩き始めた。 其処にしか泉路が見つからなかったのか、此処牛込柳町の試衛館道場のある甲良屋敷内の井戸は、建物からは幾分離れた裏庭にある。 それ故早朝と云えど、余程大きな音を立てねば、家人に気付かれる心配はまず無い。 朝帰りとまでは行かぬまでも、似たような事情を負う身には有り難さが先立つ距離を、然程急ぐでもなく歩を進めていた土方の足が、しかし建物の脇を回り、井戸を視野に捉えた途端、それまでの緩慢が嘘のような鋭敏さで動きを止めた。 物陰に身を潜めて気配を殺すまでも無く、井戸端の小さな影は釣瓶を引くのに一心で、こちらに気づく様子は無い。 それでも息を潜めてその背を見ていた土方だったが、掴んでいる力を少しでも緩めた途端、逆回りする釣瓶の勢いに巻き込まれ、井筒の丈を越えて身まで投じてしまいそうな、あまりに心許ない動きに、止めていた足の方が、勝手に先への一歩を踏み出した。 だが意外にも小さな影は、背中で動いた気配を瞬時に察したようで、釣瓶を握り締めたまま振返った面輪の瞳が、土方の姿を捉えるや否や驚愕で見開かれた。 少年と云うにも幼すぎる身の主は、無言で近づいて来る人間に、警戒と云うよりは恐怖が先に立ってしまったらしく、まるで息する事をも忘れてしまったかのように、すべての動きを止めている。 凝視している深い色の瞳は瞬きもせず、そのあまりの見開かれ様に、思わずこの者の面輪の半ばは、大きなそれで占められているのでは無いかと錯覚させる。 が、そんな相手の様子などお構い無く、土方は無言で歩を進め、少年との距離をみるみる狭める。 思わぬ展開は、益々少年を混乱に陥れてしまったようで、遂に間際までやって来た大きな影に隈なく包まれてしまった寸座、それが本能だったのか、華奢な身が一瞬後ずさろうとした。 だがその怯みが、釣瓶を握りしめていた手の力をも緩めさせ、一気に滑車が逆回りの音を立てたのと、少年の、風にも舞ってしまいそうな薄い身が、それに引き摺り込まれるように背中ごと後ろに傾いだのが同時だった。 その刹那、咄嗟に伸ばした土方の手が、縄の太さにも敵わぬ頼りない二の腕を素早く掴み、それ以上の体勢の揺らぎを止めた。 ――安堵の息を吐く間もなく、勢いづいて落下した桶の水面を叩く音が、井戸の囲いを突き破り四方に弾けた。 「ばか野郎っ、急に離せば引きずられて落ちるだろうっ」 未だ明けきらぬ早暁のしじまを無遠慮に破る怒声に、動きを封じ込められた身がびくりと震え、見上げている小さな面輪からは、みるみる色が引いて行く。 その尋常でない怯え方を見せ付けられれば、土方の裡にも、流石に戸惑いが走る。 何処の誰とも知らぬ大人から、いきなり掛けられた言葉の荒々しさを考えれば、年端も行かない子供の慄きは推して知るべきものがある。 だが其処まで思考が辿り着いても、一度ついて出てしまった短気を、今更仕舞う術は無い。 「・・怒っている訳じゃない」 付け足す声すら、己の意思とは正反対にひどく素っ気無い。 加えて、こう云う子供の扱いには、自分ほど不釣合いな性分は無いと、それだけは心得ているから、見下ろす双眸に在る色も、その場を取り繕うに面倒が先走り、次第に苛立ちが濃くなる。 しかしそれこそが、見る者によっては怜悧とも映る整いすぎた己の顔貌を、益々無表情なものにし、幼い相手を怖がらせているとは、今の土方に気づく余裕は無い。 互いの不器用が邪魔をして、相手の出方を探るばかりの沈黙は、時に計れば如何ばかりのものだったのか・・ 身を強張らせて土方を凝視していた少年の瞳が、突然何かを思いついたように逸らされ、井戸端の一箇所で止まった。 「どうした?」 「・・みず」 訝しげな問いに、初めて小さな唇が戦慄き、短い一言を紡いだ。 それは未だ恐怖にいる様を克明にし、消え入るように儚いものだったが、すぐに土方へと戻した深い色の瞳には、何かを伝えようとする必死があった。 「水?」 繰り返した低い声に、少年は細い頤を引いて頷いた。 「早く汲まないと」 今一度視線を手桶に移し、そうして土方の其れをも促すと、今度は幾分はっきりとした声音で少年は訴えた。 「・・間に合わなくなってしまう」 呟きにも似た語尾は、硬さを取り去るまでには至らなかったが、多少の落ち着きは取り戻せたらしく、漸く会話らしいものが成り立った事に、土方は改めて己の手が捉えている幼い者の面輪を見やった。 ――男気ばかりと云って良い此処に、あまりに異質すぎるこの幼い者は一体何者なのか。 漸く其処に思考を巡らせた刹那、脳裏の片隅をふと過ぎるものがあった。 「お前が、新しい内弟子か?」 怪訝と不審の入り混じった声が、それを取り繕う術も間に合わず滑り出た。 見上げている小さな面輪が、躊躇いがちに頷く処を見れば、確かに己の推測に間違いは無いのだろうが、しかし少年を見る土方の裡には、どうにも信じ難い思いが先立つ。 ここの道場主近藤周斎の養子勝太の口から、近く恐ろしく筋の良い少年を内弟子に迎える事になったのだと最初に聞いたのは、確か昨年の秋の頃だった。 その時勝太は、ひどく勢い込んで自分にその話をした。 それを揶揄すると、出稽古先でこの目で見つけた天賦の才を、己の手で育て上げ開花させてみたいのだと、照れくさそうに笑った友の顔を、土方は今も鮮明に覚えている。 が、どうした訳か、それからその話はぷつりと途絶えたまま年を越した。 どうなったのかと、一度何かの話のついでに尋ねた事があったが、少年の親代わりである姉が、幼い弟を手放すのに難色を示しているのだと、だがその心情も分からぬでは無いから、時を掛けて説得を試みる他無いのだと、勝太は、それがこの男の飾らぬ本質なのだろうが、少しばかり困ったような、それでいて屈託の無い笑みを浮かべて語った。 そうして誰もがそれきり口を噤んでいた話しは、しかし木枯らしの季節も終わる頃になって、今度は道場主の周斎が、自ら腰を上げ少年の家に赴いた事で急展開を見せた。 が、桜花も散る頃になってもそれらしき姿は道場にやって来ず、又も話しの先が怪しげな雲行きになって来たと思っていた矢先、出かけようとしていた自分を呼び止めた勝太が、くだんの少年がいよいよやって来るのだと嬉しそうに告げた。 それに気の無いいらえを返して背を向け、色街へと繰り出したのは三日前の事だった。 土方は、自分が二の腕を拘束している少年を、今一度遠慮の無い視線で見据える。 少年の持つ才は天分だと、勝太は賞賛を惜しまなかった。 それを自分が開かせてみたいのだと、照れながらに語っていた。 が、今見下ろしている少年の何処を探しても、そのような言葉を裏付ける欠片も見つからない。 聞いた事に間違いが無ければ歳は九つだと云う事だが、華奢過ぎる体躯は、どう見てもその年齢の子供のものには足りない。 蒼みが勝る白い膚は、血管(ちくだ)までをも透けさせてしまうような薄さが、身の内の力の無さ、脆弱さを知らしめるに十分だった。 同じような資質であっても、長ずるに従い骨組みが出来、健やかに成長を遂げる者も稀にはいる。 だがこの少年に、それは望めないだろう。 曲がりなりにも薬を売り歩いて商いにしている己の観察は、知らぬ者のそれよりも遥かに的確だと、土方は自負している。 「・・水を、運ばなくてはならないのです」 その土方の思慮を知らずして、再び小さな唇が動いた。 「お前、名は?」 だが意を決しての少年の訴えは、又も素気無く断ち切られ、逆に低い声が問い返した。 「・・宗次郎、沖田宗次郎です。あの、水を・・」 「水なんぞ、こんなに早くから汲んで何に使う」 更に何かを言いかけようとしたその先をも遮って、子供相手にしては容赦の無い物言いの詰問は続く。 「朝餉の用意に」 「朝餉?まだ一刻も先の事だろう」 「でもっ」 「でも?」 食い下がる様の、あまりの必死さに、流石に不審を感じた土方の眉根が寄る。 だが宗次郎と名乗った少年の言葉は途切れたまま続かず、面輪はたちまち困惑の色を濃くし、遂には見上げていた瞳が伏せられた。 「夜明け前に水を汲み置けとでも、誰かに言われたのか?」 幾分声を和らげて問うてみても、少年に反応は無く、俯いた顔も頑なに上げられない。 それがすぐさま、一旦鎮まった土方の若い短気に火をつける。 「言われたのかっ」 そうするつもりは毛頭無かったが、しかし走り出す己を止める間もなく迸ったのは、世辞にも優しいとは云えぬ怒鳴り声だった。 その瞬間、少年の内に在る全ての神経が、まるで鋼のように硬直してしまったのが、掴んでいる手の平を通して分かった。 そうしてばね仕掛けの人形のように上げられた瞳は、もう慄きや怯えよりを通り越して、ただただ呆然と土方を映し出している。 「言ったのは、大先生なのか?それとも他の誰かか?」 これ以上沈黙に逃げる事を許さぬ強い調子に、ようやっと、少年のかぶりが小さく横に振られた。 「では何故こんなに朝早くから・・」 「運ぶのが、遅いから。・・だから早くに起きて汲まないと」 更なる詰問を振り切るかの如く土方を見る少年の瞳に、それまで受けていた儚すぎる印象を、見事に欺くような強い色が浮かんだ。 だが少年自身も己の裡を騒がす、感情の起伏の大きさに翻弄されてしまったのか、すべてを云い切るその前に、新たな狼狽を隠すように面輪も一緒に伏せられてしまった。 そんな少年の変容を、土方は暫し黙って見ていたが、やがてゆっくり視線を横へ逸らすと、井戸の脇に置かれた手桶に止めた。 桶を造る木もそれを止める箍も、何処もかしこも満遍なく湿り気を帯びている。 そのまま少年の着衣に視線を移すと、着けている袴の前も強か濡れている。 それが既に、この手桶で幾度か汲んだ水を運んだ名残なのだとは、容易く知れた。 確かにまだ骨組みも確かでない華奢すぎるこの身には、水を満たした手桶を持っての母屋までの距離は、時もかかろうし辛くもあろう。 だが袴の夥しい濡れ具合は、持ち運ぶ途中の揺らぎで跳ねた水の所為ばかりとは思え無い。 重さに負けて転ぶか傾ぐかして、手桶の水を土に零した時に、一緒に濡れたと考えるのが自然だった。 「転んだのか?」 何気なくついて出た言葉だったが、少年のいらえは戻らない。 「俺は怒っているんじゃない」 今日二度目の、とってつけたような宥め方でも、それが今の土方にとっては、相手を労わる術の限りだった。 「・・一度だけ」 見据えられている事に堪えられなくなったのか、視線を合わせず、ぽつりぽつりする言い訳が、この少年の容姿には似合わぬ勝気を垣間見せる。 「昨日もこんなに早くから、水汲みをしていたのか?」 呆れた声に、漸く上げられた面輪が、またしても小さく横に振られた。 「昨日、上手く運べなかったから、若先生が手伝ってくれたのです。だから・・」 「だから?」 「・・姉上が、迷惑をかけてはいけないと」 「姉上?」 頷くさまには、見知らぬ者への警戒が未だあったが、それでも当初よりは余程に強張りを解いた少年の様子に、問う土方の声も自ずと柔らかさを増す。 そう云えば近藤は、早くに亡くした両親(りょうおや)代わりの姉が、幼い弟を手放すのに難色を示しているのだと語っていた。 其処まで記憶を辿り、再び下ろした視線の先に、少年の深い色の瞳が瞬きもせずに此方を見上げていた。 きっと―― この幼い者の姉は、年端も行かない弟を自分の目の届かぬ処へと遣る事に、計り知れない不安の中にいたのだろう。 他人ばかりの大人の中で、迷惑を掛け疎まれる事の無いように、そうする事でひとつでも辛い事を避けて通れるようにと、あれやこれや推し量れる限りを、己を護る術として弟に言い含めたに相違ない。 そして少年は、その姉の言葉を、疑う事無く忠実に守ろうとしている。 昨日は水を張った桶の重さに難儀している様を見て、勝太が手を貸してやったらしいが、少年は、どうやらそれを迷惑を掛けたと取り違えたらしく、姉の言いつけを守れなかった事に幼い心を痛めたのであろう。 そうして今朝、薄闇のこの頃合に起き出し水を汲んでいる。 迷惑を掛けてはならぬと教えられた姉の言葉を、ただただ素直に守る為に―― だがそんな姉弟の心情は、土方にとって、脳裏で憶測するだけのあやふやなものでは無かった。 十一の歳の春、初めて奉公に出る弟に、姉ののぶは、亡き両親の代わりに、やはり同じように他人への配慮を自分に教えた。 しかしその姉の心を、常に仇なす結果でしか返せぬ身としては、思い起こすそれだけで、自嘲の苦い笑みが浮ぶ。 否、端からそんな説法など聞く耳持たなかった自分には、目の前の少年の素直さ、真摯さが、我が身と照らして面映い。 しかし土方は、突然胸の裡に湧き起こった、得も云われぬ感傷の波に呑まれるのを嫌い、掴んだままだった細い二の腕を放すと、驚きにいる少年を無視して、両の手で乱暴に釣瓶を引き始めた。 やがて強い力は、二度三度同じ動作を繰り返しただけで、釣瓶の先に結ばれた桶を井筒の際まで引っ張り上げる。 土方はそれを一旦手に持ち帰ると、今度は一杯に張られた水を、少年の用意してあった桶へと移し替えた。 「・・あの」 「手伝ってやる」 にべも無い物言いに、次の言葉を封じられてしまった少年の面輪に困惑が走る。 「でも姉上が・・」 「お前の姉さんには、云わなきゃ分らんだろう。そんな事よりも、それを替えて来い」 まだ何か云いたげな唇に釘刺して指した先に、少年も視線を移したが、直ぐには意図を判じかねたようで、深い色の瞳が二度三度瞬いた後、再び不思議そうに土方を見上げた。 「そんなに濡らしていれば、何をやらかせたのかと、周りは要らぬ心配をするぞ」 転んで水を被った証をあからさまに指摘され、幼さ故の伸びやかさと、それに相対する儚さを同時に宿したような細い項が、一瞬の間も置かず濃すぎる朱で染め上げられた。 だが土方はそんな幼い羞恥などお構い無しに、桶を片手で持ち上げると、瞳を見張ったまま動けぬ少年を残して歩き始めた。 「私が持ちます」 桶を片手に、無言で母屋に向かう広い背を、慌てて追いかけてきた少年が呼び止めた。 「袴を替えて来いと、云った筈だぞ」 「でもっ・・」 低い声の戒めを聞かず、少年の指先が、手桶に伸びた。 中で揺れる水は、四方八方に当って平らな音を奏でていたが、手すりの端を掴んだ事がその均整を崩し、横に傾いだ水が、少年に向かって一際大きく跳ねた。 それに間髪を置かず退いた身ごなしの俊敏さに、切れ長の双眸が僅かに細められた。 が、次の瞬間、少年の体勢が大きく前に傾ぎ、土方が咄嗟に出したもう片方の腕の中に、薄い身が倒れこんだ。 「どうした」 少し腰を落とし、それで一旦地に手桶を置き、今度は両手で身体を支えてやりながら怪訝に問えば、少年は顔を上げず足元の一点に視線を落としている。 「鼻緒が・・」 身が揺らいだ原因は、どうやら履いていた下駄にあったようだったが、応える声が、下を向いている分だけ聞きづらい。 つられるように少年の云う個所に目を遣れば、確かに右の下駄の前緒の部分が切れ掛かっている。 あと少し力を加えれば、それは難なく二つ断たれるだろう。 「おぶされ」 それ以上の説明を聞かずして突然向けられた背に、後ろで少年の臆する気配がした。 その様子を察し、振り返った土方の視線の先で、小さな面輪が千切れんばかりに振られている。 「さっさとしろっ」 しかし僅かな抗いをも許さぬ、癇癪が弾けたような乱暴な物言いに、少年はぴたりと動きを止めると、言葉すら忘れたように立ち竦んでしまった。 やがて間を置かずして、零れんばかりに見開いている瞳から、不意にひと滴(しずく)、頬を滑り落ちるものがあった。 それを見る土方の胸の内に、又も舌打ちせんばかりの苦い後悔が走る。 が、そう思ったところで、ぶつけてしまった苛立ちを、今更優しい言葉に置きかえる器用さなど持ってはいない。 「早くしないと、皆が起きるぞっ」 更に輪を掛けた容赦の無い怒声に引き摺られ、華奢な身が、ようよう意思の無いからくり人形のように動き、屈んでいる背の前まで来ると、細い腕が首筋に絡められた。 「しっかり掴まっていろ」 こんな時にも抑えが効かない癇症は、不機嫌な物言いでしか相手を案じられない。 そんな自分に愛想をつかしつつ立ち上がりかけた刹那、いかに子供と云えど、人ひとり負うているにはあまりの難の無さに、土方は己の背に在る者を一瞬顧みた。 だが少年も土方を気遣ったのか、肩越しに、幼い瞳が覗くようにして此方を見ていた。 それが葉に宿る朝露のような水膜を張り、映すものの像を揺らしている。 そんな自分を見られるのが嫌なのか、直ぐに瞳は逸らされ、未だ乾かぬ頬にある不甲斐ない証をも一緒に隠すように、少年は小さな面輪を伏せてしまった。 そんな姿を垣間見れば、胸の裡に、又も苦い思いが走る。 だがその殊勝な自分を吹っ切るように、土方は無言で足を踏み出した。 まだ暫くは人気の有りそうに無い、薄暗い勝手の土間に屈みこみ、大人の半分程の大きさの下駄の鼻緒を挿げている、その手先の器用さを、先ほどから縁に腰掛けている少年は、瞳を大きくして一心に見ている。 細い孔に前緒を通し終え、それで鼻緒全体の形を整えると、それまで無言で作業を進めていた土方が漸く少年を見上げた。 「履いてみろ」 無造作に差し出された下駄の片方を慌てて受け取ると、少年は掛けていた縁から滑り降り、土方の肩に手を置いて、それを覚束ない体勢の支えにしながら足を通した。 「きついか?」 締め具合を聞く声に、小さな面輪が横に振られ、そうしてそれが止んだとき、少しだけ唇が動いたが言葉にはならず、直ぐにはにかんだような笑みに変わった。 「・・ありがとうございます」 「礼はいい」 掛けられた小さな声に、相も変わらぬ素っ気無いいらえが返る。 「でも姉さんがっ・・」 更に続けようとした言葉の途中で、しかし少年は、はたと気付いたように口を閉ざした。 「姉さんが、何だ?」 それを聞きとめた、訝しげな声が先を促す。 「・・姉上が、ちゃんとお礼を言わなければいけないって」 不可解な沈黙とぎこちない言い訳は、施された親切に礼節を尽くせと教えた、姉への敬称にあったようだった。 「お前、宗次郎と云ったな」 無言で頷く少年に向けられた、端正な面にある眸が緩やかに細められた。 「宗次郎、お前いつも姉上と呼んでいたのか?」 その途端、問いかける主を見つめていた双つの瞳が狼狽に揺れ、そしてそれは直ぐに耳朶までをも、鮮やかな朱に染め上げる少年の羞恥に変わった。 「俺は自分の姉の事を、姉さんと呼ぶがな」 少々意地の悪い、それでいて柔らかな笑いを含んだ物言いに、慌てて上げられた宗次郎の瞳が、今度は驚きに瞠られた。 「俺は土方だ、土方歳三。・・そう云えば、お前の家は確か源さんの親類に当ると云っていたな」 「義兄さんの家が、井上さんの親戚なのです」 聞かれたらそう応えるようにと教えられていたのか、宗次郎のいらえはそれまでと違い、手習いの復習(さらい)をするように淀み無い。 「・・あの」 「何だ?」 幼い律儀へ湧く苦笑を堪えて応えるには、中々難儀を強いられる。 「・・そっちは、切れていないから」 その土方の心裡など知る由も無く、無事な左の下駄に視線を移し、訴える声音は心許ない。 「両方同じように変えないと、歩きづらいだろう?」 「でも・・」 「それに鼻緒の縛りが緩い。どのみちこっちも直ぐに切れるぞ」 そう教えながら、だが土方には先程からひとつの不審があった。 下駄は新しいものでは無かったが、鼻緒は確かに最近挿げられたものだった。 だが如何にせん締め具合が緩く、これでは何かの拍子で切れるのは当然だった。 が、其処まで思った時、ふと土方の脳裏を過ぎるものがあった。 「この鼻緒、誰が挿げた?」 相違ないと信じる事柄を、敢えて問うのは、己の推測を確信とする為だった。 「・・姉さんが」 「いつも姉さんがやってくれるのか?」 宗次郎は暫し無言で土方を見つめていたが、やがて小さく首を振った。 「いつもは義兄さんがやってくれるのだけど、遠くに行くからって、今度は姉さんが・・」 戸惑いがちに告げがらも、逸らさぬ瞳が、もう一方のそれを返して欲しいと訴えていた。 だが土方は、己の手にしている下駄に視線を向けたまま応えない。 ――きっと。 この少年の姉は、幼い弟を手放す不安の中で、全ての支度を自分で整えようとしたのだろう。 或いは自らの手で用意したものを、常に少年の身に纏わせる事で、せめて護符代わりになるよう願ったのかもしれない。 だから女の力では心許ない鼻緒挿げも、良人に任せはしなかったのだろう。 そして弟は、姉が挿げてくれた下駄を、例え左右ちぐはぐな前緒になっても、そのまま履くのだと云う。 だがそれこそが、この宗次郎と云う少年の、姉恋しさを堪えるぎりぎりの際なのかもしれない。 「切れたら、挿げてやる」 目の前に、不意に突き出されたその突然さに、宗次郎が、鼻緒を指で引っ掛け下駄を揺らしている土方を仰ぎ見た。 「履くのだろう?」 低い、ぶっきらぼうな声に、小さな面輪が慌てて頷いた。 「土方さん・・」 やおら立ち上がり奥へ踵を返そうとした広い背を、遠慮がちな声が呼び止めた。 「・・あの、ありがとう」 顔だけ振り返り向けた土方の視線の先に、此方を見上げて動かぬ深い色の瞳があった。 「姉さんに、言っておけ」 相も変わらず優しい言葉のひとつも掛けてやれない己の意固地さに呆れつつ、それでも何とは無しに礼を言われてこそばゆい自分を持て余し、それを隠すように、土方は乱暴に床を踏み始めた。 きりリクの部屋 暮れの春(下) |