兵 馬 -hyouma-  (上)





天を厚く覆う雷雲は更に闇を深くし、時折地に蒼紫閃光を突き立てる。
稲びく度に浮かび上がる白い面輪は、息しているのかと疑う程に冷たく表情を変えない。

「必ず、と云う証は・・・」
返す応えに詰まる事を懇願するような吉住新三郎の視線を静かに捉えて、杉浦兵馬は微かな笑みを浮かべた。
「昼間瀬口殿が家に来られ、藩の攘夷思想者の一掃は明後日と教えられた。必ずや謀反を企てし者達を断罪する為、その対象となる七名の身辺には、家老内野佐左衛門の手によって既に見張りが立てられているらしい。むろん私も含まれている。それ故一刻も早くに逃げろと、そう密かに告げに来てくれた。・・・全ては動き出している、もう誰にも止める事はできない。ならばやられる前に内野暗殺を実行に移す、それだけだ」
残酷な程に淡々と語る佳人の玲瓏な面差しを、座す畳に全身の血が吸い取られて行くような錯覚の中、新三郎は呆然と見つめていた。

「もうゆく」
ひとしきり・・・・
人の声など掻き消すように激しく轟いた雷鳴が鎮まった後、形良い唇がゆっくりと言葉を紡いだ。
応えを返さない相手にはもう一瞥もくれず、兵馬の手が脇に置いてあった大刀を手繰り寄せる。
ほっそりとたおやかな指は書物を捲るに授けられたもので、凡そ今手にある無骨な凶器をあやつるには似合わない。
そんな事をぼんやりと思いながら、新三郎は立ち上がった情人を見上げた。
華奢ではあるが、余分なものを一切剥ぎ取った冬の冷気にも似た潔さで凛と伸びた背筋は、行く手を遮る者を厳しく拒み振り返りはしない。

静かに襖が開かれた時、一度は鳴りを潜めたかと思った雷鳴が、再び耳を劈(つんざ)いた。
一瞬闇を禍々しい蒼で包んだ光は、だがそれが全ての始まりのように、新三郎の裡に眠る凶暴な獣を目覚めさせた。

「兵馬っ」
叫び声が聞こえたと同時に、何を抗う間もなく後ろから強い力で雁字搦めに拘束された体は、必死の抗いすら無力に、再び室の内へと引き摺られ押し倒された。
「誰が行かせなどするものかっ」
逃れようとする隙を作らせず、言うが早いか、新三郎は畳に伏すのを余儀なくされた背に馬乗りになった。
「新三郎、離せっ」
だが身を捩り激しく抗う様こそは、更に陵辱者の欲情を昂ぶらせる。
「俊介の元へなど、行かせるものかっ」
何をも聞き入れぬ乾いた声は、徐々に狂気の淵へと浚われつつある人間の、一種陶酔にも似た響きを秘め始めていた。
「俊介の元へなどっ」
最早常軌を逸した新三郎の怒りは、骨をも砕きかねない力となって、戒めの腕の中に在る者の体を抱きしめる。
「憎い奴っ」
髪を鷲掴みその勢いのまま引くと、白い喉首から細い頤までもが仰け反り、苦痛に眉根を寄せる様が背後からでも見て取れた。
力弱き者が身に纏う衣など哀しい程に呆気なく肌を滑らされ、稲びく閃光に、剥かれた裸身が映し出されるまでにはどれ程の時も要らない。
表に返され更にその上に覆い被さられ、押し返そうとする腕は敢え無くひとつに纏められ、次の瞬間違える行方へと無残に別かたれた下肢が闇に浮いた。
「・・・新三郎っ」
その時兵馬を襲ったものは、陵辱への憤りでは無く、硬い結びを解く術を何ひとつ施されぬまま、皮膚を裂かれ肉を穿たれる恐怖だった。
だが本能で強張らせた身の中心は、それよりも一瞬早く灼熱の塊で貫かれた。

―――跳ねるように反り返った白い胸が、弓なりに撓ったまま息を止めた。


「・・・兵馬・・兵馬」
組み伏した者の苦しみなど気遣う余裕などなく、新三郎は熱病のように呟き、無理を強いて愛しい者の内に分け入る。
その度に兵馬の体は、侵入者の荒々しい狼藉を悲鳴を上げて強く拒む。
血の滲むまで唇をかみ締め眉根を寄せ、冷たい汗を額に浮かべ、褥となった衣の端を握る指先に、震える程強く力を籠め、今身を苛む苦しさ辛さを堪える兵馬の姿は見るも痛々しい。
だが残虐な仕打の限りで己を受け容れさせている様とても、新三郎には新たな昂ぶりを呼ぶ姿態に過ぎない。
「兵馬、どこにもやらんっ、誰にもやらんっ・・・」
揺さぶりながら命じる声は懇願にも似て、いらえの無い独り語りだけが哀しく繰り返される。

苦痛は兵馬の限界を遥かに超え、其れから逃れる唯一の手段として意識は遠ざかりかける。
内に在るものが蠢く度に肉と肉が擦れて軋み、ただ苦しみだけが兵馬を苛む。
それでもこのまま闇へ身を投じる事はできなかった。
拒まれるのを怯えるその裏返しのように、名を呼び続け、力のままに己が熱を乱暴に刻み込む、この心弱くも哀しい者に、自分は最後の最後まで鬼であらねばならない。
快楽を掴む事に慣らされた体は、この苦痛すら、いずれ悦びへと変える術を知っている。
やがて噛み締めた唇の隙からは、甘美な吐息が零れるのを止められなくなるだろう。
その時を兵馬は待っている。
だからまだ意識は現に留めて置かねばならない。
そして共に昇り詰め堕ちる際で、必ずや新三郎に聞かせねばならない言葉がある。
その為に――
否、その為だけに、今宵自分は此処に来て、承知できぬ屈辱を受け容れているのだ。


「・・・新・・三郎」
苦しげな忙(せわ)しい息の下、途切れ途切れに呼ぶ声に、漸く辛いだけの時から解き放たれつつある切なさが籠もったのを、新三郎は容易く聞き分けた。
「・・兵馬」
乱暴に求めていただけの責め手を緩め、蒼白から、仄かに上気した色に刷き変えた頬に己がそれを寄せると、兵馬の瞼が微かに開かれた。
深い色の眸はいつの間にか何処か危なげな色を帯び、それに映し出されているのは確かに自分一人。
この者の体も心も支配しているのは己だけ―――
それが新三郎を狂気のような悦びに誘う。

「兵馬、愛しい・・・」
「・・・あっ」
今一度、緩やかな動きを伝え始めると、初めて兵馬の唇から密やかに忍ぶ声が漏れた。
新三郎の手の内に捕らわれ、絡められた指の間断ない愛撫で次第に追い詰められた情欲の証は、解放の時を待ち焦れ始める。
「・・愛しい」
囁く声が、荒々しい息づきが、耳朶に触れる。
「・・新・・三郎・・・」
名を呼ばれたそれが切欠のように、更に深い淵を穿った瞬間、白蝋の如き兵馬の胸が、唯一異な彩を放つ二つの紅の花を鮮やかに浮き立たせ、大きく弧を描いてしなった。
「兵馬っ・・・」
愛しい者を呼ぶ叫びと、肉体に滾った熱が同時に迸った時、組伏された者の体が小刻みに震え細い喉首が仰け反った。
だがその一瞬、兵馬の唇が音を殺して紡いだ名を、新三郎の目も耳も確かに逃しはしなかった。

堕ちて来る身体の重みを、両の腕の中に受け止めた新三郎の眸に鈍い色が浮かんだのを、未だ惑溺の淵から戻れず、荒い息を繰り返すのが精一杯の兵馬は知らない。
それは己の生から、喜びも幸いも、そういう光ある感情を瞬時に断ち切ってしまったような暗く重いものだった。

ゆっくりと身を二つに別つて兵馬から離れると、新三郎は静かに立ち上がった。
先程まで猛るままに求めた体は、薄い胸を大きく上下させ、閉じられた眸は自分を見ようとはしない。
それが共に弾ける瞬間に、兵馬の唇から切なく漏れた名の人間の所為だと知れば、我が胸に渦巻く濁流は、やがて自分自身をも呑み込んで荒れ狂うだろう。
そしてその勢いのまま流される他無い、己の生涯を新三郎は今予感していた。
嫉妬などと云う生易しいものでこの感情を仕舞いにするには、もう遠く及ぶものではなかった。



開いた襖から新三郎が出てゆくのを気配で感じてはいたが、兵馬は敢えてそれを知らぬ振りして遣り過ごした。
やがてすっかり辺りが静寂に包まれると、立てた肘を支えに辛うじて体を起こした寸座、焼け付くような痛みが脳髄にまで走った。
咄嗟に唇をきつく結んでも、呻き声が漏れるのを止められない。
幾ら愉悦の淵に漂ったとは云え、無理に引き裂かれた身体にはやはり負担の方が強く残る。
冷たい汗が額から滑り、頤を伝って一滴落ちたその感覚で漸く眸を開けると、己の下肢にこびり付く鮮やかな朱(あけ)色があった。

・・・・地を闇の帳に沈める漆黒と、天を暴く雷(いかずち)の紫(ゆかり)と、我が身の内からいずる血の朱(あけ)と。
それらが交互に綾為す様を見つめていた兵馬の唇が、見止めるのも難しいほど微かに動いた。

「俊介・・・」
先程新三郎に唇の動きだけで伝え知らしめた名が、今度は細い声になって零れた。
禁句を言葉にした途端、とっくに枯らせていた筈のものが、思いもかけず目の奥を熱くする感覚に兵馬は慌てて瞼を閉じた。





明神の夏祭りは明日だと云うのに、気の早い江戸気質はもう神輿を担ぐ準備を始めているらしい。
大路からはずいぶんと離れたこんな処にまで、風に乗って威勢の良い声が聞えて来る。
それをさして邪魔とも思わず、借り受けた書物を熱心に写していた戸村順次郎の手が不意に止まった。

「もう少し寝ていれば良いものを」
誰とは確かめずに先に声を掛け、それからゆっくりと振り向いて視線を上げた先に、やはり予想を違(たが)え無い人物が立っていた。
「十分に寝足りた」
「そうとも思えんが」
「どうとでも思え」
笑って返した応えの主は、この者の皮膚の下に流れる血潮は、いっそ透けた色では無いのかと思える程に、白いを通り越した面で笑いかける。

寝足りている筈が無かった。
それどころか一睡も出来ずに兵馬は朝を迎えたに違い無い。
昨日夜更けて突然にやって来た時よりも、更に深くなった頬の翳りが何を云わずとも真実を如実に物語っている。
だがこうなれば例え自分が否と唱えても、兵馬は決して聞き入れはしないだろう。
この幼馴染は優しげな風情に似ず、意外に頑固な処がある。


「兵馬、俺が何を言いたいのか、お前は承知している筈だ」
「さて、何の事か・・・」
分ってはぐらかせているのか、意図して外しているのかと、返したいらえの気の無さは、きっと順次郎を怒らせている筈だった。
だから知らぬ振りを決め込むと、井草の色など隠してしまう程に室に散らばった書物を器用に除け、兵馬は壁に背を預けるようにして端座した。
だがその途端に、順次郎の顔が曇った。

「具合が悪いのだったら寝ていろ」
例え知己の間柄であっても、兵馬は他人の前で行儀を崩すような若者ではない。
壁に背をもたらせるなど、余程に上体を支えるのに辛いのだろう。
それを長い付き合いの友はすぐに察したのだ。
「悪くなど無い、そう言っている」
そんな相手の憂慮を言葉だけでやんわりとかわした兵馬の視線が、身近にあった一冊の本に止った。
それは端をきっちりと同じ幅の間隔で紐通し、その厚さから、手にして読むしても重さに難儀しそうな代物だった。
「兵馬、俺は吉住さんが悪い人間だとは思ってはいない・・・だが」
「順次郎、この本新しいものだが」
咎める言葉など端から聞き入れるつもりはなかったのだろう、新しい興味の対象に思考の全てを捉えられてしまった幼馴染に、順次郎はせめて相手に聞えるように遣る瀬無い溜息をついた。

「昨日俊介が来た時も、お前と同じように目聡く見つけた」
「俊介が?」
手に取っていた本を捲り始めていた指を止めて、漸く兵馬が顔を上げた。
「聞かなかったのか?」
珍しい事もあるものだと、順次郎の声は不思議そうだった。
「俊介とは、昨日入れ違いになったからな・・・」
相手の不審を逸らせるように、兵馬も叉視線を手元の書物に戻した。
そんな硬質な横顔を、順次郎は掛ける言葉に戸惑って見ている。


三つ違いの弟俊介とこの兵馬は、血の繋がりこそ無いものの、誰が見ても仲の良い兄弟だった。
兄は弟を慈しみ、その弟は兄を尊び敬愛している。
それが近頃二人の間に何と言うでは無しによそよそしい気配が生まれたと思うのは、昔馴染みだからこその順次郎の勘だった。

「どうした?」
不躾な視線は感じていたのであろうが、あまりに長いそれに、とうとう兵馬が顔を上げて順次郎を見た。
「俊介と仲違いでもしたのか」
直截にぶつけた懸念に、丁寧に細工された面輪が曇った。
「何も無いが・・・。何故そんなことを聞く?」
夏も終わりの陽射しは、次に来るべく季節の色を湛えて時折は柔らかさを帯びるが、それでもまだ日中の暑さは酷と云うに相応しい。
その強烈な陽を避ける様に隅に身を置く兵馬の表情は、室に出来た陰が邪魔をして分り辛い。
「原因は吉住さんか」
「叉それか」
今一度振り出しに戻ってしまった話に、うんざりと不満を露わにしながら、兵馬は手にあった書物をゆっくりと畳の上に置いた。
その仕草が大儀そうに見えたのは、自分の見間違いではないと順次郎は思っている。
兵馬は吉住新三郎との秘め事で、酷く体力を消耗させられたのだ。

順次郎にとって同じ性を持つ者同士の睦み合いは、己の思考の範疇を超えるものだったが、それが良いとか悪いとかを論ずるつもりは無い。
ただ相手が悪いと、それだけが危惧だった。
吉住新三郎が見せる兵馬への執着は、時に順次郎を妙に落ち着かない不安に陥れる。
吉住の恋情は常軌を逸しているのかもしれない、そう思わせるような暗く鋭い、それでいて危うげな眼差しを兵馬に向ける機会を幾度か見ている。
それが故、いつかこの恋が友の災いになりはしないかと、順次郎は案じている。
或いは最近の俊介の兄へのぎこちなさも、この辺りから来ているのかもしれない。


「俊介は私が出かける時には、父上の所用の供で出かけていた。だから顔を合わせる事がかった。それだけだ。・・・・新三郎殿とは関係が無い」
「ならば良いが・・・」
相手のわだかまりを察したのか、言い訳じみた兵馬の声が幾分勢いを失くした。
最近はどうにも心の裡を見せようとはしない友だったが、こういう処は未だ昔のままの素直さである事に順次郎は安堵する。

「それよりも、俊介はこの本に興味を持ったのか?」
急(せ)いて問う様に、此方を見ていた造作の大きな顔が苦笑した。
兵馬が先程から見ているのは、西洋医学を基本とした薬草学に分類されるものだった。
「持った・・と云うよりも、惹かれるように読んでいたな。もしもあいつがこの道に進めるのならば、きっと良い医者になる、養父上(ちちうえ)も良くそう言われる。無論、俺も同じように思う」
「俊介が・・か?」
「あいつは医者に向いている。・・・いや、俺なんぞよりもずっと適しているかもしれん」
それは武家とは云え三男として生まれたからこそ、今は町医者の養子となり、己の進むべき道を自ら切り開くことが出来た順次郎の偽ざる心境だった。
だがやがては膳所藩家老職にも推されて不思議ないと、誰もが認める父親を持つ俊介が医者になる事など有り得ない。
それでもその者の持つ力が相応しい道に使われずに埋もれてしまうのが、順次郎には何とも惜しいのだった。

「お前もひとつ道を決めて進めば、誰も敵わぬものを。兄弟揃って勿体無い事をしている」
そんな老婆心とも付かぬ諦めの悪さを、その兄の兵馬に振る事で順次郎は誤魔化した。
「私はこのままでいい」
再び書物に視線を落としての声には、自嘲も皮肉も無い。
ただ弟が興味を示したのだと聞いた本に向ける眼差しは、見る者に一瞬寂しさを感じさせるような柔らかなものだった。
兵馬の言葉に籠められたものが何処から来ているのかを知るだけに、順次郎の胸の裡にはそれ以上この会話を続けるのを憚る遣る瀬無さがある。

医の道を歩むようになってから、順次郎は自分に『もしも』という言葉を禁句として来た。
人の命を預かるには、先を見る目は何処までも現実を捉えていなければならない。
有り得ぬ事を思い願うのは心に甘えと隙を作る、そう己を戒めてきた。
だが今それを破っても、順次郎はやはりこの友の持って生まれた体が、もしも普通の人間と等しい強さを有していたらと思わずにはいられない。
自分などは足元にも及ばない稀有の秀才でありながら、あまりに脆い肉体が故、周りの者も当人までもが将来(さき)を見限ってしまっている事が、何にも増して悔やまれる。

もしも・・・
もしも兵馬が健やかな肉体を与えられ、忌憚無くその才を発揮できたのなら―――
全ての神経を手にある書物に注ぎ、熱心に目で文字を追っている端正な横顔を見ながら、有り得ぬ『もしも』に、やはり順次郎は思いを馳せる。


「客が来たらしいぞ」
そんな思いで見られている事など知る由も無く、紙を捲る指が不意に止まり、兵馬が顔を上げて順次郎を見た。
勘は、余程も兵馬の方が鋭い。
「今日は養父上が留守で休診だと、患者ならば知っている筈だが・・・」
「ならばそれを知らない急患だろう」
言い終わらぬ内に、俄かに表玄関の方角が騒がしくなった。
「俺の手に負えれば良いが・・」
何とも心許ない応えを返した時には、だが屈強な体は似合わぬ俊敏な身のこなしで室を飛び出していた。
そして叉同時に、兵馬も立ち上がっていた。

常ならばこんな差し出がましい真似などしないのだが、広い背に続いて進む歩を急がせるのも、これがこの友との今生の別れと思えば、少しでも眼(まなこ)にその姿を、耳にその声を止めて起きたいと願う、捨てた筈の感傷がさせる業だったのかもしれない。
そんな甘えを許している己の不甲斐無さを、遂に走り出してしまった行儀の悪い後姿を見ながら、兵馬は苦く笑った。




「押し潰したのかっ」
じき玄関と云う辺りで順次郎の大きな声が響き、只事では無い様子を察しった兵馬の面に、俄かに厳しい色が走った。
ここの主戸村推安は確かに見立ての良い医者だが、その養子順次郎は未だ修行の身。
毎日養父の手を助けているとは云え、順次郎ひとりで難しい患者を診るにはまだまだ経験が足りない。
しかも今日はその養父推安も、夜にならねば戻らぬと云う。
だが一刻を争う患者ならば、帰りを待ってはいられない。
親友の窮地を案じて、声のする方へと兵馬の足も自然と早くなる。

「順次郎」
掛けられた声に大きな背が振り向き、更に土間に居た、やはり順次郎に負けぬ堂々とした体躯の持ち主、が同時に兵馬を見上げた。
咄嗟にその腕に在るものに視線を遣った兵馬の面輪が、怪訝に曇った。
意外にも男が抱えていたのは、まだ子供と呼んだ方が良さそうな、幼さの濃く残る少年だった。
思わず素足のまま駆け下り近くまで寄ると、意識を失っていると思われた少年の瞳がほんの微かに開かれた。
だが正気は逸しているらしく、覗き込んでもそれ以上の反応は無い。

「どうしたのだ」
詰問するような強い調子で振り仰いだ先にあった順次郎顔も険しい。
「すみません、あっしが避けられ無かったばかりに・・・」
応えたのは少年を抱えていた職人風の男だった。
「表の通りで放れ馬が来るのを避けようとして、人垣が崩れた煽りを受けたらしい」
順次郎とて状況を聞いたばかりで、まだこの少年の身体の何処に損傷が起きているのか判じる事が出来ていない。
男からの説明をそっくりそのまま返す他無かった。
そう云われて改めて見れば、少年が身につけている袴も着物にも所々土がこびり付いている。
「貴方の下になったのか」
問い掛けにすまなそうに頷く男の体は、大柄な順次郎の更に一回りも大きい。
しかも横幅はその比ではない。
この巨漢におもむろに押し潰されたのならば、下手をすれば骨の一本二本折るどころでは済んではいないだろう。
流石に兵馬の面にも緊張が走る。
「とりあえずそのまま中に運んでくれないか」
突っ立ったままの男に命じるが早いか、順次郎自身はすぐさま踵を返し、促すように先に立って廊下を進む。

だが果たして順次郎の手に負える患者なのか―――
兵馬の憂慮を他所に、親友の背は診療に使っている室へと消えた。



「この子、何処の子だ?」
着ているものを神経を払って脱がせ横たえた頃には、少年の意識は益々混濁して来たようで、ぐったりと為されるままになっている。
「一緒に倒れ込んだ後、慌てて声を掛けた時には、今よりもずっとしっかりしていて、家は何処だと聞いた時に確か・・・牛込柳町のやっとうの道場で、何でも・・・」
男のいらえは其処で一旦途切れ、暫し考え込むように黙した。
余程狼狽していたものか、此処まで運んで来る間に刻み込んだ筈の名を失念し、思い出すのに難儀しているようだった。
「・・・名前は確か、宗・・、宗次郎とか」
「宗次郎?」
「へぇ、確かそんなだと・・・」
凡そ心許ない返事だが、全く外れている事も無いだろう。
「宗次郎、分かるかっ」
そう判断し当て推量の名を耳元で呼ぶ声に、少年の頬に影を落としている睫だけが微かに揺れた。
「宗次郎っ、何処が痛い?」
小さな唇は何かを伝えようとするが声にはならず、それすらすぐに力尽きたように動きは止まってしまった。
華奢というにはあまりに細い少年の身体つきは、改めて大人の、それも並み以上の男の下敷きになった事を考えれば、こうして息している方が奇跡とも思わせるものだった。

「この子の身が軽くて助かったな・・・」
少年の肌は色を失ったかのように透け、其れ故に、打った処が蒼みがかかって来ている様が何とも痛々しい。
患部を濡れ手拭で丁寧に拭いてやりながら、順次郎が誰に言うでもなく呟いた。
「いえ先生、この子は恐ろしく動きの早い子で・・・」
「動きが早い?」
「へぇ、あっしも、この子を下にしちまうと分った時は、思わず南無三っと、一旦は目を瞑りやした。けど気付いた時には、この子の半分だけを下に敷いてましたんで・・・」
「咄嗟に身を交わそうとしたのか」
肌に触れひとつひとつの傷を己の手で確かめながら、とてもそんな俊敏さを宿しているとは思えない、誰が見ても頼りなく儚げな少年の蒼い顔を、順次郎は俄かには信じがたい思いで見遣った。

「順次郎、この子の左手がおかしい」
先に異変に気付いたのは兵馬だった。
「肘の処が酷く腫れている。外れているのではないだろうか」
云われてみれば、少年の骨ばった左の手指は、全く力が入らないように弛緩している。
更にその患部と目ぼしい左肘に目を遣れば、確かに不自然に骨が突き出ている。
ただ骨折ではないようだった。
触れると少年の身体が、初めて刺激を感じ取ったようにびくりと動いた。
もう間違いはなさそうだった。
意識を朦朧とさせているのも、此処からの痛みが大方だったのだろう。

「この子の身体を押さえていてくれないか」
顔を向けて声を掛けたのは、先ほどから心配げに少年の顔を覗いている男にだった。
「入れる事が出来るのか?」
だが代わりに応えのは兵馬だった。
「この位なら何とか俺にもできるさ。外した骨を入れるなら道場で幾度かやって来た」
原因が分かり、更に自分の手に負える範囲の怪我と安堵したのか、順次郎の声にも漸く自信めいた強さが戻った。









            翡翠の文庫    兵馬(中)