もしもどこかで逢うことがあったのならば
つたえてほしいのです
たとえばこの風が
目も眩むような強い天道の陽に熔ける日がきても
たとえばその陽が
地に落ちる影をながくながく伸ばす日がきても
たとえばその影が
降り積もる白い雪の下にきえてしまう日がきても
きっと待っているからと
かならず待っているからと
もしもいつか逢うことがあったのならば
・・・・つたえてほしいのです
8888御礼 芙沙さまへ
慟 哭 上
「あの時期の空にしては、めずらしく抜けるような青でございました」
松前屋治平衛が実際の歳よりも余程若く見えるのは、
おそらくはあの商人とは思えぬ、背筋の伸びた姿勢のせいだろう。
目の前で語る松前屋の声をどこか遠くに聞きながら、
土方歳三はぼんやりと、そんなことを思っていた。
「・・・私は、間に合うことができませんでした」
治平衛はその時の無念を思い出したのだろう、辛そうに眉根を寄せた。
「沖田は苦しんだ様子があったのだろうか」
漸く言葉にした自分の声は、まるで他人のものの様によそよそしく響く。
「いえ」
治平衛は首を振ると、土方の前に現れてから初めて穏やかな目をした。
「静かなお顔でございました。
私は・・、私はもう長いこと、商売をしてまいりました。
身代を大きくし、今のようになるまでには、とても人様に言えはしない事も、
眉一つ動かさずにやり通して来た人間でございます。
今更あの世に渡って極楽に行けるとは、到底思ってはおりません。
それで良しとして、この歳まで生きてまいりました。それでも・・」
土方に向けた双眸が言葉とは裏腹に、慈愛に満ちたものだった。
「この寿命が尽きました時には、たとえ身は地獄に落ちようと、
亡骸を見た者達に、きっとこの者は思い残す事無くあの世に渡ったのだと、
そう思わせる、あのようなお顔で逝きたいと思いました。
・・・・・そんな、静かなお顔でございました」
「そうか」
その声に、治平衛は視線を土方に止めたまま、深く頷いた。
「あなた様に一刻も早くお会いせねばと気を急いておりましたが、
会津で見(まみ)えるはずがとんだ思惑違いでこうして遅くなりました」
松前屋治平衛は美濃大垣の豪商であった。
先々代がこの蝦夷の松前から美濃に渡り、商いを始めた。
元々は富山や敦賀港に荷揚げされる北からの海産物を商売にして来たが、
北陸の港に各地から来る船がもたらす産物、時には幕府ご禁制の品物をも
扱うようになり、土方もこの男からゲベール銃を幾つか購入していた。
土方と松前屋の縁は小姓市村鉄之助と、その兄辰之助に繋がるものだった。
甲州の戦い後新撰組を脱走し国元に戻った辰之助は、治平衛の援助を受け、
今は大垣城下のはずれで商売を始めたという。
その辰之助が治平衛を通して、弟鉄之助の無事を確認して来たのが、
そもそもの始まりだった。
治平衛は鉄之助に、共に国元へ戻るように諌めた。
だが鉄之助はその説得に頑なに首を振り続け、結局土方と共にここ箱館にいる。
北へと転戦すると決めた時、ひとり残す総司の身を土方は、
当時商いの為に江戸に逗留していたこの治平衛に託した。
「確かに、お預かり致しました」
それが、初老のこの商人に深く頭(こうべ)を垂れたまま動かなかった土方への
松前屋治平衛の短い返事だった。
「土方さま」
治平衛の声で、我に戻された。
「やっと沖田さまからのご伝言を、お伝えすることができます」
治平衛の顔に、微かに穏やかな笑みが浮かんだ。
「・・・伝言」
抑揚の無い声で、ただ鸚鵡(おうむ)返しのように問う土方に、治平衛は黙って頷いた。
「ご遺言でございます」
何の変化も顔に表さず、ただ自分を見ている土方に、静かに告げた。
「お亡くなりになる少し前、沖田さまの具合が驚くほど良い日がございました。
お疲れになるからとお止めするのも聞かず、私に色々な事を話して下さいました」
松前屋はどこか遠くに視線を投げかけたようだった。
「その時に、まるで世間話のついでのように、沖田さまが私に仰ったのでございます。
もしも、土方さまに会う事があるのならば、伝えて欲しいと・・・」
土方は黙したまま動かない。
「ご武運がありますように、と。
自分はいつも待っていると、そう伝えて欲しいと、仰いました。
それでは文をしたためましょうと申しましたら、笑って小さく首を振られました。
私がどこかで道草をくっていて土方さまに会えなければ如何します、
と意地の悪い事を申しましても、それでも良いと、仰いました。
伝わらなければそれはそれで構わないと、
どこかで偶然に会った時にそう伝えてくれればそれで良いと、そう、仰いました。
・・・・お亡くなりになられたのは、それからたった三日の後のことでございます」
日が差し込む窓枠を、身を切るような冷たい風が、中に入れぬ不満のように鳴らす。
「やっと貴方さまに沖田さまからの伝言を伝えることができました。
この松前屋、あの世に持ってゆくには辛い重荷をひとつ外せたように思えます」
「松前屋・・・」
声音からも、その面(おもて)からも、土方の感情は読み取りにくい。
「沖田が世話になった」
そう言って、また半年前と同じように自分に頭を下げた土方を、
だが治平衛はある種の感慨を持って見つめていた。
それは同時に不安とも言えるような、心落ち着かないものでもあった。
「土方さま、私のような商人風情がこのようなことを申しますのは
出すぎた事と十分承知ではございます。
が、もしも、この私にその頭を下げて下さるのならば、
褒美に頂きたいものがございます」
「何なりと言うがいい」
「お命を、粗末にはなさいますな」
まっすぐに、土方を見据えるようにして、松前屋治平衛は告げた。
目の前のこの男が、この先どういう生き方をするのかは分からない。
だが治平衛には多分これが土方との最後になると、そんな気がしていた。
土方の目は自分を見ているようでいて、さらにそのずっと先を捉えている。
そこにあるものが、短い生を全うしたあの幸薄い若者の姿であるとは、容易に知れた。
「沖田さまも、きっとそれを望んでおいででしょう」
せめて死に急ぐ者を引き止める言葉を、治平衛は必死に探した。
「松前屋・・」
視線を受け止めて、土方の声は低く、静かだった。
「頼みがある」
治平衛は次の言葉をじっと待っている。
「市村を箱館から逃すのを手助けして欲しい」
「鉄之助さんを・・」
治平衛は鉄之助の父、市村半右衛門に恩がある。
だからこそ、半右衛門亡きあと傾きつつあった市村家を影になって助け、
辰之助、鉄之助兄弟の後見をつとめてきた。
「市村は戦には出さない。いずれここから逃して国元へと帰す」
「ですが、それはすでに鉄之助さんの意思とは・・・」
「何を言っても市村はここから出す」
治兵衛が初めて見た、土方の眸に宿った強い光だった。
「・・・沖田が、市村を死なせたくは無いと、そう言っていた。
あいつの頼みだ。聞いてやって欲しい」
もうひとつ、土方の表情が動いた。
「承知致しました。松前屋治平衛、今のお言葉、沖田さまから治平衛へのご遺言と思い、
必ず鉄之助さんを国元へ連れ帰ります。お約束致します」
「頼んだ」
暫らくは箱館に留まり商いの様子を探るという治兵衛が、
逗留先の親戚筋の商家の在り処を記したものを土方に手渡して、椅子から立ち上がった。
「ここに鉄之助さんをお寄越し下さい。必ず、青森までの繋ぎをつけます」
「また、世話をかける」
治平衛は首を振った。
「沖田さまとのお約束ができれば、嬉しゅうございます」
その双眸が柔らかだった。
そう広くはない室内だが、木の扉の手前まで来て、ふいに治平衛が立ち止まった。
「土方さま」
一瞬躊躇(ためら)うようにしていたが、
「沖田さまは綺麗なお方でございましたなぁ」
深い眼差しと共に浮かべた笑みが、染入るように優しかった。
松前屋が帰ってどのくらいの時がたったのか、
土方は先ほどから同じ事を繰り返し、胸に問いかけている。
すでに生きてまみえることはできないだろう病状だった総司を江戸に置いてきたのは、
一時(いっとき)この世で分かれるだけだと、そう己に言い聞かせたからだ。
必ず待っている、そう総司は自分に言った。
それがあの世であっても変わる事は無い。
だから総司が死んだという知らせを、いつどこで聞いても自分には微塵の動揺も無い。
そう思っていままで来た。
実際に松前屋の前でも不思議な程に冷静な自分が居た。
とっくに覚悟はできていた。
「・・・・できていたさ」
もう幾度もそう呟いている。
だがどうして自分はここから動けないのだろう。
何故意味もない、尽きぬ問答を繰り返しているのだろう。
ふいに思考を妨げる音が聞こえた。
誰かの足音らしい。
もう少し考えたいのに、それが邪魔をする。
煩(うるさ)い、そう怒鳴ってやりたい。
鬱陶し気に漸く顔を上げたとき、足音が止まった。
「土方さん、いるかい」
「いる」
応えたのは、無意識の自分だった。
伊庭八郎は隙の無い身のこなしで、扉を開けて入って来た。
「西洋式の扉ってのは邪魔だね。開けたときに場所をとるだろう?」
「お前は文句の多い奴だな」
「あんたよりはましさ」
こうして何もいつもと変わりなく、八郎と他愛の無い会話を交わしているのも、確かに自分だ。
だがもうひとつ、土方には奇妙に不思議な感覚があった。
現(うつつ)であって、そうではない。それが何なのか、分からない。
八郎は土方の座っている椅子の前を通りすぎて、硝子の嵌まった窓から外を見た。
その後ろ姿に左の方袖だけが不自然に揺れるのを、土方の視界が捉えた。
「総司、死んだんだってな」
ゆっくりと振り向いた八郎の顔が、逆光になって良く見えない。
「松前屋にあったよ」
「そうか」
「半年も前だって言うじゃねぇか」
「・・・そうらしいな」
「あいつ、あんたの処には来たのかい?」
「いや・・」
「そうだろうな」
「どういうことだ」
「俺のところにも来ない」
「何故お前のところにゆく」
「あいつのことを想っていたのはあんたより俺の方がずっと先だったからさ。
あんたの事じゃ、これでもずいぶん面倒を見て来たんだぜ。礼の一つも言われたいね」
「勝手なことを言うな」
不敵に笑う八郎に、土方は苦々しげに眉根を寄せた。
その土方を八郎は面白そうに見ていたが、
もう一度窓の外に広がる空に目を遣った。
「雪、降るかね・・・」
「どうだろな」
「降って貰いたいものだね」
「どうして」
「ここに来てから一度も見たことがない」
「お前に見られるのが嫌なのだろうよ」
土方の皮肉を受け止めるでもなさそうに、
八郎の視線は窓の向こうに向けられたままだ。
「そういや総司が前に言っていたな・・」
独り言のような低い声に、それまで応えを返していた土方が今度は沈黙した。
「ああ、そうだ。丁度一年前だよ」
八郎が嬉しそうに振り向いた。
「俺が伏見に居たときだ。もう京へ上る機会は無いだろうと、あいつを見舞った時に、
妙に赤い目をしているから又あんたに泣かされたのかと聞いたんだ」
「お前に言われる筋合いはないよ」
「そうしたらあいつは昨夜(ゆうべ)眠られなかったせいだと言った」
八郎の双眸が遠い記憶を手繰り寄せるように細められた。
「どうしてと・・・そう、俺は聞いたんだ」
懐かしげに八郎の語りかける先は、だが土方へ向けてではない。
「・・・・総司は、雪の音を聞いていたから寝そびれた・・って、そう言った。
雪の音など聞こえるわけが無い、俺がそう言うと、あいつは聞こえると言い張った」
「強情な奴だよ・・・」
小さく声を立てて笑う八郎を、土方はただ見ている。
「熱が高くていつも青かった頬に、ようやく血の色が通ったようだった。
けれど・・・・・苦しそうだったな。総司」
途切れた八郎の声を代わりに紡ぐように、
風が硝子を小さく揺らして音を立てた。