朱 い 雪  (弐)

 

 

 

「来たね」

 

 

目の前の男はいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべて、

少し背を床柱に凭れ掛けるようにして、ゆったりと座っていた。

 

その笑い顔を見ながら沖田は言い様のない憤りを覚えた。

 

 

「何故・・・、何故こんなところにいるのです」

 

「ずいぶんとご挨拶な言い様だね」

それでも笑みは崩さない。

むしろ真摯にぶつけてくる沖田の憤りを、

慈しむかのように更に目を細めた。

 

 

「逃げて下さい。早く」

沖田は山南に膝を進めてつめよった。

背後に伝吉がいることなどすでに眼中にない。

 

 

「山南さんっ」

座ったまま、落ち着き払った態度を崩そうとしない山南に、

焦れて沖田はその腕をつかんだ。

 

 

「誰が追ってくるかと楽しみにしてはいたが・・・。

おまえだとは誤算だった」

 

「誤算・・・?」

思いもかけない言葉に一瞬掴んでいた手の力を緩めた。

 

「追手は・・・、そう少なくとも、お前ではないと思っていたよ」

「・・・・どういうことでしょう」

怒りの勢いをそがれて、

沖田は立てていた膝の力が抜けたようにその場に座り込んだ。

 

 

「私はここで私を追ってくる人間を待っていた」

「なぜっ・・」

問うた沖田の声は悲痛だ。

 

「捕らえられ、屯所に連れ戻される為さ」

 

相変わらず笑みを浮かべたまま、淡々と話す山南の顔を、

沖田は呆然と凝視している。

 

「だが追手がお前と聞いた時、

私は自分のしたことを初めて後悔したよ」

 

自分がそうさせてしまった若者の動揺を、少しでも去らせてやりたくて、

山南は自分を掴んだままの若者の指に、そっと自分の手を重ねた。

 

 

 

 

「近藤さんや土方君のやり方に私が意見を異にしていたのは、

お前も気が付いていたはずだ。

近藤さんや土方君は間違っている。

ただの人斬り集団になってしまったら新撰組に将来(さき)は無い。

だが、今の新撰組に私の言葉は通じない。

内容はどうあれ、総長という立場の者が隊を脱する。

捕らえられて腹を切る。新撰組に多少の波風が立つだろう。

何故、山南は脱走したのか・・・それで考えてくれる者がでればいい。

そう思って隊を脱した。それだけだ。

・・・・いや、土方君にはただの厄介事かもしれないが」

そこで初めて、山南は自嘲するかのように笑った。

 

 

「・・・・土方さんは、そんな風には思っていません」

硬い強張りを隠せない沖田の蒼い顔がさらに翳った。

 

「おまえの前で近藤さんや土方君の悪口を言うつもりはさらさら無いんだよ。

だが今のは私が悪かった。

またお前に辛い思いをさせてしまったようだ」

 

 

穏やかに言われて沖田は思わず目を逸らした。

 

 

この人はこういう人なのだ。

いつも自分の行動や言動が、他人にどう影響するかを考えている。

山南の思慮深さと、度量の大きさにすっかり自分は頼り切っていた。

その懐の深さには底が無く、そうして山南はそこにいることが当たり前だと

信じて疑ったことがなかった。

 

だがそれは自分の勝手を相手に押し付けていただけの幻想であったと、

脱走という手段でしか最早己を貫けなかった山南を前にして、沖田は嫌というほど知らされた。

山南はどん底まで追い詰められていたのだ。

 

 

山南の近藤達への堪え(こらえ)処の無い憤りは十分に知っていた。

だがあえて見ぬ振りをして、その優しさにどっぷりと浸っていたのは、すでに己の罪なのだ。

 

だから脱走と聞いた時、瞬時に土方に自分を追手として遣わすことを懇願していた。

 

山南を逃がすつもりだった。

そう、決心して揺らぎは無かった。

 

 

 

 

 

 

「初めから、追手が来たら屯所に戻るつもりだった」

もう一度沖田の顔を見て、山南は静かに言った。

 

その言葉に嘘はないだろう。

でなければ京から僅か三里の、この大津あたりで留まっているはずはない。

伝吉の姿を見つけて声をかけたのもその証であろう。

 

 

「だがおまえが追手と知った時、私は己の起した行動の甘さを初めて悔いた」

 

「私が・・・追手ではいけなかったのでしょうか」

「いけなかったよ、総司」

苦笑とも、自嘲ともとれる笑いを浮かべて山南は沖田を見た。

 

 

「私のしたことは正義のはずだった。いや、私にとってはそうだった。

だからこのことに関しては今も悔いてはいない。

己の信念を貫くことに何の躊躇い(ためらい)もない」

 

山南の言葉は力強く、だがその一言一言が、

沖田の胸に鋭い錐(きり)の様に突き刺さる。

 

「何の躊躇いもないはずだったが・・・・、総司・・・、

お前の姿を見たとき、私は自分の貫こうとした信念の代償を痛いほどに知らされた」

 

驚いたように自分を凝視する沖田に、山南は小さく声を漏らして笑った。

 

 

「土方君が遣わす追手は、顔も知らぬ隊士達だと思っていた。それはそれでいい。

だが少なくとも、お前は絶対に遣わすことは無いと、そう思っていた」

 

「何故、私ではないと言い切れるのです」

 

山南は暫らく沖田の顔を見ていたが、

 

 

「お前は私を見つけても逃し、そして詰腹を切ると、彼は知っているからさ」

 

真顔に戻り、ゆっくりとした口調で言い切った。

 

 

 

沖田の背筋が一瞬に強張るのが、

後ろに控えている伝吉の目にも分かった。

 

 

正面から沖田を見据えている山南には、

更に沖田の憔悴ぶりが手に取るように分かる。

 

 

「私の行動は隊とその中枢の人間達に、一石を投じることはあっても

人を傷つける為のものではないと信じていた。

だが己の我を貫き通すのに、どうして他人を傷つけずに済むものか。

どうやら私は思い上がっていたようだ」

 

 

山南の言葉は静かだが、自分を労わるような穏やかさが沖田には辛かった。

ずっと掴んだままだった山南の腕から、力なく手をずらすと、

自分の膝の上に置いて、ぎゅっと指を握りしめた。

 

渾身の力で握っているはずなのに、僅かに爪が食い込んで掌に血を滲ませただけで、

肉を裂くことも、骨を砕くこともない、それが自分の力の限界だと知った。

 

もう自分には山南を救うことが出来ないという事を、

うっすらと滲む血を、ぼんやり見ながら知った。

 

 

 

 

「私は屯所に戻るつもりで脱走した。だからお前に腹を切らせる訳には行かない。

だがお前は私を逃がすことができなかったと、その事を生涯に渡って、きっと悔やむだろう。

それを私はすまないと思っている。唯一、それを後悔して腹を切る」

 

 

 

 

 

「逃げて下さい」

もう、それしか言えなかった。

 

 

「・・・お願いです、逃げて下さい・・」

下を向いたまま、何度も呟いた。

 

 

 

 

視界が段々に滲んでゆく。

思わず目を瞑った瞬間に、握った拳の上に落ちるものがあった。

 

 

 

 

       

 

 花咲く乱れ箱              朱い雪(参)