朱 い 雪 (壱)
「なぜっ・・」
伝吉にはその言葉が鋭い悲鳴に聞えた。
そのまま言葉を失ってしまったように、
蒼い顔をして自分をみているこの新撰組の若い幹部を、ふと痛々しく思った。
「山南先生はまだ大津にいます。ここからすぐ先の旅籠に、実名で泊まっています」
自分の言葉がさらに目の前の若者を追い詰めることは承知であったが、
伝吉は敢えて、少しくぐもった低い声で伝えた。
若者はまだ衝撃が行過ぎないかのように、凍った表情のまま無言で伝吉を凝視している。
その大きく瞠られたままの目に何が映っているのか、
伝吉には分からないが、自分は報告を続けなければならない。
それが自分の役目だと思った。
「山南先生は今日の昼前にはこの大津に入っています。
そのまま『黒田屋』という旅籠に入り、その後動きはありません。
宿の者の話では、二、三日泊まるからと、すでにその分の金子も支払っているそうです」
そこで一旦言葉をきると、多分自分の声は届いていないであろう若者に向かって声をかけた。
「沖田さん・・・」
伝吉に沖田と呼ばれた若者は、相変わらずの蒼い顔ながら、ようやく伝吉に目をやった。
「どうして・・・、山南さんは逃げなかったのだろう」
そこに伝吉がいることなど、頭の隅にも入っていないかのように、
だが自分自身に問い掛けるでもない、消え入るような呟きだった。
新撰組総長の山南敬介が、『江戸に帰る』という書置きだけを残して隊を脱したのは今日の未明。
まだ朝の気配の欠片(かけら)すら感じさせない頃だった。
脱走が判明すると、すぐに追手が遣わされた。
山南の背を追ったのは、沖田総司。
そして一人で行くと言い張る沖田の供に、
副長の土方歳三が『副長命令』をもって付けさせたのが、
新撰組の監察方が情報収集に手先として使っていた伝吉だった。
沖田と共に伝吉が屯所を後にしたのは、夜明けとも言えぬ薄暗い早朝だった。
肌を切るような冷たい空気の中で濁る息だけが白かった。
手早く身支度を整えて、監察の島田から多すぎる程の路銀を受け取ると、先に厩に走った沖田の後を追った。
その伝吉の背を、土方が呼び止めた。
振り返った伝吉のすぐ後ろに土方はやって来ていた。
そのまま無言で伝吉の腕を掴むと、ちょうど開いていた襖の部屋に引っ張るように引き入れた。
襖をしめて辺りを伺うようにして、人気が無いのを確かめると、やっと伝吉に向かって口を開いた。
「伝吉、おまえの役目は沖田を屯所に無事連れ戻すことだ」
伝吉は土方の言っている意味が分からず、自分よりは頭一つ高いところにあるその顔を見上げた。
「もし山南を見つけたら、総司は必ず山南を逃そうとする。いや、逃すだろう」
「それをそうはさせない邪魔をするのが、あっしの役目なのでは」
伝吉の言葉に、土方は黙ったまま首を振った。
「山南が逃げるのなら、それでいい」
「何と・・・」
「山南が江戸に行くというのならいかせてやれ」
「それでは追う意味合いがありません」
「『追う』という形だけでいい。必要なのは形だけだ」
思わぬ方向に流れ出した話にまだ頭も心もついて行けず、
呆けたように自分を見ている伝吉を横目に、土方は更に続けた。
「だがもし山南を見つけてしまったら、総司は山南を逃がす」
「逃がすことをお許しならば、それですでに事は足りるでしょうに」
土方は伝吉の言葉に一瞬その怜悧とも言える端正な顔を歪めた。
「それで済むのならばおまえを総司に付けはしない」
「他に何かあるんで・・」
「山南を逃したあと、総司は腹を切るだろう。
近藤さんの立場を思って、山南を逃がした責をとるだろう」
ため息ともつかぬ低い声だった。
今度は伝吉がはっと目を上げた。
確かにそうかもしれない。
否、伝吉の知っている沖田という若者ならば、きっとそうするだろう。
優しげに笑うくせに、時折その目の中にゆるがぬ頑固な光を見ることがある。
多分、己が決めたことは頑なまでに貫き通す人間なのだろう。
元は美濃の博徒で、やくざにその半生を送ってきた分、
人を見る目には鋭いものがあると自負する伝吉の目にも、
土方のその予測はひどく的を得たものに思えた。
「伝吉、総司を無事に屯所まで連れ帰ってほしい。それがおまえの役目だ」
鋭いまでの土方の視線を受けて、伝吉は黙って頷いた。
そんなやり取りが、土方と伝吉の間にあった事など、沖田は露ほども知らない。
今沖田の思考は、山南がすぐ近くに留まっているという事実だけに支配されていた。
「・・・・伝吉さん、本当にそれは山南さんなのだろうか・・・」
やっと喉の奥から搾り出すように問い掛けた沖田の声は微かに震えていた。
伝吉の言葉に紛れは無いだろう。
だが万が一の光に、今沖田は全てをかけて縋ってみたかった。
そしてその一縷(いちる)の光は、伝吉の無言の頷きに四方に散った。
「まさかとは思いました。京からここまでは僅かな距離。
それも表街道のこんなに目立つところ留まっていられるとは・・・・。
しかも、あちらから声を掛けてきました」
山南の探索は『ひととおり』だけで終わって良いはずであった。
だからこの大津の宿場に足を踏み入れた時はまだ日がずいぶん高かったが、
今日はこの宿泊まりと決めてそれ以上先に進むことをしなかった。
それは胸に労咳という宿痾を抱えている沖田の体を、伝吉なりに気遣ってのことでもあった。
ひとまず沖田を宿に残して、伝吉は外の様子だけは探りに出た。
土地カンの無い所では必ずする、伝吉の習癖のようなものだった。
表通りの様子を伺っているときに、ふいに頭の上から名を呼ばれた。
驚いて振り仰いだ先に、
山南敬介の笑い顔があった。
「それで、山南さんは何と・・」
ようやく沖田は伝吉の報告の衝撃から、立ち直る努力を始めたようであった。
「追手は誰だと・・、」
「私だと、伝吉さんは答えたのですね」
伝吉は無言で頷いて、
「山南先生は追手が沖田さんだと聞くと、暫らく考えている風でしたが、
『自分はここにいるから総司を呼んで来てほしい』そう言われました」
その時の山南の、少しも気負いのない姿を頭に思い浮かべながら早口に言った。
「山南さんが私に会いたいと、・・・そう、言われたのですか・・」
無意識にぽつりと漏れた言葉の最後が震えていた。
山南の伝言は、今度こそ沖田を打ちのめしたようだった。
平静を取り戻そうとしていた顔は、苦渋の一色に染まった。
胸の内の絶望感と、それを必死に表情に出すまいと、
己の中でせめぎ合っている様は、傍で見ている者に痛々しさすら感じさせる。
人はどんなに強い心を持っているように見えても、必ずその中の核をなす部分に、
ひどく壊れやすく弱いものを持ち合わせている。
その部分を突かれれば、人とはあっけない程に脆い(もろい)ものだと言う事を伝吉は知っている。
沖田にとって、山南はその脆い核の部分を形作っているひとつなのだろう。
危ういとも思える沖田の狼狽を目の前にして、伝吉はそう思った。
暫らく二人の間に沈黙が続いたが、ふいに沖田が立ち上がった。
『どちらへ』とは伝吉も聞かない。
大小を腰にさして出かけようとしている沖田が行くところは、今ひとつしかない。
「山南さんは、黒田屋という旅籠でしたね」
「あっしも行きます」
一人で出て行こうとする沖田を伝吉が制した。
その言葉に動きを止めた沖田は、初めて正気の目で伝吉を見た。
「あっしも、お供をさせていただきます」
伝吉はすでに立ち上がって沖田の横を通り過ぎ、先に行こうとしている。
「伝吉さんっ」
呼び止めた沖田の声が伝吉の耳に悲痛に響いた。
伝吉は一瞬立ち止まりはしたが、
「これはあっしが受けた、土方先生のご命令です」
感情を殺したような抑揚の無い声で短く告げると、
後ろで立ち尽くしているであろう沖田を促すように前を歩き始めた。