かどわかし (壱) 大川を渡る風は、やがて川上へ沈み行こうとしている天道の熱を、まだ十分に孕み、 ねっとりと、肌に絡みながら吹き抜けて行く。 夏と云えど、盆を過ぎれば日脚は短い。 それでも、上流に吉原、猿若町など、歓楽地を控える川の土手に、人影は絶えない。 が、茜色が澱むように深さを増し、宵が大きく口を開けかけると、流石に行き交う人々の足も、匆匆(そうそう)と早くなる。 そしてそのせわしなさに煽り立てられるように、宗次郎の心も又急(せ)く。 猿若町からの帰りをこの道に決めたのは、牛込柳町にある試衛館へ着くまでに、日はすっかり落ちて暗くなるのを、頭に入れての事だった。 このまま土手を行き、日本橋川が大川と合流した処で、今度はその日本橋川を西に上れば、飯田橋下で別れる神田川に辿り着く。 其処まで行けば、試衛館も間近だった。 なまじ見知らぬ屋敷町を行くよりは、目安となる川に沿って歩いた方が、暗い道を違える事もない。 それに川のせせらぎが聞こえれば、独り歩きの寂しさも紛れるのでは無いかと、そんな心細さが無かったと云えば嘘になる。 ――年に幾度か、宗次郎は許しを得、猿若町の大工、松吉、おゆき夫婦を訪ねる。 試衛館に内弟子として入門した年の秋、師の周斎に使いを云い渡され、張り切り出かけたは良かったが、託った文を落としてしまい、途方にくれて見知らぬ町を彷徨い歩き、偶さか辿り着いた先が、猿若町だった。 猿若町は、先の老中水野忠邦により、風紀の乱れを是正する目的で、江戸市中に点在していた芝居小屋を一箇所に集めて出来た町だった。 遊郭の吉原のように四方を掘割で囲まれ、たったひとつの木戸だけが、現世(うつしよ)との境であるこの町には、芝居を介在とし、其処に関わる数多(あまた)の人々の暮らしがあった。 そう云う町に迷い込んだ宗次郎は、不安に押し潰されそうになりながら、当ても無く重い足を引き摺っている内、ふと聞こえてきた小気味の良い金槌の音につられ、やがて、軒を修繕していた紺半纏の背を見つけた。 それが、松吉だった。 松吉の繰り出す金槌の音は軽快で、打つ釘はあっと云う間に木に埋もれ、その鮮やかな仕事ぶりは、怯えるばかりだった心から一時不安を忘れさせ、宗次郎は、ただただ、松吉の手元に目を奪われていた。 結局、その翌日、血眼になって探し続けていた土方が駆けつけるまで、九つの宗次郎は夫婦の世話になったが、その縁は途切れる事無く、今もこうして続いている。 帰りの道が暗くなるのを案じ、松吉もおゆきも泊まって行けば良いと止めた。 その二人の好意に、宗次郎は、どうしても今日の内に戻らなくてはならない用事があるのだと言い訳をした。 だがそう告げた途端、おゆきの顔に射した寂しそうな翳りと、木戸まで送ってくれた松吉が、振り返るその度に、其処を動かず見守っていてくれていた姿に、宗次郎は、ひどく後ろめたさを覚えずにいられなかった。 云った言葉は、とっさについた嘘だった。 用事など無かったのだ。 松吉とおゆきを哀しませてしまった自分は、嫌悪してもし切れない。 しかしそうして沈む心とは裏腹に、猿若町から遠ざかるにつれ、試衛館へ向かう足が、知らず知らず速さを増して行ったのも、また偽らざる事実だった。 若い師の勇が、久方ぶりの来訪を松吉達も待っているだろうから、今日は泊まってきても良いと笑ったそのついでに、ふと思い出したように、明日、家業の手伝いで日野に戻っていた土方が帰って来ると云ったのは、朝餉の時の事だった。 土方が帰ってくる、そう聞いた瞬間、宗次郎の胸はたちまち落ち着きを無くし、全ての神経は、余韻のように耳に残るそのひと言に吸い取られてしまった。 箸が止まった事を指され、どうしたと笑われた時、慌てて顔を伏せてしまった自分を、周斉も勇も可笑しいとは思わなかっただろうか・・・ 記憶の合間から顔を覗かせる、そんな些細な出来事が、思い出すだに頬を火照らせる。 帰ってくるのは明日だと、勇は云った。 けれど気まぐれな土方の事だから、それは今夜になるかもしれない。 松吉夫婦に嘘をつき、慙愧の念に駆られながらも、胸の昂ぶりを鎮め足を急がせているその訳は、願いとも足らない、宗次郎の頑是無い推量だった。 川原の芒(すすき)は、吹く風に一斉に靡きながら、斜めから射す陽を四方に弾き、その反射光が、土手の道を白く霞ませている。 やがて吾妻橋を左に見、材木町を暫く行った処で、不意に人影が途絶えた。 そして其処だけが、すっぽりと切り取られたかのように、音が止んだ。 気がつけば、鋭く射していた陽はいつの間にか地に溶け込み、足元はねず色に覆われ始めている。 灯を頼りにする前に、神田まで行きたかった。 夕暮れ時の終わりを告げ、宵の始まりを教える辺りの変容は、宗次郎の足を、更に勢いづかせた。 だが、その時だった。 人の姿を隠す程に生い茂った芒を薙ぐように、川原の向こうから、甲高い尖り声が走った。 それは一瞬の事で、どんなに耳を澄ませても後を継ぐ声は無く、瞳を動かし視界を広げても、捉えるのは、ゆるい風に膨らみかけた穂先を煌かせる、一面の芒野原ばかりだった。 だが聞こえたのは確かに、人の、それも尋常ではない様子の声だった。 まるで獣が断末魔の咆哮を上げるのにも似て、重く、険しく、何とも形容しがたい異様なものだった。 暫し、声をした方へと視線を置いたまま、思案げに立ち尽くしていた宗次郎だったが、やがて迷いを断ち切るように、己の背丈を越える芒の群生の中へと、足を踏み出した。 油断をした途端、鋭利な凶器となり膚を裂く芒を上手に除けながら、音をさせないよう、少しずつ声のした方へと進むにつれ、川の瀬音が煩くなる。 だがどのように水の流れが邪魔をしようと、耳に刻まれた残響は、低く高く蘇り、宗次郎の足を、ひとつ方向へ導く。 上から見れば、川のすぐ間際まで茂っているように見えた土手の芒は、実は砂利で出来た川原までで、その先に、豊かな水の流れがある。 その、川原に出る最後の芒を除けるや、不意に視界が開けた。 が、飛び込んできた光景に、宗次郎の瞳は驚愕に見開かれ、寸座、面輪が強張った。 「藤五郎さんっ・・」 「私じゃないっ、私が殺ったんじゃないんだっ」 藤五郎と呼ばれた若い男は、宗次郎の姿を見るなり、足元に倒れている男から素早く身を引き、金切り声を上げ首を振った。 「話がもつれて、この人が先に匕首を持ち出したんだ。それを避けようと揉み合っている内に、匕首が刺さってしまったんだっ、お願いだ、信じてくれっ」 地に伏せている男の、胸下辺りから滲み出ている紅の輪はみるみる広がる。 それを乾いた土が吸い取り、其処だけが錆びた鉄のような褐色に染まって行く。 だが止まらぬ血は、刺されて間もない時の経過をも物語る。 宗次郎が咄嗟に男の傍らに屈みこんだのは、そう云う判断の元、もしかしたらまだ息があるかもしれないと、幾ばくかの希(のぞみ)を抱いての事だった。 ――藤五郎は、今売り出し中の役者だった。 役者を目指す者の大方がそうであるように、藤五郎も長い下積みの時を重ね、漸く最近贔屓の筋がつき、これからが嘱望される若者だった。 猿若町に縁が出来て早七年が経ようとしているのに、宗次郎自身は、まだ芝居を観た事が無い。 それは修行中である身を慮ってと云う自戒もあったが、何より、この町に来る目的が、松吉夫婦やその界隈に暮らす人々との交わりである事が、宗次郎に芝居への興を薄くさせていた。 だから藤五郎の事も、宗次郎にしてみれば、役者と云うよりも、つい一年程前まで松吉と同じ裏店(うらだな)で暮らしていた住人と云う意識しか無い。 尤も藤五郎が居たのは僅か二年かそこらの事で、丁度人気が出るのと相前後し、贔屓筋の肝入りで、もう少し贅沢な店に越して行ったから、年に数える程しか尋ねて来る事の出来ない宗次郎とは、せいぜい挨拶を交わすくらいの付き合いだった。 それでも僅かな時とは云え、一度出来た縁は、宗次郎に身内を庇うような衝動を起こさせる。 一縷の希を繋ぎ、倒れている男の首筋に指を当てた時、その指が、恐ろしく微弱ではあるが、僅かに打つ脈に触れ得た。 男は、助かるかもしれない。 「藤五郎さんっ」 その喜びが、宗次郎の声を逸らせる。 「この人はまだ・・」 息があると云いかけて、急いで瞳を上げると、藤五郎はその視線に捉えられるのを怯えるように、後じさった。 しかしその目が突然宗次郎を離れるや正面に向けられ、次の瞬間、再び慄きに見開かれた。 同時に、宗次郎自身も背後から忍び寄った気配に素早く振り向き掛けたが、一瞬早く、耳元で風を切るような鋭い音がし、寸座、頭部を激しい衝撃が走り抜けた。 ――瞬く間に立ち込める霧のように、暗く覆われて行く視界の中、網膜が焼付けた像には、見覚えがあった。 だがその人の名を紡ぎかけた唇は微かに戦慄いただけで、声になる事は無く、宗次郎の意識は、すぐさま闇の淵へと攫われた。 「・・おきみさん・・」 正面に立つ姿を、強張った面持ちで凝視して呆然と漏れた声は、恐怖ひと色に染められていた。 「・・この人、助太夫さんなの・・?」 おきみと呼ばれた娘の手には、すりこぎ程の木の枝があり、それを握った手が小刻みに震えている。 が、藤五郎がごくりと喉をならし頷くと、おきみは血の気を失くした蒼い横顔を見せながら、倒れている二人の脇に屈んだ。 その様を、藤五郎は天の裁きを待つかのような、暗澹とした目で見下ろしている。 だが直ぐに顔を上げたおきみが小さく首を振り、男が息絶えている事を教えると、踏ん張っていた力が尽きたように、がくりと膝を折り、地に手をついた。 「藤五郎さん」 しかしすぐさま掛かった声には、打ちひしがれた背を叱咤する、強い響きがあった。 「何をしているの」 諌められ、ようやっと上げた双眸は絶望に暗く澱んでいたが、その中に、捨て切れない足掻のようなものも、まだ残っていた。 「このままじゃ、助太夫さんの亡骸が見つかってしまうわ」 「・・おきみさん?」 「あたしが、芒の中に助太夫さんを隠すわ。藤五郎さんは、宗次郎ちゃんと、あそこに繋いである舟に隠れていて。上から薦(こも)をかけていれば分からないわ。その間に、あたしは家の者が使う半纏を持ってくる。それを着て、木戸が閉まる間際の人混みに紛れて町に戻るのよ。宗次郎ちゃんを背負っていても、灯を持たずに裏路地を行けば人目にはつかないわ」 「・・猿若町に・・?そんな事できやしないよ、あそこに戻るのは、自分から縄を掛けられに行くようなものだ・・」 「だから亡骸を隠して、時を稼ぐの。そうすれば、よしんば藤五郎さんに疑いが掛けられても、まさかまだ町いるとは、誰も思わないわ。とっくに外に逃げたと思う筈よ。そうして暫くして、お上の目が緩んだ頃に、あたしが町から逃がしてあげる」 「どうして其処までして私に・・」 「あたしが、そうしたいからよ」 藤五郎の問いを逸らせるように、おきみは瞳を閉じて動かない宗次郎の、白い額から頬へと伝わる紅い一筋の血に、震える指で触れた。 「宗次郎ちゃん、ごめんね、こんなひどい事をして、堪忍してね・・」 詫びる声は、おきみが泣いているのではないかと思う程に、藤五郎には切なく聞こえた。 「さぁ早く、人の来ない内に、急いでっ」 が、すぐに重ねられた声は、今度はおきみ自身が急き立てられるかのように硬く固まり、藤五郎を促した。 朽ち掛けた季節の名残を、肌に滲む汗に残した人々の賑わいで、夏の湯屋(ゆうや)は早くから混み合う。 天道の明かりを頼りに繰り広げられる芝居は、陽が落ちれば、その日の興行も仕舞いになるから、猿若町の湯屋は夜四ツ(十時)近くには客もまばらになる。 おきみは、手燭の灯で辺りを照らし人気の無い事を確かめると、闇を、其処だけ深く沈ませている建物の戸を素早く引き、中に身を滑らせた。 そうして壁際に掛かっていた細い梯子を上りきると、待っていたように、黒い影が膝をいざらせ寄って来た。 「おきみさんっ・・」 「しっ、宗次郎ちゃんは?」 急(せ)いた声を咎め、おきみは視界の悪い奥へと目を凝らした。 「さっき気がついたのだけれど、まだ朦朧としているみたいだ」 声の終わらぬ内に、おきみは宗次郎に近づき、其処に膝をついた。 「宗次郎ちゃん、分かる?・・こんな事をして、ごめんなさい、ごめんなさいね・・」 小さな呼びかけに、ゆっくりと瞳は開かれたが、その中に生気を見つけ出す事は出来ない。 だが声は届いたようで、宗次郎は空ろに視線を回すと、微かに身じろごうとした。 「ごめんね、あんたの手と足を縛ってあるの。・・藤五郎さんを逃がすまで、少しだけ辛抱してね」 「宗次郎さん、すまない・・」 痛ましげなふたつの視線に見下ろされ、宗次郎は侭にならない我が身の窮屈さに悶え、吐息のような呻きを漏らした。 「・・おきみ・・さん・・?」 だがそれが混濁の淵にあった意識を引き摺り上げたのか、力の無い瞳が、蝋燭の朧な灯りを受けて眩しげに細められ、乾いた唇が、細い声を紡いだ。 「そうよ、おきみよ・・」 晒しを巻かれた額にかかる、乱れた前髪を優しく掻き揚げてやりながら、宗次郎に負担をかけぬよう、おきみは囁くように応える。 その声を聞く宗次郎の、ぼんやりと虚ろな頭の、どこか一点だけが、錐で揉まれるように痛む。 だが其処から、意識を霞ませている霧が、少しずつ薄れて行く。 あの時。 川原に居たのは、藤五郎だった。 その足元には見知らぬ男が倒れおり、伏せた胸の下辺りには、夥しい血の溜まりが広がっていた。 けれど駆け寄って確かめると、男にはまだ息があった。 それを教えようと顔を上げた時、忍び寄るように後ろに来た人の気配に、一瞬遅れて振り向いた刹那、激しい衝撃が襲った。 ひとつひとつの記憶を鮮明にするごと、痛みは疼きを深くし、やがてあまりの苦しさに、宗次郎は瞳を瞑り苦しげな息をついた。 だが思い出さねばならなかった。 暫くそうして、頭の芯に渦巻くような痛みが通り過ぎるのを待ち、それが僅かばかり和らぐと、再び瞳を開き、宗次郎は硬い面持ちで覗き込んでいる者達を見上げた。 しかしそのひとりの顔を捉えた時、一番芯に、昏い塊のように動かなかった記憶が蘇った。 手にした何かを振り上げ、襲ったのは・・・ ――おきみだった。 「・・どう・・して・・」 からからに乾ききった喉から押し出すようにして、ようよう発した声が掠れた。 おきみは、森田座の裏手に位置する玉白屋と云う湯屋の娘で、年に一度か二度、松吉夫婦の家に泊まるたび、宗次郎も松吉と一緒にこの湯屋へ足を運ぶ。 宗次郎よりもふたつ年上のおきみは、顔を合わせれば気持の良い挨拶を交わす、優しい娘だった。 そのおきみが、何故あんな事をしたのか。 そして此処はどこで、自分はどうして此処にいるのか。 その全てを問うて応えて欲しいのに、又も疼きだした痛みは、今度は先程とは比べ物にならない激しさで、宗次郎の頭を締め付け始めた。 「痛いの?痛いのね?、宗次郎ちゃん。ごめんね、あたしがこんな目に合わせてしまったの・・」 唇から、浅い息を繰り返す宗次郎の背を擦りながら掛けたおきみの声は、その宗次郎よりも、遥かに苦しげだった。 「おきみさんが悪いんじゃない、悪いのはみんな私だ。・・幾ら助太夫さんが先にかかって来たとは云え、私があの人を殺(あや)めてしまった事に変わりはしない。おきみさんや宗次郎さんまでも巻き込んでしまって、どう勘弁して貰えばいいのか・・。本当にすまない。やはり私は番所に行くよ、これ以上の迷惑はかけられない」 おきみと宗次郎に頭を下げ、詫びる藤五郎の口調は驚く程静かだったが、しかしその声には、諦めと、そして天道の下で何事も無く暮らす者達とは一線を敷いてしまった人間だけが持つ、どこか投げやりな響きがあった。 「そんな事ないわっ、あたしが必ず逃がしてあげる」 「もういいんだよ、・・やってしまった事は後戻りでき無い。仕方の無い事なんだ」 そう云っておきみを見た顔に、薄い笑みが浮かんだ。 それは自嘲など遥かに超えた、まるで闇に足枷されたように、暗く重いものだった。 だがその捨て鉢な心に温もりを通わせるように、膝の上で握った藤五郎の拳に、おきみは自分の手を置いた。 「あたしが、そうしたいの。あたしが、逃がしてあげたいの」 何故とは云わず、おきみは、胸にある想いの丈を、無言で見詰める男に告げるかのように、重ねた手に力を籠めた。 「・・ね?」 念押しする言葉が被せられた時、その眸に宿る強さに負けたように、藤五郎の視線が逸らされ、役者らしい綺麗な線をした首筋が垂れた。 「・・すまない」 「きっと、逃がしてあげる」 ぽつりと零れた呟きに、小さな、けれど強いいらえの声が返った時、生ぬるい隙間風に、蝋燭の火が激しく薙いだ。 途端、闇を押し広げる焔の紅蓮が、おきみの方頬に映り、横顔の翳を濃いものにした。 そのくっきりとした明暗の妙が、再び薄れ行く宗次郎の意識に、夢うつつの残影として刻まれる。 ――土方、と。 やがて闇の淵へ沈む間際、遠く、姿形も分からぬ影に向かい声を限りに叫んだのが、最後の記憶だった。 |