お詫びのあとがき


今回初めて状態でまともに『あとがき』付けさせて頂きます。
いやもう、あんまりシドイので・・(><)

最初からごめんなさいは、この話の時期、山崎さんと吉村さんは京都にいません。
ハナッから史実は思いっきり無視していますが、とりあえずお詫びしておきます。(すでにこの文章自体がお詫びの対象ですが・・)

山崎さんと吉村さんは近藤先生がこの前の年、慶応元年の十一月に長州に下ったおりに一緒に行きそのまま残り、その後翌年一月、またもや近藤先生下長の際にも戻らず、やっと六月頃になって帰ってきているようです。
もしかしたら交代で潜伏活動をしていたのかもしれないと言うことですが、とりあえずこの時期二人が揃って京にいるという事はなかったようです。
でもスキなのでご出演願いました。えへ(←じゃないでしょうがぁ!)

さてあとがきの本文ですが(・・・やっと)この話は昨年大垣旅行に行った際に、記念に作った『鉄之助』(藍色の文庫にホコリかぶってます)という話の、第一話『大垣』の中に出てくる、九鬼真之丞クンのお兄さん九鬼正之輔が影の主役です。
正之輔も真之丞も全くのオリジナルキャラですが、最初に真之丞を登場させた時に、彼を主人公で一度話を作ってみたいと思い、そのままになっているキャラです。
(それは新撰組を全く離れてしまいますが・・)

『鉄之助』は自分の三作目で、初めて長いものに挑戦したのでとても印象が強い話です。
(単に大垣オタクツァーで盛り上がった弾みのカタギの友人と遊び半分の賭けで、100ページ以上1ヶ月以内に本を作れるかに、みすみす乗った私の一気話なのですが・・・とほほ)
内容はこの際棚に上げさせて頂いて、私にこんな話を作らせるほど、大垣という町は記憶に強く残るところでした。
そして私はここで幕末というものを考えさせて貰うことができました。

大垣藩はご登場頂いた家老小原二兵衛(鉄心)が幕末三代君主に仕え、共にスクラム組んで逼迫した藩財政の立て直しに成功しました。
小原鉄心その人は強い勤皇思想の持ち主でありました。
ですが大垣藩内部は鳥羽伏見の戦いが始まっても、まだ思想を統一できずにいました。
鳥羽伏見の戦いが勃発した時、小原鉄心は禁裏にいましたが、大垣藩が官軍に対して発砲したのを知ると、すぐに国元にとって返し、藩内を一気に勤皇倒幕に纏め上げ、朝廷に対して詫び状を送り忠誠を誓いました。
朝廷はこれを受け入れましたが、その後大垣藩は官軍に向けての発砲の責任を取らされ、常にこの内乱において最先端を担わされました。
悲劇と言われる会津戦争において、官軍にも沢山の犠牲者がでました。
その最たるのが大垣藩士達でした。

鉄之助という話の中で、九鬼正之輔の弟九鬼真之丞はこの戦で戦死することになっています。
また真之丞の尊敬する先輩、堤文四郎は鳥羽伏見において戦死します。
堤文四郎の時は幕府軍、真之丞の時は官軍。
けれどこうして大垣藩は多数の犠牲者の上に、その土地と民を守りとおしました。

幕末には三百余の諸藩があったと言われています。
そして藩の数だけ、それぞれの幕末があったのです。


穏やかな風貌の中に、鋭い眼光を宿したおぢさん(オイ!)というのが小原鉄心の肖像がを見たときの印象でした。
そしてこれが歴史の表舞台には登場しなかったけれど、激動の中で一藩を導き生き残した英傑の顔でした。
小原鉄心の墓所には市村鉄之助の兄、辰之助も眠っています。



九鬼正之輔はこの一年先に急逝することになっています。
家督を継いだ弟の真之丞は進んで願い出て、兄の意思を継ぎ、治水灌漑の仕事に生きようとします(会津で亡くなりますが・・)
いつか夢が叶うのならば、その真之丞と総司を会わせて見たいと思います。
そして八郎とは鳥羽伏見で、土方とは会津で・・・。ドリーム入ってすみません(><)


もしもここまでお読み下さったお客様、相変わらず好き放題、しっちゃかめっちゃかな話で本当に申し訳ありません。
未熟な文章と、構成、心よりお詫び申し上げます。
そして何よりも、感謝いたします。

ほんとうにありがとうございました。

                 2002.10.18   ももの木ちい





                大垣市内の至るところにはりめぐらされた水路です






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