晩夏

(一)

 女の唇は艶めいて、鳳仙花のように赤かった。綺麗に結い上げた髪からは、伽羅が香り立ち、その息苦しさに宗次郎は目を伏せた。が、そんな僅かな仕草を女は見咎めた。
「ねぇ、聞いているの?」
 鋭い口調が責める。
「そよが愛宕稲荷の鳥居の下で待っていると、歳三さんに伝えて欲しいの。必ず伝えて」
 そよと名乗った女は、宗次郎に小銭を握らせようとした。咄嗟に宗次郎は手を後ろに隠した。
「お駄賃よ」
 そよは一歩踏み込んで宗次郎との距離を縮めたが、宗次郎は首を振りながら後ずさる。
「頑固な子ね」
 そよの眉が吊り上がり声が苛立ったその時。
「何をしているんだ」
 甲高い声を不審に思ったか、門の奥から声がした。やがて姿を見せたのは、団扇を手にした永倉新八だった。
「揉めている声がしたと思ったら、何だ、そよじゃねぇか」
「新八さんいたの?」
 幾分きまり悪そうに、そよは云った。
「生憎な云い様だな。が、土方さんは居ないぜ。あと半刻位は戻らねぇよ」
「聞いたわ」
「何か用事かい?」
「もういいの、この子に頼んだから」
 そよは、立ち竦んでいる宗次郎に視線をくれた。
「頼んだわよ」
 そして強引に念を押すと、永倉には、じゃぁねと云って身を翻した。

 娘盛りを茄子紺の浴衣に隠した背が坂を下って行く。その姿を見送りながら、呟くように永倉が云った。
「土方さんじゃ、惚れた相手が悪いや…」
 そしてじっと見上げている視線に気づくと、
「いや、今の女の事さ」
 慌てて宗次郎に視線を遣った。
「あいつはそよと云ってな、四谷の大きな種物屋の娘だ。一人娘で甘やかされて育ったせいか我儘だが、意地の悪い女じゃねえ。…で、お前は、何を託されたって?」
 永倉を見詰めたまま、宗次郎は黙って首を振った。
「そよとの約束、って訳か?ま、そう云う事なら直に土方さんに伝えてやりな。…それにしても暑いな」
 寛がせた襟元から団扇で風を送りながら、永倉は顔を顰めた。
「お前も早く来な。そんな所にいると日干しになっちまうぞ」
 門を潜りかけた永倉が立ち止まり促した。だが宗次郎は動かず、そよの去った坂をぼんやりと見詰めていた。

 盆を過ぎたと云うのに、日盛りの陽はりじりと地を焦ぎ、土は白く乾き、枝葉は打ちひしがれたように萎れている。
 井戸端で水を汲みながら、宗次郎の胸を占めているのはそよの事だ。
 今日の愛宕神社の縁日に連れて行ってやると土方が云ったのは、十日ほど前の事だった。その時宗次郎は、自分でも驚くような大きな声で行きたいと答えた。そしてそれからは、掃除でも水汲みでも、どんな事でも楽しかった。近づくにつれ、喜びは不安と裏返しになり、もし縁日が雨で流れたらどうしようと眠れなくなった夜もある。だから今日は朝から皆に笑われるほど浮足立ってしまった。そんな風に土方の帰りを待ちわびて、外の様子を伺いに出た幾度目かに、そよが現われたのだ。
 土方は、そよの所に行くのだろうか…。
 宗次郎は、縄を引いていた手を止めた。
 土方がそよの元へ行くのならば、約束は反故になる。
 土方と縁日に行けない…。
 そう思った途端、胸が石のように硬く冷たくなった。手を離した途端、激しく滑車が回り、落ちた釣瓶が井戸の底で大きな音を立てて水を打った。息をするのすら苦しく、宗次郎は胸を抱えて蹲った。すると、今度は心の奥底から得も言えぬ不快な感情が湧き上がって来た。落胆、いや違う。これはそんなに生易しいものではない。不意に胸を覆ったこの澱のように重苦しく醜いものの正体…。はっと、宗次郎は顔を上げた。これは嫉妬だ。
 突然現れた女に土方が奪われてしまう――。
 それが嫌だ、許せない。しかしそんな風に思う自分こそが、恐ろしい。初めてまみえた感情に戸惑い、宗次郎は呆然と白い土を見詰めた。
 炎熱は、高いところから襟足を灼(や)くように照りつける。
「…いやだ」
 戦慄くように呟くと、宗次郎はのろのろと立ち上がった。

(二)
 
「…で、歳三さんはあたしを袖にすると、あんたを使いに寄越したと云うわけ?」
 そよは皮肉に笑った。そのそよを、宗次郎は硬い面持で見詰めている。
 宗次郎が試衛館を抜け出し愛宕稲荷に着いた時、そよは鳥居脇の大きな石に腰かけていた。
「安くみられたものね」
 石からゆっくりと立ち上がると、そよは云った。そうして暫く、島のような雲を浮かべている空を見上げていたが、やがて宗次郎に視線を戻した。
「分かったわ」
 そう告げた唇に、つい先刻、土方を誘いに来た時の妖艶さはもう無い。
「あんたも、ご苦労さまだったわね」
 不意に微笑みを見せられて、宗次郎は視線を逸らせた。取り返しのつかない事をしている恐ろしさが、今頃になって宗次郎を襲っている。
「歳三さんに伝えて。さよならって」
「……」
「じゃぁね」
 脇を擦り抜けようとしたそよを、
「あのっ…」
 思わず宗次郎は呼び止めた。そよは足を止めたが、宗次郎はその後を続けられない。今更何を云えるのだろう。土方はそよの伝言を知らないのだとは、自分が嘘を云ったのだとは、もう云える筈もない。
 黙ったままの宗次郎を、そよは怪訝な目で見たが、やがて変な子と呟いて背を向けた。

 茄子紺に白く竹を染め抜いた浴衣、虫かごを織り込んだ紅い帯。そのどれをとっても下ろしたてなのは、女性の衣装に疎い宗次郎にも分かる。そしてその事は、如何に土方との逢瀬をそよが待ち望んでいたのかをも物語っている。
 何故、そよは直に土方を誘わなかったのだろう…。
 ぼんやりと、宗次郎は思った。土方に断られるのが怖かったのだろうか。だから伝言を託し門の前で帰ってしまったのだろうか…。そこに思い至って、宗次郎は胸が痛くなった。そよは振り返らない。だがその背には、ついさっき甲良屋敷の前の坂を下って行った強さはもう無い。そよの後姿が、人に紛れる。ゆらゆらと、陽炎のように覚束なく消えて行く。
「待ってくださいっ」
 思わず声を上げ、宗次郎は走り出した。
 人に当り詫びながら、その人と人を掻き分け、宗次郎はそよを追う。
「あのっ」
 漸く追いつき呼び止めると、そよは足を止め振り向いた。訝し気な目に見下ろされ、一瞬、宗次郎は言葉に詰まる。
「なに?」
「あの…」
 気まずい沈黙の後、決意した目で、宗次郎はそよを見上げた。
「嘘をつきました。…本当は、土方さんに伝えていないのです」
「噓?」
 宗次郎は表情を硬くし、頷いた。
「じゃあ歳三さんは、あたしが行ったことを知らないの?」
 そよが怒りの声を上げた。
「はい」
 掠れた声で宗次郎は答えた。
「なぜそんな事をするのよっ」
 責め詰る口調に、参道を行き来する人々が振り返った。それが四谷の種物屋の娘だと見止めた者が、興味深げに足を止めた。
「ちょっとこっちへ来て」
 その好奇な目に気づいたそよが、慌てて宗次郎の腕を掴み、参道脇の木陰の中へ引き入れた。
 そよは辺りを見回し人気のないことを確かめると、自分より背の低い少年へ目を戻した。瞬きもせず見上げている瞳の奥には、怯えと羞恥が交差している。
「何故あたしが行った事を伝えなかったの?」
 幾分落ち着きを取り戻したそよが、声を和らげた。
「…今日の縁日に、土方さんが連れて行ってくれると約束していたのです」
「そんな事?」
 そよは呆れた。しかし宗次郎はそれに抗うように、強い目を向けた。
「そんな事ではありません」
「分かったわよ…」
 気圧され、そよは不満げに口ごもった。
「でもそれとあたしが頼んだ事とは違うでしょう?あんただって、最初に会った時にそう云えば良かったじゃないの。それに選ぶのは歳三さんだわ」
「ごめんなさい…」
 胸に首が落ちるように、宗次郎は深く項垂れた。が、その風情が、そよには腹立たしい。元々情の浅い女ではない。だからこんな風に詫びられては次に責める言葉に詰まるのだ。
 こっちが悪いみたいじゃないのと、忌々しいため息を吐きたい思いだった。それに少年のしたことは腹立たしいが、ついた嘘を何故わざわざ告白したのか、その理由にもそよは興があった。
「あんた、何て云ったっけ?」
「……」
「名前よ」
「宗次郎です」
 宗次郎の表情は硬いままだ。
「そう、宗次郎ね…」
 そよは繰り返した。
「じゃぁ宗次郎、あたしに付き合ってよ」
「…え?」
「あんただってこのまま何も無いことにして歳三さんと縁日に行っても、楽しくないでしょ?あたしだって気が治まらないわ。だから歳三さんの代わりに、あたしに付き合って。それで許してあげるわ」
「でもっ…」
「さぁ、行くわよ」
 あっと戸惑いの声を上げた時、そよはもう宗次郎の手を掴んでいた。

 二人が木陰から参道に戻ると、先ほどよりも参拝人は増えていた。社の奥から太鼓の音が聞こえて来る。奉納の舞が始まったらしい。
 参道脇には屋台がひしめき、先を行く者帰る者、店をひやかす者でごった返している。その人混みの中を、そよは宗次郎の手を引いて社殿に向かう。が、引かれて続く宗次郎は手だけが先に行き、人に当って転びかける。そしてその幾度目かに、今度はそよが、突然前を横切られて立ち止まった。すると前に泳ぐように踏鞴を踏んでいた宗次郎の身体は、反動で、今度は大きく後ろに撓った。
「宗次郎っ」
 後ろの気配に気づいたそよが振り向き、驚いて手を離した。が、それが悪かった。そよの目の中で、支えを失った宗次郎が派手に尻餅をついた。その刹那、芋の子を洗うようだった人の群れが、各々に声を上げ、宗次郎を輪の中に残して退いた。

(三)

「悪かったわ」
 そう詫びた口元には、微かな笑いが残っている。そんなそよを、宗次郎は目だけを動かして見た。
「本当よ、本当にそう思っているんだから」
 恨めし気に見上げる瞳に合って、そよは慌てて言葉を足した。
「あたしだって、まさかあんな事になるとは思っていなかったのよ。あの人混みでしょう?手を離したらはぐれちゃうと、ただそれだけだったのよ。だからほら、お詫びに飴だって買ってあげたでしょう?」
 押し付けられるように指さされて、宗次郎は手にしている飴細工に目を落とした。握っている葦の先には、飴で出来た小鳥が止まっている。そよが買ってくれたものだ。
 尻餅をついた宗次郎に手を貸し立たせると、そよは自分の浴衣が汚れるのもいとわず、袴についた土埃を払ってくれた。それから又しっかりと宗次郎の手を握り直し、今度は後ろを気に掛けながら社殿まで進んで参拝を済ませた。そして三の鳥居のすぐ際の、飴と赤いのぼりを立てていた飴屋に立ち寄り、小鳥の飴を買い与えたのだった。それが尻餅をつかせた詫びらしい。
 白い小鳥は今にも飛び立ちそうに、葦の先で羽を休めている。初めはただの丸い飴だったものを、息を吹き入れ薄くのばし、鋏を使い器用に小鳥の形に変えていく飴屋の、その手妻のような動きに、宗次郎は瞬きも忘れて魅入った。
「見てばかりいないで食べないと溶けちゃうわよ」
 そよに促されて、飴の小鳥に見とれていた宗次郎が顔を上げた。 
「勿体ない」
「莫迦ね」
 初めて見せた幼い笑い顔に、そよの目が和んだ。
「宗次郎は、いくつになるの?」
「十二です」
「ふうん」
 そよは少し目を遠くに遣ったが、やがて、
「じゃぁ道尾より二つ下か…」
 と、呟いた。
「みちお…?」
「そう、道尾。弟なの」
 そよは答えたが、永倉からそよは一人娘だと聞いていた宗次郎には少し意外な気がした。しかしそよは嘘をついてはいないと、宗次郎には思えた。弟の名を云う時のそよは、穏やかで優しい目をする。その時ふと気づいた。
「その小鳥…」
 宗次郎がそっと指で示すと、視線を追ったそよが、自分に手にある小鳥の飴だと気づいた。もう一本、そよは小鳥の飴を買っていたのだ。飴を見ながら、そよの唇辺に笑みが浮かんだ。
「そうよ、道尾の分。道尾はね、目が見えないの。でも触っただけで、それが何かすぐ分かるのよ」
 そよは誇らしげに云ったが、宗次郎は言葉を失くした。
「そんな顔をしないでよ、また苛めているみたいじゃない」
「ごめんなさい…」
「怒っているんじゃないわ。辛気臭いのは嫌いなだけ」
 そよは唇を尖らせた。そしてそのついでのように訊いた。
「ねぇ、宗次郎はどうして、嘘をついたと本当の事を云ったの?」
 不意を突かれ、宗次郎は目を瞠ると、その目を慌てて伏せた。
「あたしの事が可哀想だと思った?」
 項垂れたか細い首が、微かに振られた。
「じゃぁ、どうして?」
「……私も一緒だから」
「え?」
「…土方さんに、縁日に連れて行って欲しいと云って、嫌だと云われるのが怖いのは、私も一緒だから…」
 窺い見るように上げた瞳の奥に、そよが息苦しくなるような悲壮な色が浮かんでいる。そよは虚を突かれ、宗次郎を見詰めた。そして少しの間を置いて、今度は慎重に訊いた。
「宗次郎は歳三さんの事を好いているの?」
「…好いている?」
「そうよ、好いているの?」
「土方さんは好きです」
「そう云うのと少し違うの、そうね、宗次郎は歳三さんの一番になりたい?」
「いちばん…」
「そうよ、歳三さんに、誰よりも一番に好いて欲しい?」
「……」
 そよを見上げていた面輪がみるみる強張る。そして見詰める視線から逃れるように、宗次郎は目を伏せた。
 宗次郎の耳を、蝉しぐれがやかましく打つ。だがそれより煩いのは、身体を跳ねさせるように波打つ心の臓の鼓動だ。
「あたしはね…」
 喧噪の狭間を縫って、そよの声がした。
「宗次郎は、歳三さんの一番になれると思うわよ」
 意外な言葉に驚いて宗次郎が顔を上げると、そよは重なり合った枝の隙から零れ落ちる陽ざしを見上げていた。
「歳三さんは、自分で思っている以上にあんたの事を大切に思っているわ。まだその事に気づいていないだけ」
 凝然と、宗次郎はそよを見詰めた。その視線に応えるように、そよは宗次郎に目を戻した。
「あの人、あたしと二人の時も、あんたの事はばかり話すの。でね、今日の縁日もこれが最後だから一緒に行ってって頼んだのに、あんたと約束しているからってあっさり断られちゃった」
「…え?」
 大振りな目が、零れんばかりに瞠られた。
「あたし、来月祝言をあげるの」
 ぺろりと小さく舌を出したあと、そよは笑った。
「本当は来年の春だったんだけれど、おっとつぁんの持病が良くなくてね、それで急に早くなっちゃったの。だから自由に外に出られるのも今日限り」
「……」
 驚きと戸惑いの色を交互に瞳に浮かべ、宗次郎はそよを見上げている。
「なのにその今生の頼みを袖にした歳三さんを恨んだわよ。どうしても腹の虫が治まらなくて、気付いたら足が試衛館に向かっていたの」
「じゃぁ、みんな最初から分かっていて…」
「そうよ」
 窮屈そうに、そよは肩を窄めた。

 本当は、歳三に怒りをぶつけるつもりだったのだ…。
 最後に一日だけ付き合って欲しいと懇願したのに、先約があるからと歳三は聞く耳を持たなかった。そよは恨んだ。やがて恨みは怒りとなり、そよ自身鎮めきれない程に膨らんでいった。そしてとうとう、怒りに任せて試衛館にやって来たのだった。歳三に、悪態のひとつでもついて、それで自分の中で諦めが着くはずだった。だが門の外に出て来た少年の姿を見た瞬間、そよの中で何かが音を立てて崩れ落ちた。あれが歳三の云っていた宗次郎だ、そう思った刹那、衝動に駆られるようにそよは走り出し、気づいた時には宗次郎の前に立ちはだかっていた。宗次郎は華奢で、思ったよりもずっと綺麗な顔立ちをしていた。そして突然の来訪者に、表情を硬くし、じっとそよを見上げた。その瞳に見つめられて、そよは激しく苛立った。その時そよの脳裏にあったのは、歳三の凄みのある端正な顔だった。その顔の眉ひとつ動かさず、歳三は云ったのだ。約束を反故にすれば宗次郎が哀しむと――。宗次郎を真正面にして、これが歳三が守ってやりたいものかと思った時、そよは抑えようのない怒りに駆り立てられたのだ。

 あれは嫉妬だったのだ、と、今そよは思う。惚れた男の大切にしているものを目の当たりにして、激しく嫉妬したのだ。
 ああ、そうか、そう云う事か…。
 そよは苦く笑った。胸に詰まっていたものが、すとんと落ちたようだった。
「あたし、あんたに妬いたのよ。歳三さんが、あんまりあんたの事を大事に云うから。だから意地悪したくなっちゃったの。まさかこんな風になるとは思っていなかったけれどね」
 きまり悪そうに、そよは笑った。しかしそよはその笑いを途中で止めた。宗次郎の頬を、一滴、滑るものがあったのだ。
「ちょっと、どうしちゃったのよっ…」
 ほろほろと零れ落ちる涙に、そよは慌てた。
「…私は…、土方さんに嫌われてしまわないでしょうか…」
 しゃくりあげながら、宗次郎は訊く。
 泣き濡れた瞳にあるあまりに真摯な色に気圧され、そよは黙った。
「土方さんは、嘘をついた私を嫌いにならないでしょうか…」
「ばかね、嫌いになどなる訳がないじゃないの」
「本当に…?」
 胸に芽生えた想いをまだ恋とも知らず、揺れ動く心に惑い怯える瞳が、救いを求めるようにそよを見詰める。
「本当よ」
 指先で涙を拭ってやりながら、そよは胸の奥に柔らかな何かが生まれ、それが次第に体の端々を満たすのを感じていた。
 宗次郎の涙は中々止まらない。それが恥ずかしいのか、遂に手の甲に顔をつけてしまった。
 時々しゃくりあげる小さな肩に手を回すと、そよはゆっくりと自分に引き寄せた。抱いた肩は危うげなほど細い。愛おしいと、ずっと忘れていた感情が、そよの裡に懐かしく蘇る。
 姉ちゃん―。
 不意に胸の奥深くで、澄んだ声が呼んだ。その寸座、ツンと鼻の奥を刺激するものが、そよの目頭を熱くする。溢れ出そうになるそれを誤魔化すように、そよは大きく目を開き空を見上げた。

 降る様な蝉しぐれが、いつの間にか止んでいる。その代わりのように蜩が啼き始め、時折は、虫の鳴き声も聞こえて来る。
「気を付けてお帰りなさいね」
「はい」
 目元を紅くした宗次郎が、はにかむような笑みを浮かべた。そんな仕草が、そよには愛おしく映る。ほんの束の間触れ合っただけで、人の感情はこれ程変わるものかと、己の心の気儘が可笑しい。もしかしたら、一度顔を見たきりで夫婦になろうとしている男も、いつかこんな風に大事な人間になるのかもしれない。一瞬感慨に耽ったそよを、
「あの…」
 宗次郎の声が呼び戻した。先を待っていると、宗次郎は少し戸惑うようにしていたが、やがて顔を上げて云った。
「今度、道尾さんに会いに行ってもいいですか?」
 あ、とそよは思った。が、一瞬の心の揺れを静かに仕舞うと、そよは唇辺に笑みを浮かべた。
「道尾はね、もういないの」
「…え?」
「十の時に死んじゃったの」
 寂し気に閉じられた唇を、宗次郎は呆然と見つめた。
「またそんな顔をする」
 その宗次郎を叱るように、そよは云った。
「道尾のおっかさんはね、店の奉公人だったの。だからみんな道尾には辛く当たったけど、あたしは道尾ととても気が合って、周りが驚くほど可愛がっていたの。そうね、道尾が生きていれば、歳三さんなんか目じゃなかったかもね」
 見詰める宗次郎に、そよはおどけたように笑った。
「でも道尾は体が弱くて、一度も外に出られなかったの。それでもいつか縁日に連れて行ってあげるって約束していた…。だから今日は途中から、道尾と縁日に来ているような気がしたわ」
 それとね、とそよは続けた。
「道尾はいないけれど、あたしに会いに来るのはいいわよ。でも歳三さんは駄目、宗次郎だけ。それから今日の事は二人だけの秘密よ。歳三さんはつまはじき」
 そよはくすくすと笑い、小指を差し出した。その仕草に釣られるように小指をからませると、宗次郎も笑みを浮かべた。
「じゃあね、宗次郎」。
「あの…、ありがとうございました」
「どういたしまして」
 指切りの指を離して笑った宗次郎に、そよは微笑んで頷いた。

 茄子紺の浴衣を纏った後ろ姿が小さくなって行く。嫉妬と慄きに自分の心を乱したその背中が、今は慕わしい。
 日暮れを深くするように、蜩の声が重なり合う。湿り気の抜けた風が、頬を撫でる。
 一の鳥居の際に佇み、消えてしまうのも名残惜し気に、宗次郎はそよの姿を瞳に映していた。


(四)


 盆を過ぎれば日暮れは早い。
 残照は、家々の屋根の上を一筋朱く染めているだけで、辺りには早夜の気配が忍び寄っていた。
 屋敷町の坂を、宗次郎は足を急がせる。
 まさかこんなに遅くなるとは思っていなかった。誰にも云わずに出て来てしまったから、心配をかけてしまっているだろう。が、気持ちは焦るのだが、疲れた足は正直で思うにように動かない。長い坂を、どうにか終えようとしたその時、反対から上って来た人影に、宗次郎の心の臓が跳ねた。
 足を止めた宗次郎に、相手も気づいた。すると影は走って坂を上りきり、そして今度は転がるように下って宗次郎の目の前に立ちはだかった。
 
 歳三は暫く肩で息をしていたが、やがて大きく目を剝くと、
「ばか野郎っ」
 低く唸るように一喝した。
「どれだけ探したと思っているんだっ」
 安堵した途端、込上げて来た怒りを抑えきれないと云った目が宗次郎を睨み付ける。
「…ごめんなさい」
 宗次郎は歳三を見上げた。その目の縁がほんのり赤いことに、歳三は気づいた。
「泣いたのか?」
 戸惑った分、声から怒りが削げた。それが歳三には忌々しいが、覗き込むと、宗次郎は首を振った。
「目が赤いじゃないか」
「何でもない」
「何でもない事は無いだろう。何かあったのか?」
 問質しても、宗次郎は一層頑なに首を振るばかりだ。歳三は吐息した。こうなった時の宗次郎は、勝太にも手に負えない。
「みんな心配をしていたんだぞ」
 宗次郎が深く項垂れた。その時になって、歳三は宗次郎の握りしめているものに気づいた。
「飴か?」
「…はい」
 宗次郎が顔を上げた。
「そう云えばそよが来たと永倉が云っていたが…」
「飴をくれたのです」
「そよが、か?」
 訝し気に訊くと、宗次郎は歳三を見上げたまま頷いた。歳三は黙った。何とも云い難い居心地の悪さを感じたのだ。
 そよとは互いに遊びと割り切った仲だった。その女がどんなつもりで、宗次郎に飴を与えたのかが気になる。しかし下手にそれを問えば、褒められたものでは無い己の素行も晒しかねない。澄んだ瞳で、宗次郎はじっと歳三を見詰めている。胸の裡で、歳三は苦々しく舌打ちをした。これ以上詮索しないのが、今は得策かもしれない。
「帰るぞ」
「はい」
 腹立ちまぎれに促すと、宗次郎はほっとしたように答えた。

 小さな足音がついて来るのを耳で確かめながら、歳三の脳裏にはそよの姿がある。そよは云ったのだ。
――大事なものは儚くて、ある日突然に消えてしまうのだと。
 陽に煌めく大川を見ながら呟いた横顔が、陽気なそよにしてはらしくもなく寂し気だったので覚えているのだ。
 歳三は思う。
 もしあのまま宗次郎が見つからなかったら…、と。
 徐々に濃くなって行く日暮れの中で、探しても探しても見つからない焦燥は、やがて戦慄に変わった。もし大事に巻き込まれていたら…、そう思った時、氷柱を押し付けられたような冷たさが背中を襲った。だから無事な顔を見た時、安堵より先に怒りが噴き出したのだ。
 大事なものは、ある日突然消えてしまう…。
 脳裏にこびりついていた言葉を、歳三は乱暴に首を振り消し去った。
 宗次郎が傍らからいなくなる…。
 そんな事があるものかと、暮れ泥む西の空を睨み付けた。一瞬でもそんな事を思った自分が忌々しかった。
 後ろに付いてきた宗次郎が、不意に足を速めて隣に並んだ。気づかぬふりをしていると、宗次郎はおずおずと、歳三の右手に自分の左手を滑り込ませた。驚いて見下ろすと、不安げに見上げている黒い瞳と目が合った。珍しい事だったが、少し力を入れて握り返してやると、宗次郎は安心したように笑い、そして恥ずかしげに目を伏せた。

 二人手をつないで行く坂の上には、まだ一筋の明るみが残っている。遅れる宗次郎が、追いつこうと小走りになるたび、歳三は歩みを遅くしてやる。らしくもない親切をしていると、少々歯がゆいが、その優しさが歳三には何とも心地良い。それが不思議だった。
 そう云えば、あの時そよはこんな事も云ったのだ。
 愛しいと思う心は、人を優しくするのだと…。
 歳三は苦笑いをした。今の己を見れば、それは満更外れてもいないのだ。その時だった。あっ、と小さな悲鳴が起こった。咄嗟に横の宗次郎を見ると、呆然と地面を見ている。歳三が視線を追うと、小鳥の形をした飴が土の上に転がっていた。半ば溶けかかっていた飴が折れ、葦の先から転がってしまったのだ。宗次郎が慌てて飴を拾う。その傍らに蹲り、歳三は懐から出した懐紙に飴をのせた。
「どうしよう…」
 今にも潤んできそうな瞳が歳三に向けられた。
「帰ったら綺麗に洗ってやる」
「大丈夫かな…?」
 それでも宗次郎は、小さな面輪に悲壮な色を浮かべている。
「鳥の形は無理だな。元の飴の形がせいぜいだ。大体お前がいつまでも食わないのが悪い」
「食べたら無くなってしまう」
「当たり前だろう」
「食べなくても溶けない方法が、無いかな?」
 歳三の呆れた声も聞こえないように、宗次郎は真剣に飴を見詰めた。

 小さな命を庇うように、懐紙に包まれた小鳥の飴を、宗次郎は両の手で胸に抱き坂を上る。その背を護るように、歳三は横に並んで歩く。そして甲良屋敷の塀が見えて来たところで、ぽつりと歳三が云った。
「…欲しければ買ってやるぞ」
 えっ、と宗次郎は歳三を見上げた。
「飴だ。高幡不動の秋の祭に、行きたければつれて行ってやる」
 途端に、宗次郎の足が止まった。仕方なさを装って歳三も立ち止まりると、二つの瞳が呆然と見上げていた。それがみるみる喜色に彩られるのが、薄闇の中でも分かった。
「…ほんとうに?」
「俺は嘘は云わない。大体今日だってお前の方が…」
 云い終わらない内に、歳三は後ろに踏鞴を踏んだ。宗次郎が腰に抱き着いて来たのだ。
「おいっ」
 振りほどかれても離さないと決めたような力で、宗次郎はしがみ付いている。
「これじゃ歩けないだろう」
 叱りながら歳三は、薄い小さな肩を引き寄せた。
 その時、門の中が俄かに騒めいた。二人の声が聞こえたのだろう。勝太の声がし、それが大きくなって来る。
 宗次郎の肩を抱きながら、歳三は来た方角を振り返った。
 坂の下の家々に、ひとつふたつ灯りがともっている。その灯の色が、歳三の目に柔らかく映る。
 町は晩夏の短い夕暮を仕舞い、いつの間にか宵へ移ろい行こうとしていた。



 短編