かどわかし (弐)
 



 下谷和泉橋にある伊庭道場へ土方が来たのは、もう暮れ六ツ半(七時)にもなろうかと云う頃合いだった。
晩夏の日は疾うに落ち、道場の南並びの一角にある、伊勢津藩、藤堂和泉守江戸屋敷の白塀が、宵を告げる薄闇の中にぼんやりと沈んでいた。
 余程に足を急がせて来たのか、知らせを受け八郎が玄関に出た時、土方はまだ肩で息をしていた。
だがその目にある険しさを見止めた瞬間、八郎は、宗次郎の身に何かが起こったのだと察した。
そうでなければ、この男が、これ程感情と云うものを露にする事は無い。
そして其れはそのまま、瞬く間に、八郎の胸を不吉な翳で覆い尽くした。

「宗次郎、来ていないか」
案の定、顔を見るなり土方が発した最初の言葉は、八郎の危惧した類のものだった。
「来ちゃいない。宗次郎、どうかしたのか?」
「昨日から帰って来ない」
「帰って来ない?」
上がり框から沓脱へ下り、下駄を引っ掛けながら問う八郎に、戻ったいらえは、思ったよりずっと深刻なものだった。
「どう云う事だ」
質す声が、我知らず尖った。
「昨日、猿若町へ行った。泊まって来いと、近藤さんは云ったらしいが、あいつは帰らなければならない用事があると云って、日の暮れぬ内に町を出ている」
「確かか?」
「確かだ」
間を置かず返ったいらえの早さは、既に猿若町で其処まで確かめた後、和泉橋へ来た事を物語っていた。
土方は、宗次郎を探して探して探し尽くし、だが何の手がかりも得る事が出来ず、一縷の希を繋いで此処へやって来たのだ。
 額から伝わる汗を拭おうともせず、双眸を鋭くして立ち尽くす目の前の男に視線を置いたまま、八郎は忙しく思考を巡らせる。


――ひとつ年下の宗次郎と初めてまみえたのは、昨年の夏、たまたま行き合わせた野試合を見物している最中の事だった。
試合にもそろそろ飽き、容赦無く降り注ぐ強い日差しにも閉口して来た頃、少し離れた処に大きく枝葉を張る大樹を見つけた。
そこで涼を取ろうと近づいた時、その幹に、大儀そうに身をもたらせている少年がいた。
それが宗次郎だった。
 具合が悪いのかと問うても、見知らぬ者への警戒からか、蒼白な面輪は、小さく首を振るだけで口を開こうとはしなかった。
だが後ろから手を添えてやると、薄い背は一瞬硬く強張ったが、それも時が経るにつれ次第に力が抜け、やがて宗次郎は、身体全部を腕の中に委ねて来た。
その重さを、熱のある身の火照りを、八郎は、今も己の両の腕に覚えている。
自分が、自分だけが、この少年を護ってやらねばならないのだと、その時、何故かそう思った。

 そのような経緯があってから、八郎は頻繁に試衛館へ顔を出すようになった。
尤も、稽古を見るなどと云う殊勝は端から持ち合わせてはおらず、来れば勝手に上がり込んでは、好きに時を潰す。
宗次郎とは、凡そ関わりの無さそうな猿若町に知り合いがいると聞かされたのも、そんな他愛の無い世間話の中だった。
 迷子になった時に世話になった夫婦の元には、今も時折訪ねて行くのだと、嬉しそうに語り聞かせる面輪に、ならば今度は、帰りに和泉橋に寄れと云った時、宗次郎は、そんなに寄り道は出来ないと、途端に生真面目な声になって応えた。
では又迷子になった事にすれば良いと笑った揶揄に返ったのは、瞳の、深い色に籠められた真摯な怒りだった。
だがその瞳を見詰めながら八郎は、もっと怒らせて見たいと、我を忘れて走り出そうとする駄々を堪えるのに必死だった。
あの時突き上げた衝動は、一体何処から湧き出でた感情だったのか・・・
その答えを、八郎は今、漸く見つけかけていた。


「邪魔をしたな」
現を離れた、ひと呼吸にも足らぬ、その一瞬の沈黙にすら焦れるように、土方が踵を返しかけた。
「俺も行く」
それに負けじと追うように、八郎も敷居を跨いだ。






 和泉橋にある伊庭家から猿若町までは、そう遠い距離では無い。むしろ、近いと云える。
土方の後を、暫くは無言でついて行った八郎だが、大川に向かっていると分かった処で、初めて口を開いた。

「猿若町に、行くのかえ?」
土方は応えない。応えず、その分足を早くした。
が、それだけで、八郎には、己の推量が外れていないと判ずるに十分だった。
すいと横に並び立つと、手にしていた提灯の灯が、土方の横顔を下半分だけ照らした。
その顔が、宗次郎はいないかと訪ねて来たときよりも、一層険しくなっている。

「あんたは猿若町に宗次郎がいなかった事を、もう確かめて来たのだろう?ならば何故又戻る」
端整が過ぎる無言の横顔は、闇の中で、ともすれば冷たいだけの印象を与える。
「戻るからには理由がある筈だ、教えろ」
しかし八郎も引き下がらない。
「大川の川原で、仏が見つかった」
「仏・・?」
だが今度はそう間を置かず戻ったいらえは、繰り返した声に、訝しさを孕ませた。
「森田座の役者だった。匕首で胸を刺され、その上、手拭で首を絞められていた」
「いつ見つかった、その仏」
「今朝方の事らしい」
「それに、宗次郎が巻き込まれていると?」
「分からん。近藤さん達は、宗次郎は猿若町に泊まって来るとばかり思っていた。それが今日の夕刻になっても帰って来ず、俺が試衛館に着いた時には、流石におかしいと、皆で探し始めた処だった」
「それであんたは猿若町まで行き、その仏の話を聞いて来た訳か」
「殺された奴と同じ座の若い役者がいなくなり、そいつに疑いが掛かっている。二人には役を巡り、諍(いさか)いがあったそうだ」
「それと宗次郎と、どう関係がある」
「・・姿をくらましている藤五郎と云う役者、宗次郎とは顔馴染みだ」
最後の一言を云い終えた時、それまで淡々と語っていた調子が、ほんの僅かだったが、重く、そして先を急ぐように乱れた。
其れがこの男の焦燥を、如実に物語っていた。

「仏だが・・。殺(や)られたのはいつ頃か、検討はついているのか」
「昨日の夕刻以降だろうと云う話だった。森田座は新しい芝居を打つ準備で、昨日まで休みだったらしい。七ツ頃(午後四時)、殺された助太夫と云う奴と藤五郎が揃って木戸を出たのを、木戸番が見ていた。・・松吉さんが宗次郎を木戸まで見送ったのが、その少し後だ」
無駄を省き、要領だけを端的に掻い摘んで語る調子は、この事件に宗次郎が巻き込まれていると信じ、疑い無いものだった。
だから土方は今一度猿若町に戻り、其処で、どんな些細な事でも良いから、手がかりを見つけ出そうとしているのだ。
だがその必死を垣間見た瞬間、八郎の裡に、えも云えぬ感情が渦巻いた。
強いて言葉にするのなら、それは、宗次郎を見つけるのは自分でなければならないと云う、土方への激しい負けん気に似ていた。
否、嫉妬と云う方が、遥かに相応しかった。

 嘲笑うかのように、万物を夜気の中に沈めている闇を見据えると、八郎は、土方よりも身ひとつ前に出た。






「・・宗次郎さん」
遠く、ぼんやりと聞こえていた声が、段々と響きを近くし、やがてそれが、はっきりと郭(かく)を成して耳に届いた時、宗次郎は薄く瞼を開いた。
「良かった・・」
額を覆った手の、ひんやりとした感触が、朧げな意識を覚醒に導く。
「・・とう・・ごろう・・さん?」
「私だよ、分かるのかい?」
乾いた喉を無理矢理振り絞って出した声はひどく掠れ、聞き取るにはずいぶん難儀しただろうに、いらえを待ち焦がれていたのか、藤五郎は即座に応えた。
「・・もう、夜なのですか・・?」
灯はあるのだろうが、不自然な体勢で寝かされている為か、狭い視界までは明るまず、魚油の匂いが漂う中に、灯心の、じりっと焦げる音が聞こえた。
「そろそろ、五ツ(午後八時)になるんじゃないだろうか・・、尤も、あれから丸一日が経ってしまったが。・・その間、宗次郎さんは眠り続けて、このまま目が覚めなかったらどうしようと、生きた心地がしなかった・・」
「一日・・?」
「そうだよ、もう一日が経ってしまったんだ」
吐息まじりの呟きは、現で過ぎ行く悪夢の時を、藤五郎自ら己に刻むように、重いものだった。
だがその一言は、まだ曖昧だった宗次郎の意識を、今度こそ混濁の淵から拾い上げた。
丸一日も戻らなければ、試衛館では皆が心配しているに相違無い。
「帰らなければ・・」
言葉より先に身じろいだ途端、放たれた矢のように、鋭い痛みが、額から頭全部を貫いた。
しかも手足は枷をされたように、僅かにも動かない。
訳の分からないまま、動けば動く程にひどくなる痛みを堪え、身を捩ろうともがく宗次郎を宥めるように、藤五郎の手が触れた。
「手足を縛ってあるんだ。少しの間だけ辛抱してくれないか、・・すまない」
「・・縛る?」
見上げた瞳が、理不尽を憤るよりも先に、驚きに見開かれた。
「此処はおきみさんの家の裏手にある、薪を置く納屋の二階なんだ。耳の遠くなった風呂焚きの爺さんが、日に一度薪を取りに来る。その時だけ息を潜めて遣り過ごせば、人に気付かれる心配は無い」
「けれど何故、私を縛らなければならないのですか・・?」
「私が、助太夫さんを殺(あや)めたからさ。其れを宗次郎さんに見られてしまった。・・・だから私が江戸から逃れるまで、宗次郎さんの身を自由にする事は出来ないんだ」
沈鬱な面持ちで語りかける横顔に、つと、堕ちかけた人間の、自嘲にも似た翳りが差した。
しかしその一瞬、宗次郎の脳裏に、もうひとつ、忘れかけていた記憶が蘇った。
それは絵として網膜に焼き付いたものでは無く、膚を通して触れ得た脈動だった。
「違うっ、あの男の人はっ・・・」
「しっ」
咄嗟に声を高くした宗次郎の口元を、藤五郎の手が慌てて塞いだ。
「声を聞かれたら、此処に隠れているのを知られてしまう。・・お願いです、静かにして下さい。これ以上の無体を、したくは無いんだ」
僅かな風に遊ぶ焔が、藤五郎の顔に出来た影を、右へ左へ揺らせていたが、それすら意識の外に置いて懇願する声は、まだ淵に沈みきれずに足掻く者の悲鳴のように、苦しげなものだった。
その藤五郎を、宗次郎は暫し瞳を見開いたまま見詰めていたが、やがてそれが諾と頷く仕草のつもりだったのか、頤だけを小さく引いた。
そうして、塞いでいた手の平が剥がされると、色を失くした唇から、細い吐息が漏れた。

「藤五郎さん」
だが直ぐに、宗次郎は言葉を続けた。
「あの時倒れていた男の人は、死んではいなかった。触れた首筋にはまだ脈が打っていたし、ほんの僅かだったけれど、呻き声のようなものも出そうとしていた」
自分の一言が、何もかも捨て去ろうとしている人間を救う、その礎(いしずえ)になるのだと信じる声は、先へ先へと急(せ)く心を映し、時折、もどかしげに痞える。
「だからきっと、あの人は生きて・・」
「助太夫さんは、死んでしまったんだよ」
しかし逸る語りを遮ったのは、宗次郎の必死を哀れむかのような、静かな、そして沈鬱な響きだった。
「でも・・」
「宗次郎さんが触れた時には、確かにまだ息があったのかもしれない。けれどそれも、一時のものだったんだ。・・今朝方、あの川原で助太夫さんの亡骸が見つかって、町は大騒ぎになっているらしい」
息を呑んだ宗次郎に、藤五郎が小さく頷いた。
「おきみさんの話では、お上は血眼になって私の行方を探しているそうだ。・・・町の外での出来事だったから、まさか又猿若町に戻ってはいまいと踏んで、お調べは、内藤新宿、千住、品川、板橋宿にまで広げているらしい。此処にも今朝、助左の旦那が来て、風呂焚きの爺さんに何か聞いていたけれど、その時は本当に震えが止まらなかった。・・・人ひとり殺めておきながら、今更と、宗次郎さんは嗤(わら)うだろうが」

――まるで他人事のように淡々と語る声を聞きながら、宗次郎は、目まぐるしく思考を回転させる。
額の上辺りに、一点、畳針を差し込まれたような鋭い痛みを覚えるが、今はそれに引き摺られている余裕は無かった。

 倒れていた男の下には、確かに少なくない血の溜りが出来ていた。
だがそれは、驚きが過ぎて実際よりも多く映ったものだった。
それが証しに、男の傍らに膝を付いた時には幾分冷静さが戻って来、そしてその目で観察した勘は、男はまだ助かるかもしれないと判じさせた。
だからあの時、その事を早く藤五郎に教えなければと焦ったのだ。
が、助太夫は死んでしまったのだと、今藤五郎は云った。
しかも亡骸は、今朝方、あの川原で見つかったのだと云う。
そして一番の不思議は・・・
どうしても腑に落ちない、おきみの行動だった。
事の大きさに気が動転した藤五郎が、助太夫の細かな様子など分からなかったと云うのは理解できる。
だがおきみは、少なくとも藤五郎よりは冷静であった筈だ。
だとしたら何故、息のあった助太夫を助けようとはせず、それどころか、どうしてあのような仕打ちを自分にしたのか。

 川霧が、靄となって四方を覆う中、揺れる小舟の縁(へり)にしがみつくように、見えぬ岸を探し、宗次郎は闇の中に瞳を凝らした。






「じゃぁ、なんだ、ぼうずは行方知れずと云う事か・・」
猿若町一帯を預かる岡っ引きの助左は、煙草盆に雁首を打ち付け火玉を捨てると、煙管を手に、難しい顔をして腕を組んだ。
「丸一日の余も経っているんですぜっ、親分。宗次郎は断りなしに、外に泊まるような子じゃありませんや。きっと何か、帰ぇれねぇような事情に巻き込まれているに、違げえねぇんだ」
にじり寄る松五郎に、幾分気圧されながらも、それには同意するように、助左も頷いた。
「確かに、ぼうずは、自分から周りに心配をかけるような事ぁしねえな」
助左は宗次郎の事を、十六になった今も昔と同じように呼ぶ。
云って、固く目を瞑ったのは、宗次郎が九つでこの町に迷い込んでからの歳月を、助左なりに思い起こしたのかもしれなかった。
「兄さん方のところにも、手がかりらしきものはねぇんで?」
が、すぐに目を開けると、土方と、そして八郎に話を振った。
その声に遠慮あったのは、例え若年とは云え、町人世界の自分とは違う場に居る者達への、それがこの男のけじめだった。

 同心の下で働く岡っ引きと云えば聞こえが良いが、お上から支給される手当では、どんなに暮らしを切り詰めようが、月の半分も過ごす事は出来無い。
しかも自分の手足となる者を抱え、その面倒も見なければならないから、普通岡っ引きは、他に職業を持っていたり、或いは女房の稼ぎを頼りにして、足りない分を補っている。
更に見回りの最中に立ち寄る商家で小遣いを貰らい、人探しなど、お上の手を煩わせる程では無い小用も引き受ける事もある。
助左もその例外では無く、女房のお民は、芝居小屋で重宝される腕の良い髪結いだった。
が、助左自身も、頼まれた事はきちんとこなすし、調べ事には労を惜しまなかった。
何より、助左は己の分と云うものを心得ていた。
だから町の者達に信頼されてる。


「いや、何も無い・・」
向けられた問いに、土方のいらえが返った。
「そうですかい」
それに小さく首を振ると、助左は、行き詰った思案をぶつけるように、煤けた天井を見上げた。

「仏さんだが・・」
重苦しい沈黙が、其処に蔓延る湿った闇を更に深くした時、不意に八郎が口を開いた。
「胸を刺され、更に首を絞められていたと聞いたが、その両方を藤五郎がやったのかえ?」
「匕首の出所は分かっちゃいませんが、首を絞めた手拭は、藤五郎のものでした」
「藤五郎の?」
「へぇ、端に名前を染めてありやしたし、確かに藤五郎の使っているものだとの、森田座の人間の証言もありやす」
「だが人を殺(あや)めるのに、わざわざ自分でやったと云う証拠を残すかえ?」
腑に落ちない事柄を質す八郎の調子は、焦燥が、尖った苛立ちとなって先走る。
「これはあっしの推量だと、聞いてくだせぇ。たとえば、たとえばの、話しですぜ、・・・」
その若い焦りを宥めるように、助左は低く話し始めた。

「藤五郎と助太夫が、二人で話をしている内に喧嘩になり、かっとなった藤五郎が、助太夫を刺しちまった。どちらが先に匕首を持ち出したのか、それは分からねぇが・・・、
まぁ、懐に匕首を忍ばせて出向く程、藤五郎と助太夫の相性ってのは、誰に聞いても悪かった。が、刺した後、助太夫にまだ息のあるのを知った藤五郎は、持っていた手拭で、今度は首をも絞めた。・・。生きていられちゃ全部が分かると、気が動転したんでしょうなぁ。だからと云って、殺しちまえば分からなくなるもんでも無いものを、其処が人間の莫迦な処だ」
助左の声には、ほんの一瞬の過ちで、それまでの日常から線引きされてしまった人間を、愚かとは切り捨てられない哀れみがあった。
「ところがその場を、偶々(たまたま)ぼうずに見られちまった。そうなれば、次に奴の頭の中を覆っちまったのは、ぼうずを消すことだ」
「親分っ」
「話は、まだ終わっちゃいねぇっ」
松五郎の叫びに、助左は鋭い一瞥をくれた。

「が、藤五郎は、そうしなかった。してたら、手拭を忘れるなんぞ、莫迦などじは踏まねぇだろう。代わりにもうひとつ、助太夫のとなりに仏があった筈だ・・」
それが宗次郎だとは、流石に言葉にせず、助左はしゃがれた声を潜めた。
「藤五郎は手拭を其処に忘れてしまう程、焦っていたに違げえねぇ。たとえば、ぼうずの口を塞ごうとして、酷く暴れられたとか、だ。・・声が土手にまで聞こえりゃ、幾ら宵でも人が気付く。奴はそれを恐れ、どうしたか、・・・方法までは分からねぇが、藤五郎はぼうずを動けなくして、何処かに運んだ・・・」
「それじゃ、宗次郎は、藤五郎にかどわかされたと云うんですかいっ?」
「人質に取っておきゃ、江戸を逃げ出すにも、役に立つと考えたのかもしれねぇ」
己の言葉を、裡で繰り返すように、助左は口を噤むと、組んでいた手を解き、其れを膝の上に置いた。
「だとしたら」
が、それらの推量への確信に、顔を厳しくした寸座、険しい声が飛んだ。
「宗次郎は、近くにいる筈だ」
咄嗟に向けた助左の顔を、土方の双眸が、真っ向から見据えた。
「あんたの云う事は、大方外れてはいないだろう。だがそうならば、宗次郎を連れている分、逃げ足は鈍る筈だ。・・奴は・・」
一瞬切られた言葉の行方を、誰もが、焦れて待つ。
「この町に居る」
しかし直ぐに後を続けた双眸に宿る、獰猛な光を見た刹那、助左は、ざわりと膚を嬲る戦慄が、身の真ん中まで締め付けて来るような息苦しさに、土方を凝視した。

「・・まだ、居るさ」
そうして――。
独り語りともつかぬ呟きが漏れた時、宙を睨んでいた眸が、姿を見せぬ相手を射竦めるように、ゆっくりと細められた。









猿若町界隈  かどわかし(参)