おわびのあとがき 毎度毎度、事件簿を終えるたびに、お詫びのあとがきを添えなければならないとは、流石に情けなく。。。。 今回も書き始めた当初の予定の、軽く三倍は長くなってしまいました。 『今度こそっ、ちゃんと起承転結を考えてストーリーを作って、それからきっちりと計画立てて始めよう!』と云う前回終了時の誓いもあぶくと消え、相変わらずの見切り発車は、もう反省するだけ自分みたいな人間には無駄と、遅まきながら漸く悟る事が出来ました。あい。 で、本題(お詫び)なのですが、もしも美濃岩村藩のご関係の方が、この話を御覧になられたら、それこそお怒りになるか、もしくは『ヘソが湯を沸かす』位に呆れて笑われるか、そのどちらかだと思います。本当に、勝手を書いてスミマセンっ!! 美濃岩村藩は駿河の飛び領を入れて三万石。決して大きな藩ではありませんでしたが、藩校知新館の充実に力を入れていました。(藩校と聞くと、みょーに萌える体質が今回も災いしました(−−)) 士卒の師弟は、数えの八歳で入学し(藩主命令)、二十歳で修了を許されたそうです。しかも途中退学はダメっ!つー徹底ぶり。 そう云う土壌の中で、藩校教授陣、生徒の中に時勢を先取る人間が出てくるのも当たり前の事だと言えばそうで。(うぅ〜ん。やっぱりそれが自然かぁ) 維新前までは、代々江戸家老職を歴任してきた沢井家が藩政の重きを成してきたそうですが、戊辰戦争時には官軍に帰順しています。(時の流れとは云え、沢井のおいちゃん贔屓の私には辛い鴨) 城はやはり急峻な地形を利用した山城で、日本の藩における城の中では一番標高の高いトコロにあるそうです。 (やっぱり八っちゃんは、登城は嫌がるだろーな・・『やだね』とかあっさり・・) 昨年九月に美濃岩村と云う藩を知って、行きたい!熱が高まったのですが、未だその機会恵まれず、悶々としていますです。はい。(通り越して、木曽までは行ったのですが) でもその内、きっと行きたいと思っております。 (私の田舎からは、距離的には木曽よりも近いのですが、電車の乗り換えの時間が掛かるのですよぉ。車で行けばよいのでしょうが、右折・トンネルを大の苦手とする私には、とても山道をひとり走る技術と勇気が無く、かと云って此処でカタギとオタクとの二足の草鞋を履いているのを、『普通の日常』でばらし、同道を求める訳にも行かず。。悶々悶々) それから、もう少し突っ込んで。 植田末次の事件は、愛する島田伍長日記に書かれているのですが、伍長ってば、植田さん探しに尾張まで出張した折に、ちゃっかり故郷でおっかさまに会いに行って、『息災な姿を見られたのも金毘羅様の御利益』って感謝してるのです。 大きな体で金毘羅様に手を合わせている姿を思い浮かべると・・(^・^)ああ、カワイイ! (実母はお父さん切腹の折に一緒に自害していると言うので、多分養子先島田家のお母さんだと・・) 植田さん自身は結局見つからなかったらしいのですが。(ダメぢゃん♪) 伍長は中仙道方面を木曽福島辺りまで、同じく東海道方面を伊東センセ達が探したそうです。 てか、伊東センセは『端っから探す気なし』が希望! もうひとつ。 大垣藩大好き!の私が、まだHPを始める前に、箱館を調べている時、偶然に『幕末の箱館と幻の陶磁器・箱館焼きの世界』と云うのを、函館博物館でやっていたと知りました。(期間は2001.8.4〜9.23だったそうです) 何でも安政2年箱館港開港と同じ時期に、箱館に殖産をもくろむ箱館奉行の要請で、美濃から陶工が招かれ箱館焼きを作り始めたのだとか。 けどリスクが多すぎて、3年ほどで終いをみたのだそうです。 写真の展示品には箱館港が描かれていました。(本物見たいですぅ) 大垣藩に残されている資料によれば、大垣からは、陸路秋田経由で蝦夷まで渡り、その行程は約40日ほどだったそうです。 大変だったんだろーなぁと、想像しつつも、オタクな私には、意外なところで思わぬ『幕末・大垣−蝦夷』の繋がりを知ったその時の驚きと、ある種の感動は言葉では言い表せませんでした。ううう、嬉しい。(タダの大垣フェチだけどさぁ) そんなこんなで、『植田捕縛』と『美濃焼きin箱館』、この(私だけが)印象強い二つを無理矢理美味しく結びつけ、今回の話のネタにしてしまいました。・・・とほほ。 本当に申し訳ナイ事ですぅ。 最後に。 尾高さんの生まれ身分の郷士とは、『士分でありながら常は農業に従事する身分』と言うのが大まかな解釈らしいのですが(坂本竜馬の土佐藩の場合は、山内氏支配の前の長宗我部氏の家臣の事とを区別しているらしいです)、その土地の歴史によって意味するトコロが多少変わってくるようです。相変わらず勉強不足でスミマセン! もしも尾高さんが岩村藩藩士であったのならば、叉少し状況が変わってきていたんだろうなぁ・・と思います。 『大切なものを護る』と言う自分の意志を貫き通す前に、まず御家大事を考えるだろうな・・とか。 そんな風に思ったりしたので、藩から禄を貰う武士とは少し違うものの見方が出来るのではないかな?と勝手に考え、敢えて尾高さんを郷士という立場の人にしてみました。 尾高さんが田鶴さんとこの先どう云う風になるのかは、自分でも分からないのですが(叉いい加減な・・)、でも世の中が明治に変わり幾年か過ぎた頃、東京と名を変えた江戸に出て来た二人が、総ちゃんのお墓参りをしている姿を、想像したりしています(^・^) それがちょうど桜の満開の頃だといいな・・とか。へへへ。 ただただ長いだけで、ヤマもオチも無い好き勝手な展開の話でしたが、もしも最後までお読み頂けたのならば、お礼の言葉もありません。 感謝の思いは到底言葉で表せるものではありませんが、改めてお礼申しあげます。 ありがとうございました(○^0^○) 2004.3.31 ももの木ちい |