兵 馬 -hyouma- (中)
少年が声を発したのは、左肘に、外れてしまった骨を元の通りに入れた瞬間だけだった。
だがその一瞬で、絹糸よりも細く保たれていた意識は今度こそ完全に失われた。
「もう少し加減ができなかったのか。相手は子供だぞ。お前の力では折ってしまう」
少年の額一杯に浮かんだ汗を拭ってやりながら、兵馬の意見は手厳しい。
「元の通りに入れなければ、後でこの子が不自由する」
が、医を志す者として、順次郎のいらえも譲らない。
「折れてしまえば元も子もない、お前のように荒い治療では患者が音を上げる」
それに少しも怯まず、珍しく激しい兵馬の口調だった。
だがそれは、半分は少年の苦痛に耐える様を間近で見せ付けられての非難の心、もう半分は決して器用な生き方はできぬだろうこの親友の先を案じる心が迸らせたものだった。
「・・・まだ十(とお)も行かぬ年端だろうに」
呟いた語尾に憂いを籠めて、蒼い血管(ちくだ)を透かせた瞼を閉じている小さな面輪を兵馬は見遣った。
「いえ、丁度十って言ってやした。あっしが、坊、幾つだと聞いた時に、確かに・・・」
兵馬の何気ない独り語りを耳にした途端、刻んでいた記憶が蘇ったのか、それまで息を詰めるようにして治療を見ていた男が突然声を発した。
そのまま己の頭の中を必死に掻き回すように暫し思案に暮れていたが、不意に明るいものが顔に射した。
「そうだっ、し・・しえい・・、しえい何とかと、道場の名前を言っていた」
漸く思い出したそれを、二度と忘れぬようにと念じたのか、男の声は大きかった。
「先生、あっしは今から柳町まで走りますんで、それまでこの子をお願いしやす」
言い終えぬ内に男の大きな体が二つに折れ、順次郎に向かい、膝につかんばかりに深く頭が下げたられた。
「牛込柳町と、その何とかという道場、それとこの子の宗次郎という名が分かっていれば探すに手間は取らないだろう」
此処神田から牛込柳町までは遠い距離ではない。
探す手間を計っても、そう時を費せずに戻る事が出来る筈だとの順次郎の判断だった。
「へい、すぐさま見つけて来やす」
それまで頼むと、上げた頭を今一度下げ、男はもう此処に居る僅かな時すら惜しむように大きな背を向けて走り出した。
「大丈夫なのか?」
「何がだ?」
「本当に、戻って来るのか?」
「あの男か?」
まだ当分は気づきそうに無い少年の顔を覗き込んで応える声は、暢気なものだった。
「・・・知っている人間なのか」
是とは云わぬまでもその様子から、少なくとも順次郎はあの人間を知っていると判じられ、それまでそんな素振りなどひとつも見せなかった意地の悪さに呆れながらも、兵馬の心裡も漸く安堵に包まれた。
「知っている、と云う程ではない」
「だが信用のおける人間なのだろう?」
そうでなければこの友は、こんな風にあの男に気を許しはしないだろう。
「この直ぐ裏の家作に最近越してきた男だ。まだ名前も知らん。その隣の家の者が此処の患者で、往診に行く父の供をした時に二度程顔を合わせた事があるだけだ。・・・・何でも千駄ヶ谷の植木職人の処へと、弟子入りしたばかりだそうだ」
名も知らぬと云いながら、語る口ぶりから、順次郎の感情は決して悪いものでは無いと分かる。
それはあの人物が垣間見せていた実直さを疑わず信じて良いと、案ずる事は無いのだと、そのまま兵馬に伝えていた。
「・・・それにしても」
その兵馬の思惑など知らぬ風に、相変わらず自分が治療を施したばかりの患者に視線を止めたまま順次郎が呟いた。
「似てるな、この子」
誰にとは云わず、向けた顔が慕わしそうに笑っていた。
「お前に良く似ている」
「そうだろうか」
「そうさ。最初に見た時、そんな余裕など無い筈が、俺は昔のお前が目の前にいるのかと、一瞬目を疑ったぞ」
飾りの無い正直な言葉が、兵馬を苦笑させる。
「だが名はお前に似ている」
笑いながら視線を少年に戻すと、話題の渦中にされているなど知る由も無く、小さな面輪は吹き抜ける風に前髪を遊ばせながら相変わらず深い眠りにある。
確かに、似ているとは思った。
だが一日に一度水鏡で見るしか知らない自分よりも、こうして相対して観察できる他人の方が類似している処は探し易いのかもしれない。
否、他人の方が、余程も知っている事が多い。
それが誰の事かと問われれば、心はすぐさまひとりの風姿を映し出す。
真似よと命じられるのならば、寸分も違わずその人間と同じ仕草をする事が出来る。
聞かせよとねだられるならば、幾らでもその人間の今日を伝える事が出来る。
水も漏らさぬ柵(やらい)の中でなら、全てをかなぐり捨て、天に地に、或いは人に、業火に身を焦がして尚足りぬ程に狂おしく求める心を曝け出す事が出来る。
――弟、俊介への想いの丈を
自分は飽く無く語りつづける事が出来る。
だが今は葉を揺るがす風にすら聞かせる訳には行かない。
己の胸に秘められた恋情は、その封印を決して解かれる事無く我が身と闇に沈むのだ。
「俊介に見せれば吃驚するな」
一瞬出来た心の隙に不意に飛び込んできた言葉に、兵馬の顔が強張った。
「いや、あいつの事では、お前と同じ顔の弟が出来たと喜ぶだろう」
そんな兵馬の動揺は、少年に気を取られている順次郎には気付かなかったようだった。
親友の弟の稚気を思い笑っている横顔には屈託が無い。
「俊介もこの春元服した」
まだ狼狽する心を隠し、殊更抑揚をおさえた声音で、兵馬は話の筋を別の方向へと持って行った。
「知っているさ」
それがどうしたのかと、漸く順次郎が振り返った。
「もう兄を慕ってばかりいる歳でもあるまい」
「年は関係がないだろう」
だが少年に視線を止めたまま、兵馬はいらえを返さない。
もしも・・・
もしも時が溯り、この少年だった頃の自分に還る事ができるのならば。
胸にある想いを禁忌と知らず、ただ無邪気に互いを求め合っていた頃に戻る事ができるのならば・・・
たった一年。
だが一年(ひととせ)の歳月で、俊介は兄への憧憬を恋情という焔に変えてしまった。
まだ十五歳。
あまりに若く曲がる事を知らない心は、自分が必死の思いで秘めてきた想いを、己の欲するままにいとも容易く暴こうとする。
そして二日前の晩、聞いてはならない告白は、闇に紛れてやってきた愛しい者の唇から堰を切ったように迸った。
兄上を好いている――
決して振り返ろうとはしなかった背に、残酷なほどまっすぐに向けられたその一言が、身が凍りつくような慄きもたらし、それを表に出すまいと堪えるのに、どればかりの辛苦の時を自分に課せなければならなかったか・・・俊介は知らない。
埒の無い会話を交わし邪気無く笑い戯れ、愛しい弟と慈しんできた者は、一体何時から、こんなにも激しい情愛の対象となってしまったのだろう。
滾る想いを思うざまぶつけてしまいそうな自分を止めるのが、今ではもう精一杯だった。
いつかきっと禁忌が破られる時を、ただひたすらに恐れながらも、俊介の邪魔だてだけはしたくはないと、その思いだけが自分と止められる唯一の枷だった。
だがこの呻吟の時に終わりを告げる僥倖は、思いもかけず早くにやってきた。
過ちを犯す寸前に、自分は辛うじて呪縛から解き放たれるのだ。
――兄上を好いている
この世の者でなくなっても、決して忘れる事は無い言の葉を身に刻んで。
「兵馬」
現を離れていた心を突然に呼び戻した声の主が、慌てて振り仰いだ顔を怪訝に見つめていた。
「どうした?ぼんやりとして。お前らしくも無い」
この友がこんなに無防備な姿を他人に晒すのは、滅多やたらあることでは無い。
それが順次郎を俄かに不安にする。
案ずるを隠さない真摯な眼差しに、兵馬は微かに笑いかけた。
「お前がつまらぬ事を言い始めるから、少し昔を思い出していた」
「この子を見ていてか?」
衒いの無い言い訳に、順次郎が破顔した。
自分の昔を彷彿させる程に似ている者を見ていれば、おのずと懐古の念に浸るのは些かも不自然な事ではない。
その余韻に叉戻るかのように、少年に視線を戻した兵馬につられて、順次郎も今一度眠りにある面輪を見遣った。
「そうだ、兵馬、お前まだ帰らぬのだろう?」
暫し無言でそれぞれの来し方に思いを馳せていた穏やかな沈黙を不意に破って、順次郎の遠慮の無い声が室に響いた。
「声が大きい、目が覚めてしまう」
それを嗜める声が、すぐさま形良い唇から掛かった。
「すまん、つい我を忘れた」
順次郎の思考は突然に思い出した何かにすっかり捕らわれてしまったようで、詫びる声も何処か落ち着かない。
「どうしたのだ?」
半ば諦めの苦笑を浮かべながら仕方なく促すと、大柄な体の主はそれに似合わぬ気弱さで心持困った風に顔を曇らせた。
「悪いが少しの間留守を頼まれてくれるか?」
「留守?」
「父上に用事を託(ことづか)っていた。昼過ぎに出入りの薬種問屋に頼んでいた薬の根が入るからそれを取って来るようにと」
「急ぐのか?」
「急ぐ」
頼まれ事をすっかり失念していた順次郎の心の焦りを表して、いらえは寸暇を置かずに戻った。
「だが私も八ツには此処を出なければならない」
必ずそうすると、兵馬の強い声だった。
目の前に横たわる少年を独りにさせてしまう可能性を思考に入れれば、常の兵馬には凡そ有り得ない対応だったが、それを一瞬異なものに思いはこそすれ、この時の順次郎は己の焦燥でその不審を見逃した。
「じき玄太が帰ってくる、もしも俺が八ツまでに戻れなくてもこの子が独りになる心配は無い」
玄太というのはこの家の下働きの者の名だった。
もう還暦に手が届くかと思う老齢だったが、とてもそんな歳には見えず、養父と順次郎二人の男所帯の裏向きを、伸びた背筋と同じように如才無く一手に引き受けこなしている。
「では玄太が戻ったら私は帰る事にしよう」
「すまないな」
順次郎は一度少年の手首に触れ、血潮の規則正しい流れを確かめると、後は詫びる暇も惜しむように慌しく立ち上がった。
「順次郎」
座したままの兵馬が、此方を向けた背に声を掛けた。
「何だ?」
余程気が急いているのか、返すいらえにも呼び止められた不満が見え隠れする。
「今宵此処へ鳴滝の叔父御が来られる筈。すまぬがその時に此れを・・・」
ほっそりとした指が胸の袷を探り、油紙に包まれた書状のらしきものを抜き取り差し出した。
「叔父御に渡して欲しい」
それまでとは打って変わり、順次郎を見上げる兵馬の顔(かんばせ)が酷く真剣だった。
「そんなものはお前が鳴滝殿に直接に渡せば良いではないか」
眸にある強さ声にある厳しさに一度は怯んだものの、順次郎は腑に落ちかねる疑問を直截にぶつけた。
鳴滝重吾正親は膳所藩で二百石を頂く上士であり、国元で勘定職の役目についている。
だが丁度今、江戸表へと役務により出仕していた。
鳴滝は杉浦家の養子である兵馬とは遠縁にあたる。
又兵馬の養父杉浦高継の人柄を、鳴滝は己の先達として若い頃から敬い慕っていた。
その関係もあり、当時嫡子の無い杉浦家へ兵馬の養子話を纏めた当人でもあった。
だが皮肉にもその一年後、高継が情を交わした柳橋の芸者との間に出来た男子が俊介だった。
それら全ての事情を承知している順次郎にとって、兵馬の頼み事はやはり合点が行かない。
確かに養父戸村推安と鳴滝とは気の置けない知己の友であり、今夜の来訪を家人も楽しみにしている。
だが用事があれば文を認(したた)めるなど手間のかかる事をせずに、兵馬が直接に鳴滝に会えば済む事だった。
「叔父御とは、先日口論が過ぎて少しばかり気まずい」
順次郎の不審をすぐさま察して、兵馬の面にいつもと変わらぬ柔らかな笑みが浮かべられた。
「珍しい事だな」
笑いながら応えた順次郎だったが、やはり胸に湧いた懸念は消えない。
普段人と言い争う事など無い兵馬の静けさ穏やかを成す実(さね)にあるものが、この若者の持つ強靭な精神力であると云う事を、長い付き合いで順次郎は知っている。
そしてそれは裏を返せば、驚く程の激しさをも裡に秘めていると云う事だった。
だからこそ藩とは逆行した勤皇攘夷思想に、今兵馬が急速にのめり込んで行くのを、恐れ憂いている自分だった。
鳴滝はその反対を行く思想の持ち主だった。
久しぶりに会った年若い親しい者が、自分と違う考えに傾倒して行く様を強く責めたに違いない。
鳴滝のあの剛毅な気性ならば、それも推して計れる。
だとしたら今兵馬が自分に託す託(ことづけ)けにも納得が行く。
文には詫びる言葉が綴られているのだろう。
順次郎の思考は、邪気無くそう受け止めた。
「承知した。だが鳴滝殿が国元へ戻られるまでには仲を戻せよ」
笑った顔が揶揄するように、まだ微かに笑みを留めている白皙を見下ろした。
夏も終わりの昼下がりに吹く風は、時折気紛れに次なる季節の涼やかさを孕む。
だがそれも一陣が過ぎ去るまでの敢え無いもので、気付いた時にはすでに不快な暑さが肌を湿らす。
元々がそう云う質なのか、少年の額にも頬にも浮く汗は無いが、先程の痛ましい様を目に焼きけてしまった名残か、今は少しでも穏やかな眠りの中に居させてやりたい。
そんな感傷に捉われている自分を苦く笑いつつ、兵馬は順次郎の室から探し出してきた団扇で、先ほどから少年に風を送り続けている。
こんな風に穏やかな時に居るのは、一体どれ程ぶりの事なのか―――
自分を見る俊介の眸の奥に、ともすれば禁忌を破り捨て、引きずられてしまいそうな激しい焔(ほむら)の色を見つけてから、ずっと慄きと怯えの淵から抜け出す事ができなかった。
この心静かな時が、天が最後に見せた偽りの憐憫だと思えば、今はそれに騙されたゆとうていたかった。
だがひとつ思考に奪われていた己とは関係なく、視界は今までとは異な風景をふと捉えた。
その一瞬の違和感を兵馬の意識は見過ごさず、視線はつられるように其方へと移された。
無防備に投げ出されていた少年の自由の利く右手の指が、僅かにだが動いている。
それは決して頑強とは言いがたい兵馬の手指をしても、一瞬触れるを躊躇わせる程に細く頼りない。
だが指の仕草は何かを探り求めているようでもあり、握り返せば、或いはそれが切欠になって瞼が開きそうだった。
そう思った瞬間咄嗟に己の指を絡めていたのは・・・
今一度はっきりと少年の瞳が開き、顔貌(かおかたち)の隈なく全てを見る事が出来たのならば、もしや其処にいるのは自分自身の現身ではないのかと―――
そしてそれに己を重ね合わせた時、人を想う修羅を知らないこの少年の時に還る事が出来るのでは無いのかと―――
有り得もしない夢幻に馳せる愚かを罵倒しつつ、叶うこと無いと承知してそれでも尚そう望む、兵馬のもうひとつの心がさせた哀しい切願だった。
だが人の温もりに包まれて安堵してしまったのか、少年は睫を微かに震わせはしたが、それきり何の変化も見せず、又眠りの内へと戻って行ってしまったようだった。
少しばかり気落ちしている様を自嘲しながら、少年の指に絡めていた己のそれを解こうとした時、意外にもうっすらと瞼が開かれた。
思いもかけない僥倖が、兵馬の心を逸らせる。
「宗次郎・・・?」
一瞬の逡巡の後、名を呼ぶ声が躊躇いがちに掛けられた。
が、発した瞬間、乾いた小さな咳が同じ唇から零れ落ちた。
それは二度三度肩を震わせるだけで鎮まりを見せた軽いものだったが、兵馬は素早く少年の脇から我が身を遠ざけた。
意識はまだ大方夢寐にあるのだろうが、触れていたものが離れ行くのを追って、少年の虚ろな視線が兵馬に向けられた。
薄い瞼から覗く両の瞳は、映すもの全てを夢現か判ずるに迷う際へと誘うような深い色だった。
少年はぼんやりと兵馬を見てはいるが、それが脳裏にまで届いている訳ではなさそうだった。
だが小さな唇が微かに動いた。
初めて聞く少年の声はあまりに儚く、凝視する兵馬に伝わる前に、通り過ぎた風が意地悪く千々に散らせてしまった。
何と言ったのか・・・・
今一度名を呼び聞き出したいと願う心を、兵馬は漸く押し止めた。
先程零れ落ちた幾つかの咳。
人が聞けばむせたとも思う、埒も無い息の痞(つか)え。
だがその実にある禍々しさを、自分は嫌と云う程に知っている。
そして皮肉にもこれが全ての絶望とそして開放になった、天のあざとい仕打ちである事も。
未だ身は、自分の意思で動かす事ができる。
だが業病は、忘れることを許さぬように必ず己が存在を誇示する。
そしてこの魔物は、人の内から骨をも肉をも食い荒し、やがてそれだけでは飽き足らず次なる獲物を虎視眈々と狙っている。
生きるに力弱き者は、その最たる標的だった。
少年にうつす訳には行かない。
「・・・・ひじ・・かたさ・・ん」
再び少年は、聞くに辛い小さな声で人の名を紡ぎ兵馬を誘う。
誰かと勘違いをしているのだろうが、心も身体も此岸へと戻るにはもう少し時がかかりそうだった。
意思無く見つめる瞳が、仄かに揺れる。
潤んでいるのは肘の傷からの熱に侵されているからだろう。
ひじかた・・・と、少年は呼んだ。
それが誰の事なのか、知る術など何処にも無い。
だがその一言が、兵馬の胸の裡を酷く落ち着かなくさせている。
痛みと熱に呻吟し、闇で見る夢魔に苦しみ、其処から救ってくれる者の名を呼ぶのならば、それはきっと心委ね縋る事の出来る人間だろう。
この年端も行かぬ者ならば、さしずめ愛しんでくれる親か兄弟か・・・
しかし少年は、他人を指す敬称をつけた。
ひじかたさん、と確かに呼んだ。
身内である筈が無い。
このような状態の時に無意識に呼ぶ者が、少年の肉親で無い事が兵馬を困惑させている。
「・・・ひじかた・・さん」
少年の声が更に小さくなった。
もう聞き取るにも敵わない。
何と応えて良いものか言葉を探しあぐねている内にも、薄い瞼は閉じられようとしている。
身体を苛むものが、再び眠りの淵へと浚いかけているのだろう。
遂に隠されてしまった瞳からは、今はそれすら察する事も出来ない。
やがて辛うじて床から浮いていた手首ががくりと落ち、兵馬に向かって伸ばされ掛けていた指が力抜けたように沈んだ。
思わずにじり寄ってそれに触れても、もう先程のように少年は指を絡めようとはしない。
「・・・宗次郎」
果たして自分の声を、土方という人間のものと錯覚してくれるか・・・
そんな事は分らない。
「宗次郎」
だが兵馬は耳元で囁かずにはいられない。
この少年がどのような境遇なのかは知る由も無い。
それでも親でも兄弟でもなく他人を呼んだ心を慮れば、両親(りょうおや)の顔も定かに覚えぬ年端で貰われてきた我が身と重なる。
縋りたい人の温もりも得られず、もしもこのまま全ての意識を現から放してしまったら、夢路の先にあるものはただ辛苦に彩られた闇だけだろう。
自分の呼びかけを、求める者のそれと少年が聞き違えてくれれば、せめてその道程も心強いものになろう。
「宗次郎・・・」
ともすれば滑り落ちそうになるか細い指に、今一度力を籠め握りなおし、兵馬は飽かず同じ名を繰り返した。
「熱があるが、それも怪我の為の一時のもの故案ずるなと順次郎は言っていた。もしも目が覚めたようならば、其処にある薬を湯に溶いて飲ませるようにとのことだった」
枕辺で、少年の眠りを妨げ無いように声を潜めて交わす会話は、開け放った室に悪戯のように熱い湿り気を送り込む風に、時折続けるのを邪魔される。
「それは申し訳の無い事を。兵馬さまには大層ご迷惑をお掛けしてしまい・・」
玄太は心底すまなそうに、律儀な顔を困惑で染めて深く頭(こうべ)を垂れた。
「いや、居候は私だ。たまにはこのくらいの手伝いをしなければ本当に順次郎に叱られる」
「とんでもありません、順次郎さまは兵馬さまがお来し下さるのを楽しみにしていらっしゃいます」
慌てて首を振る玄太の目は、嘘を言ってはいなかった。
だからこそ、その順次郎を驚愕と絶望の淵へと堕としめる自分を思えば、これ以上の玄太との会話は流石に躊躇うものがある。
「じきこの少年の身内の者が、呼びに行った男と共に来るだろう。そうしたら帰してやって欲しい」
兵馬は視線を少年に移しながら、気付かれぬよう話の筋をも逸らせた。
葉月も末の今頃は、八ツを回れば日は呆気ない程にすとんと落ちる。
ほんの僅か数刻前まで、地からの熱が陽炎を立たせ目先の情景を目眩ましにしていたのですら、行く季節の最後の足掻きと思えば、この日暮れた景色にも一抹の寂しさを禁じ得ない。
蜩(ひぐらし)の鳴く声を最後まで聞かず、じき薄闇が辺りを多い始めるのだろう。
まだ迎えの来ない少年を玄太に託し、戸村家の門を出、大路に繋がる緩やかな勾配を数間下った処で、人の影が後ろからついてきたが兵馬は振り返らない。
「今宵九ツ、内野が上屋敷を出る」
「集まったのは・・・」
「一人も欠ける者はいない」
距離を保ったまま進む二つの影を、背後から射す西の陽が前に長く伸ばす。
もうひとつの影の主も、兵馬とさして変わらぬ歳の、逸った勢いばかりが印象に残る若者だった。
だがその兵馬の歩みが不意に止った。
「どうした?」
不審げな声が、後(うしろ)を来ていた者から発せられた。
「・・・悪いが先に行ってくれないか。直ぐに追いつく」
突然の挙措に訝しさは隠し切れずとも、それ以上は詮索するつもりも無いらしく、男はつと横を通り過ぎ坂を下っていった。
それを視界の端に入れながら、兵馬の視線は一点に縫いとめられている。
勾配を上る人間は、下る自分とは逆に影を後ろに敷いて、尋常ではない速さの歩みで此方にやって来る。
その後ろからは先程知り得た大柄な男が必死について来る。
あれが・・・
少年が夢寐にも探し求めていた人間なのだろうか。
想像していたよりもそれはずっと若い男で、歳とて自分と大差ないだろう。
見られている事に気付いてはいるのだろうが、此方には一瞥もくれず、ただひたすらに視線を前に止め、走り出さんばかりに大きく歩を進めているのは、その先に心の全てを奪われる程に案ずる者がいるからだろう。
兵馬の脇を一瞬も顧みず過ぎ去った端正な横顔が、ひどく強張り硬い。
やがて戸村推安と木の表札が掛かった門を認めたのか、遂に若い男の足が地を蹴って駆け出した。
その様を見届けると、兵馬自身も流れを同じくするように、去っていった者とは反対の方向へと止めていた足を踏み出した。
もう宗次郎は目覚めているのだろうか・・・
ひじかたと、そう呼んだあの者を待って、眩しい程の茜に染まる庭の向こうに目を凝らしているのだろうか。
そしてあと数歩も足を進めぬ内に、あの男は待ちわびている者に見(まみ)える事ができるだろう。
それが少しも早くにあって欲しいと、ふとそんな事を思ったのは、残照の彩る晩夏の夕景が為させた気紛れなのだろう。
もう現身の己には要らぬ感傷を断ち切り、兵馬はゆっくりと眸を上げると、坂の下に暮れ染むに前だけを見据えた。
翡翠の文庫 兵馬(下)
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