冬 陽 (十弐)




遠くに意識を放り投げたのは、もしかしたら現(うつつ)から逃れたかった己の心だったのかもしれない。
薄く瞼を開けて、瞳に映し出した自分を見つめる土方の険しい顔を見た時に、ふとそう思った。
闇にいたのは、数回息を止める間も無い僅かな時だったのだろう。
前のめりに崩れた身体は、全部が倒れる前に、支えられた腕で夜具に横たえらたらしい。

「大丈夫か?」
「・・・大丈夫です」
間髪を置かず返すことの出来た応えは、己の耳にも存外にしっかりと届いた。
だがそれとは裏腹に、こたえた声は確かに自分のものなのに、まるで一つ膜を張ったような心元無さの中で総司は聞いていた。
「無理をするな」
頬に触れられた手の感触に、もう一度瞼を閉じた。
だが長いこと外気に触れていたそれは、骨の髄まで凍てついてしまったのではと思える程に冷たく、総司に瞳を開けさせ次を問う新たな決意をさせるに十分だった。

「・・・・浩太さんはどうしているのです」
仰臥したまま、視線を土方に合わせずに、喉の奥からようよう声を搾り出した。
「田坂さんの処にいる。・・・瀬口さんの亡骸を守るように動かない」
隠す事無く真実を伝える静かな口調が、土方の自分への労りと優しさのように総司には思える。

音も無く、声もなく、息することすら殺したように瞬きしない黒曜の瞳が、ただ宙を見据えて微動だにしない。

「浩太さんが・・・瀬口さんと会えた時・・・・」
「すでに落命していた」
言葉にある重みで受けるであろう衝撃を予期して、包み込むような土方の声音だった。
遂に総司の瞳が閉じられ、眦からひとつ、それを待っていたかのように零れ落ちるものがあった。

「膳所藩邸に着いたとき、凄惨であったろう修羅場は終わっていた。・・・そして瀬口さんは既に事切れていた」
語る土方の声を聞いていた総司が、突然両の腕を重ねて瞳を覆った。
袖が落ちて剥き出しになった腕を肘で折り、白い晒が巻かれた手指までで顔の半分が隠れた。
それが耳に届く全ての事柄を信じまいとしている、総司の痛々しい心裡のように土方には思えた。

火鉢にある鉄瓶から、水が蒸気となって冷気に広散する湿った音だけが、二人がいる室に響く。


浩太は置いてゆかれた今を、どのような思で過ごしているのだろう。
悔しさだろうか、無念だろうか。
それとも恨みだろうか・・・
否、そういう全ての感情は既に心には無いのだろうか・・・

腕の下にある瞳を開ける事はできない。
開ければ浩太の姿が自分の行く末と重なり合いそうだった。
置いて行かねばならなかった瀬口の思いと、置いてゆかれた浩太の思いが、今総司の胸の中でうねる波となり交互に寄せては返す。


「・・・置いて・・」
両腕で隠しきれない唇が、微かに動いた。
想い人の伝えようとしている心を、土方は一つも聞き漏らすまいと、次の動きを凝視している。
「・・・置いていかれるのは・・・いやだ」
わななくように言葉尻が震えたのは、それが怯えに突き動かされた衝動の果ての言葉だと、土方は現(うつつ)を拒む細い腕にそっと触れた。
砦を解かれる事に僅かに抗っただけで、総司は土方の視界に濡れた瞳を晒した。
幾筋も止むことなく伝わるものを、総司はもう隠そうともしない。
「俺も置いてゆくことは許さない」

言い切って捉えた黒曜の瞳の、奥深く定まることなく揺れつづけているものは、自分に置いてゆかれる日を怯え、それに慄(おのの)く総司の本当の心だ。
瀬口雄之真に置いてゆかれた水梨浩太を我が身と置き換えて、行く末に恐怖する魂は、あまりに脆く、あまりに哀しく、そして何よりも愛しい。
だがそれは同時に、自分の中にある思いと寸分も違わぬものだと言う事も、土方は知っている。
仰臥している総司に、覆い被さるように静かに体を重ねると、土方は儚い背と夜具の隙に腕を回して抱き込んだ。

「・・・お前を追い続ければ続けるほど、俺は一時も安堵する時が無い」
凍えた体に、総司の帯びた熱が伝わる。
「お前は知っているか?俺がお前に置いてゆかれる事をどれ程恐れているかを・・」
瞳に膨れあがった露が、またひと滴零れ落ちた。
「お前はいつもいつも俺を不安にさせる。傍らからすり抜けてゆかぬように、繋ぎ止めておきたい。だがいくら追い求めても、腕を掴んで胸に抱き入れたと思った途端に、すぐに叉心元無くなる。・・・尽きぬ不安に恐怖して、心安らぐ時など一瞬も無い」

薄い胸を隆起させしゃくりあげる想い人の鼓動は、そのまま土方の胸に伝わる。
背に回していた腕を動かし、頭の後ろを手のひらで包み込むと、総司は嗚咽を押し殺すように、土方の肩口に顔を伏せた。

「・・・・際限がないな。俺はお前を追い求め、お前も俺を追い続ける・・・そしてどんなに互いの温もりを知ってもまだ足りない・・・」
それは更に強いものを、決して切れることの無い永久(とわ)の絆を貪欲に求め続ける限り、道の果ては無いのだと知りつつ願わずにはいられない、人の業の深さなのかもしれない。
「それでも俺はお前を求め続ける。安堵できる日などこなくてもいい。求め続ける限り、お前は必ず其処にいる・・・違うか?」
晒に覆われた手がおずおずと伸ばされ、捜し求めていたように土方の胸元に触れると、着ているものをきつく掴んだ。
爪の先まで白くなるほどに、強い力を篭められた指が震え、堪えきれずに漏れる嗚咽が少しだけ大きくなった。

「俺はお前を見失わない。お前も俺を見失うな・・見失うことは許さん」
愛しい者の髪に頬をつけながら、この想いの丈をぶつけて泣きたいのは、或いは自分なのかもしれないと土方は熱くなった瞼を閉じた。

深閑と静まり返った闇を震わせた水梨浩太の悲しい叫びが、全ての気配が鳴りを潜めるような冷気の中で、流れるものを拭おうともしなかった田坂の慟哭が、今土方の耳に幾重にも重なり合って響いた。






都の東に位置する粟田口は東海道からの京の入口になる。
よって人々の往来も多い。

膳所藩国家老鳴滝重吾正親は、被っていた笠を指で少しあげると、視界の先に映った人影が、ゆっくりと掛けていた茶屋の縁台から腰を上げるのを見止めた。
近づくにつれ、それが白い被布を纏った若い男だと知ると、唇の端に微かに笑みを浮かべた。
「暫しここで休息致す」
後ろに居た供の者に言い置くと、まっすぐに茶屋の男に向かって歩を進めた。


「待ち伏せか」
「叔父上にはつつがなく・・・」
「堅い挨拶などいらん」
苦笑しながら顎紐を解いて横に腰掛けた鳴滝の、歳よりもずっと若く見える精悍な横顔を田坂俊介は見て笑った。
「何がおかしい」
「いえ、相変わらずお元気そうだと思いました」
「皮肉を申すな」
「皮肉ではありません。叔父上がご健勝な内は膳所藩も安泰かと」
「今度こそ皮肉か」
「願望と・・・、言った方が良いのかも」
田坂の言葉を耳にしながら視線を移すでもなく、鳴滝は先ほど店の者が置いていった茶に口をつけた。

「内野左佐衛門の公金横領が明るみになった。一緒に京都藩邸用人小田喜平も、江戸詰めの頃から内野に荷担して私腹を肥やしていたと判明した」
世間話をするような、鳴滝のてらいのない口調だった。
「・・・そうですか」
「現在内野は上洛した折に暴漢に襲われ負った傷のため、京都藩邸で療養中だ」
「で、叔父上のこの度の急な上洛はどのような用件で?」
「それをわざわざ俺の口から言わせたいのか」
揶揄しながらも、何処かこの会話を楽しむような鳴滝の苦い笑い声が漏れた。
「聞きたいと、そう思います」
語りながら、正面を向いたままの田坂の眸は、先ほどから街道を忙しげに行き交う人々の様を映している。

「内野左佐衛門の処罰は切腹、家名は断絶と決まった。それを伝えに行く。あとは・・幸いにも未遂に終わったが、ご家老の五男殿の奪取を試みようとした若い者達の処遇を如何にするか・・・」
「頭の痛い問題ですな」
漸く田坂が鳴滝に顔を向けた。
「お前に言われたくは無い。が、お前も医者になったのならば、少しは俺の頭痛の種を無くす方法を考えろ」

若い時分に尊敬し、信頼し、慕っていた先達の忘れ形見は、その面影を色濃く残して今自分に笑いかけている。
一瞬、何とも形容しがたい懐古の念に捕われたのは、己の重ねた歳月の成せる業なのか・・・
どうにも情けない今日の自分を、鳴滝は胸の裡で苦笑した。

「俊介、俺には時が無い。言いたいことがあるならば直截に申せ」
そんな己の感情の綾に触れる事を拒むように、鳴滝重吾は抑揚の無い声で命じた。
「すでに新撰組副長土方殿より、お聞き及びかと思いますが・・・今回瀬口雄之真が内野左佐衛門を襲ったのは、故あってのこと。雄之真はご存知の通り討ち果てました」
感情の起伏を殊更押さえて伝える田坂よりも、聞く鳴滝の横顔に険しい翳りが浮かんだ。
それは瀬口雄之真という若者を知り、その将来(さき)に光りあることを願っていた鳴滝にとっても、重く苦しい事実だった。

「今日叔父上が上洛されるのを土方殿より知らされ、早飛脚を出し、無理を承知でこうして話を聞いて頂く時を持ったのは他でもありません。・・・瀬口雄之真が家臣、水梨浩太を私にお預けください」
相手に否という言葉を怯(ひる)ませる、田坂の凛とした声音だった。

「どんな理由があろうと、生きておれば瀬口雄之真は咎人として処され、死して尚その名を穢さなければならなかった。むろん水梨浩太も連罪だ。・・・が、京都藩邸では土方殿に、瀬口は昨年病死したと告げたそうだ。多分、水梨浩太もその通りなのだろう」
鳴滝の応えはそんな言葉で返って来た。

中に籠められた意味をまだ判じかね、更に問うべく田坂が口を開きかけた時、二人の目の前を、それぞれが好き勝手をしているようでいて、その実一定の規則を作っていた人の流れが急に止まった。
俄に道の脇に寄った人々で、それまで閉ざされていた前方に視界が開けた。
やがて湧き上がる土煙が見え、勢いづいた早馬が姿を現したと思った途端、それは瞬きをする暇すら与えぬ内に走り過ぎた。


「どうにも世の中が、騒がしいものよ・・」
また何事も無かったかのように動き始めた人の流れに目を遣って、鳴滝が独りごちた。
「気忙しく日々を送らねばならぬのも、生きている内は仕方が無いのかもしれん。・・・だが雄之真は先を急ぎすぎた。俺はあの世に渡ったときに、それだけは奴に言い聞かせねばならぬ」
「聞こえぬふりをして、あいつは居眠りの真似でも致しましょう」
「・・・さもありなん」
在りし日の瀬口雄之真を思い浮かべれば、満更あり得ない話でも無さそうな情景を思い浮かべたのか、鳴滝の目が和んだ。

「さて急がねばならん」
やがて感傷に溺れる自分を切り捨てるように、鳴滝は手にしていた湯呑みを置いて立ち上がった。
「水梨浩太の事、まだ返事を聞いてはおりません」
「返事はした。とうに死んでいるものを、どうしようがお前の勝手だ」
一瞬見開いた目を田坂はすぐに伏せると、深く頭(こうべ)を下げた。

「お前のその気質、亡き杉浦殿によう似てきた」
顔を上げた田坂を見る鳴滝の双眸が穏やかだった。
「そうでしょうか」
「先日の話、俺はまだ諦めた訳では無い」
「秋に呼びつけられました時に伺いました御典医の話ならば、とっくにお断り申し上げた筈」
「頑固者めがっ」
「ついでに臍も曲がっております」

「好いた人間ができたのか?」
ふと思いついたとでも言うような、鳴滝の似合わぬ好奇心に、ついに田坂が低い笑い声を立てた。
「図星か?」
「さて如何なものか」
「首尾はどのようだ?」
「焦れては事を仕損じます」
「意気地の無い奴めが」
「叔父上のようにはまいりません」
「何とでも言うが良い。・・が、人も時も待ってはくれぬぞ。欲しいものは奪い取れ」
「その言葉、一度は胆に命じておきます」
「また機会を設ける。お前の惚れた相手の話はその時に聞く。御典医の件も未だ捨てずに胸に仕舞っておけ」
言い終えるや否や鳴滝重吾は隙無く身を翻し、もう振り返らず待っていた家臣達に向かって歩み出した。


遠くなって行く後ろ姿が人混みに紛れて見えなっても、田坂は暫くその方向に視線を止めていた。

慕う相手の行く先は、又自分の還る処でもある。
そして想い人がいる場所でもあった。
奪ってしまいたいと苛立ち、守ってやりたいと慈しみ・・・
揺れる二つの心の行く先が、恋情という名の砂の砦にも似た危ういものだと言う事も知っている。
それでも求めずにはいられないこの想いが、いつか堰を切って怒涛の如く迸る日が案外に近い予感に田坂は吐息した。

すっかり変わった視界の中の情景に気付き、漸く視線を移そうとして落とした地に、冬の陽射しが溜まりを作っていた。
そこだけ浮き出たように世界が違う穏やかな様が、往来の喧騒とひどくかけ離れているようにも、また常に隣り合わせにあるもののようにも思えて、田坂は飽くことなく眸を細めて見ていた。





明日には正月を迎えると言う大晦日の今日になれば、五条にある田坂の診療所も流石に人気がない。
此処ではあまり感じた事の無い静けさが、返って総司を気後れさせた。

年始は田坂も休むだろうからと、今朝の巡察を終えて午後一番には来るつもりが、思いもよらず遅くなってしまった。
黒谷に挨拶に行かねばならないと言う近藤と土方を見送って屯所を出たから、もう日も傾き始めている。
今日はあの事件以来、初めてこの診療所を自分から尋ねた。

あれから暫く床についてしまった自分を、田坂は幾度か往診にやって来てくれた。
まだ傷が治りきらないであろう浩太を気がかりにしていた自分に、田坂の方からさり気ない調子で様子を語ってくれた。
見た目には日々健やかな体と精神を取り戻していると言う、田坂の言葉を信じなかったわけではない。
だが浩太の心の傷は、次の世で雄之真に巡り合えるまで、きっと塞がることは無いのだろう。

その時浩太は何と告げるのだろうか。
置いていかれて悲しかったのだと、悔しかったのだと、それとも残された刻(とき)を、ただ邂逅の為だけに費やしていたのだと・・・・・
どの言葉を選んで雄之真に語るのだろうか。
己の手指には、無数の傷跡が残る。
それもやがて一筋の糸のように薄れ行くのだろうが、きっと自分は瀬口雄之真を忘れることはないだろう。

門の前に佇み、中に入るその一歩を躊躇う総司に、容赦ない北風が吹きつける。


「いや、沖田はんやおへんか」
馴染みのある柔らかい声がして、咄嗟に視線をそちらに移すと、やはりキヨが嬉しそうに小走りに駆け寄ってきた。
「具合どないです?また無理なことしはって・・・もう、若せんせいの話を聞いた時は、キヨは心の臓が止まるかと思いましたえ」
「・・・心配をかけてしまって」
キヨのまだ心配気な眼差しにあって、総司は恥じ入るように俯いた。

「さぁ、こないな処に立っておらんと、中にお入りやす」
「田坂さん・・・お留守なのですか?」
袖を引かれるように促されて、総司は困惑したままキヨに問うた。
「お昼食べはって、そんで何や粟田口まで行ってくる言うて出かけましたんですわ・・。せやけどすぐに戻りますやろ」
キヨの口調は屈託が無い。
「せんせい、もしかしたら今日辺り沖田はんが来るかもしれん、そう言うてはりましたわ。せんせいも妙な勘だけは当たらはるなぁ」
可笑しげに笑った声が、総司の胸に重くあるものを、ひとつづつ解放してくれる。

「キヨさん、浩太さんは・・?」
思い切って尋ねた問いに、それまで声を立てて笑っていたキヨが、ゆっくりと総司を見上げた。
だが含むような笑いを、ふくよかな頬から消しはしない。
「今はもうすっかり体の方は傷も塞がって・・・、そうや、沖田はんよりよっぽども早う治らはる、そう若せんせいが感心してはりましたわ。・・・せやけど、お心はどないなもんですやろなぁ。せんせいにもキヨにも明るぅ振舞わはってますけど・・・」

少しだけ首を傾げるようにしたキヨの長く伸びた影が、主の仕草を大きく真似た。


「けど、心配おへん。浩太はんは強いお人や・・・。置いて行かはったと瀬口はんを恨むよりは、残してくれた寿命を瀬口はんのご意志を貫く為に使われはる・・・キヨにはそないなお人に思えますのや。今は哀しいお心も、ゆっくりと、ゆっくりと・・・、きっとお元気にならはります」
「・・・ゆっくりと?」
呟いた総司に、キヨが頷いた。

キヨの声音が、辺りを染め始めた茜色のように総司の心にしみいる。
それは雪を溶かす春の陽射しのように強いものではなかったが、日に干された地にひっそりと降り始めた慈雨のように、或いは音も無く、闇にたったひと色だけを映して積もる雪のように、静かに総司の胸を満たして行く。

「ほんま、こないな処に居たら風邪引いてしまいます」
改めて気づいたように、キヨが掴んでいた総司の袖を、もう一度慌てて引いた。
その時ふと落とした視線の先に、キヨが手にしていた花鋏が目に入った。
「キヨさん、何か用事があったのではないのでしょうか?」
そういえばキヨは玄関からではなく、庭を回ってやって来た。
そこで偶然、門の前に立っていた総司を見止めたようだった。

「いやや、すっかり忘れてしもうた・・。この・・」
そう言いながらキヨは門の脇にある、紅の実を葉の下に付けた、背の低い木の処まで歩いて行った。
「・・・この、万両の枝を少しだけ切るつもりで来たんやった」
本来の目的を忘れ去っていた自分を、面白そうに笑うキヨに、総司もつられて笑いながら万両の木の近くまでゆくと、枝を選んでいるキヨの横に立った。

「お正月に活けるのですか?」
「へえ、そうどす。千両と、万両と・・・それから寒梅やら何やら・・・目に入る花は賑やかで綺麗な方がええですやろ」
それが浩太の心を癒そうとするキヨの優しさなのだと、総司は思った。
「手伝います」
「おおきに。沖田はんに手伝おうてもろうたらすぐですわ」
見繕ったものの上を覆う枝を、切りやすいように両手で上げて除けると、キヨが嬉しそうに笑った。


「たくさん要るのですね・・」
気に入った枝だけを切り終えて、ようやく立ち上がったキヨの両手には、抱えきれない程の万両がある。
「・・・お約束しましたのや」
「約束?」
「へえ。お正月の間際になったら来はるから、その時に万両を切ってお渡しすると」
「誰とですか?」
「内緒ですわ」
キヨは見るものが哀しくなるような笑みを、少しだけ浮かべた。


日暮れの寂しさと、戻らぬ者達を待つ不安で弱くなりかけた心を、通りすがり慰めてくれた侍は、夜更けて、二度と物言わぬ亡骸となって再び自分の前に現れた。
だがキヨは、いつかきっとあの侍が万両の枝を取りに来ると、不思議に思い続けている。
きっと来年も再来年も正月を迎える頃、自分はこうやって余分に万両の枝を切るのだろう。
そしてそんな自分の心を、キヨは笑わない。
いつとは決めぬ約束は、果たされるまで破られる事は無い。

「内緒・・・ですのや」
ふわりと呟いた語尾が、少し冷たさを増した夕暮れの風に沿うようにして流れて消えた。

応えは自分に向けられたものではない。
だがキヨの頬に一瞬浮かんだ翳りが、総司にそれ以上聞いてはいけない何かを思わせた。

いつの間にか、辺りは茜色から金色(こんじき)に移ろい行こうとしていた。



「いい加減に中に入ったらどうだ」
声を掛けられるよりも一瞬早く、総司が気配に気づいて振り向くと、いつの間に戻って来ていたのか、田坂が門を潜るところだった。

「いや、若せんせいお帰りなさい」
キヨも驚いたように目を丸くした。
「そんなに驚くことか?」
「えらい早いなあ・・・思いましたんや」
「何だ、キヨは俺が早くに戻ると迷惑か?」
「迷惑なことなんかあらしまへん。・・・けど、キヨはもう少し沖田はんと二人で万両の話をしたかったんです」
悪びれた風も無く言いってのけるキヨを、流石に田坂も笑うしか無いようだった。

「分かった。すまなかったな、大切な話の邪魔をして。が、そろそろ中に入ってくれ。正月から風邪引きを往診に行くのはごめんだ」
ちらりと総司を見やった目が笑っていた。
それを不満そうに見返しながら、田坂の顔がいつもと変わらぬものと知り、総司の瞳に安堵の色が浮かんだ。


全てが以前と変わらぬのではない。
確かに瀬口雄之真はこの世の人ではなくなり、残された人々は未だ呻吟の中にいる。
田坂の心裡にある傷も、或いは朱い色の流れるのを止められずにいるのかもしれない。
それでも決して皆それに目を瞑ろうとしているのではない。
煩悶は、先への道しるべとして此処にある。
そう信じることを良しとするような、総司に向けた田坂の強い眼差しだった。

先に行くキヨに続こうと身体を動かした折に、視界の端に門の外の情景がちらりと映った。
瀬口はこの門を辞する自分と、それを送る田坂を見たのだと言っていた。
・・・瀬口雄之真は何処からそれを見ていたのだろう。
ふいに芽生えたその思考に暫し捉われたように、総司の視線が外に向けて止まった。

「どうした?」
急に動きを止めた総司を訝しんで、田坂も又足を止めた。
「・・・瀬口さんがこの門から出る私と、田坂さんを見ていたのだそうです」
田坂は黙すことで、静かに総司の次の言葉を待っているようだった。
「それでその時に複雑だったと・・・」
「複雑?」
「私を見て兄上に似ていると驚いて、それから田坂さんを見て衝撃を受けて、次には喜んだと・・・。田坂さんは自分が案じていたよりも、ずっと強く先を見て歩いていたのだと・・・そう、知って嬉しかったと、瀬口さんは言っていました」
「・・・そんな事を言ったのか」
自分を見つめて頷く黒曜の瞳が、瀬口の面影を追い、奥に深い哀しみを湛えているのを見取って、田坂はそれを慰撫するように笑いかけた。


思い出せば苦悶するだけだった兄の面影を、強く髣髴させる総司に向けた眼差しだけで親友は、一瞬の内にこれが自分の想い人なのだと察したに違いない。
自分の来し方行く末を嬉しがっていたのだと告げる総司の言葉が、今更ながら生きて語る雄之真がいない事を、田坂の胸に足元を浚われるような寂寥感とともに知らしめる。
ふと視線を巡らせたのは、そこに今は居ない親友の姿を捜し求めたい衝動に駆られたせいなのかもしれなかった。

見つかる筈も無いと百も承知で、それでも一箇所に視線を留めていたのは、或いは待っていれば親友は、せめてこの世に残った友に笑い声の一つも聞かせてくれるのではなかろうかと、そんな埒(らち)も無い思いに捉われたからだった。
だがこんな自分を見たら雄之真はきっと笑うだろう。
その笑みは久しぶりの邂逅を喜ぶものなのか、それとも惚れた相手に向ける自分の眼差しをからかうものなのか・・・


「・・・どっちだ」

まるで誰かに語り掛けるように呟いた田坂の横顔を、総司が不思議そうに見上げた。
その瞳に合ったとき、思わず声を漏らして苦笑した。
それに釣られるように総司の唇が動くよりも早く、すでに玄関の中にいたキヨが、遅い二人を急(せ)かすように声を掛けた。
何かを言いかけたが止めて、慌ててそちらに向かう薄い背を、田坂は目を細めて見ていた。

「田坂さん・・」
付いてこない後ろの影を心配して、総司が振り返った。
「今行く」
応えると、総司は安堵したように又背を向けた。


落ちる寸座の冬の陽が、最後の一条を地に落とした。
それは凍てつく季節に不釣合いな柔らかな光の色を成し、行く先の足元に戯れた。

その綾なす輪の中に一歩を踏み出すと、田坂はゆっくりと先に行く想い人に向かって歩き始めた。






                  冬陽  了   2003.2.10










           事件簿の部屋