初   戀




「・・・あっ」
不意に発せられた声に振り向けば、ついてくる筈の宗次郎は立ち止まり、目から上を手で覆っている。
「どうした」
歩の巾を大きくして近づくと、指の隙間から覗く片方の瞳だけが土方を捉えた。
「痛い・・」
「どこが?」
半分以上は手の陰で見えないが、その下で顔を歪めているのが分かる。
宗次郎は痛みを堪えるのに必死のようで、きつく唇をかみ締め、その後の言葉が続かない。
このままでは埒があか無いと、右の手首をとって囲いを外してみれば、額にかかる前髪の隙間に白い皮膚とは異な彩りがぽつんとある。
だが其れはみるみる腫れあがり、小さな紅い点だったものはすぐに指の腹程の大きさになった。
「蜂か?」
頷いてはみたものの、刺された痕のすぐ下にある宗次郎の右目は細められ、痛みからか滲むものすらある。
「だからついて来るなと言ったのだ」
諌める言葉には、諦めともつかぬ溜息が籠もる。
その声を聞いて、小さな面輪が気の毒な程に萎れた。

実家が副業としている薬の根を取りに行くと云う土方に、まだ夏の名残の濃い叢には、棘刺す葉もあれば針刺す虫もいると拒む問答を押し切り、ついて来た挙句がこの始末だった。
情なさと、疼き激しくなってきた痛みに、もうどうして良いのか分からず、自分を見下ろす視線から隠れるように顔を伏せた。


「顔を上げてみろ」
だがそんな少年の心裡など知る由も無く、掛かった声は常と変わらぬ低いものだった。
素直になれず躊躇い俯いていた視界の中で、業を煮やしたようにつと指が伸びて来、それが頤に掛けられたと思った瞬間、強引に上に向かされた視線の先に、此方を見ている仏頂面があった。
我が身に何が起こっているのか判じる余裕も無く、次に瞳が映し出したのは、息すら触れてしまいそうに近くに迫った土方の顔(かんばせ)だった。
そのまま前髪を手で乱暴に掻き揚げられ、思わず目を瞑った刹那、熱を持った額に何かひんやりとしたものが触れた。
少し湿り気を帯びたそれが何なのか―――
されるがままに身を竦め、やがてうっすらと開けた瞳には、土方の喉首だけが映る。
額に触れているのは土方の唇だと・・・・
漸く気付いた途端に、どくりと心の臓が大きく高鳴った。
そして寸暇も置かず、今度は早鐘よりも激しい鼓動が、身体全部を揺らすかのように打ちはじめる。
喉仏が上下する様を映し出す瞳は大きく見開かれたままに、動きを止めてしまった時は何もかもを宗次郎から奪い去り、強張りを解けない身体は身じろぎも出来ない。
五感は、ただひたすらに傷に触れる舌先の感触だけを追う。


「毒消しにもならないが、やらないよりはましだろう」
掴んでいた薄い肩から手を離し、己の唇を手の甲で拭いながら、土方の物言いは先ほどよりも幾分柔らかい。
だがその途端、呆然と立ち尽くす少年の頬に、葉を滑る朝露のように零れ落ちるものがあった。
「どうした?」
予期せぬ涙に、流石に土方も驚きを隠せない。
慌てて首を振る宗次郎にも、今自分の瞳から溢れ出ているものの正体が分らない。
主の意志など端から聞かぬそれは、ただただ止めなく頬を伝う。
「痛いのか?」
問われても、言葉で返す事など出来はしない。
痛いのは―――
刺された痕ではなく、こみ上げる切なさが息することも許してくれない胸の裡だ。
けれどどうしてこんな気持ちになるのか、それすらも分からない。



朝晩の風の涼やかさに、夏が往きかけているのだと知っても、土方はなかなか試衛館に戻ってはこなかった。
日野の家業が忙しいのだと、師の近藤は教えてくれた。
そうして近藤についてやって来た此処で、漸く一月ぶりで逢いたくて仕方が無かった人に見(まみ)える事が出来た。
今日の出稽古を指折り数えて待っていた自分を、土方は知らないだろう。
顔を見たら最初にどんな風に言葉を掛けようか、そんな事すら楽しみにしていた愚かな自分を、きっと知らないだろう。
そして傍らに姿を見えなく過ごす日々は、どんなにつまらなく心許ないものだったのか・・・
土方は少しも知りはしないのだろう。

秋が終われば冬が来て、歳が明ければ十五になる。
もう子供では無い自分が、寂しいと、傍に居て欲しいと、袖を引いて駄々を捏ねることなど出来はしない。
けれど今胸にあるのは、寂しいと思う気持ちとは違う。
未だ頬を伝うのは、切ないと、切ないと、鼓動を刻む度に心が零すものだ。
こんな気持ちなど知らない。
こんなにも苦しい感情を、何と云うのか自分はまだ知りはしない。



「・・・知らない・・」
やっと開いた唇は、時折しゃくりあげながら、漸く小さな声でひとつの言葉を作った。
それは宗次郎自身にも止めることの出来なかった、我知らず漏れた呟きだった。
だが又しても分からない言動は、益々土方を混乱させる。
「知らない?」
どうにも分からぬ今日の宗次郎を持て余しながら、問う声も遣る瀬無い困惑に染まる。
頷いて直ぐに俯き、手の甲で流れるものを堪えようとする姿を、土方は暫し無言で見つめていたが、やがて背を向けて地に片膝ついた。
「負ぶされ、帰るぞ」
顔だけで振り向き促した視界の中で、泣きはらした瞳が驚きに瞠られた。
それでも宗次郎は動こうとしない。
川面から薄野原を渡って吹く風が袖と袴を孕ませて、華奢な体躯の輪郭を露にする。
「早くしろ」
声に、聞かない少年への短気が混じる。
「・・・もう子供じゃない」
先ほど見せた醜態を恥じているのか、瞳に宿った勝ち気な色は頑なに土方の背を拒んでいた。
いつもはそんな駄々など強引に封じ込めるものを、何故か今日は諦め早く、そう時を置かずして土方も立ち上がった。
それは掴めない宗次郎の心に戸惑う、己の弱気の所為かも知れない。
そんな他愛の無さに呆れながら、声にはせずに苦く笑った顔を、深い色の瞳が瞬きもせずに不安そうに見上げている。

「ついて来い」
言いながら差し出された右手を、宗次郎は一度見、すぐに視線を上げて今度は土方を見た。
「しっかりついて来い、そうすればもうそんな痛い思いをしなくてすむ」
慣れぬ優しさの照れ隠しのように、方頬だけを歪めて笑った顔は、だがすぐにいつもの少し無愛想なものに変わってしまった。
おずおずと伸ばした骨ばった手指を、包み込むように握り締めた大きな手の主は、そのまま踵を返し、後はもう親切などすっかり忘れた風に大股で歩き出す。
それに時折は引っ張られ小走りになりながら、宗次郎は先を行く背に続く。


寂しかったのだと・・・
告げたらきっと土方は笑うだろう。
けれどそれとも違う今日の心は何だったのだろう。
優しいのに切なくて、嬉しいのに苦しくて、甘やかなのに核(さね)はほろ苦い。
 
そしてその感情は、今手を引く人の為にだけあるものだと・・・
きっとそうなのだと・・・
ただそれだけが、今は宗次郎の知る全てだった。






         馬籠宿弐へ