
― 兵馬 U ―
夜更けから降り始めた雨は、黎明を告げる頃には上がり、夏の日差しはもう泥濘を白く乾かし始めている。洗われた葉の緑に、弾け煌く光は強い。
江戸京橋南、膳所藩上屋敷の奥まった一室。朝の澄明な静寂の中、凛と涼しげが声が響く。
「…此れすでに常の身に非ず、地に落ちて兄弟となる、何ぞ必ずしも骨肉の親のみならん…」
どちらかと云えば細い質の声ではあるが、芯は強く、耳に良く透る。
「盛年重ねて来たらず、一日再び晨(あした)なり難し、時に及んで当(まさ)に勉励すべし、歳月は人を待たず」
最後の韻を踏んだ後、一呼吸置いて、杉浦兵馬は静かに目を伏せた。その白磁の如き頬が僅かに紅潮しているのを、傍らの吉住新三郎は、伏せている目の端で捉えた。
――美しいと思う。
切れ長の双眸も、その真中から綺麗に通る鼻梁も、薄く、精緻を極めて刻まれた唇の線も、そのどれもが優しい風情であるのに、女々しいと云う言葉は兵馬に当てはまらない。それはひとつひとつの造作が完璧すぎ、ぎやまんにも似た硬質な感を与えるせいなのかもしれない。否、この者の核を成す精神の靭さ厳しさが、つけ入る隙を与えない所為なのであろうと、吉住は、情人に遣っていた視線を畳みの目に戻した。
「兵馬」
藩主本多康融(やすあき)の弟、康穣(やすしげ)は、かねてより、ひとつ年下の兵馬を名で呼ぶ。
「何故も又、この詩を選んだ?」
如何なる答えが返るかを楽しむように、微かな笑いを乗せた口元が問う。しかしその一言で、室に、新たな緊が生まれた。
事は江戸詰め藩士の師弟を集め、論語の授業が行われている最中に起こった。
ふらりと、供も付けずに現れた康穣が、其処にいた兵馬を名指し、何か詩を読んでみよと命じた。突然の事に慌てる教授とは対照的に、兵馬は一瞬考えるように黙したが、やがて伏していた面を上げると、陶潜の雑詩を読みたいと申し出た。それが、今の詩である。
「時に及んで当に勉励すべし、…とは、余への皮肉か?」
康穣の声に、苦笑が混じる。
「そのような事はございませぬ」
「ではどのような意味がある。そちのことじゃ。わざわざこれを選んだからには、余に申す処があったからであろう?遠慮せずに申せ」
齢(よわい)十九、若鷹の如き鋭い視線が、見詰める白皙を捉えた。
「時に及んで当に勉励すべしとは、得た時を逃さず努めて励めと云う事。又励めとは、楽しめと云う意味でございます」
「ほう、では余はまだ遊び足らぬと、陶潜は云っておるのだな?」
「楽しむのは、時を得た時。康穣様のように楽しみも常になってしまえば、その今こそを見つけるのは、至難の業かと存じます」
間を置かず返したいらえに、其処にいた誰もの顔が強張った。
藩主の弟に対し、今兵馬は、あからさまな非難の言葉を口にしたのだ。案の定、康穣の眉根が寄った。
康穣は本多家の六男であるが、実兄である現藩主に子がいないため、いずれその座につく事になっていた。又それだけの器量を持つ若者であった。が、その反面、奔放過激な気性でもあり、最近では忍びで良からぬ遊びにも講じ、それが藩の上の者達の顔を渋くさせていた。その康穣の行動を、兵馬は直裁に批判したのである。この場で腹切れと沙汰があっても、不思議でない。
重い気が場を覆う中、兵馬だけが、静かな眼差しを康穣に向けている。その眼差しを、康穣は強い視線で撥ね退けると、乱暴な所作で立ち上がった。
「兵馬、その方、屁理屈ばかりを捏ねる学者にでもなるつもりか?」
「学問に終(つい)はございませぬ。さればこれほど面白き道も無かろうかと存じます」
見下ろす視線に応えた口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「ほう…、ならばその道の面白き、余に聞かせてみよ。参れ」
鋭く踵を返したその後を、一陣の風が追う。
それが過ぎ行くのを待っていたように、座敷に、安堵の息が零れた。
「兵馬」
膝を立てかけた兵馬に、新三郎が小さく耳打ちした。
「大事無い」
濃い憂いに彩られた顔に応えた唇に、苦い笑いが乗った。
「いつもの御気紛れだ」
「だが先ほどのお前の弁、あれは行き過ぎだ」
「今のままの康穣様では、いずれ殿のお怒りにも触れよう。他に意見される方がおられぬのならば、致し方ない。若輩者が若気の至りと、腹切るまでさ」
繊細な面立ちに似合わぬ大胆な言葉に、新三郎の顔が曇った。だが兵馬は知っている。
この男の憂いの核にあるのは、康穣の怒りを買ったその事ではなく、康穣への悋気なのだと――。
そしてそう云う感情をこの男に植え付けたのは、紛れもない、己自身だった。
「案ずるな」
遠巻きに自分を見る好奇の目の中、兵馬は立ち上がった。
「何と云ったか、あの者…。伏した顔の下から、強い目で余を睨みおった」
脇息に置いた左腕へ、軽く体を傾け、庭に視線を止めたまま、康穣が問う。
「吉住新三郎でございましょうか?」
「そう、吉住と云ったの。…確か、そちの念兄と聞いた」
「噂でございます」
「嘘を申せ」
ゆっくりと向けた視線が、刺すように強かった。
「そちは素知らぬ顔で、偽りを云う」
「信じて頂けねば、仕方がございませぬ」
炎陽を巻いて吹き抜ける風は、じっとり膚を湿らせる。だが応えた顔(かんばせ)は、青い血を透かせているかの如く白い。熱(いき)れと云うものには、無縁と思わせる。
康穣が、短く嘆息した。
「兵馬」
ゆるりと体を起こした康穣の語調が変わった。声から険しさが消えている。
それを訝しく思ったか、兵馬が眸を上げた。
「地球儀と云うものじゃ」
傍らに遣った視線の先には、細かい斑(まだら)に染められた球がある。くるりと目盛りを回されたそれは、四本の木の足に支えられた架台の中に、浮く形で在る。
「そなた、ここに来た最初に、これに目を止めたであろう?」
初めて、白磁の頬に血の色が上った。主は疾うに見破っていたのだ。紅潮は、それを知られていた事への羞恥だった。
「こう云う事は正直に顔に出るのだな、そちは」
苦笑まじりの声が、眸を伏せた兵馬の耳を穿つ。
「近こう来て見るが良い」
丸い面を軽く撫でると、地球儀は思ったよりも早い回転を見せた。やがてその回転が鈍くなると、康穣は一点に指を置き、動きを止めた。
「これが日本国、わが国じゃ」
分かるか、と問う声に、兵馬は黙って頷いた。
「江戸はおろか、膳所など、爪の先にも足らぬ」
確かに、日本など、当てた指の腹にも隠れてしまいそうだった。
「此れ程にちっぽけな国、どうして異国に打ち勝てようぞ。そちも思うておる筈。それを何故、そちらは攘夷、攘夷と騒ぐ?」
指を離して向けた声が、皮肉に笑っていた。だが据えられた双眸は鋭い。
「確かに…」
その強い視線を受け、整い過ぎる感のある唇が動いた。
「攘夷は無理でございましょう」
「どう云う事じゃ」
俄かに、康穣の眉が寄せられた。
「徳川の屋台骨は脆く、崩れるのは時の問題でございます」
「だれぞに聞かれたら、首が飛ぶぞ」
愉快げな笑い声が、辺りを忍ぶでも無く漏れた。
「康穣さまなればこそ、お聞かせ申したのでございます」
「ほう…、では余も道連れか?」
「お考えは、ご随意に。…しかしながら、今徳川に崩れられては、この国は混乱の坩堝になります。更に、そこを狙って異国に踏み入れられれば、一方もありませぬ」
「だからこその、攘夷か?」
「いえ」
「手間の掛かるっ、分るように申せ」
焦れた短気が、先を促す。
「異国に対し、この国は、三百年の封印をして参りました。徳川によって守られてきた大半の藩にとって、外の風が入り込むのは先の見えぬ不安でありましょう。いえ、恐怖と云っても過言ではありませぬ。ゆえに諸外国を討ち、変わらぬ日常を守ると云えば、その為に結束を致します」
「……」
「避けられぬ、徳川の崩壊。その時を少しでも先に延ばす為の堤こそ、攘夷に名を借りた、諸藩の結束」
「攘夷、攘夷と騒ぎ立て、諸藩の目をそちらに向かせ、徳川の瓦解が少しでも先に延びるを図ると云うのか」
「御意」
ふんっと、つまらなそうに笑った声を耳にとどめ、兵馬は静かに頭(こうべ)を下げた。
「だがそちらは、それに尊王思想を絡め、過激に走りすぎておる、何故じゃ?」
「もはや徳川の名だけでは、国を纏める事はできませぬ。ならば帝を表に出し、徳川と朝廷の二本の柱を据える他、策はございませぬ」
「帝を、傀儡にするのか」
「恐れながら」
白い頬に、伏せた睫が影を作った。
その秀麗な風情に、一瞬目を止めたものの、康穣は再び視線を庭へやった。
「兵馬は、いつからそのように嘘が巧くなった?徳川が為の、攘夷?帝?…、笑わせるでない」
冷ややかな声を受け、上げた双眸が、康穣を捉えた。
「その方の心にあるのは、俊介だけであろう?」
庭に止めたままの視線は、流麗な線の面に宿った、寸陰の揺らめきを知る筈が無い。だが一瞬の間も置かず、全てを見透かせたような低い笑い声が起こった。
「ようやっと、真(まこと)を見せたの」
ゆっくりと振り向いた双眸が、兵馬を射た。
「三日前、兄上が催された上覧試合で、俊介を見た」
「……」
「上覧試合の事は、そちも知っておろう」
康穣の声が尖った。それはまるで、黙したままの静かな視線に苛立つかのように、激しかった。
「年長の者を相手に一歩も引かず、見事な立ち合いであったと、褒める言葉が足りず、桃井が困っておった」
眸を翳める、面を走る、微かな感情の綾も見逃すまいと、兵馬に向けた康穣の視線は強い。
「だが杉浦は、あくまでそちに家を継がせるつもりらしいの」
「父は、養子である私の立場を慮ってくれているのです。杉浦の家は、俊介のものでございます」
「ならばそちはどうするつもりじゃ」
「いずれ膳所に帰り、生涯を学問に捧げるつもりでおります」
「嘘つきめがっ」
「嘘と申されるのならば、そうなのでございましょう」
吐き捨てた言の葉を慈しむように、康穣を見る眸が和らいだ。
「それよりも康穣さま、お頼み申し上げました事……」
「己が事には真剣になるらしいな」
「お怒りはご存分に」
「首尾は果たした。江戸家老内野佐左衛門が、兄上に提出した者達の名じゃ」
懐から抜き取り、ぽんと放り投げられた紙片は、微かな風にも舞い上がりそうに、小さく薄い。
「此処に書いた者達を、内野は、幕府転覆の思想を持つ危険な存在だと、兄上に訴えたらしい。…そちの名を筆頭に掲げておる」
文字は、康穣の手だった。其処に微かな乱れがある。人の目に触れぬよう、密かに、そして素早く書き写すには、神経を鋭くしなければならない。その名残が、この乱れだった。次期藩主と目される身でありながら、その座を脅かす事をも顧みず、願いを聞き届けてくれた康穣は、この時、ひとりの人として、自分の為に危険を犯してくれたのだ。それを思えば、兵馬の裡に熱いものが込み上げる。
「…お礼の言葉もございませぬ」
下げた頭に、声に、兵馬は真(まこと)を籠めた。
「礼は要らぬ。だが片取引はできぬ。約束は守って貰う、そちを所望する」
有無を云わせぬ強い口調に、康穣を見詰めていた眸が、静かに伏せられた。
「場所は両斉寺」
両斉寺とは、ここ膳所藩上屋敷から程近い、築地本願寺の東隣にある寺だった。国元にある藩菩提寺縁心寺の末寺で、江戸詰めの者には身近な寺でもあった。だが康穣の言葉は、その禊の場を、人の情欲に塗(まみ)た閨に変えると云うものだった。
「時は、今宵六ツ半」
刃の先のような鋭い視線が、兵馬を刺す。しかしそれを逸らす事無く、形の良い唇が動いた。
「御意」
――片時、鳴くを忘れていた蝉時雨が、一斉に木々を揺らし始めた。
盆が過ぎた日は、傾けば呆気ない程に、すとんと落ちる。その前から少しずつ、日は短くなって来ていたのだが、人々は茹だるような暑さを凌ぐのが精一杯で、そんな季節の移り変わりにまで気付かない。日暮れが寂しいと、ふと足を止めるのは、それだけ夏に負けていた心に余裕が戻ってきたのだろう。
すっぽりと宵に包まれ、暗がりになった足元には灯が欲しい。が、両斉寺に向かう身を、人に見られる訳には行かない。ならばこの闇は有難い。兵馬の口元に、笑みが浮かぶ。だがそれは己で己を嗤(わら)う、自嘲の笑みだった。
江戸家老内野佐左衛門が、国元で貧困に喘ぐ農民と共に、藩の改革を試みようとしている若い力を、幕府転覆を企む危険分子と云う名にすり換え一掃しようとしているのを知ったのは、つい三日前の事だった。それを兵馬は、情事の後の気だるさを装いながら、吉住から聞いた。
遂に知りえた情報だった。その為に、内野が密偵として遣わせた吉住に体を許し、逆に内野の動きを探らせていたのだ。
吉住との交わりは、気を逸するような痛みから始まった。しかしその痛みは、心の片隅にしこりのように残っていた恥辱を、一瞬の内に砕いてもくれた。
歯を食いしばり、体を強張らせ、吉住の情欲が果てるのを待てば、それで屈辱の時は終わる筈だった。だが途中から兵馬は、己の体が少しずつ変化して行くのに気付いた。
心を置いて、快感を追い、先走る体――。
それは予想だにしなかった出来事で、兵馬を混乱に陥れた。更に、たじろぎに身を捩った時だった。草叢にひそむ陰茎を、吉住の腹が擦った。刹那、仰け反った喉を滑り、濡れた唇から、声にもならない息が零れ落ちた。その吐息の甘さに、それが本当に己のものなのか、兵馬は耳を疑う思いだった。だがそう思ったのも一瞬の事で、吉住をうちに抱え、相手の動きに合わせながら、気がつけば、兵馬は己の深遠へと男を誘っていた。
――あの時、貪ったのは、自分だった。
その事が、一点、澱のように胸に沈む。だがその後も吉住を翻弄し続け、情報を吐かせ、そして今、今度は康穣との交換条件にこの身を使う。
始め、体は新たな相手を拒むかもしれない。が、次第に切ない息が唇から漏れ始めるや、昂ぶりは露な形を成し、やがて密やかな喘ぎが、康穣を誘い始める。
康穣は自分を喰い、自分は康穣を貪る。
いつものように、一時、欲に溺れればいい。ただそれだけの事だ。
が、皮肉に笑いかけたその一瞬、兵馬の脳裏を、ひとつの影が掠めた。
真っ直ぐに自分を見詰める、少年の双眸。
逸らす事を知らぬ、強い視線。
この兄の所業を、俊介は知っているのだろうか――。
瞬間、心が凍った。
だが刹那に過ぎったその思いを、兵馬はすぐさま打ち捨てた。
「今更…」
恥に慄く心は捨てている。笑みの形を作りかけて結ばれた口辺に、自嘲の残骸だけが残った。
膚を触る風に、湿り気が薄くなった。
夏の熱を煽っていた蝉時雨の喧(かまびす)しさに代わり、今は鈴虫が涼を奏でている。
「逃したのか」
薄闇にぼんやり灯る灯篭に目を遣りながら、康穣が問うた。
「伝えましたゆえ、今日、明日中には…」
書き記されていた者達には、あの後すぐに身を隠せと伝えた。藩主に働きかけたと云うからには、内野家老は事を急いでいる筈だった。その前に逃す。それが為に康穣の力を借りたのだ。だが若い正義は圧力に屈するを潔しとせず、誰一人説得に応じる者はいなかった。が、ありのままを伝えれば、康穣の心は無駄になる。それを兵馬は憚った。
言葉の切れた沈黙の後、くすりと、吐く息にも似た小さな笑いが起こった。
「偽らずとも良い」
脇息に凭れていた体を起こし、杯を置くと、康穣は緩慢な仕草で顔を上げた。
「説得は、不首尾に終わったのであろう?」
声には、まだ笑いがある。
「兵馬」
だが二度目に呼んだ声は暗く沈み、そのあまりの変容に、伏せられていた眸が康穣を見上げた。
「そちは、何故此処へ来た」
一瞬、言葉の真意を判じかね、兵馬は黙した。
「なにゆえ、そちは逃げなかった」
「康穣様…」
「逃れよと願った余の心を、何故そちは計らなかったっ」
刺すような双眸に射抜かれ、兵馬は息を詰めた。
「何故おめおめと、余の前に参ったっ」
叫んだ語尾が震えていた。それは怒りでは無く、魂を揺さぶるような哀しい響きだった。罵倒する声には、心の核(さね)を締め付けられるような切なさがあった。
「死にたいのかっ」
詰め寄り掴んだ腕に、加減無く食い込む力の強さが、康穣の怒り哀しみ、そのもののようだった。
――兵馬は、呆然と康穣を凝視している。
康穣は自分を抱く事よりも、自分を逃がす事を望んだのだ。その為に危険を冒し、書状を盗み書きしてくれた。
初めて知った、康穣の心だった。
初めて知った、康穣の、自分への想いの深さだった。
異母弟に心捉われ、それが為の苦しさから逃れんと、のたうち回っている自分を侮りもせず、責めもせず、ただひたすらに、真摯な想いで包み込もうとしてくれたのだ。その想いが、報われる事の無いのを知りながら…
「応えよっ、兵馬っ」
荒げた声が、闇を砕く。 「それほどに、余に抱かれたいかっ」
康穣を見詰めている眸に、静かな微笑が浮かんだ。
「抱かれとうございます」
「そちは…」
掴んだ腕に、更なる力が食い込む。
「私は、康穣さまに抱かれたく、此処に参りました」
二度目のいらえが返った時、もう康穣は応えなかった。
秋虫の、季夏を奏でる音だけが、重い静寂に沈む。
強い力で兵馬を捉えていた視線が、ゆっくりと遠のいた。同時に、腕を掴んでいた手から力が抜ける。
やがて虚脱したように、康穣が再び脇息に肱を掛けた。
「愚か者めが…」
叱る声にあるのは、切なさを超えた哀しみだった。それを兵馬は、眸を伏せて聞いた。今康穣の姿を眼に捉えれば、己の核が、あまりに脆く崩れ落ちそうだった。
もとより、拒むつもりはなかった。
だが襟から忍び込んだ指が、平たい胸の、慎ましやかな突起に触れた時、兵馬の身が硬く強張った。その変化を今一度確かめるように、康穣は執拗に乳首を弄(まさぐ)る。そうなれば井戸の水で清めた膚がたちまち熱を持ち、甘い疼きが兵馬の脳髄を痺れさせる。唇をかみ締め、吐息を堪えようとしても、そんな辛抱は僅かにも持たない。体は従順に康穣の愛撫に応える。
康穣の舌は執拗に、白い膚に浮き出た淡紅色の郭(かく)を攻め続ける。
「…っ」
喉首を仰け反らせた途端、切ない息が零れ落ちた。だが次の瞬間、己の身が不意に床から離された感覚に、兵馬は眸を開けた。うつ伏せにされ腰を持ち上げられたのだと気付いたのは、下帯が剥ぎ取られた後だった。
「康穣さまっ…」
羞恥に、兵馬の面から色が消える。
「灯を、お落とし下さい」
切願の声に、康穣は応えない。その代わりのように、傍らにあった小さな箱を引き寄せると、中にある貝の皿から、粘着質の液体を小指で掬った。
菊座に当てられたものの冷たさに、白い身が竦む。しかしそれは、膚の下を流れる血の温もりと交わるや、瞬く間に其処を潤ませ、康穣の指を招き入れた。
「…灯を…」
きつく瞼を閉じ、背を仰け反らせ、掠れた声が請うた時、抜いた帯紐の衣を掠る音が背後で鳴った。瞬間、指と入れ替わりに宛がわれたものの熱さに、兵馬の四肢が強張る。だがその強い抗いを力で封じ込めるように、湿り気を帯びた熱が一気に中心を貫いた。
「…くっ」
食いしばった唇が解け、苦しげな声が漏れる。しかし康穣は、拒む身を罰するかのように荒々しく己を進める。
火玉を抱え込んだ白い頬から血の色が失せ、冷たい汗が額に滲む。
やがて康穣のあらかたを受け入れた時、床を握り締めていた兵馬の肘が折れ、勢いのまま、体が前に倒れようとした。その寸座、又も腰が後ろに引かれた。
「康穣さまっ」
思わず放ったのは、悲鳴にも似た短い叫びだった。
兵馬の腰にあった手は、いつの間にか窪んだ膝の裏に滑り、両方から開くように足を持ち上げた。そのまま均整を崩した身が、康穣の胸に凭れ沈む。体は康穣と繋がっている一点だけを頼りに、宙に浮いている。羞恥の際のようなあられも無い己の姿態に、目が眩みそうだった。
「康穣さまっ…」
だが動揺は、それだけでは無かった。
詰る声の先に、己でも分らぬ魂の揺らぎがあるのに、兵馬は愕然としていた。それは慄きとも云って良かった。
嘗て、吉住にも同じ事を許した。だが其処に感情と云うものは無かった。ならば何故今更…。
答えは分っている。
愚か者と責めた心に打たれ、逃げよと叱咤した心に触れ、今この一時、康穣の優しさにたゆとうていたいのだと――。
康穣の心が、慈雨のように自分の核に染み入ろうとしている。そして自分は、それを望んでいる。
だがその心の弱さを許すわけには行かない。
時は、遅すぎた。
「兵馬……」
吐息が、耳の後ろを熱くした。
「余に抱かれているとは思うな…」
「康穣さま…」
「…余を、俊介と思え」
思いもかけない言の葉に、咄嗟に後ろを向こうとした動きを、康穣は力で封じた。
「見ずとも良い。そちを抱いているのは、俊介じゃ」
「戯言を…」
「今そちを抱いているのは、俊介じゃ」
いらえが返るのを拒むように、康穣が深く穿った。その苦しさに、一瞬詰めた息を吐いた兵馬の瞼の際に、今度こそ、堪えきれずに熱いものが滲んだ。
敢えて後ろから抱く康穣の意図したもの。それは自らを、義弟の形代(かたしろ)にし、想いのままに溺れろと云う心だったのだ。
この激しく気高い者が、己を殺して、自分に仮初めの安息を与えようとしてくれている。叶う筈の無い恋慕に懊悩する自分を懐深く包み込み、慰撫してくれようとしている。
兵馬の裡を、ただただ切ないだけの愛しさが満たす。それは背にある康穣の温もりと溶け合い、やがて迸る熱へ姿を変えて行く。
もう康穣の心を跳ね退ける事は出来ない――。
「私を…」
喉を仰け反らせ、途切れる息に乗せた声に、艶やかないろが混じる。その己の変容を感じながら、兵馬は知る。今自分を支配しているものは、たがう事無い幸いだった。康穣にたゆたう、心の安息だった。
「私を抱かれておられるのは、…康穣さまで…ございます」
「意地の強い奴めが…」
「康穣さまに抱かれたいと、…申しました筈…」
口辺に、微かに笑みを浮かべたのが、康穣にも分ったのだろう。
「愚か者」
一際荒々しい動きが、兵馬の内で荒れ狂う。そしてその余波は、兵馬を熱く震わせ、反った胸を、滲む汗で光らせる。仄かな灯りの中、乱れた髪が、生き物のように白い首筋に纏わりつく。その髪を、康穣が舌でよける。
「康穣さまっ……」
もう憚る事は無かった。康穣の心に縋り、己の甘さを許し、うたかたの安寧に騙されてみたいと、そう願う心のままに、兵馬は康穣を求める。
「あっ…あっ…」
康穣が浅く深く身を沈めるたび、身の内を、焔が焦がす。昂ぶりは、もうこれ以上形作れない程に張り詰める。
やがて獣のような激しい交わりが、終(つい)を迎える瞬間――。
「康穣さまっ…」
細い声が、鋭角に頤を反らせた顔(かんばせ)から迸った。
風はそよりとも動かない。
共に高みに上り詰めても、暫くはそのままでいたが、やがて時をかけて二つ身に分かたれると、兵馬は静かに床に沈んだ。そのまま、動かない。そして康穣は、もの語らず、身じろぎもせず、敢え無い時が過ぎ行くのを恐れるように、薄い背を抱いている。
合わせた膚からは、まだ覚めやらぬ昂ぶりの熱が伝わる。
「…逃げよ」
囁く声に、伏せた面は応えない。
「命にそむく事、許さぬ」
やはり応えは無く、暫し重いしじまが流れたが、ややあって、伏せたままの唇の端が微かに動いた。
「夢を…、見せて頂きました」
「夢?」
「康穣様の御心に、うたかた、たゆたうておりました……」
「偽りは要らぬ」
乱れ髪を散らした白い首筋に沈めた唇が、是と応えを寄越さぬ頑なさを責める。
「…幸せな、夢でございました」
その幸いの名残を探すかのように、兵馬は康穣の舌の動きを追い、眸を閉じた。
籠もる気は芯に湿り気を含み、生ぬるく重い。じっと潜むように動かぬそれは、膚に纏わりつき不快な汗を滲ませる。
「もうよい」
扇で風を送っていた小姓に命じると、康穣は深く脇息に凭れた。時は既に四ツを回っている。深夜だった。
あれから康穣は上屋敷に戻る事無く、両斉寺に居続けている。兵馬を逃す算段を整え、且つ、かの者にそれを承知させるにはどうすれば良いか――。思案を纏めるには人の多い屋敷よりこの寺の方が向いている。何より、此処には内野佐左衛門の目が及ばない。
時は無い。
ぱちりと、音を立てて畳んだ扇子の音が重い。視線を上げれば、垂れ込めた雲が月を隠す処だった。夏の仕舞いには良くある、鉛色に濁った闇が、天を塗りつぶそうとしていた。が、その有りように、ふと禍々しさを感じた時だった。奥から聞こえて来た慌しい足音に、一瞬、康穣の胸が騒いだ。
「何事じゃっ」
康穣の一喝に、敷居の向うに膝まずいた男が頭(こうべ)を低くした。灯りが映し出す鬢(びん)には白いものが多い。かつては康穣の世話係を努め、今は膳所藩江戸屋敷用人の職に就く、鈴木正膳の姿だった。
遠くで馬の嘶きが聞こえる。正膳の息が乱れているのは、早馬をつかった所為だろう。だがその事は、康穣を新たな不安で覆う。
肩を揺らしていた息を整えると、正膳が口を開いた。
「今宵、御家老内野佐左衛門様、所用にて上屋敷を出られました処を、襲われてございまする」
「……」
顔を強張らせた康穣を見上げ、正膳は早い口調で続ける。
「襲撃せし者は、当藩の若い藩士。その場で乱闘となり、負傷者が二人ほど出ましたが、全て取り押さえられました」
黙したまま見下ろす康穣の視線の強さに負けまいと、正膳は、一度言葉を切った。
「捕らえられし者は、杉浦兵馬、横尾竜之助他六名。…既に処分は断罪と決まりました」
「…ばかな…」
「このたびの一件、幕府に知れれば、内紛と見なされ、藩には軽く無い沙汰が下されましょう。その為にも一刻も早くの処分が……康穣さまっ」
掛けてあった大刀を鷲掴むと、白い夜着の前を大きく捌いて、康穣が前に出た。が、その、猛る獅子の如き勢いの前に、丸く老いた体が、両手を横に張って立ちはだかった。
「どかぬかっ」
「いいえ、どきませぬっ」
正膳は八の字に開いた脚を踏ん張り、敷居より一段低い廊下から睨みつけるようにして、康穣を見上げる。
「若が江戸に来られた幼少の砌よりお使えしたそれがし、今此処で、若が道をお外しになるのを見過ごす訳には参りませぬっ」
「黙れっ」
「黙りませぬっ。若が杉浦兵馬に一方でないご執心を、いえ、それが真の御心であられたのは、この正膳、存じておりました。されどその若に災禍が及ぶ事を憚り、若の御名前は一切口にせず、罪に処せられる杉浦の心を、どうして若は分ってやりませぬっ」
誰もが温和と云うこの老僕が、初めて見せる激しさは、ほんの僅かに康穣の足を怯ませた。しかしそれも一瞬の事で、康穣は正膳を押し退けるようにして、廊下に出た。
「若っ、杉浦の断罪は終わっておりまするっ」
悲痛な叫びに、広い背が止まった。
「…杉浦兵馬は、最早この世の者ではございませぬ」
ゆっくりと振り向いた顔(かんばせ)が、雲間から、不意に差した月明かりに映し出された。凝然と向けられたそれを、正膳は静かに見返した。
「杉浦兵馬の処分は、半刻前に終わっております。…杉浦は、最後に面会した鳴滝正親殿にも、今際(いまわ)の言葉は残さなかったそうでございます。…かの者は、最後まで、若の名に縋る事はしませなんだ」
闇に、忍ぶように姿を現した月は、棚引く雲を端に纏い、地にあるものを、ぼんやりと霞む光で包む。
その青い静寂にとじ込められたように、康穣は身じろぎしない。
そうしてどれ程の時が流れたものか……
再び雲は流れ、低く差していた月の華を散らし始めた。
後には湿った闇だけが、取り残された。
「正膳…」
低い声に、伏せていた正膳の目が、はたと上げられた。
「夜分の使い、苦労であった」
「…若」
「屋敷に戻るが良い。そちも今宵は夜通しの勤めになろう。兵馬の事、駆けつけ知らせたのは、そちひとりの胸に仕舞わねばならぬ裁量であろう?」
「康穣様…」
「礼を云う」
語る口辺に、静かな笑みが浮かんだ。だがそれが、この若い主の限り無い哀しみの形に思えて、今一度、正膳は目を伏せた。熱くなった目の奥から滲み出たものが、堪えきれず、皺の深い頬を伝わった。
正膳は、見張りを置いて行ったらしい。
再び、密やかな闇が戻ったのに、寺のうちには、どこか落ち着かない気が張り詰めている。
時は今日と云う日を、じき終えようとしている。
「…これは、夢か?」
あてを探し得ぬ呟きが、澱んだ気に消える。
「夢か?兵馬」
今は還らぬ過ぎた時が、しじまの淵に潜んでいるようで、康穣は闇を見詰めた。
兵馬は、夢を見たと云った。うたかた、この自分の心にたゆたう夢を見たと、そう云った。
だとしたら……、
康穣の口辺に微かな笑みが浮かぶ。だがそれは声にはならず、やがてゆっくりと目にやった手が顔の半分を覆うと、そのまま、動きは止まった。
「…そちは余に、何とむごい夢を見せたものよ……」
兵馬と、引き締まった唇だけが、いらえを返さぬ者を呼んだ。
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