掲示板3000御礼 蓉さまへ
総ちゃんのシアワセ♪ お雛祭りでシアワセ♪なの (うえ)
総ちゃんは俯けていた顔をそっと上げて、雛壇に飾られている男雛と女雛をちらりと見ました。
ついでに下の三人官女さんに視線を移すと、真中の官女さんが、総ちゃんを見て気の毒そうに笑っているように思えて、ちょっとだけ溜息をつきました。
そうなのです。
今日は季節はずれのお雛祭りなのです。
もう一度お雛様達を見上げると、二人は仲良く並んで、それはそれはシアワセそうです。
もしあれが土方さんと自分だったらどんなに良いでしょう。
毎日毎日ふたりきり・・・
時折横を向けた瞳に映るのは、土方さんの姿だけなのです。
思っただけでもシアワセすぎて、瞳がうるうるしてきます。
総ちゃんはいつの間にか土方さんと自分に置き換えて、うっとりとお雛様を見つめていました。
「いやほんま、何度見てもえらい可愛らしゅうて立派なお雛様どすなぁ」
そんなことなどこれっぽっちも思っていない梅香さんの紅い唇が、まるで花のように綻びました。
「えらい小っさいお雛さんで恥ずかしおすわ」
これまた言葉とは全く反対の事を思っているキヨさんが、ふっくらした手を口元にあてて、ころころと笑いました。
「なぁ、みつはん?」
キヨさんは優しい笑顔のままで、総ちゃんに話を振りました。
総ちゃんは『みつはん』と言われても自分の事とは思わなかったので、心ここに無いように、まだうっとりとお雛様に見とれています。
「みつはんっ?」
もう一度大きな声が聞えて吃驚して振り向くと、キヨさんのにこやかな笑い顔が其処にありました。
でもキヨさんの笑顔はいつもとちょっと違う気がします。
何となく『立派です』と言わないといけない気持ちにさせるような、迫力があります。
それで総ちゃんは何が何だか分からないけれど、とりあえず慌てて首をぷるぷると横に振りました。
「そんなことあらへんなぁ、満はん?こないに綺麗なお雛様、滅多に見られんと思わへん?」
梅香さんもにっこりと笑いながら、総ちゃんに同意を求めます。
更にそれには『そのとおりです』と言わないと、すごくいけない気持ちにさせるような強引さがあります。
総ちゃんは今度も急いで、ふうわりと真綿を巻まかれた細い首を、幾度も縦にして頷きました。
*************
ここは田坂さんのお家です。
事の発端は、総ちゃんが田坂さんの処に来ると当の田坂さんはお留守で、暇だったキヨさんが『今日は四月四日ですやろ?せやからお雛祭りやろうと思いますのや』と満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに総ちゃんに囁いた事にあるのです。
総ちゃんがお雛祭りは先月の三日じゃなかったかな?と小首をかしげていると、キヨさんは、『三月三日と五月五日はみんなが祝おてくれはりますやろ?せやけどその真中の今日はみぃんなが気にかけんとあんまり可哀想や・・キヨはそれを思うと・・』と、いかにも辛そうに顔を歪めました。
『そんで、もし沖田はんとキヨの二人でお祝いしてあげはったら、今日という日も生まれた甲斐があると喜ばはると思いますんや』
キヨさんはまるでそれが仏さまのご意志だとでも言う風に、総ちゃんを見てしみじみと言いました。
改めて言われてみれば、そんな気もします。
総ちゃんは、お雛さまのお節句には、二人のお姉さんと楽しく祝ったのを思い出しました。
端午のお節句にはこれまたお姉さん達が、総ちゃんが元気で大きくなりますようにと、お祝いしてくれたのを思い出しました。
でもその間にある四月四日は、気にも止めずに過ごしてしまっていたのです。
それを思うと何だか申し訳無い気がして、総ちゃんは少し瞳を伏せてしまいました。
そんな総ちゃんをちらりと見て、キヨさんはここぞとばかりに、しんみりとした口調で付け加えました。
『あんなぁ・・・実はキヨは一度でええから、誰かとお雛祭りをしてみたかったんどすわ・・。せやけど若せんせいは男で、キヨの気持ちなんかちぃっとも分かってくれへん。沖田はんがこの間みたいに、綺麗なべべ着て、キヨと一緒にお雛祭りしてくれはったらどないに嬉しいか・・なぁ、沖田はん、キヨの一生のお願いを聞くと思って・・』
キヨさんは手で隠した顔を上げないで、声だけはさめざめと泣いている振りをして、でも『一度きり』とは絶対に言わないで、総ちゃんに訴えました。
それを見ていた総ちゃんは、土方さんが相手をしてくれない時の、寂しくてたまらない自分とキヨさんの気持ちを重ね合わせて、つい瞳をうるうるさせて頷いてしまったのです。
『おおきに。これでキヨもあんじょうあの世にゆくことができますわ』
と、やはり声だけを湿らせて、『心残りなく何時でも』とは間違っても言わずに、キヨさんは総ちゃんの手を取りました。
けれどキヨさんの頭の中は『ほな今日はどの着物にしよ・・・この間作った桃のもええけど、櫻のもええなぁ』と、すでにそれで一杯です。
『そしたら簪も変えなあかんなぁ・・・』
いっそお雛祭りなど止めて、あれやこれや総ちゃんと着せ替えごっこするのも楽しいと思うと、思わずお顔がにんまりシアワセに笑ってしまうのを、キヨさんは袖の下で必死に隠しました。
そんなこんなで叉も髪を強くひっぱられ、帯びをぎゅうぎゅう締められて、あまりの痛さに瞳からぽろぽろ涙を零しながら、今度こそ『嫌です』と、ちゃんと断わらなくてはと思いながら、総ちゃんはキヨさんに振袖を着せてもらったのです。
でもそんな辛さも何処へやら、振舞われた色とりどりの雛あられの綺麗さに瞳を瞠り、ほんのりしょっぱい櫻の葉にくるまった桜餅の美味しさに『土方さんの分もお土産に欲しいです』と言ったら、お行儀が悪いと近藤先生に叱られるかな?と、ちょっとどきどきしながら、総ちゃんはキヨさんと楽しくお雛祭りを始めたのでした。
目の前の総ちゃんと見ながら、キヨさんは思いました。
やっぱり自分の見繕った着物が一番映えるのは総ちゃんなのです。
いっそこのまま外に連れ出して、道行く人にみせびらかすのも良いかもしれません。
振り返る人の視線を知らぬ振りして歩くことほど、気持ちが良いことはありません。
キヨさんの頬は我知らず楽しげに緩みます。
そんな思惑に捕われているとき、お玄関で甲高い声が掛かり、『喉の調子がなんとのう悪い気がしますのや』と梅香さんがやって来たのです。
梅香さんは田坂さんがいないと知ると途端に、『ほなさいなら』と、浮かべていた笑みを引っ込めて愛想なく帰ろうとしたのですが、何となく聞き覚えのある声がすると、つい奥から顔を出してしまった総ちゃんを見てあんぐりと紅い唇を開きました。
「満さんやおへんか?」
梅香さんは目をまぁるくして、驚きました。
総ちゃんは、梅香さんだと気づいて『自分は満さんじゃありません』と必死に首を振りました。
でもその一部始終を見ていたキヨさんは少しも動ぜず、
「へぇ、うちとこの若せんせいの許婚の『みつ』さんですわ」
と、誇らしげに玄関の式台に立ったまま、梅香さんを見下ろしました。
「けど、満さんは土方はんの・・・」
「とっくに別れましたんや。そんでうちの若せんせいと・・・いやもうこれは最初からの決まりごとでしたんやろうなぁ・・・」
キヨさんはそれがとても嘘とは思えないほど、自信を持って言い切ったのです。
*************
「満さん、まだ声が出んのどすかぁ?」
あのあと強引にお雛祭りに自主参加を決め込んだ梅香さんが、叉も総ちゃんに声をかけました。
実はキヨさんは梅香さんが上がりこむのを見ると『あ』という間もなく、総ちゃんのほっそりした首筋にあるなだらかな喉仏を隠す為に、この前のように真綿を巻いてしまったのです。
「まぁ、してもせんでも同いなことやけど、一応用心の為に・・」
キヨさんはそう言って満足そうに頷きました。
それを聞いて総ちゃんは哀しくなりました。
総ちゃんの少しばかりの矜持など、キヨさんの前では見るも無残に木っ端微塵です。
そんな経緯(いきさつ)があったことなど知る良しも無い梅香さんの問いかけに、総ちゃんはこくこくと、視線を合わせないように瞳を伏せて頷きました。
「みつさんは人より喉が弱わおすのや。そやから大切に大切にせんと・・うちの若せんせいも、それはそれは心配してますのや」
キヨさんが、さも大事ごとのように言いました。
「それやったら田坂はんとお話もでけへんで哀しおすなぁ」
梅香さんは『ええ気味や』とお腹で思いながら、にっこりと微笑みかけました。
「ご心配は要りまへんえ。目は口程にモノをいい・・言いますやろ?せやからみつはんは言葉を交わさなくても、若せんせいと心が通じあいますのや」
キヨさんは、梅香さんに向かってほんのり笑いかけながら、でもきっぱりと言いました。
総ちゃんは二人の間に小さく縮こまりながら、何だかすごく怖い気がしています。
けれど『訳が分からないのに怖い』と怯えていたのでは、土方さんに愛想をつかされてしまうかもしれません。
総ちゃんは自分の意気地の無さを心の中で叱咤して、それを紛らわそうと雛壇の一番上にもう一度目をやりました。
すると総ちゃんの災難なんかつれなく知らんふりして、男雛女雛は相変わらずシアワセそうに仲良く並んでいます。
あんなふうに土方さんと、いつでもどこでも二人だけでいられたら、それはやはり夢のように素敵なことです。
総ちゃんは今ある状況をすっかり忘れて、またまたうっとりとお雛様を見つめてしまいました。
「けど満はんは、お雛さまよりなんぼも綺麗ですなぁ。こう、花も盛り・・言うよりも、色気もなんも無い蕾という感じ・・ですやろか。ただ綺麗だけが取り柄、言うんが、ほんまお人形さんのようですわ」
梅香さんは今が盛りの櫻のように、艶やかに笑いました。
「おおきに。けどそやからこそ、染められて美しゅう咲く喜びもありますのや。咲いてしまった花は後は散るだけですさかいになぁ・・」
梅香さんの誉め言葉に、総ちゃんが慌てて振り向くのと、おっとりと微笑みながらキヨさんが応えるのが一緒でした。
総ちゃんはキヨさんも梅香さんも、にこにこ笑っているので自分も一緒に笑わなくてはと思うのですが、どうしても顔が強張って出来ません。
でも二人はにこやかなまま視線を送り、総ちゃんの次の挙措を待っています。
「・・・あの・・あの」
総ちゃんは『出ないはずの声』を、必死に喉の奥から絞りだしました。
「あら満はんが、声を出さはった」
梅香さんは大仰に体を反らせました。
「みつはん、無理しはったらあきまへん」
キヨさんはとても難しい顔をして、厳かに総ちゃんに言いました。
それを見た総ちゃんは慌てて俯いてしまいました。
キヨさんの顔にも声にも、『喋ったらあきまへん』という、有無を言わせない強さがあります。
それは土方さんが隊士さんに凄みをきかせるどころの比ではありません。
下を向いたままの総ちゃんの心の臓は、もう早鐘のようにどきどき打っています。
「せやけどぉ・・満はんのお声は想像していたのと違いましたわ」
梅香さんが優しく笑いかけました。
「いや、どないに違おてました?」
総ちゃんに代わって応えたのは、キヨさんでした。
「へえ。そうどすなぁ・・・。こう、もうすこぉし甲高こうて、娘さんらしい華やかな声かと思いましたんえ」
梅香さんは勝ち誇ったように言いました。
総ちゃんは下を向いたままでしたが、つい口元に両手を当ててしまいました。
総ちゃんの声は優しいと、みんなが言います。
けれどやはり女の人ではないのですから、其処は梅香さんの言うような風にはなりません。
「喉を痛めてはるのもあるんどすけど、元々みつはんの声はそないに高おないんですわ。そりゃ優しゅうて柔らかな声ですけどなぁ」
キヨさんは事も無げに言い切りました。
「それに・・、あんまりきんきんした賑やか声は、耳に障りますやろ?」
ケツネのような声では困りますしなぁ・・と、にこにこしながら付け加えることも忘れませんでした。
おずおずと総ちゃんが目だけをあげて見ると、一瞬狐のお面を貼り付けたような梅香さんの固まったお顔がありました。
それを見た総ちゃんが、思わず端座したまま後ずさりしそうになったとき、またもお玄関の方角から人の声が聞えてきました。
「御免」
よく通る稟とした声が響きました。
「伊庭はんやっ」
梅香さんは言うより早く、いそいそと立ち上がりました。
総ちゃんはそれを見て『さっきのお面は何処に外したのかな?』と思いましたが、横のキヨさんが『また人の楽しみを邪魔する人間が増えた』と、あからさまに嫌な顔をしたので、それを見ない振りをしてすぐに又元のとおりに俯きました。
「仕方ありまへんなぁ」
キヨさんは不満げに呟くと、やっと八郎さんを迎えに立ち上がりました。
お玄関ではすでに梅香さんが八郎さんの袖に手を当てて、上がるようにと促しています。
「あんなぁ、今三人でお雛祭りしてますのや」
梅香さんの声はさっきよりもずっと高くって、総ちゃんのいる遠くのお部屋まで届きます。
独り残されたお部屋には、梅香さんのうきうきした声が聞えてきます。
何となくそれが、『けーん、けーん』と啼いている狐の声と似ているように思えるのは、錯覚なのでしょうか?
総ちゃんは両の手を耳に当て、結われて重い頭をぷるぷると振ってみました。
「伊庭はんも一緒にお雛祭りしながら、田坂せんせいを待ちまひょ」
遂に梅香さんは立ったまま動かない八郎さんの腕を掴んで、引き摺り上げようとしました。
「いや、田坂殿はどうでも良いのだが・・・」
「そないにいけずなこと言わはらんと、どうぞ上がっておくれやす。丁度女三人でお雛祭りやってましたんや」
いつの間にか奥から出てきたキヨさんが、ふくよかな頬に笑みを浮かべて八郎さんにおっとりと声を掛けました。
「・・・女三人?」
八郎さんはお玄関の三和土(たたき)から、怪訝にキヨさんを見上げました。
実は八郎さんはさっき総ちゃんをお昼に誘おうと新撰組の屯所に行ったのですが、すでに田坂さんの処へと出かけたあとだったのです。
それで急いで追ってきたのですが、キヨさんは今『総ちゃんと三人で・・』とは言わず、『女三人で』と言い切ったのです。
八郎さんは暫し思考を巡らせていましたが、はたと思いついたように、キヨさんを見ました。
「そうどす。みつはんも一緒どすえ」
キヨさんは大きく頷きました。
八郎さんはゆっくりと腰帯に差してあった扇子を抜くと、それをはらりと振って広げました。
「それは上々。美しいおなご三人ではさぞ華やかな雛祭りとお察しした。そうと聞けば宴の誘いを断る無粋を持ち合わせてはいないのが、骨の髄まで江戸っ子の我が身が厄介」
八郎さんは『満さん』になった総ちゃんだけを思い描いて、上機嫌で言いました。
そうして上がり框に足を掛けたそのとき、
「えらく賑やかな出迎えだな」
後ろから邪魔な声が聞えてきました。
「いや、若せんせい。ええとこにお帰りですわっ。今みんなでお雛祭りやってますのや、早よう、早よう。みつさんも一緒どすえ」
キヨさんは満面の笑顔で駆け寄ると、田坂さんの腕を掴んでひっぱりました。
「みつ殿が?」
隣の恋敵の声が一瞬逸るのがどうにも忌々しいと、ちらりと流した八郎さんの視線と、何で此処にこいつがいるのかと不機嫌な田坂さんの視線が合ったのが同時でした。
「御免」
そんな時四人の内三人が、どんなに転んでも邪魔だとしか思えない声が後ろから掛かりました。
みなの動きが止まったのを見ると、土方さんはゆっくりと玄関の敷居を跨ぎました。
「総司が来ている筈だが・・」
土方さんは、八郎さんと田坂さんは此処に居ないと決め付けて、キヨさんにだけ顔を向けて聞きました。
「いやぁ、土方はんも!」
キヨさんが応えるより先に、梅香さんの一際甲高い声が辺り一杯に響き渡りました。
「そやっ、この度はえらいお気の毒なこって・・」
梅香さんはハタと気づいたように少し声を落とすと、土方さんの顔を痛ましげに見て、けれどとても嬉しそうに言いました。
「気の毒・・・?」
「へえ、聞きましたえ。なんや満はんとお別れにならはったとかぁ・・」
梅香さんは土方さんを見る眸の中に、ちらりと艶やかな色を含ませる事を忘れません。
「別れた・・・?」
一瞬事情が分からず怪訝に見た土方さんのお顔にある眉根が、すぐに何の事か思い当たって思いっきり寄せられました。
「誰がそんなことをっ」
「誰でもよろしおすがな、そないなことより土方はんもお雛まつりしまへんか?みつはんもいますえ」
勢い込んで梅香さんに問い質そうとした土方さんを、キヨさんの一声がぴしゃりと止めました。
「・・・みつ」
繰り返し呟いた土方さんでしたが、すぐに総ちゃんだと気付きました。
そして一瞬の内に緩みかけた頬を、寸での処でどうにか持ち直しました。
流石は鋭い視線で一瞥すれば、鬼も浮き足立つ新撰組副長です。
「それは懐かしい人の名を聞けたもの。知れば迷った恋の道も、知らねば迷わぬ元に戻ったと思えば、又新しい恋も生まれるやもしれぬ。ここで巡り逢えたのも天が定めた二人の絆」
と、一人悦にいって言った時には、すでに不思議なものを見るようにしていた四人の横を通り過ぎ、広い背はずんずん奥へ小さくなってゆきました。
「・・・一度知って迷うやろ・・そんで別れて迷わなくなるやろ・・けど又恋しはったら迷いはるなぁ・・えらい難しいこと言わはるわ」
慌ててその後を追いながら、梅香さんは土方さんのさっきの言葉を思い出すと、何だか頭が痛くなってしまいそうで、こめかみに右の人差し指を当てぐるぐる回しました。
「無理矢理筋を通そうとするから悪いのさ」
八郎さんがそんな梅香さんを見て、慣れた調子で言いました。
「ほな、どないにしたらええんどす?」
「振られた男の悪あがきと思えばいい」
八郎さんは前を向いたまま、事も無げに言いました。
「懲りない人間につける薬ってのはないのかえ?」
ついでに田坂さんにも声を掛けてみました。
「生憎普通の人間に効く薬しか置いてない」
この応えも足を急がせながら、さらりと返って来ました。
さてさてお部屋の中の総ちゃんはさっきから聞えていた声が、段々近くなってくるのに遂に立ち上がってしまいました。
おろおろと周りを見回しても、出口は廊下に繋がる障子がひとつ。
でもそこから出たらみんなと顔を合わせてしまいます。
こんな風に意味も無く女の人の格好をしている処を見たら、土方さんはきっと総ちゃんの事を変な人だと思うでしょう。
それより何より、もう他の人の前で女の人の格好をしてはいけないと、土方さんから固く言われているのです。
約束を破ってしまって叱られるだけならまだしも、もしかしたら『もうお前など嫌いだ』と愛想をつかされてしまうかもしれません。
そう考えただけで、瞳からは溢れるものがあります。
蒼い顔のまま必死で辺りを探ると、押入れがひとつ・・・。
総ちゃんの顔がぱぁっと輝きました。
急いで其処に隠れようと右足を出した途端、慣れない振袖の裾を踏みつけて、総ちゃんの身体は敢え無く均衡を崩してしまい、あっと思って気がついた時には畳の上に両手をついて座り込んでいました。
キヨさんに結ってもらった髪に挿していた簪がひとつ落ちて、そんな総ちゃんをくすりと笑うかのように、しゃらんしゃらん、と音をさせて転がりました。
崩れた髪は元々ぎゅうぎゅう結い上げられていたので、少し乱れただけでも引っ張られている他のところがすごく痛いのです。
情けないのと哀しいのと痛いので、総ちゃんの頬にひとつ冷たいものが零れ落ちました。
けれどここで怯んでいる間はありません。
早く姿を隠さなければ土方さんの足音はもうすぐそこです。
愛は不屈の精神無くして成り立ちはしません。
総ちゃんは目じりに溜まった涙を、手の甲でごしごし拭いました。
そして押入に向かって畳の上を泳ぐように這い始めたそのとき、
「いや、みつはん、何してますのやっ」
無情にもがらりと障子が開いて、キヨさんの声が掛かりました。
総ちゃんはこんな姿を見られて土方さんに嫌われてしまうと、頭の中が真っ白になってしまい、竦んだまま動けません。
瞳からはぽろぽろと涙が零れ落ちます。
後ろを向いたままうな垂れた細い肩が、ついにひっくひっくと震え始めました。
ほつれた髪が項(うなじ)に乱れ、瞳から溢れるものを堪えようと当てた手からは袖が滑り落ち、か細い二の腕までもが露になってしまっています。
思わず見ている者の胸が鷲掴みにされそうな痛々しい姿に、土方さんも八郎さんも田坂さんもが、声も掛けられず其処に突っ立って見ていると、その横を何でも無い事のようにキヨさんが通り過ぎました。
その後には、これまたどうってこと無い風に梅香さんが続きました。
「満はん、何を泣いてはりますのぉ?いや、こないに髪も裾も乱さはって」
梅香さんが眉をひそめんばかりに、大きな声でいいました。
「そうどすえ。これしきの事で泣いてはったら、やや子は産めまへんえ」
キヨさんも総ちゃんを見て頷きます。
ふと『自分でも赤ちゃんを産めるのかな?』と思わず総ちゃんが勘違いしてしまいそうな、キヨさんの力強い声音でした。
総ちゃんはまだ泣き濡らした瞳のまま顔を上げて、キヨさんをぼんやり見ました。
キヨさんの有り得ない相談に、ほっそりと透けるような白い総ちゃんの項に視線を縫いとめたままだった三人も、流石に次の言葉が出ず息を呑みました。
「けど満はんに、やや子産め言うのんは難しいと違いますか?」
そんな男達の様子などお構いなしの梅香さんが、にこやかに言いました。
「どうしてですやろ?」
キヨさんも負けない位ににっこりと笑い返しました。
「満はんの、まるで小枝のようなほっそりした、女らしい柔らかさの欠片も無い身体ではお産はさぞ大変やろなぁ、思いましたんや。それにあないに儚い胸ではやや子がお乳探すのも難儀するやろし・・」
梅香さんは、ちらりと総ちゃんの薄っぺらの胸を見ました。
「安心しておくれやす。せやからこそ、うちの若せんせいがおりますのや」
キヨさんはここぞとばかりに、思いっきり胸を反らせました。
何だか自分の思惑を遥かに通り越して進む話題に、総ちゃんがキヨさんと梅香さんのお顔をそっと見ると、二人とも目は笑っていないのに頬のお肉は確かに笑っています。
それを見た途端、総ちゃんの今の今までどっぷり浸かっていた哀しみが、いっぺんに吹き飛んでしまいました。
濡れていた瞳は、今度は瞬きすれば、ばりんと音を立ててしまいそうに、あっという間に乾ききってしまいました。
キヨさんも梅香さんも、とても優しく話をしているのに、総ちゃんは何故かぞくぞく震えが止まりません。
総ちゃんは何とか恐ろしい会話を止めようと、『自分は女の人では無いので赤ちゃんは産めません』と慌ててキヨさんに言おうとしました。
けれどキヨさんは、そんな必死の総ちゃんなど見えていないように続けます。
「一事が万事、若せんせいに任せておけば間違いはありませんのや」
キヨさんは心底信じきっているかのように、満足げにひとり頷きました。
それを聞いて田坂さんは、『お産は自分の専門外』と言いかけましたが、振り向いたキヨさんの自信たっぷりの視線にあって、思わず喉元まで出かかった言葉を、丁寧に叉喉の奥にお返ししました。
「さぁさ、いつまでも泣いてはったらせっかくの綺麗な姿が台無しや。はよう叉お雛祭りの続きをせんと」
キヨさんは総ちゃんを立ち上がらせて背に手をあてると、あっとい間に身体を回れ右させてしまいました。
何が起こったのか分からないまま瞳が映したのは、部屋に入るに入れず廊下に突っ立ったままの田坂さんと八郎さんと、そして・・・
絶対に顔を合わせたくはない土方さんの姿でした。
総ちゃんは頬から色を無くして、咄嗟に叉後ろを向こうとしましたが、キヨさんがそれを許しません。
「キヨはん、それは満はんにお気の毒ですやろ?」
梅香さんがやんわりとキヨさんを嗜めました。
「何でですやろ?」
「何でって、捨てた男と新しい男、いくら手玉にとられはったとは言え、二人揃った処を面と向かっては、流石につらおすやろ。なぁ?満はん?」
梅香さんはそれはそれは優しく、あたかも同情するように言いました。
総ちゃんは土方さんを捨てた事も、拾ったことも無いので、梅香さんの言っている事とが分からず、自分を見て動かない三人の事など一瞬頭から無くなって、小首を傾げてしまいました。
黒曜石の深い色に似た瞳は瞬きもせず不思議そうに見開かれ、形よく小さな唇は何かを問いたげに言葉を秘め、折れそうに細い首は緩やかに横に傾いています。
先程転んだ拍子に乱れた黒髪の幾筋かが蒼みの強い白い頬にかかり、更にそれに振袖の淡い桜色が仄かに映っています。
土方さんも八郎さんもそして田坂さんも、其処しか視線を止めるところがないように、総ちゃんを凝視して動きません。
そんな三人の男達をちらりと見た瞬間、お化粧が剥がれ落ちてきてしまいそうに梅香さんの顔が強張りました。
ですがそれを一瞬にして持ち堪えて梅香さんは、はんなり笑みを浮かべました。
流石は島原の梅香さんです。
微笑み作りの年季が違います。
けれど相変わらず訳が分からない風に自分を見ている総ちゃんの瞳に合えば、そこはやはり面白くありません。
何だか無性に苛々してきます。
『ほんま憎らしい。こないな小娘のどこがええんやろか』
梅香さんは貼り付けた笑顔の下で、そっと毒づきました。
「誰を捨てたかてかましまへんわ。それより早ようお雛祭りの続きしまひょ、男はんたちもお待ちかねどすえ」
いつのまにか二人の間に来ていたキヨさんが、廊下の三人に、にっこりと笑いかけました。
捨てられた男・・というのがどうにも気になりましたが、キヨさんの有無を言わせぬ無言の圧力に、目の行方は総ちゃんに向けたままで、思わず首だけを縦にして頷いてしまった三人でした。
そして・・・・
こんな格好を見られて嫌われるのではないかと、ずっとびくびくしていた総ちゃんは、土方さんの怖いくらいに真剣な眸に合って、きっと怒ってしまったに違いないと、一度乾いた瞳が叉もうるうるしてくるのを、もう止める事ができませんでした。
瑠璃の文庫 お雛祭り♪(した)
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