氷 雨 −hisame−
朝から怪しい雲行きだったが、降りだしたのは、昼を少し過ぎていた。
冷え込みのきつさから雪になるかと思ったそれは、予想を違え、細く煙るような氷雨だった。
得意客を店の外まで見送り、低くしていた頭を上げた時、視界が広く開けた。その寸座、此方に近づいて来る、ひとつの影を捉えた。傘を前に倒し気味にしているが、その姿が総司だと判じるや、松吉は己の頬の緩むのを感じた。だがそれは一瞬の事で、笑みは不自然な形で歪み、眸は茫然と見開かれたまま瞬きを止めた。
ひと月。
否、ひと月は経ていない。
顔を見なかったのは、僅かそれ程の時だ。しかしその僅かな時の経過は、総司の身から、愕然とする勢いで肉を削いでいた。若者の胸に巣喰う病は、獰猛な牙を剥き、したたかに己の存在を誇示し始めたのだ。
「松吉さん」
曇りの無い明るい声が、耳朶を打った。
その声に漸く我を取り戻すと、松吉は慌てて、中途にしていた笑みを仕上げた。
「お越しやす」
「簪を見立てて欲しいのですが、お邪魔では無いでしょうか?」
「沖田はんを邪魔やなんて、誰が云いますかいな。けど簪を貰いはる果報なお方は、又姉さまですやろか?」
少々意地の悪い問いかけに、困ったような笑みを乗せた面輪が頷いた。だがその笑い顔にある色は、白を通り越して青く透け、又も松吉を不安にさせる。
「さぁさ、入っておくれやす」
胸の隙にするりと滑り込んだ闇に引き摺られまいと、跳ねるような声が、軒下に響いた。
「こないな雨が、一番の癖もんですのや」
不意に掛った声に、簪に落としていた総司の瞳が、松吉に向けられた。
「癖もの?」
眉をしかめたその大仰さが可笑しかったのか、問う声には笑いがある。
「そうです、癖もんです。音もさせへん、静かな、まるで絹糸のように優しげな雨ですやろ。けどこう云う雨は、いつの間にか着ているもんに浸み入って、体の芯まで凍えさせますのや。いっそ雪の方が、粒が大きいだけましかもしれまへん」
「雪なら、初雪だったのに…」
「そら、沖田はんには気の毒しましたなぁ」
気落ちした物言いに稚さを垣間見、松吉の頬が緩んだ。
「そうそう、土方はんは、相変わらずですか?」
頷いた総司の口辺に笑みが浮かんだ。
「帰って来てから、毎日難しい顔をして忙しそうにしています」
「土方はん云うお人は、世の中が荒れて慌しくなればなる程、力が漲(みなぎ)るみたいですなぁ。けったいなご気性ですわ」
「そうかもしれません」
おっとりと恍(とぼ)けたような物言いだったが、それが満更外れていないだけに、応えた声が笑っていた。
だがその衒いのない笑い顔を見詰める松吉の脳裏には、ほんの数日前、五条にある田坂邸の一室で見た、土方の厳しい面ざしがある。
――時雨月とも呼ばれる、雨の多い十月十四日。
幕府は朝廷に政権を返還し、此処に三百年に渡る徳川の支配は終焉した。
無論、この未曾有の出来事は、新撰組にも大きな衝撃を与えた。しかも折悪く、土方は隊士募集の為江戸に下り留守。その中にあって局長の近藤は、動じぬ姿勢を取り続け、隊内への余波を最小限に食い止めた。
やがて月があけると間もなく、土方が江戸で募った隊士達を連れて戻った。爾来、表面上、新撰組は以前と変わらぬ落ち着きを取り戻している。だがそれが一時のものであるとは、誰もが心の裡で思っている事だった。
徳川幕府の瓦解は、糸のように流れていた細川(ささらがわ)を、一気に、変革と云う奔流に変えてしまったのだ。動揺が無くなるわけがなかった。
そのような渦中にあって、松吉が土方から内々に呼び出しを受けたのは、彼が江戸から戻った翌日の事だった。
指定された田坂の診療所に行くと、すでに土方は待っていた。そしてそこで松吉は、英国製のスナイドル銃と米国製のガトリング砲を、早急に、出来得る限りの数を仕入れて欲しいと依頼を受けた。更に土方は、この二つの武器がなければ、新撰組は薩長の連合軍には勝てないと云いきった。
この時点で土方は、幕府と薩長軍との有り得ぬ和解と、それに続く戦を見越していたのだ。
忙しくなると、面倒そうに呟いた端整な横顔を、まだ眸は覚えている。
だが松吉は思う。
土方の望む品が整った時、総司はもう戦場には出られないだろう。
天凛の才と評された若者の命脈は、剣から銃へ時代が変わろうとしている今、共に終(つい)を迎えようとしているのだろうか……。
一瞬、己の裡を過った禍々しい予感を、松吉は慌てて振り払った。そしてその余韻を追い出すかのように、口を開いた。
「うちは一度沖田はんに云おうと思うてましたんやけど…」
訝しげな瞳に見詰められ、松吉は己を励ました。
「沖田はんが選ぶのは、何とのう地味やなぁと、いつも思うてましたのや」
「…そうかな?」
ふと、いらえの調子が弱くなった。
「へぇ、地味ですわ」
それを逃さず、松吉が声を強めた。
「でも姉はいつも喜んでくれるし…」
「そりゃ、沖田はんが選んでくれはったんやて思うたら、姉さまは嬉しおすやろ。けどおなごはん云うんは、自分を飾るものを身につけた時は、気持ちかて華やぐもんです。それは幾つにはらはっても変わらしまへん。せやし、たまにはもう少し派手なものを贈らはってもええんと違いますか?」
「女の人の事は分らない」
「そないなようですなぁ」
浮かべた笑みがあまりに心許なげで、松吉が笑った。
「うちには、沖田はんみたいなお人を好いた女子はんは、気の毒に思えますわ」
「それなら、一さんだってそうです」
何とはない松吉の一言だったが、その刹那、総司の声からそれまでの気弱な風情が忽ち消えた。
「前に松吉さんが、一さんに、一さんを好いてしまった女の人は気の毒だと云っていたのを覚えています」
急ぎ続ける調子も逸る。
が、その総司の声を耳に素通りさせ、松吉は、腹の裡で己のお喋りに舌打ちをしていた。
総司の姿を見た寸座、松吉はすぐさま、その来訪の意図を、伊東甲子太郎のもとから姿を消した斉藤一の消息を知る為だと判じた。
一を案じて、総司は此処へ来たのだ。
此処へ来れば一の行方が分るのではないのかと、否、もしや一は此処に身を隠しているのではないのかと、雨の中、総司は一縷の希を託してやって来たに相違無い。しかしその希を叶えてやる事は、今はまだ出来無い。
いらえを待って見詰める瞳に色なす、期待と失望への不安。その瞳からさり気なく視線を逸らせると、松吉は盆の上の簪に目を落とした。
「どっちもどっち…、と云う処ですやろ…」
巧みに話をすり替えたつもりでも、どこか後味の悪さが残る。
「ああ、これ、これなんかどうですやろ。綺麗な中にも、きりりとした品がありますやろ?」
そのぎこちなさを、柔らかな笑みが包み、滑らかな語り口が誤魔化した。
「沖田はんの姉さまは、沖田はんに似たお綺麗なお方やと、伊庭はんから聞いた事があります。それやったらこの簪、きっとよう似合うと思いますわ」
差し出したのは、紅珊瑚を梅に見立てた、凝った彫金の簪だった。
「紅いのが…、どうだろう?」
だが返った声は、呟きにも似て小さい。一息前に交わした会話の接ぎ穂を見つけるのに必死で、いらえが疎かになっているのは明らかだった。どうやら不自然な話題の変え方は、不審だけをもたらせてしまったようだ。後悔と観念の交じった息が、松吉の口から漏れる。
「松吉さん?」
案の定、その小さな溜息すら、総司は聞き逃さなかった。不思議そうに見る瞳にあって、松吉は苦笑した。
「いえ、ちょっと思いだした事がありますのや」
「思いだしたこと…?」
「へぇ」
頷きながら笑った顔には、本当を教えてはやれない済まなさを、昔話に代えて凌ごうとする自嘲が潜む。だがこれも己が蒔いた種と腹を据え、松吉は唇を湿らせた。
「あれもこないな雨の日やったなぁ、て…。一度、一はんに店番をしてもろうた事があったんです」
「一さんに?」
総司の声が、不意に勢いづいた。
「一はんが京に来はって間もない、まだ新撰組に入らはる前の事でしたわ」
瞬きもせず続きをねだる瞳が、松吉にはひどく大きく見える。それは総司の頬が一層細くなってしまったせいで、その事が胸を締め付ける。
「一さんが、お店の番…」
しかし松吉の心の裡など知る由も無く、繰り返す声は弾む。
「いつもは一はんになぞ、店番は頼ましまへん。けどその日は小僧もうちも出かけなあかん用事が出来てしまいましたのや。そしたら一はんが自分から店番をする、云うて…。ほんま、困りましたわ」
「何故です?」
問う声には、微かな含み笑いがある。そしてそれ以上に嬉しげな顔を見せられれば、松吉もつられて笑わざるを得ない。
「うちはおなごはん相手の、小間物屋ですわ。お世辞のひとつふたつ真顔で云うて、気分よぉ買ってもろおてなんぼの商いです。それが…」
しかめっ面を作った途端、堪え切れないと云ったように、小さな笑い声が洩れた。が、それが息の痞えになるに、時は要らなかった。
「沖田はんっ」
案ずるなと上げかけた手が中途で落ち、崩れかけた身を支えるように床についた。その指先が、籠る力でたちまち白く変わる。
それまでの穏やかな空気が一転、土に張る氷のように緊(きび)しいものに変わった。
間断無く響く咳の音が、松吉を鋭く射る。
「太一っ、白湯持って来てやっ、早ようっ」
丸めた背の後ろに回り、その背を摩りながら、小僧を呼ぶ声が尖る。着ているものの上からも骨の形をなぞれそうな薄い背は強張り、小刻みに震え続け、時折、付いた肘が挫けそうに大きく揺れる。
「太一っ、太一っ」
瞬く間に膨れ上がった不安はすぐさま恐怖となり、それから目を瞑るように松吉は声を苛立たせる。
「旦那さまっ…」
慌てて走って来た小僧の前垂れが、湯呑みから跳ねた白湯で濡れ、そこだけ、地の紺を深くしていた。
「呑めますか?」
背を摩っている手を止めず問うと、総司は気丈に頷く仕草を見せた。
「…すみません」
弱くはあったが、はっきりとした意思を持ったいらえが返った時、松吉は漸く、己の顔の肉から硬さが解けるのを感じた。
「…一さんが、変な噂をするなと、怒ったのかな?」
大儀そうに身を起こしながら、はにかむように笑った声が掠れる。
「噂も何も、ほんまの事ですわ」
だがどうにか落ち着いた総司の様子は、松吉の心にも余裕を戻した。
「でもお客さん、来たのですか?一さんが留守番をしている間に…?」
「へぇ、おかげさんで、うちは繁盛してますよって」
しれっと答えた物言いに、もう一度、掠れた笑い声が起こった。
「では一さんもお客さん相手に、大変だったのですね」
「それが…。何しろ、あの一はんがお相手ですよってなぁ…。おなごはんは、ようお似合いですわ、綺麗ですなぁ、…そないな褒め言葉を、簪や紅と一緒に買おていかれますのや。その相手が、一はんやったら……。推して知るべしですわ」
溜息交じりの声は、先ほどよりもずっと渋い。苦い顔を見て洩れた忍び笑いに、名残の咳がひとつ絡んだ。
松吉が期待する才覚など、逆立ちしたって一には無い。ただ刻々と過ぎ行く気詰まりの時は、客にも気の毒だったろうが、一自身にも苦痛だったに違いない。
「お客はんが三人来はったけど、喋る事も無かったからひと言も喋らなかったと聞いた時には、走って帰って来た足の膝が、かくんと抜けましたわ」
口元を、少しばかり突き出すようにして訴える声が、捕らぬ狸の皮算用を心底惜しんでいた。
「けれど…」
その松吉に、いたずらそうな瞳が向けられた。
「一さんも、松吉さんが帰って来てくれて、安堵したのじゃないかな?」
「…の、ようでしたな。あれから、店番やるとは一度も云わなくなりましたわ」
「よほど懲りたのかな」
「らしいですぁ。人には向き不向きがあります。一はんも、ええ勉強をしたんと違いますか?」
目を細め、柔らかに語る物言いは、辛らつな言葉の中に温もりを籠らせる。だが松吉の言葉が耳を打った刹那、総司の胸に沈み続けている澱(おり)が揺らめいた。
半年前、その不向きに、一は再び身を投じたのだ。
ふたつ季節を遡った、春。
一は伊東甲子太郎と共に新撰組を離れた。土方に乞われ、間者としての役目を引き受けたのだ。しかしその伊東の前からも、今又、一は姿を消した。それを総司が知ったのは、今朝方、まだ夜の色濃い暁闇の頃。教えてくれたのは永倉だった。
夜明け前の急な冷え込みに身を顫(ふる)わせた時、足音すらさせずやって来た永倉は、斉藤が姿を消したと、押し殺すような低い声で囁いた。更にその行方は、伊東達も血眼になって追っていると続けた。語り終え、固く口を結んだ厳しい横顔を、総司は呆然と凝視した。
やがて昼過ぎ、土方が外出したのを見計らうと、総司は不動堂村の屯所を出た。一を探すつもりだった。ひとつも当ての無い中で、唯一希(のぞみ)を託した先が松吉の店だった。
「沖田はん…?」
寸の間にも足らぬ一瞬だったが、胸の裡を曇らせた闇を機敏に察したのだろう。松吉の目に訝しいいろが浮かんだ。
「見てみたかったな、店番をしている一さん」
その視線から逃れるように、朗らかな声が、雨が薄暗くしている店の中に響いた。
「一はんは、嫌がりますやろ」
「だから見てみたかったのです」
「沖田はんも存外、意地の悪い」
「私が意地の悪いのは、一さんは疾うに知っています」
そう云って笑った瞳に差した翳りが、口辺に浮かべた笑みとは酷くかけ離れたもののような気がして、松吉は一瞬言葉を呑んだ。その様子を見止めたか、
「本当なのです」
重く沈みかけた無言の間を、静かな声が押し遣った。
「私は一さんに、甘えてばかりいるのです」
「沖田はんが?」
意外そうな声に、一回り細くなった面輪が頷いた。
「そうなって欲しい事、…叶わない希なのに、何とかそうならないのだろうかと思ってしまう私の心の中を、一さんは見透かせてしまう。そしてその為に、自分の心を砕いてくれるのです」
「それは一はんも、たまたま同じ思いでいたんと違いますか?」
松吉の言葉に、総司は小さく首をふった。
「二人とも不器用だと、良く笑われます。だから似ているところがあるのかもしれません。でも一さんは、私よりもずっと深く物事を考えています。一さんは、自分の事よりも、いつも相手の事を先に考えている。その一さんに、私は云ってはならない弱音を口にしてしまった…」
「何の事が分かりませんけど、それがそないに大層な事ですやろか?」
「大事な事なのです。それが今、一さんの心を重くしているのなら、私は何と詫びて良いのか分からない」
云い終えて、総司はひとつ息をついた。
「…一さんに、謝りたかったのです」
「けど…、もしかしたら沖田はんが気を病んでいる事なんか、一はんは、とっくに忘れているかもしれまへんえ?」
「そうだと良いのですが」
「うちには、そないに思いますけどなぁ」
「松吉さんは…」
腕を組み、天井を見上げ、しきりに首を捻る松吉に笑いかけた総司だったが、その声が不意に止まった。不審に思った松吉が視線を移した時には、もう総司は框から立ち上がっていた。
「どないしはりました?」
「すみません、帰ります」
腰に刀を帯びる素振りが、ひどく慌てている。
「仕事の邪魔をしてしまって、申し訳ありませんでした」
詫びる調子も、気もそぞろと云う風情で落ち着かない。
「帰りはるって、この雨の中っ…、沖田はんっ、ちょっと待って下さい、今駕籠を呼びますよって」
「来る時だって、雨は降っていました」
松吉の狼狽ぶりが可笑しかったのか、漸く、総司の声に柔らかさが戻った。
「けど……」
屈託のない笑いを見せる総司に、松吉は何と応えて良いのか分らない。
青を透けさせた顔の色が、羽織に隠した肩の薄さが、その全てが、煙るような細い雨にすら負けてしまいそうなのだとは云えない。
「あ、そうだ。この簪、頂いて行きます。お幾らでしょうか?」
その憂いを知らず、総司は珊瑚を梅に見立てた先程の簪を手に取った。
「へぇ、おおきに…。お代なら、新撰組の勘定が他にもありますよって、来月に一緒で…」
「あ、それから…」
松吉の答えも半ばで、思い出したような声が上がった。
「傘をお借りしても良いでしょうか?」
「傘?」
問い返した声から、今度こそ間が抜けた。
「骨に、一本危ない処があるのです。お借りした傘は、明日届けて貰います。差してきたのは、預かって頂いても良いでしょうか?」
「そないな事は、かましまへんけど…」
応じる声の歯切れが悪い。傘より駕籠だと、どうしてこの若者を説得しようか、その事に思考を奪われて、どうにもいらえが後手に回る。
その間にも総司は、小僧の持ってきた傘を受け取り店の敷居を跨いでしまった。
「沖田はんっ」
慌てて追って出た松吉が呼んでも総司は振り返らず、往来を行く人の傘が、瞬く間に薄い背を隠した。松吉は急いで踵を返すと、店の中へ飛び込んだ。
「一はんっ、一はんっ」
上がり框に立っている長身に、尖った声が飛ぶ。
「はよう、沖田はんを追ってやっ」
「大丈夫だ」
「何を暢気な事云うてますのや、もし襲われたら、今の沖田はんには…」
それ以上の言葉が、濁り途切れた。
立ちつくしたまま見上げる松吉には応えず、一は店の片隅に立てかけられている番傘に目を遣った。
「あいつが慌てたのは、土方さんが迎えに来たからだ」
「土方はん?」
意外な名を耳にして、愛嬌のある丸い目が驚き見開いた。
「店先まで来たが、あいつが気づいたので入って来なかった。この先で待っているだろうさ」
「…なんや」
腑抜けたように、松吉は框に腰掛けた。
「土方はんも人が悪いわ。沖田はんを迎えに来たなら来たと、一言声をかけてくれはったらええのに」
不満が、口を尖らせる。しかも案じる心が大きかったから、安堵した途端、今度は腹が立ってくる。だが当たるべき主は其処にいない。その火の粉が、傘に手を伸ばしかけた背に飛んだ。
「一はん、あんたもあんたや。沖田はんがあないに苦しそうにしてはった時にも、知らんふりして。…あの時、一はんが見てはったんは、分かってましたえ。一はんがあないに冷たいお人だとは思いませんでしたわ」
松吉自身、謂れの無い八つ当たりをぶつけているのは承知している。だがこの氷雨の中、一の身を案じて此処まで来た総司の心を思えば、ついつい詰り声になるのを止められない。
「何や一度に気が抜けましたわ」
愚痴をひとつ置き土産に、框に上がった足が、ふと止まった。一瞬過ぎったもしやの思いが、其処に足を縫いつけて、先へ進ませない。そのもしやを確かめるように、松吉は振り向いた。
視線の先には、総司が置いて行った傘を開いている姿がある。此方を気にもせぬ主に、松吉は声を掛けた。
「なぁ、一はん。…もしかして、沖田はんは、一はんが居はることに、気付いてはったんと違うやろか」
束の間、松吉は三和土(たたき)の隅を見詰めた。だが一は黙ったまま傘を畳んだ。どうやらいらえを返す気は無いらしい。
「一はんは、口も耳も、都合よう塞がるみたいですな」
やれやれと、呆れた溜息が、応えぬ背を軽く皮肉った。
小僧の名を呼ぶ松吉の声が遠ざかる。
一人残った三和土からは、土に染み込んだ雨湿りが這いあがり、しんしんと身を凍らせる。
松吉の勘は当たっていた。
総司が咳き込んだ時、つと我を忘れ駆け寄ろうとした自分に、総司は気づいた。だがその動きを止めたのは、他ならぬ総司自身だった。間断無く続く咳の合間から、一瞬瞳を上げ、来るなと、強い視線を寄こした。それは伊東達の目を意識し守ろうとした、総司の警戒からだったのだろう。
傘を手にしたまま、一は上がり框に腰かけた。
つい先ほどまで、同じように腰かけていた者の温もりを探し手を置いてみたが、あるのはもう、膚を刺すような冷たさだけだった。だがしばらくそうしている内に、手の平の下は、柔らかく温(ぬる)んだ。その温もりを敷きながら、一の眸は、一人の男の笑い顔を映しだしていた。
一緒に帰らないかと云った時、藤堂は笑って首を振った。その顔には、湿り気も無ければ敵対する憎しみも無かった。あるのは、己が決めた道を進むと決めた、強さ、潔さだけだった。だからそれ以上、言葉は掛けなかった。だが、すまんなと云う笑い声の向こうに、もうひとつの声が聞こえた。
一さんにも、藤堂さんにも、帰って来て欲しいと願うのは、傲慢な事なのだろうか――。
それは心に深く仕舞い込んだ懊悩を、一瞬の吐息に紛らせ吐露したような、小さな呟きだった。しかし憚るように洩れた声は、総司自身、意識の外で滑った言葉だったらしい。咄嗟に此方を見た瞳には、取り返しのつかない後悔に苛まれている、激しい動揺があった。それに知らぬ振りをし、手入れの終えた刀を鞘に収めるまで、重いしじまは続いた。
伊東と共に新撰組を離れたのは、それから五日後の事だった。
――拒まれると承知しながら、何故あの時、藤堂に声を掛けたのか。
答えは、後にも先にもひとつしかない。
心の片隅に沈み続けていた、重いしじま。
高台寺を出る間際、そのしじまの面が、不意にさざ波立った。その揺れを静めようとした時、
一緒に帰らないかと……。
しじまは声になった。
しかしいらえは予想を違えなかった。
そうかと応えながら過ったのは、陽を透かせてしまいそうな白い面輪だった。
傲慢な願いだろうかと、心を言葉に変えた瞬間、闇よりも深いぬばまたの瞳に綾なした動揺と、悲愴ないろ。
やはり、希を叶えてやる事は出来なかった。
その事だけが、再び、胸に重い澱(おり)を沈めた。
通りを行く人の足が、冷雨に顫(ふる)える身を庇うように早い。煙るようなそれは、音と云う音を、薄ねず色の閑寂に閉じ込めてしまう。
一は暫しその様を見つめていたが、やがて柄を握っている傘に視線を落とした。
傘に危うい骨は無かった。だがこの傘には見覚えがある。
辺りを霞ませる五月雨の中。
細い畔道に蹲り、下駄の鼻緒を据えるに難儀してた身に傘を差し掛けた時、総司は深い色の瞳を瞠ったまま、身じろぎしなかった。
その時の傘を、律儀に持っていたらしい。
折に触れ、達者でなと笑った藤堂の顔が蘇る。
別れは、己すら予期せぬ虚空を、心の隙に作っていたのかもしれない。
こうなる胸の裡を、総司は知っていたのだろうか。
だから伝えに来たのか。
帰って来いと…。
寂寞を包む温もりを探すように、手は柄を離そうとしない。
帰って来いと――。
聞こえる筈のない声が、今一度、耳朶に触れる。
置いて行った傘。
だがそれが総司の精一杯の心だと、傘を伝わり土に滴る雨雫は教える。
「…不器用だな」
あの時と同じように声にした時、傘を見詰める眸が、氷雨に消えた薄い背を追い、柔らかく細められた。
氷雨 了
短編
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